ろく
二日目からは、六時起床だった。
慣れないドレスと化粧を施され、マナー講習を兼ねた朝食を取る。
間違えたら鞭でビシ!とやられるわけではないが、なんだかよくわからない汗は噴き出す。
だいたい六時起床って、誰だ、貴族の娘が朝五時に起きるわけないとか言った奴は。朝の六時には完全令嬢装備で現れたハイデマリー様に謝れ。
その後、ややぽっちゃりしているらしい私の体をほっそりさせるための運動。
すさまじいまでのくびれに対する執念を感じるコルセットを装着し、姿勢矯正とウォーキング、参加者の暗記。マナーについても少しずつ。地獄のマッサージは相変わらず。
正しい言葉遣いを考えながら話すので、必然的に聖女らしいゆったりとした話し方が早くもできるようになっていると褒められた。
出来ていないことは山のようにあるけれど、一歩は前に進めているのだと自分を励まして、豪華だけど自分の物は何もない寝室で眠る。
柔らかな布団の中で、早くも飛び出しそうになった泣き言は意地で飲み込んだ。
三日目が個人的にはピークだった。
主に足が。
マッサージが瞬間的な拷問だとしたら、ヒールは長期的な拷問だ。
華奢なヒールを履いて踊るとかちょっと憧れてたけど、白鳥の水面から上だけを見ていただけのことで、その下でバタバタともがく足を知らなかった的なあれだったのだと痛感した。
「美は、我慢なのよ」
そう言い切ったハイデマリーの目は珍しく死んでいた。
ただ救いというか、日に何度かフェルがお茶や甘い物を差し入れがてら、様子を見に来てくれるので息抜きは適度に取れていた。
熱血指導ではあるが、本当に無茶苦茶なことはしない、適度に休憩は挟むのが彼女の信条であるらしかった。
「そういえばフェル様は、ヴァルター様の幼馴染なんですよね?」
「そうだよ。そのまま側近に取り立ててもらったんだ」
「偉くなれば少しはしっかりするかと思ったけど、相変わらずぽやーっとしてるのよね、この人」
「君は随分と辛辣になった」
「ハイデマリー様も幼馴染で?」
「ただの腐れ縁よ。お父様が陛下と仲良くさせていただているから、その子供の私たちも必然的に会う機会が多かっただけです」
「ちっちゃい頃は泣き虫で、鳥の雛みたいにいつも殿下の後ろをついて回ってたのに……」
「オホホホ、記憶にございませんわぁ」
恥ずかしいのかハイデマリーは空虚な笑い声をあげて、今日の差し入れであるタルトを真っ二つに割った。
これ以上その話をしたらお前も真っ二つにするぞという気迫を感じる。
「でもやっぱり色は変わらないね。昔と同じ、可愛いピンク。どうして赤い服なんか着るの?もっと淡い色の方が似合うのに」
「できる殿方はみだりに女性の服装について言及しないものよ」
今度は、男は黙っていろと言う気迫を漂わせるハイデマリーは、今日も深い赤のドレスを着ていた。
私は彼女の真っ直ぐな赤毛とあいまって、きりっとして見えるから好きなのだが。
「そういえば、その色ってなんですか?」
確か私は若草色だと言われた気がする。
前々から気になっていたので思い切って聞いてみると、彼は自らの薄い水色の瞳を指差す。
「僕は魔力が色で見えるんだ。そういう特別な目を持ってるんだよ」
「それがフェル様の魔法……」
「いや、これはただの体質。僕がどんな魔法を使えるかは秘密かな。言うと殿下に怒られちゃう」
怒られるから言わないと、子供のような理由を言って彼は肩をすくめた。
「ハイデマリー様はどんな魔法が使えるんですか?」
フェル曰く可愛いピンク色だというからには、花の魔法だったりするのだろうか。
純粋な好奇心で尋ねたのだが、ハイデマリーはやや不機嫌そうに鼻にしわを寄せた。
「平民は知らないけど、貴族同士ではお互いの魔法のことをむやみやたらに話さないものなのよ」
「そうなんですか」
