きゅう
扉の隙間から眩い光が漏れていた。
この向こうでは、名だたる貴族たちが私たちの登場を今か今かと待っているのだという。
一部の隙もなく白と赤の礼服を着こみ、前髪もきっちりオールバックにしたヴァルターはいつものことながら険しい顔をしている。
さながら戦場を前にする戦士かと見間違うくらいに、気迫というか、もはや殺気を感じる。普通に怖いので少し抑えて欲しい。
でもそれは私を心配してのことだからかもしれなかったし、彼自身も少なからず緊張しているからなのかもしれなかった。
今夜、ついに聖女と王子の婚約と、結婚前祝的な立ち位置の舞踏会が開かれる。
三週間、とてもきつかった。
脳裏を駆け巡るのは、真っ赤なドレスの鬼教官ハイデマリーの厳しい指導と、拷問マッサージ、呪文のようにならんだ舞踏会参加者の名前と個人情報、拷問マッサージ、ヒールで足を踏んづけてしまった時のフェルの痛そうなちょっとしわっとした顔、あと拷問マッサージ。
正直、知識もまだ完ぺきではないし、ダンスだってなんとか形になったくらいだ。
それでも時間の流れは容赦なく、私はメリナとして、聖女としてこの舞踏会に臨まねばならない。
「怖いか?」
怖い。
かもしれない。
けれど心は思ったより凪いでいる。
一度やると決めたことが、やらなければならない形で目の前にある。
私の人生は、聖女になってしまった双子の姉と違って、凡庸で、平穏で、誰からも期待されていなかった。それはとても楽ちんなことで、日々元気に、笑って生きていればよかった。
そういう人生が悪いわけではない。実際幸せだった。
けれど今、私の隣には私に期待してくれている人がいる。
私が聖女の代役として立派に務めるために、尽力してくれた人がいる。
たとえその結果、大勢を騙すようなことになっても、私はこうすることがメリナにとってもヴァルターにとってもこの国にとっても良いことだと信じることにした。あくまで応急処置的な対応だけど。
だから怖くはない。
きっとやってやれないことはない!
それでもできなければ、もう腹をくくるしかない!
ハイデマリーには馬鹿だと言われるかもしれないけれど、人間少し馬鹿なくらいがちょうどいいのではないだろうか。
いや、そんなことは今どうでもいいんだった。
「大丈夫です!」
にっこりと微笑めば、ヴァルターの眉間のしわから少しだけ力が抜けたように見えた。
「その顔、人前でするなよ。良い笑顔だけどな」
「あ、すみません」
確かにちょっとメリナっぽくはなかったかもしれない。
いけないいけない。
深く息を吸って、メリナの姿を瞼の裏に描いた。
たおやかな笑みで、メリナは遠くを見つめている。
私にはいまだにどうしてあなたがここから逃げ出したのかわからない。
私たちは双子で、誰よりも分かり合える存在だったはずなのに、今や同じなのは姿形だけで、あなたがいなくなって初めて私はあなたを知ろうとしている。あなたになろうとしている。
ヴァルターたちはこの舞踏会には、きっとメリナの駆け落ちに関わった人間も来るだろうと踏んでいる。
つまりその誰かは私が偽物だと分かっているということになる。
何が起こるかはわからない。
何も起きないかもしれない。
とにかく私は私のすることをするだけだ。
綺麗にセットされた髪の毛にほつれがないか、ドレスに変なところはないかを確認する。
今日のために用意されたドレスは首まできっちりとつまった形で、腕はトネコの葉の模様が刺繍されたレースでできている。長いスカートは薄い生地を何枚も重ね、腰のあたりから徐々に空色、そして濃い青へと美しいグラデーションを描いている。星を模した装飾がちりばめられ、きっと明るいところでは、それこそ夜空のように輝くのだろう。
頭につけた飾りも星を模したものだった。
相変わらず気が遠くなるほど高価で、重たい。なぜ高価な物ほど重たいのか……。
私の準備が整ったのを確認して、ヴァルターが腕を差し出す。
「お手をどうぞ」
珍しく王子然としているものだから、少し笑ってしまいそうになる。
こぼれそうな笑みを噛み殺して、私はその腕にそっと手を添えた。
彼が合図をすると、扉の向こうから漏れ聞こえていた音楽がとまり、尾を引きながら人々の話し声も消えていく。
完全な無音になった状態で、両開きの重たそうな扉が開いた。
光の洪水に飲み込まれたようで、私は眩しくて少しだけ目をすがめる。
けれどすぐに目が慣れて、私は黄金に輝くホールに出迎えられる。
柱や装飾は金色で、天井に描かれた神話モチーフの絵の深い青がぱっきりとした印象を与えている。
七色の光を放つクリスタルの豪華なシャンデリアがいくつもぶら下がっていても圧迫感がないほどに天井は高い。
こんな世界、きっと私は一生知らずに生きていくはずだったのだろう。
本当に、ここは別世界だ。
幅の広い階段下には、大勢の着飾った人々が集まっているのが見えた。
太っちょの人、痩せている人、綺麗な人、少し頭が薄い人。
いろんな人がいるけれど、みんながみんな綺麗に着飾り、貴族らしい青白い顔で私たちを見上げていた。誰もかれもが本来ならば私なんかが、顔をみることすらできないような偉い人たちだ。
グッと体が強張る。
こっちを見ないで欲しい。無理な相談なんだろうけども!
