星の語り部とみっつの呪い①
■ ■ ■
――最悪の日は、そう日を置かずに訪れた。
その日おれが検査から戻ると、父さんと母さんの姿がなかった。予定では二人とも今日の検査を終えているはずとザッケスも首を傾げた。
エリック兄さんがおれたちを見るなり、顔色を変えて駆け寄ってきた。本気の駆け足だった、廊下での追いかけっこよりも速かったかもしれない。そのままザッケスの胸倉を掴んで揺さぶって、床に押し倒して拳を振り上げた。
「お前何か知っとるだろ。分かってナダをあの場から連れ出したのだ、違うか!」
「兄さん! 何するんだ、やめろよ! 何があったんだよ」
■■■さんの手も借りて何とか兄さんをザッケスから引きはがした。
その顔を見て息が止まった。兄さんは泣いていた。優し気な顔をくしゃくしゃに歪めて、目を充血させて、涙をぼろぼろ溢して嗚咽を上げた。
「兄さん……?」
おれを抱きしめるばかりで何も言えない兄さんに代わって、■■■さんは言った。
――父さんと母さんが、荒々しい人たちに連れて行かれたと。
白い廊下をひた走る。
薄い検査着の中を風が通り抜けていく。頬を体を撫でる空気は、暖かくも冷たくもない、快適な温度を今日も保っている。
だけれど今ばかりは、この温度が高揚感ではなく焦燥感を高める。
父さんと母さんが連れて行かれた。
研究員たちにあれほど怪しい動きがあったというのに、察知できず後手に回った。あの父さんすら予期していなかった、悪手が伸びるとすれば先ずナダだろうと、誰もが思っていたから。
エリック兄さんらの制止を振り切って、おれはある部屋を目指していた。鬼ごっこ探索で見つけた中で唯一、目的の読めない部屋があった……直感がそこへ行けと叫んでいた。
「父さん! 母さん! 返事してくれ、どこにいるの!?」
記憶の通り、いつか兄さんの背を追った道を走り抜けた。いつも立っている警備員が見当たらない。研究員ともすれ違わない。ただでさえ世界から疎外された感じを抱いているのに、本当に誰もいなくなってしまったかのようだ。
と、何か空気の鳴動を感じた。
足を止めた。ぶわっと汗が噴き出した。眩暈がした、白い廊下に突如として現れた赤い色に。
「……ッ、ひ……ぁ」
声が、上手く出せない。視界に飛び込んできている状況を飲み込めない。
白い廊下の壁の一部が硝子になっていて、部屋の中の様子を窺えるようになっている。ここまでは他の検査室と同じだ。
けれど、中の造りはまったく違った。寝台も機械もない。血を抜く針や道具もない、ただの殺風景な白くて四角い部屋。
そのちょうど真ん中で、同じような硝子の仕切りが部屋を二分していて、おれのいる廊下から左右の様子を見比べることが出来た。
左には父さん。
両手を後ろに回されて、金属の手枷を嵌められて身動きが取れない。必死の形相で隣の部屋に向かって呼び掛けている、その声は分厚い硝子が阻んで聞こえない。
右には母さん。
ぐたりと壁にもたれて四肢を投げ出し、痙攣している。目は開いている、呼吸も僅かにしている、しかし目から口から血を流しているし、両手から水が迸って好き勝手に宙を舞っている。
……能力の暴走が起きているのだ。
「ああ……ぁ、あ……」
おれの口から無意味な声ばかりが漏れていく。何一つ、目に映るこの景色の何一つ理解できなかった。おれは一体何を見ているのだろう。夢なのか現なのか、地に足のつかない感じがして眩暈がする。どうして父さんは手枷など付けられているのだろう、まだ若い母さんが暴走しているのは何故だろう?
助けねば。
しかしどうやって。
これは研究員がやったことなのだろうか、もしそうなら「二人を助けて」と言ったところで聞き入れてもらえやしない。
ならばおれを、自分を人質にしよう。
彼らは――あの“しゅにん”はおれが傷つくことを許さない、二人を助けねば死んでやると見せつけてやればいい。
おれは廊下の角の天井を見上げた。そこに目があるのを、これまでの探索でよく心得ていた。
気づけ、おれを見ろ、キースの五番が暴れているぞ。
――この時自分の頭がおかしくなっていることに、おれは気が付かなかった。
肌下を虫が這うように体が痒いのも、沸き立つ焦燥感のせいだと思っていた。この思考経路も何ら誤っていないという自負があった。両親を助けるにはこれが最善の手段であると、何の根拠もないのに強く確信して、痒みを痛みで塗りつぶさんと体当たりを繰り返した。
「早く来い! 何故来んのだ! ッ、ぁあ、のろま、死んでしまうぞ、早く……」
「ナダ、ナダやめろ、もうやめてくれ!」
いつの間にかおれは誰かに抱きすくめられていた。視界が薄緑色でいっぱいになって、大人の手が背中を何度もさすっていた。
は、は、という浅い息が止まらない。ぼろぼろと涙がこぼれて、薄緑を濡らして濃緑に変えた。
「エリックにいさん。かあさんが」
兄さんの背中に縋りついて、胸に嗚咽を押し付けた。
鼓動と一緒に優しい声が胸板から響いてきた。
「うん。落ち着こう。助けられるよ」
「ほんとう? だれもきてくれんぞ」
「兄さんが嘘ついたことがあったかい? 信じろ。こんな硝子、あっという間に壊してやる。皆で逃げよう。自由になろう」
優しい声に、たちまち思考が麻痺していく。何も考えたくなかった。早く苦しいところから逃げたくて仕方がない。
「下がって。俺の背から出るでないぞ」