「使える魔法の種類、強さを知られるということは、弱点もわかってしまうってことでしょう。それに中には魔法を使って働いたり何かをしたりするのは、平民みたいで優雅じゃないなんてことを言う連中もいます。まぁどうせそういうやつに限ってたいした魔法が使えないんでしょうけど」
「魔法は女神様からの祝福なのに」
少なくとも私はそう教えられてきた。だから自分の魔法だって、たいした使い道はないが誇りに思っている。
でもハイデマリーの様子を見るに、魔法の話はあまり歓迎されるものではないらしい。
今後、気を付けよう。
「みんながみんな自分の魔法が好きなわけじゃないさ」
フェルはそう締めくくって、唐突に何かを思い出したように、あっと声を上げた。
「忘れてた。殿下から三時頃にリアを中庭に連れてこいって言われてたんだった」
「え、でも、もう」
時計に目をやると、三時まで三十分を切っている。
「なんで早く言わないの!しかも中庭ってことは、着替えさせなきゃいけないじゃない!」
「ごめんね。うっかり」
「可愛い子ぶっても私は騙されませんからね」
ハイデマリーはギリギリと歯を噛みしめながらしゃべるという無駄に凄い技術を披露して、フェルを部屋から追い出した。
また来るねーと呑気に手を振って去っていった彼は、本当に心臓に毛が生えているというか、穴の開いた革袋みたいな人だ。
「さぁリア!この三日間の成果を見せつけてやるのよ!」
「大丈夫でしょうか……」
「大丈夫。芋からキャベツくらいにはなってるわ。あなた飲み込みが早いもの」
根菜から葉野菜に昇格した。
全く意味がわからない例えだったが、ハイデマリーに力強く微笑みかけられると不思議と自信が湧いてくるのであった。
レッスン用のワンピースから、昼用のドレスに着替えた私を見て、ヴァルターは「お?」みたいな顔をした。
けれど私の容姿には特に何も言わず、よく眠れているかとだけ尋ねてきた。
私が頷くと、そうかと本当に興味があったのかどうかよくわからない素っ気ない返事が返ってくる。
こっそり見守っていたハイデマリーはおそらく静かに憤怒していたことだろう。
そろそろ姿を見せておかないと、変な噂が流れるから中庭に散歩しに行くぞと、彼は機嫌が悪そうな怖い顔で言い、私を伴って歩き出した。
「聖女様、体調はいかがですか?」
「ああ、聖女様もう出歩いて大丈夫なのですか?」
聖女様、聖女様、聖女様……。
パレード以来、体調を崩しているということにしていたからか、ちょっと歩くだけでたくさんの人に話しかけられる。
みんな本当に、聖女を心配してくれていたのだろう。
私がほほ笑んで、大丈夫です、ありがとうと言うと一様に嬉しそうな顔をした。
そのたびに私は私で自分が偽物だと気づかれなかったことに、喜びと達成感、そして罪悪感を覚える。
聖女として話しかけられる合間合間にヴァルターは、王宮の構造を教えてくれた。万が一、私が一人で出歩かなければならない時が来た時困らないようとのことだそうだ。一度聞いたくらいでは覚えられそうになくて、そんなことになると考えるだけで、なにやら変な汗が出てきそうになる。
今も緊張で汗はかいているのだが。
中庭は私が想像していたものの数十倍は広かった。
建物の中にあるから中庭なのだろうが、庭の向こうにあるはずの建物が見えないので、散歩用の小道を進めば森に出ると言われても信じてしまいそうだ。
散歩道はアイアンのアーチに蔦を絡ませてあって、ゆらゆらと揺れる木漏れ日の中、淡く輝いている。
息を吸い込むと、草と土の匂いが濃い暖まった空気が肺を満たした。
遠くの方で庭師が水の魔法を使って、雨のように水を降らして水やりをしている。陽光に水の粒がキラキラと瞬いた。
こんな誰もが心ほぐれそうな場所でも、ヴァルターは険しい顔で眉間には深いしわが刻まれていた。
ちょっと怖いので、私は黙って散歩中どうするのが正解なのかということについて考えることにした。
やっぱり花とかを愛でた方がいいだろうか?