あとさっきは怖くないとか調子に乗ってしまったけれど、やっぱり普通に怖い。
やだー!家に帰りたい!って普通に思う。
なぜなら私はこの間まで、ただの町娘だったので。
というわけで思わず固まってしまったわけなのだが、ヴァルターはそんなことお構いなしに組んだ腕を引っ張って歩き出す。
ぎゃー!待って待って!
心の中での抗議虚しく、ほとんど無理やり歩かされる形で、一歩踏み出す。いやまぁ心の中でしか抗議してないから伝わるわけないんですけど!
意外なことに、次の一歩は案外すんなり出た。自分でも驚くほど滑らかに、優雅に。
ちらりとヴァルターの方を見ると、彼は一瞬視線をよこしてわずかにほほ笑む。
ほら、大丈夫だろう?
そう言われた気がした。
階段を下りながら少し余裕が出てきて、会場を見回してみる。
私に向けられたほとんどの顔は、ほほ笑みだった。輝かしいものを見る目つきの人。わかりやすい親愛の意を込めてくれる人。形だけは笑みを保っている人。いろいろだけど、そこに不審がるような色は見えない。
その中に真っ赤なドレスが見えた。ハイデマリーだ。
その隣に立つのは、彼女のエスコート役であるフェルだ。ひょろっと周囲から頭一つとびぬけているのに色合いが淡いからほわほわしていて、なんだか面白い。
そうこうしているうちに階段を下りきって、私たちは一段高くなった貴賓席へとたどり着く。
国王が何か挨拶みたいな、私たちの紹介みたいなことをしゃべっていたが、緊張のあまり完全に右から左だった。音としては聞こえているけど、内容を理解するほどの余裕がない。
その後、ヴァルターが簡単な謝辞を述べ、私にお鉢が回ってくる。
大丈夫。何度も練習した。その通りにやればいい。
私は私が聖女だと証明してみせる。
「この度、光栄にもハインリヒ様と婚約することとなりました、メリナ・ゴルトベルクと申します。聖女としてもまだまだ未熟ですが、この場を借りて、皆さまとこの国のさらなる繁栄を願い、祝福とこの水を国王陛下に献上いたします」
打合せ通り、横からガラス製の大きなボールがワゴンに乗った状態で出てくる。
直径は三十センチほどで、淵は貝殻のように波打っている。
私はもったいぶった動きでかすかに震える水面の上で、両手を皿のようにしてふっと息を吹きかける。
ホールの上をそよ風が吹き抜け、シャンデリアのクリスタルがチリチリと涼し気な音を立てた。それはまるで見えない精霊たちがかすかな笑い声を立てているかのようだった。
そしてガラスボールの中に、何やら赤紫色が湧き上がった。
赤紫のもやはゆっくりと渦を巻き始め、急速に広がり、ついにはボールの中身は水でなく葡萄酒に変化する。
低いどよめきがどこからともなく起こり、伝播していく。
「風を呼んだ上に、ただの水を葡萄酒に変えるとは、まるで神話の精霊のようではないか!」
やや大げさに国王が賛辞を唱え、すぐに大きな拍手が吹き抜けのホールを満たした。
「我が国は聖女の、女神の祝福とともにあらん!女神エジュカに!」
葡萄酒を装飾過多な銀の杯に注いで、国王は声高く呼びかける。
女神エジュカに!と大勢の声が続いて、舞踏会の夜は順調に幕を開けた。
「聖女らしい登場の演出を考えないとならんな」
「聖女らしい、ですか?」
舞踏会まで数日という、ある午前のことだった。
最後の追い込み中だというのに、話があると呼び出されて行ってみれば、世間話もそうそうにヴァルターはそう切り出した。
「ああ、通常、個人が使える魔法とは一種類のみだ。火の魔法を使えるものは、水は操れないし、風の魔法が使えるものは、花を咲かせられない。これが真理だ。だが聖女は違う。雨を晴れに変えたり、枯れ木を蘇らせた例もある。メリナも花を咲かせたり、水を操ったりしていた。あとは小鳥を呼んだりもしていたか。女神の寵愛の証というやつだな」
「つまりいろんな種類の魔法が使えると」
「彼女たちには魔法の制限がないんだ。その代わり、私欲のために使えば女神の怒りを買うとされている。詳しいことは神殿が神秘の秘匿だかなんだかで教えてはくれないがな」
「はぁ……」
「だから今度の舞踏会でも、聖女は奇跡を求められるだろう」
「奇跡って……!私には小さな風を呼ぶくらいしかできませんし、その、ヴァルター様は……」
「俺の魔法は頼りにするな。使えないからな」
そんな自信を持って言われましても。
同席しているフェルを見るが、彼も首を横に振る。
ハイデマリーはこういう話し合いに向いていないということで、そもそもいなかった。
「だが、奇跡は作れる」
「つ、作る?」
フェルがどこからか取り出した本をテーブルの上に広げた。
随分古い本で、枕にできそうなくらいに分厚い。
