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主要駅で乗り換えて一駅。乗り換えてからの乗車時間は2分くらい。でも乗り換えに手間取れば1時間2分くらいかかる。昼間の乗客が少ない時間帯だと1時間に一本くらいしか走らないローカル線だから。
実家に帰るのは何年振りか分からない。
(ちょっと懐かしさに浸ってみようかな…)と考えて、新幹線を下りて改札を抜けそのまま駅を出てきてしまった。けれど、華奢なヒールを履いた足がすぐに痛くなってきた。浅はかな思い付きをすぐ実行に移してしまう自分にウンザリする。アニカさんは左のハイヒールを脱いでみた。踵の上が擦り剝けて赤い血が滲んでいる。
乗り換えるローカル線をあと一時間ベンチに座って待つか、一時間歩くか、選択肢は二つあると考えたことがそもそもの間違いだった。
左の踵の上にできた靴擦れにストッキングの上から絆創膏を張り、意地になってひょこひょこ歩き続けてきたけれど、もう駄目だ。いくらでも時間と元気があってお金がなかった子供の頃はこれくらいの距離なんてスタスタ歩いて行き帰りできていたのに…
(でもあれはスニーカー履いてたからかな…)
アニカさんは立ち止まり、どうしようかなぁと途方に暮れて辺りを見回した。足がもう限界だった。住宅街の中程まで来てしまっていた。右手には大きなお屋敷の塀が、左手には空き地と一軒家が建ち並んでいる。中途半端な時間帯で週の真ん中の平日だし、道を歩いている人はいない。駅から家までの半分くらいのところまでは来てる…もうあとほんのちょっと先に、小さい頃によくお母さんに自転車の荷台に乗せて連れてきてもらったパオンという思い出のケーキ屋さんがあるはず…
(あそこで一休みして、ショーケースから選んだケーキと紅茶を飲み終わる頃に着くようにタクシーを呼んでもらおう…)と考えた。
けれど、確かこの辺りにあったはずとぐるぐる探し迷って、どこにも見当たらず、調べてみると店は何年も前に閉店してしまっていることが分かった。こんな事なら御幸通りを出たらすぐにタクシーを拾っておくんだった…
それとも、普段は自分の専属に付けている車と運転手を今日だけハナちゃんに貸したりなんてせずに、やっぱり初めから道程全部を普段通り車で来ていれば…目印も見当たらないこんなところでタクシーも呼べない…
もっと先まで行けば最寄りのローカル駅があり、そこになら時々タクシーが一台くらい停まっていることがある…結局ここまで歩いて来たからにはさらに歩いてそこまで辿り着かなければどうにもならなそうだ…
アニカさんは泣きたいような気分になってきた。なぜ歩いてみようなんて思い付いたんだろう…こんな細いヒールのパンプスで歩き通せるはずもないのに…ちょっと考えれば分かることだったのに…
途方に暮れた目で実家の公営住宅が建ってる方角の空を漠然と見上げ、電柱に片手をついて、アニカさんは左の靴を脱いで手に持った。右だけ14センチ長い脚で何歩かぴょこぴょこ慎重に歩いてみる。右足だって靴の中で悲鳴を上げている…
目の前の曲がり角から、自転車の前籠に茶色いふわふわのミックス犬を載せたおじさんが急に曲がってきて、アニカさんを避けてヨロヨロしながら通り過ぎて行った。振り返ると、同じく振り返ってこちらを物珍しそうな目で眺めていたおじさんがサッと前方に向き直った。正面から来ていた六人乗りのワゴン車に轢かれかけ、犬がキャンキャン吠え、車は徐行運転でゆっくりとアニカさんを追い越して行った。運転席に座った同年代の女性にじろじろ眺めまわされた気がした。アニカさんは開き直って右の靴も脱いでしまった。正面から柔道着を着た少年少女達が自転車を立ち漕ぎしてこちらへ向かって来る。
(今日って何曜日だった?祝日?運動会の振り替え休日?)