それとも粛々とヴァルターについていくべき?
うーん、わからない。
「少し休むか」
唐突にそう言って、ヴァルターは東屋へと歩を進めた。
東屋へ別れる小道の左右にはバラが植えられているので、スカートを引っかけてしまわないように気を付けて続く。
石畳ではヒールを引っかけそうになるし、綺麗な庭には罠がいっぱいだ。
何も考えずにベンチに座ろうとしたら、ヴァルターがベンチの上をさっと手で払って、ハンカチを敷いてくれたので、丁寧な扱いにドキドキしてしまう。
そっか、こういう時はドレスが汚れないようにハンカチを敷かなきゃいけなのか。
気を付けないと。
ヴァルターは体を硬い木の背もたれに預けて、ふうと息を吐いた。そして目頭を指でグッグっとマッサージする。
「中庭は眩しくてかなわないな」
ずっと険しい顔をしているなと思っていたけど、まさか眩しかっただけなのかな。と思ったけれど、やっぱりヴァルターの顔は険しいままだったので、この人はこういう顔が標準なのかもしれない。
もっと柔和な顔をしていればいいのに。
にこにこと柔和な顔をするヴァルターを想像してみようとしたが、上手くいかず私はただぼんやりと虚空を見つめる羽目になった。
「頑張っているみたいだな」
「本当ですか?」
「嘘を言ってどうする」
「……ありがとうございます。私、今が人生で一番頑張っている気がします」
「そうか」
ヴァルターは少し申し訳なさそうに眉を下げる。
てっきり、もっと励めよ、みたいなことを言われると思っていたのでちょっとびっくりしてしまった。
なんだか変な感じになったので、私は揺れるトネコの葉の影を見つめながら彼に尋ねた。
「メリナは見つかりそうですか?」
「駆け落ちの相手が見つからないことには、闇雲に探し回るしかない状態だ。だが計画性と実行力から察するに、やはり相手は貴族だと考えるのが妥当だろう。そうなると、自分が持っているどこかの別荘にでも匿っておけばいい話だしな。パレードが中止にならずに、代役が立ったから様子見している可能性もある」
私はハイデマリーから教えられたメリナの交友関係を思い出そうと試みた。
メリナが仲良くしていたのは王家とそれに近しい人々、あとは神殿関係者だと彼女は言っていた。なかでも第二王子とは、いずれ家族になるのだからとよくお茶をしていたらしい。
その他となるとメリナは去年のシーズンで社交界デビューしたから、そこで出会っている可能性も無きにしも非ずなわけで。
社交界で出会った二人は密かに愛を育み、一緒になれない運命を嘆き、駆け落ちという手段に出た、とか?
「メリナは代わりにパレードに出たのが私だって、きっと気づいてますよね」
「そうかもしれないし、案外逃げるのに忙しくてまだ知らないかもしれないな。パレードくらいなら最悪髪の色さえ誤魔化せば、遠目だから似ていなくともバレなかったのだと思うのかもしれない。だからこそ今度の舞踏会が重要になってくる」
「舞踏会が?」
「メリナの駆け落ちに関わっている人間なら、舞踏会自体が開かれることを訝しく思うだろう。気になって、必ず来るはずだ。そしてその本人がいることに動揺する」
私を指差して、ヴァルターはにやりと笑った。
「せっかくだから俺とメリナの話をするか」
座ったまま手を伸ばして、ヴァルターは左手で木の葉をむしった。
彼の白い手袋に包まれた指で、葉っぱは茎を軸にクルクルと回転させられている。
「とはいっても、顔を突き合わせたのは数回くらいなんだ。ちょうど外遊の時期と被って忙しかったし、あちらが俺を苦手としていることもわかっていたから」
「そんな……」
厳しくて冷たい方。
そんなメリナの言葉を聞いてしまっているだけに、強く否定できない。
「まぁ仕方ない。俺も自分のことに手いっぱいで、むこうの苦手意識は結婚してから解いていけばいいと思って放置していた。……このことはハイデマリーには言うなよ。髪の毛を逆立てて、烈火のごとく怒るからな」