「神話に登場する精霊、夜の乙女は、湖の水を杯にすくって葡萄酒に変えた。そしてそれを王に与えた。という一節がある。現実問題、水を操る魔法では、水自体を別のものに変化させるのは不可能だ」
「それは神話の中での出来事でしょう?……まさかこれを?」
「再現する」
なぜか偉そうにふんぞり返って、ヴァルターは部屋の隅に置かれていたガラス製のボールが乗ったワゴンをフェルに持ってこさせた。
ボールの中には水がたたえられており、ゆらゆらと揺れている。
試しに軽く一杯すくってもらって、飲んでもみたがただの水だった。
「このボールの底は少しだけ平らになっていて、実は穴が空いている」
「え、どこですか?」
教えてもらってよくよく目を凝らしたが水が揺れるのでよくわからない。
「そしてワゴンの下にはペダルが隠してあって、これを踏むと穴を塞いでいる栓が開く」
「あ!」
ヴァルターがペダルを踏むと、おもむろに水中に赤紫色のもやが湧き上がった。
もやは次第に大きくなり、水は葡萄酒に変わる。
「ワゴンで隠れているが、ボールの下には葡萄酒の入った容器がある。普段は栓で蓋がされているが、ペダルを踏めば上の水と下の葡萄酒が循環して、何も知らない人間には水が葡萄酒に変化しているように見える」
「子供だましもいいところじゃないですか!」
「そうだが?」
少しも悪びれた様子もなく、ヴァルターは首をかしげる。だからなんだとでも言いたげだ。
「こんなのすぐにばれちゃいますよ!」
「じゃあ、お前は聖女が奇跡を起こしたら、あの奇跡にはきっと仕掛けがあるなんて思うか?」
「え……いや、思わないと思います、けど」
だって聖女が奇跡を起こしても何も不思議じゃないし、わざわざお金と手間をかけてそんなことをする理由がわからない。
「そういうことだ。逆に疑ってかかるやつは、聖女が偽物だと知っているということになる」
「それはそうかもしれないですけど」
「それにやるのは国王の前でだ。聖女が偽物だと知っている人間、つまりメリナを匿っている人間は下手に騒ぎ立てて、逆に誘拐犯だと騒がれる可能性も考えて下手に動けない」
「そうかなぁ」
「すべて推測だから、失敗すれば終わりだがな」
こ、こいつ……!
はっ、王子に向かって心の中とは言え、こいつとか言ってしまった。
いやでも、これは思うでしょ?こっちはばれたら偽物だって、つるし上げられるかもしれないのだ。
「普通に魔法が使える連中は、いかさまなんて面倒なことをする意味すら分からないだろうさ」
そう言って、ヴァルターは葡萄酒の入ったボールの縁を爪で弾いた。
コーンと重たいガラスの音がして、私は本当に上手くいくのだろうかという疑問を抱えながら、魔法が使えないという王子のつまらなさそうな横顔を見つめるしかなかったのであった。
というわけで、回想終了。
ドレスの裾で上手いこと足元を隠し、練習通りペダルを踏んだ私は、見事水を葡萄酒に変えるという奇跡を成し遂げたようにみせることに成功した。
みんな本当に信じているのか、舞踏会はつつがなく、華々しく進んでいる。
「だから言っただろう」
私の腰に手を添え、ヴァルターは小声で言った。
「ここにいる連中は聖女だの王子だのと俺たちを持ち上げるが、所詮はたいして俺たち個人に興味はないんだ。聖女は奇跡みたいな魔法も使える。だから疑わない。聖女が聖女として機能するならそれでいい」
なんだか嫌な言い方だった。
実際彼の顔にはあざけるような表情が浮かんでいる。
「ヴァルター様もそう思っているんですか?」
「何がだ」
彼の緑の厳しい視線に怯みそうになったが、大きなことを成し遂げた後だったからかいつもより気が大きくなっていたらしい。
私は腰に添えられた彼の手からそっと逃れて、手袋をしたその手を握った。
「ヴァルター様も、聖女は聖女として機能していればいいとお考えなのですか?」
ヴァルターは一瞬、言葉に詰まる。
そして少しだけ睫毛を伏せて、無表情にこう返した。
「そうだ。そして俺は第一王子としての機能を維持しなければならない。そのために聖女が……お前が必要だ」
それが本心なのか、彼の瞳から読み取ることはできなかった。
ただ、なんとなく、そういうことを言う彼を私はかわいそうだと思ったのだった。
「さぁダンスが始まる。俺たちが踊らないと誰も踊れないぞ」
ぱっと表情をいつもの真面目腐った強面に戻して、ヴァルターは私の手を引く。
「いいか、足でも踏んでみろ。明日の食事のパンに大量にマスタードを仕込んでやるからな」
「やめてください。もう、子供のいたずらじゃないんだから」
少しだけ流れた険悪な雰囲気をなかったことにするかのように、小突き合いながら私たちは腕を組んで歩き出した。