5,6人全員で目を逸らさずに裸足で歩くアニカさんを見ていたが、本人はもう気にしないことに決めていた。
(この方が断然楽)ストッキングを通して柔らかい足裏に鋭く食い込むザラザラした硬いアスファルトの感触を味わった。ガラスの破片とか尖った物や踏みたくない汚い物が落ちてないかをよく確認し、そっと踏み出して真っ直ぐに足を上げる。一歩ずつ。足を地面につけたまま捩じらないようにして…なかなか刺激的で心地いい。日向に出ると路面は乾いて温かく、濃い灰色の日陰に入るとひんやりとして少し湿っている…
朝の11時。
左手にはさらに破けてしまったストッキングも握り締めていた。無人駅のロータリーで二台停まっていたタクシーの先頭の方の運転手(慌てて自販機の前から駆け戻ってきた)に開けてもらったドアからまず靴を乗せ、シートに腰かけてから、片足ずつ手でペンペン足の裏を払って、乗り込んだ。
「公営住宅まで」
すると老ドライバーが鏡越しに見ればいいものをグルッと振り返り満面にニコニコして間近からアニカさんの顔をジロジロ覗き込んできた。
「庄野さん?」
ギョッとした。なんでこの人、私の名前を知ってる…?どこかに名札でもぶら下げて歩いていたかと体中を見回してみる。
「ナズナさんのお嬢さんでしょう?」
それは母が使っていた源氏名だった…
「いやぁソックリだから!すぐに分かりましたよぉ…こんなところに貴女みたいな綺麗な人は普通用事がないから…」
言いながら運転手は褒めたつもりが当てが外れたことを相手の顔から読み取った。思わず露骨に身を固くして警戒心の塊みたいにさせてしまった乗客から目を逸らし、車をスタートさせながらしどもど言い訳した。
「いやぁ…このあたりじゃお母さん相当有名な美人だったから…こんな掃き溜めに鶴と言われて…やっぱり遺伝ですねぇ…」
「はぁ…」
チラッと鏡で娘さんを覗き見て、思い出してメーターを始動させ、いやはや…と老ドライバーは感嘆した。
「ああぁ…本当にソックリですよ。別嬪さん…感激しましたわぁ…あの小さかった娘さんが…まぁ…大きくなられて…」
アニカさんは頷いて、窓の外に目をやった。職業柄、綺麗だ綺麗だと褒められることには慣れている。別に大して綺麗でない子達もみんなそう言って褒められている。美人とは造形が美しい人を指す言葉ではなく、身に着けるものや髪や所作に気を使い自分は美人と呼ばれて当然と受け止める人のことを呼ぶんだとアニカさんはこの頃考えている。
運転手はそれしかないかのように同じ話題で喋り続けている。
「よくお母さんの全盛期の頃は贔屓にして頂いてたんですよ。私。お母さん、よくそこで、今あなたが座ってらっしゃるのと同じ、そこに座って、慌ててお化粧されてました。いつも『遅刻だぁ遅刻だぁ』って騒いでねぇ。…乗ってきた時は寝起きで幼気な少女のようで、降りて行くときのお顔はバッチリこれからお仕事されるフルメイクで。『マスカラだけは急ブレーキかけて眼を突いちゃったら危ないからやめてね』っていっつも注意するんだけど、なかなか…いつの間にやら私の目を盗んでバッチリ済ませていらっしゃるんですわ。面白い人でしたよぉ、お母さん。ある日なんて…」
いつの話をしてるんだろう…アニカさんはもう聞いていなかった。母は50歳。でも100歳に見える。