すでに私たちが散歩に出る前に、ヴァルターはハイデマリーを怒らせているので、いまさらな気もした。
「だからちょっとは反省しているんだ。ただの自業自得とも言うが」
厳しくて冷たい方。
そう言ったメリナの顔が再び蘇る。
彼女はきっとこんなふうに子供みたいに手遊びをして、気まずそうに後悔するヴァルターのことを知らないのだろう。
もちろんヴァルターだって悪い。
そのせいでメリナは凄く不安で寂しい思いをしたに違いないのだから。
でも決めつけて、逃げることもよくない。
そしてそれは、私もなのだ。
「私も……メリナのこと、全然知らないんです。双子なのに、変ですよね」
光沢のあるスカートの生地を握りしめそうになって、ゆっくりと手を開く。
本来は私が到底身に着けられないような高級な服に、しわでも付けたら大変だ。
「手紙でやり取りはずっとしていて、時々面会にいっていました。公爵様のお屋敷は凄く立派で、メリナはいつも綺麗で、やっぱりメリナは聖女様に選ばれるような子だから特別で、きっと幸せなんだって。そう勝手に思い込んで、私は何も考えなかったんです。何も知ろうとしなかった。双子なのに、遠い存在なんだって放棄していた」
「リア、そう自分をいじめるな」
「でも……」
「所詮自分以外の人間が何を考えているかなんて、分かるわけがない。本人も心配をかけたくないから、お前や親に悟らせないようにしていたかもしれないじゃないか」
そうだろうか。
もしそうだったのだとしたら、なおのこと申し訳なくて悲しい気持ちになる。
じんわりと目頭が熱くなって、喉の奥がつーんと痛くなる。
あ、どうしよう、泣きそう。
私は瞬きを繰り返して、一生懸命涙を引っ込めようと努力した。
奥歯を噛みしめて泣かないように努力していると、ちょいちょいと目の前でヴァルターが葉っぱを揺らす。
「おい、リア。あそこを見てみろ」
「え?」
彼が指さしたのは、小道からそれた背の高い木のある一角だった。
「あそこに赤い実がなった木があるだろう。俺には三つ違いの弟がいるんだが、子供の頃、弟にいいところを見せたくて木に登ったんだ。見事に落ちて骨折した上に、意地でもいだ実は渋くて食べれたもんじゃなかった。今思うと馬鹿の極みだよな」
幼い自分を懐かしんでいるのか、眉間のしわがほんのりと薄れる。
彼は角度によっては青みがかって見える不思議な緑の瞳で、驚くほど優しく私を見つめた。
「つまりだ。下の兄弟には誰だっていい格好をしたがるものだ」
慰めてくれているのだろうか。
「ありがとうございます」
いつの間にか涙は引っ込んでいた。
私が感謝の意を込めて微笑むと、彼はにっと口の端を釣り上げる。
見た目の怖さとは裏腹に、笑うとどことなく少年のようだった。
「メリナ?」
誰かが驚いたようにメリナの名前を呼ぶのが聞こえて、私はさっと青くなった。
完全に気を抜いてしまっていた。
慌てて居住まいを正して振り向くと、ヴァルターとよく似た服を着た背の高い男の人が立っている。
彼は大きな瞳で私を見つめて、それから隣にいるヴァルターを見てさらに驚いたようだった。
「ルディか」
ヴァルターが舌打ちでもしそうな声音で、そう呟くのが聞こえた。
ルディ。
ハイデマリーの授業で習った気が。
バクバクいう自分の心臓の音を聞きながら、必死に記憶の糸を辿る。
たぶん、愛称だ。
ルから始まる名前で、ヴァルターが愛称で呼ぶような人物……。
「あ」
目の前にいる人物が、メリナが最も仲良くしていたと思われる人物、第二王子ルーデルハイトだと気が付き、私は素っ頓狂な声を上げてしまう。
どうしてすぐに気が付かなかったんだろう。ああ、これだから私は……。
ルーデルハイトからは見えない角度で、ヴァルターに小突かれ、はっと我に返った私は精一杯ごきげんようと微笑んだ。
努力虚しく、声は少しひっくり返っていた。