そう兄さんが忠告した次の瞬間、破裂音が空をつんざいてガチャガチャと破片が降り注いだ。圧縮した空気を爆発させて硝子を突破したのだ。
「ここに居れよ。リーシャさんを連れてくる」
「……うん……」
破片の散らばる床に構わず、エリック兄さんは裸足のまま母さんに駆け寄った。か細い体を支えて呼び掛けると、虚ろな目に僅かな光が灯った。
……それも束の間、母さんは「戻れ」と激しく首を振った。
「何をしているの。逃げなさい。私たちなど差し置きなさい」
「リーシャさん、しかし……」
「“しかし”も何もない! 疾く逃げなさい、然もなくばあの子を好きにされてしまう!」
剣幕に怯んだ兄さんの胸を、か細い手が押しのけた。弱々しい力なのに兄さんはよろめいた。後ずさったその背中に追い討ちを掛けるかのように、もう一つ声が上がった。
「エリック……? そこに居るのか……?」
「っ、え」
「すまない、硝子が割れたと同時に灯りも落ちたようでな。俺は夜目が利かんからお前のようには見えんのだ」
困惑する兄さんと顔を見合わせた。たしかに硝子は割った。けれど天井の照明までは壊れていない。部屋の中は今も白い光に照らされたまま……。
兄さんの方を見上げている父さんは、しかし、視線が微妙に兄さんから外れている。その様はまるで盲人のそれだ。
兄さんの顔が一瞬、くしゃっ、と歪んだ。
震える唇を噛みちぎって押し殺して、兄さんは優しい笑顔を作って父さんの前に膝をついた。
「気が回らず相すみませんでした、長。ここで火など灯せば奴らに勘づかれます故、灯りはご勘弁願います」
「では手枷の錠を探してくれんか。後ろ手では力を使うに危うくてな」
「了解」
「ナダは、あの子はまだ無事か? ■■■先生についているのか」
「……ええ。ええ、左様です。星の湖の話をせがんでおりましたよ」
無理やり作った笑みからすらすらと嘘が紡がれる。
「はは、あの子は本当にあの話が好きだな。……安心した。錠を頼んだぞ」
「お任せを」
エリック兄さんは力強くそういい残して踵を返した。おれが声を掛けようとすると、口を手で封じられて担ぎ上げられて、そのまま兄さんは駆けだした。風のように速かった。鬼ごっこの時よりも。
何故あんな嘘をついたのだろう。父さんは目が見えなくなってしまったのだろうか。やはり……おれを庇って、二人は酷い目に遭っていたのだろうか。
「『おれのせいだ』などと、腑抜けたことを言ってくれるなよ、ナダ」
兄さんが歯ぎしり混じりにそう呻いた。
「家族を庇うのは当然の行いだ。庇う者も、庇われる者も、誰も悪くない。悪しきは手を下した者たちだ。違えるなよ」
「でも」
「いいから。……頼むよ」
誰も悪くないというその言葉は、もしかして自分自身に向けたものだったのだろうか。何も言えず黙り込むうち、■■■さんの待つ部屋についてしまった。
「ッ……ゲホッ、カハッ……」
「兄さん!」
おれを床に降ろした途端、兄さんは蹲って嘔吐してしまった。背をさすろうと駆け寄ろうとするも、■■■さんに肩を捕まえられて動きを封じられてしまった。
「そう。寄らせんでください。ナダ、お前は大事無いかい」
「おれは大丈夫……兄さん、どうしたの」
「あの部屋、何かまずいもので満ちとったかもしれん。■■■さん、ジゼルさんが拘束されて身動きが取れんのです。俺は今から手錠の鍵を探して、二人を解放しに戻ります。その間ナダをお頼みしてよろしいですか」
「おれも行く!」
「いけないよ。お前は要だ。決してあのオブライエンの手に落ちてはいかん」
兄さんが手をかざして火を灯した。吐瀉物を燃やして、口と目元を拭って、おれを見た。
きりりと眦がつり上がっていた。この目つきをおれは見たことがある。アドラーの父が酷い暴走を起こした時、始終おれとアドラーの手を握ってくれていた母さんの目。巻き込まれた人々を助けに向かう大人たち。あれと同じ目をしている。
「親を亡くした俺に、ジゼルさんとリーシャさんは良くしてくれた。今度は俺の番だ。ナダの分も二人を助けに行く。ナダがこの部屋を、■■■さんをしっかり守っていてくれるのなら、俺はこんなに心強いことはない」
「…………」
「頼めるか?」
言い返せない。この言い方は、どうしても言うことを聞かせたい時のそれだと、おれは良く知っていた。ならばせめて十二分の働きをするのが、おれのつとめだろうと、苦い唾をごっくんと飲み下して頷いた。
「うん。いい子だ。では行ってくるよ」
薄緑の服が廊下に消えて、ペタペタという足音も遠ざかって行った。
広い広い部屋がいつもの何倍にも感ぜられた。空調機の低い音が鼓膜を震わせてくる。
(……?)
部屋の隅で■■■さんがおれを手招きしていた。呼ばれるままに駆け寄ると、皺の手がすうっと宙を撫でた。外から話し声が聞こえないように空気の膜を張ったのだ。
「え……誰も居らんのに何故……」
戸惑うおれの両頬を、ふわりと温もりが包んだ。
――その時、俺の中の最後のヴェールが剥がれた。
幕越しにくぐもっていたその声が、ハッキリと聞こえた。
「ナダ。これから私が云うことをよくお聞き」
■■■の名前は、イリヤ。
知的な光を湛えた深い菫色の瞳。組紐で緩く束ねた白い髪。
キースで最も長く生きた女性。
「お前は一人で逃げるのだよ。決してあ奴らの手に落ちず、操り人形にならぬよう、外の世界に出て行くのだ」
心地よく低い女性の声が、おれの中に渦を生んだ。