間男に人生を捧げるつもりで゛お城”から退社して、最低賃金の職に就き、あっという間に華の時代を枯らしてしまった。せっかく生まれ持った美貌もあっけなく肉に埋没し、粒は良いのにカットが古臭くてつけられないダイヤのように意味がない。綺麗だ綺麗だともてはやされて飛翔する不死鳥のように天空を舞っていたときの母は自慢だったが、娘の自分にさえ手の届かない人だった。それなのに、城を辞めてからはどんどん身だしなみに気を使わなくなり、髪もパサパサで二日も同じスエットを着ているその辺の冴えない女の中でも一番冴えない女に成り下がってしまった。金のことで朝から晩まで喧嘩して結局男にも逃げられ、酒に溺れて弱らせた心臓の病気で入退院を繰り返し、薬の副作用で脳までやられ、一年ほど前に近所のスーパーでバッタリ倒れて救急車を呼んでもらい、一命は取り留めたが後遺症で右半身がままならなくなった…何年も前に向こうから縁を切るだなんだと騒いでいた癖に弱気になって電話をかけて来て、『お願いだから顔を見せにおいで。たった一人の母娘なんだから…』とか言うから、まぁそうかなと騙されて病室に顔を出すと、あれをしてこれをしてと、細かい面倒な用事をため込んでいて、実は娘の顔が見たいんじゃなく小間使いが欲しいだけだった。
(でも…あれは照れ隠しだったとか…?)そう解釈したい、他に慰めようがないから…
「ほい、着きましたよ」
アニカさんは現金で支払った。
「お釣りはいいです」
「ありがとう!お母さんによろしくね!」
時が止まってるこのおじさんのタクシーに母本人が乗って来ても…おじさんは気付かないのではないかな…そう思いながらアニカさんは靴を履き、シートから滑り降りた。
大昔から一階でお好み焼き屋をやっているおばちゃんは大昔からお婆ちゃんだったように記憶しているけれど、まだお好み焼き屋はやってるみたいだ…張り出した庇と簾で覆い隠したベンチに数人の酔って盛り上がってる客の影がある。そこら中に立小便したり野糞を垂れたりビックリするほど些細な種で殺し合ったりもしてしまう人種…でも優しいときはとことん優しくて、親身で、…子供の頃は可愛がってもらった…多分母が家の奥で眠ってしまっていて、夜になっても中へ入れてくれなかったりした時に、お好み焼きやコーラを御馳走してくれた…顔は覚えてない…酔っ払いたちの陰だけが見える。
でも今のアニカさんは挨拶しなかった。ややこしいから。今は立場も全然違う。
簾の横を黙って通り抜け、ヒールの踵を落として階段を登り始めた。派手なばかりで下手くそな洒落もセンスもない落書きが灰色のコンクリートを汚している。黒のスプレー缶がゴロンと捨てて置かれている。他所で本番の落書きをするためにここで試し描きしてみたのかも知れない。ここはそんな場所だ。
どんな成分を含んでいるのか分からない、独特の地元の香りがする。草ぼうぼうの空き地から吹き抜けてくる風の切なくなるような場末の香り。隅に溜まった煙草の吸い殻やゴキの死骸や吐き捨てたガムでできた黒い水玉模様も、蜘蛛の巣も、誰も掃除しない…これこそ昔から変わらない懐かしい我が家だ…
集合住宅は一階も二階もドアポストが塞がれている。取り壊しが決まっているからだ。亡くなったり、引っ越したり、施設へ入所したり、ふらふら出て行って帰り道が分からなくなりそのまま居なくなってしまった人々が住んでいた部屋は、主を失ったまま、空っぽの室内をカーテンのない窓から外に晒している。まだ次の住処を探しきれずに住み着いている頑固な居住者が各棟にぽつりぽつりと残っている。この老朽化した集合住宅は、まるでだんだんに機能を停止して死んでいく老人の体みたいだ。死ぬのを待たれながら住み着いている人々は自分達でもそのことに気付いていながらもう新しい住処を探す元気などないと決め込んでしまってる怠け者の寄生虫のようだ。母はちょうど良く次の引っ越し先を見つけた。
この世に何本製造されたか分からない合鍵の一つでペラペラなドアを開ける。途端にふわっと香る、花束みたいな女性の一人住まいの素晴らしい良い香りで肺が歓喜する。入浴剤と柔軟剤の濃い良いところだけを抽出したような香りが閉じ込められて蒸れて匂い立つ。
「酸素…」呟きながら窓を開けて回る。
床にごちゃごちゃ置かれた紙袋や段ボール箱を蹴って躓きそうになりながら…立て掛けて置かれた犬用のトイレを見て思い出した。お母さんは犬を飼ってたんだった…犬はどこへ消えたんだろう…舌で口蓋を叩き「ロッロッロッ」みたいな音を立てて呼んでみる。(母が名付けた犬の名前を知らないから…)犬は現れない。誰かが何処かへ保護したか何かしたんだろう…この世界では人間よりも犬の方が最後まで目をかけてもらえるから…
玄関に一番近い狭い部屋の、兄と使っていた二段ベットの下の段(自分の場所)は荷物置き場に変わっている。埃の積もった段ボール箱がギッシリ詰まっている。鞄からマスクを取り出して喉を守る準備を整え、試しに一箱ガムテープを剥がして開けてみると、中身はカビ臭くて色も黄ばんだもう捨てればいいのにと思える寝具類だった。引っ張り出した物をまた元通り箱の中に収めようとすると元通りには入りきらなくて、半分以上が外にはみ出し、ゴミが二つに増殖したように見える。一箱目からもう途方もない挫折感が胸中に広がってきて、吐きそうな気分になってきた。あといくつあるのかと段ボール箱を数えてみる。その途中で、
(もういいかな)とアニカさんはいきなり諦めてしまった。
ここにはそもそも幼少期の三、四年しか住んでない。当時大切にしていた今でも必要な何かをここにずっと置き忘れているような気がしていて、それが何なのかは分からないけれど、とにかく来さえすればすぐ見つかると思って、今日は仕事を休んでその大事な何かを取り戻しに来たのだった…業者が根こそぎ捨て去ってこの世から完全に消してしまう前に…けれど、この鬱陶しい荷物の山を目の当たりにして、分かってしまった。そもそもここには初めから何も無かったと。
少なくとも今の自分にとって必要なものなど、ここにはない。
母親を必要としていた時には手に届かず、いらなくなってから縋り付いてくる、私達母子はすれ違ってばかり…それもこれも全部、お金がなかったからだ…お金がなければ生んだ子供と一緒に過ごす時間も持てない。この世の中…(だからお金が一番強い。愛情もお金で測れる。一番沢山お金をくれる人が一番愛情も濃い。単純なことだ…)アニカさんは無意識に噛んでいた爪を見下ろした。(はっきり口に出すと嫌われがちだけれど、誰も綺麗事や夢や理想を食べて生きてはいない…見ていたいものと見なくてはいけないものは違う。)
窓の外に見える景色にぼんやりと目をやる。今では背の高いビルが建ち並んで視界を阻んでしまっているけれど、心の目には、遠く丘の上に浮かぶように城が見える。真夜中に目を覚ました子供の頃、
「お母さんはどこ」と聞くと、兄が
「あそこ」と指差した。
夜はライトアップされてますます白く幻想的に地上から少し浮き上がって見える。遠くからでも、町の方角として適当に指差すのに丁度いい的だったんだろう。しばらくは兄の言った事を真剣に信じ込んでいた。お母さんは夜はあのお城で働いてるんだと思っていた。
子供部屋を出て奥の居間へ入る。敷布団が敷き詰められている。さらに先へ進む。奥の大きな一部屋は母が寝室兼職場として使っていた…今でも清潔な一番品の良い寝具が掛けてある。この部屋の窓に梯子を掛けて登って来ようとした男がいたけれど(「一言だけ言わせて欲しい!愛してる!」)母は引っ掛けられた梯子をぐらぐら揺すって相手を地べたまで落とした。
クイーンサイズのベッドの隣には母が使っていた化粧机が置いてある。その鏡に映る自分の目と目が合い、椅子を引いて鏡台の前に腰掛けてみる。(そんなに似てるかな…)と思う。写真立ての埃を吹き払い、それだけでは埃はとれず、ティッシュで丁寧に拭って、自分より若い母をじっと見る。化粧の仕方が今とは全然違う…それに写真の母は真っ赤なオープンカーの後ろの席から半分立ち上がってこちらを振り返ったところを撮られていて、長い髪が風に靡き、顔の輪郭を隠してしまっている。まだあどけない。鏡に映る自分よりも、この前“お城”からスカウトしたあの綺麗な子に似てるように見える。髪の長い母の姿はこの写真で今初めて見たような気がする。記憶を遡ってみようとして、若い頃の母親とはそもそもあまり会ったこともなかったんだったかなと首を傾げる。
(もういいわ。どうでも。)
写真立てを机の元あった位置に戻し、(どこにあったかくっきりと埃の層が示している)鏡台の前を立つ。
ここにいても時間の無駄だ。仕事に戻ろう。アニカさんは鞄を取りに子供部屋に戻り、専属運転手に電話をかけた。相手が出るとすぐに要件から喋った。
「迎えに来て。やっぱり。ごめんね、いいって断っておきながらで悪いんだけど…住所は…」
最後まで聞き終えてから、できる部下が手短に答えた。
「10分以内にお迎えに上がります」
「10分?なんで…」
「実は待機してました。」
「えっ、なんで…」
「多分その方が良いだろうなって予感がしたからです」
自分の専属運転手兼腹心の部下には怖いくらいの予知能力がある。ノアちゃん。この子もお城から引き抜いた…というか、この子は勝手についてきた。スキンヘッドでピアスにタトゥーの眼光鋭い女の子で、初見は怖いけれど、中身は迷える完璧主義な感受性の高い子だ。何でもできてしまうから電話番に女の子の送迎に予約対応にと何でも仕事を任せてしまい、十分できているのにほんの少しのミスで自分で自分を責めてしまって突然仕事を休む。でもその場合には必ず自分で自分の代役を立てて仕事には穴を開けないように気を回してくれる。(自分の下にいていいのかな)と不思議になるほどできる子だ。ノアちゃんがいるおかげで自分はなんにもしなくて良くてダメ人間になってしまいそうだ。
「そう。ありがとう。あなたがいてくれて本当に助かるわ。じゃあ10分後に。下についたらクラクション鳴らして」
「はい」
電話を切りながら、不思議なことだなと思った。ノアには特に何も教えたり目をかけて優しくしたりしてるつもりもなかったのに、勝手に忠誠を誓って慕ってくれている。それに比べて、こちらが一生懸命になって「貴女には期待してるのに…あなたはできる子なはず」と伝えてあげてる子には一向に気持ちが伝わらない。
アニカさんはちょっとの間〝お城”に勤めていた。辞める時一緒に何人か引っ張って来て、新しい自分の店を立ち上げ、元お城のメンバーと新しく募集したり他店からまた別にスカウトしてきた女の子達とで、たまには自分でも接客もして、今は経営者として頑張っている。城にいた時には、お客さんが支払うお金の半分もお店に上納するのはボッタクリだと思っていた。これなら自分で店を立ち上げて女の子を何人か雇って働かせた方が楽々儲けられると思っていた。けれど、やってみると何やらかやら意外に大変で、雇った女の子達はワガママですぐ辞めてしまったり責任感なく仕事を放り出して遊びに行って平気な顔をしているし、集客ための宣伝や場所の確保には地味に労力とお金がかかるし、全然簡単ではなかった。必死になってるのは自分一人だけのように思えることもある。女の子達からすれば(どうせすぐ辞める仕事だし一生懸命やる必要もない…)と思ってるのが透けて見える、一時凌ぎの緊急アルバイトみたいに考えてるようで、最初から仕事を舐めていて、本腰を入れるのがむしろ恥みたいだ…
(本当はこんなこと私のやる仕事じゃない、やりたくてやってる仕事じゃない)と全面に顔に出して客に接するから、お客さんの方からも(こっちだってお前じゃなくても良かったんだ、次は別の子に金を払おう、お前はお前でもう二度と会うこともないし多少酷い目に遭っても自業自得だ)と手加減してもらえないのだ。だから自分の仕事を軽蔑したまますぐ辞めていってしまうことになる。女の子は沢山いるようでなかなか確保が難しい。一定数保つためには常に新人を入れ続けなければならない。募集の広告に一番お金を使う…
サクラはそんな子達とは一線を画しているように見えた。天性の甘えん坊で、寄る辺ない迷子のような目をして、愛され足りない飢えた子供の心で、カラカラに干からびていた花の苗が待ちわびた雨をグングン吸収していよいよこれから花開こうというように、注がれる全ての情熱を一身に受け入れて、「これこそ自分の天職!」と信じ切った晴れやかな顔で楽しくて仕方なさそうに働いていた。もう充分というほど固定客がついていてもまだもっともっとと貪欲に底なしの孤独を埋め合える道連れを求め続けていた。魔物を見るような思いがした。彼女の細い腕にギュッと抱き締められ甘い声を耳に囁かれたら…(「また来てくださいね」「待ってます」「大好き」「大嫌い」…意味などどうでも、溜息だけでもいい…)振り解くことなどとてもできない。沈み込んでもっと深く溺れたくなる黒い沼のような瞳にじっと見つめられ、観察され、分析されて、一人一人違う客のそれぞれの心と心を結び、相手の欲するただ一人の女にその時間だけでも成り切ろうとする。
(この子はプロだ)と思った。生まれながらの。
これからこの子はもっともっと伸びるだろう、ますます使える子になる…そのうち使われるだけでは飽き足らなくなり二店舗目を出すときには責任者になりたがるかもしれない…そんなことまで考えていた。
でも完全に期待外れだった。突然、墜落するように勢いが落ち、どんどんクレームが入るダメな子に豹変してしまった。
「フッと火を吹き消したように」(とその客は言った。)サクラは接客中にベッドから忽然といなくなり、(「僕は殺しも誘拐も何もしてない!」とアニカさんと用心棒のヤマトくんの前で客は言い張った。)一月後にふらりとどこからともなく戻ってきた。
「また仕事貰えますか?」とだらしない半笑いを浮かべて。
「あの時は何があったの?怒らないから教えて」と頼んだら、『突然魔がさして窓から逃げました、すみません…』と白状した。
「働き詰めだったから…大きな反動が出たのかもね」とアニカさんは自分にも言い聞かせるように頷いた。
(まさか二度同じことは続かないだろう…)と思っていたけれど…
ベッドからの失踪事件を皮切りに遅刻、早退、当日欠勤、それに度々客の目の前から忍者みたいにフッと消える等、サクラは次々に問題を起こして店に迷惑をかけ続けた。
人を叱るのは苦手なアニカさんは、(この子ダメだな、使えない)と見切ったら無駄に労力を費やさず容赦なくその子のシフトを削る。ダラダラいい加減にやってる子の生活の面倒まで気遣っていられない。生活するお金に困るなら別に他の店で掛け持ちしてくれたって良い。なんなら他所の店で教育を積ませてもらって、できる子になってきたらまたこっちで優遇してあげる。可愛らしく頼って来られたら、何度かくらいは相談にも乗ってあげるけれど、あんまり価値のない子に割く暇もない。自力で這い上がってこれる強い女の子が好みなのだ。
それでも、サクラには目をかけていたし、良い時の勢いの凄まじさを知ってもいたので、(もったいない、この子のためにも何とか持ち直させなければ…)と思って、初歩のような説教を一から根気強くしてみたりもした。
「お客さんの前ではできるだけ笑顔でいて…」とか…(以前の仕事を心から楽しんでできていたサクラには言うまでもなかったことだ。)
「どうしたの、」
「仕事に身が入らないのはなんでなの、」
「私生活で何かあったでしょう?誰にも言わないし困り事なら聞かせて欲しい」等と言ってみたけれど、サクラは困った顔をしてふにゃふにゃ揺れながら俯くばかり…それにサクラは人の言う事を聞かないというか、人の言ってることを聞いてない。まるで全く耳が聞こえてないかのように、その場で見事に聞き流している。右から左へ。こちらは向いているが何も見てない目をして…頬を叩いて目を覚まさせてやりたくなる。
アニカさんも同じ小言を繰り返すのにも疲れてしまって、給料を手渡しする車の中で、
「好きな人ができたんでしょ」と、とうとう諦める前の最後の段階として我慢しておけずに追及した。
サクラは「はい」とも「いいえ」とも認めなかったけれど、「いいから聞くだけ聞いて」とアニカさんはいまだに可愛い妹分の手をとって続けた。
目の前で見ていた自分の母親がどんなに自由で若くて綺麗なうちに、まだどこまででも高く飛翔できる不死鳥のようだったのに、一人の男に地上から心臓を撃ち抜かれて墜落し、その後どんな末路を歩んだか…
「しょうもない男に人生捧げるのはやめときなさい。一時の情熱は一生は続かない。愛は万能じゃない。一番必要な時に役に立たなかったり、足を引っ張ることさえある…口約束も。言葉の効力は聞こえてる間だけ。その相手の男の子は今は情熱に燃えてて誠実で優しいかもしれないし、もしかしたら時が経っても直向きに自分の言葉を貫こうと努力し続けてくれるかもしれないけど…でもそれが絶対的に正しくて美しい幸せな事じゃないのは知っておかないといけないよ。
秘密も死ぬまで守り通さないといけない。相手を苦しませないために、自分一人で二人分の毒を飲むようなもの…
もしもその男の子があなたに飽きてきた時、あなたには子供ができてるかもしれない…年取って老け込んでて二度とこの同じ職に同じ待遇では就かせてあげられないかもしれない…少なくとも確実に今よりは稼ぎが悪くなる…」
俯いて居眠りしてるのと同じなサクラの、あからさまにこの場をだんまりで(やり過ごそう)としてる態度にだんだん苛立ちを募らせ、アニカさんは意地悪を言ってしまった。
「この仕事を辞めさせてくれるような稼ぎのある男でもないんじゃない。貴女が頭を下げてここに戻って来たっていうことは」
サクラはうなだれてジッとしたまま達磨さんが転んだと言われたみたいに動かない。
「その人、貴女のこの仕事のこと知ってるの?」
こくんと首が上下に動いた。
「知ってて理解してくれると言うのはね、それ以外に言いようがないからか、貴女を利用しようとしてるかよ。情けない。貴女みたいな女が一番みっともないわ。
…お金を貸してなんて言ってきたら即刻、別れなさいよ。まだそんなこと言われてないでしょうね?お金貸したり渡したりした?」
「いえ…」
「絶対ダメよ。それ以上に貴重な時間やら心やら体を貢いでるんだから…貴女の一番の売りだったのに…その誰だか知らない一人の人がみんなの憧れの女神だった“サクラ”の羽を捥いじゃったのよ!」
ダンと拳でハンドルを叩くとサクラの肩がぴくっと跳ねた。暴力の予感は無視できないらしい。アニカさんは少しだけ留飲を下げた。
「この仕事の事知ってる人と添い続けるという事は、苦しみをずっと二人で乗り越え続けないといけないってことだよ。過去は消せないから。一度だけじゃなく、あなたのしてきた事は繰り返し何度も何度も二人の間に障壁となって立ち現れてくる。その度に乗り越えられる?溝を埋められる?その優しい男の子を毎回付き合わせられる?
…それに、土壇場になって自分の言葉を翻す人がいるのも知ってないと…もっと悪い人は初めから美味しいところだけをムシャムシャ食べて後はポイって捨てる…そんな人も世の中にはいっぱいいるんだよ…」
サクラにどんなに身を入れて話しても無駄だった。いつか自分で思い知ることになるだろう…でも今はこれ以上何もしてあげられない。こちらもこの子が何を考えてるのか分からない…
儚げな細い肩、繊細な長い睫、震える鈴の声のおねだり、いっぱい愛されて嬉しくてたまらないと心から思っている表情で自信満々に働いていたこの秘蔵のアニカさんの商売道具をダメにした男の顔が見てみたかった。
迎えの車が来るまで子供部屋に戻って段ボールのガムテープをいくつかビリビリ破いてみていたアニカさんは、ひと箱の段ボール箱に一杯、自分宛ての書類が入っているのを見付けた。上の方が日付が新しく、下へ行くほど古い。通っていた学校や役所から来た大事そうな封筒も、好きだったアンティークショップやドレスショップの葉書や小包も、(まだ潰れてなかったんだ…帰りに寄って行こうかな…)一度開封されて元に戻されていたり、開封されないままだったりして積み上げてある。一つ二つ、長い桃色の爪で引き裂いて開けてみたけれど、全部なんてとても読み切れない。特に大事そうなのを上から摘まんで鰐皮の鞄に入るだけギュウギュウ押し込んだ。
鞄の底で携帯電話が、窓の外からも控えめなクラクションが鳴り、ノアが迎えに来たことを知らせていた。窓から身を乗り出して下の道に停まったワゴンに手を振り、(既視感…仕事に行く母をこうして何度も見送った…)それから今は見えない“お城”があった方角へ、町の方へとチラリと目を向けた。あの城を、母を、自分は越えるんだと胸に誓った子供時代を思い出す。
ばたばた走り回って家中の窓を閉め、ちょうど玄関に出ていた母親のサンダルに足を突っ掛けて、スカートの裾を持ち上げ、もう片方の手で履いて来たパンプスと鞄を持ち、クラクションに急かされ階段を駆け下りた。
ヒラリと一枚落とした葉書には気付かなかった。
「タクシーに乗らなくて済んで助かったわ」
車に乗り込みながらアニカさんは明るい声でノアに感謝を伝えた。
「ありがとう。迎えに来てくれて」
「探し物は見つかりましたか?」
「何もなかった。大事なものは。母親の写真が不思議とサクラちゃんに似てたくらい。他人の空似ね」
「サクラ…人の親に興味津々で自分の親とは決別中の…」
「ああ、うん、そう。そう言えば一度この家にも母のお使いを頼んだことがあった…まだ期待して目をかけてた時の事よ…もう二度と頼まないけど。男の子と来たって母が苦情を言ってきた。『二度と見ず知らずの人間をうちに寄越さないで』って…」
「先輩は人を見る目が無いんですよ。全然。おっちょこちょいだし。それに、原動力だけ物凄くあって、人を巻き込んでどんどん先へ先へグイグイ突き進んで行くくせに、脇が甘過ぎるんです。滅茶苦茶。人が良いから騙されやすいし…」
「あなたがいてくれれば大丈夫」
アニカさんは後部座席から身を乗り出して運転席の腹心の部下の肩を揉んだ。
「貴女と、それにうちの店で働いてくれてる仲間達、他の従業員、女の子達、お客様達…ありがたいことに…私には子供はいないけどあなたが子供みたいに可愛い。よろしくね。これからも」
「はい。どうも…」ちょっと照れてしまったのか、ノアはぼそぼそとした小声になった。
「こちらこそです」
(私には仕事がある。)とアニカさんは思った。
子供も彼氏も親もいないけれど、働き続けている限り面倒見なければいけない従業員達がいて、こちらもその子達に支え続けてもらえる…
故郷から離れ自分の縄張りに近づくにつれアニカさんは漲ってくるいつもの活力を感じた。
よし。頑張ろう。やるしかない。この仕事に人生を懸けるって決めたんだから…
続く