に
少し風が強いが、その代わり雲の少ない気持ちのいい朝だった。
たまに風に乗って、トネコの木の爽やかな香りがするので、私は自室の窓を開けて大きく息を吸い込む。
自分とメリナの人生は、もともとは二人で一つだったのに、普通の町娘と聖女に分かれて、そして今日からは町娘と王族に分かれる。
どちらが幸せなのかはわからないけれど、それでも私はメリナが聖女としての使命を果たして、王子と幸せになってくれることを祈るばかりだ。
昨夜のことを思い出すと、少し不安ではあるけれども。
メリナはもう起きて、連れてきたお供の人たちに化粧やらドレスやらの支度をしてもらっているらしい。
私もこの日のために仕立ててもらった上等なワンピースを着て待っていると、王宮から来た綺麗なメイドさんに呼ばれた。
昨日の夜、寝る前に頼んでおいたので、最後の仕上げに私が彼女の頭に真珠のピンをさすことになっているのだ。
ピンの入った箱が見つからないとかで、かなり待たされたが無事見つかり、両手で大事に箱を抱えた私は部屋の前に立つ。
「メリナ、入ってもいい?」
着飾ったメリナは凄く綺麗なんだろうなと思いはせながら、じっと返答を待った。
けれどいくら待っても、うんともすんともない。
もしかして寝てるのだろうか?
強めにノックして声をかけるが、やはり返事はなかった。
これはちょっと変だぞと思って、私は入るよぉと弱々しく言いながら扉を開く。
扉を開けた瞬間、思いもよらぬ風が私の前髪をめくった。
反射的に目をつむって体を竦ませた私が怪訝に思いながら瞼を開けると、部屋には誰もいなかった。
開いた窓から強い風が吹き込んで、カーテンがはたはたと揺れているばかりである。
もしかしてピンの箱を待っている間に入れ違いになってしまったのだろうか。
そう思いながら部屋の中に入ると、書き物机の上に花瓶を文鎮がわりにした手紙のようなものが見えた。
見てもいい物なのかはわからなかったがとりあえず近寄る。
流れるような美しい字で、メリナのサインがされていた。
入れ違いになってしまったから手紙を残してくれたのだろうか。
えっと、なになに?
「私はもう聖女ではいられません。ごめんなさい。どうか本当に好きな人と一緒になるわがままをゆるしてください。探さないで」
意味がわからず私はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
もう一度最初から読み直してみるが、ありえないような読み間違えをしたわけでもないので、さっきと同じ文章がそこにある。
……つまり、どういうこと?
聖女ではいられないって、そんなこと言ってもはい、やめますでやめられるものでもないし、というか、好きな人と暮らす?探さないで?
これじゃあまるで……。
「駆け落ち?」
正解だとでもいうように、再び風が吹いてカーテンがぶわっと広がった。
え、待って、これって駆け落ちしたってこと!?
メリナが!?だ、誰と!?
「あ、駆け落ちだから、好きな人か」
そうだった、そうだった。そりゃ駆け落ちだから、相手は恋人に決まってる。
いやそんな駆け落ちの定義を再確認してどうする!
「ど、どうしよう?どうしたらいい!?」
自分自身に大声で問いかけながら、ぐるぐると犬みたいに部屋の中を歩き回って、私はとりあえず窓に飛びついた。
メリナが逃げ出したのだとしたら、私が箱を待っていた間しかない。
もしかしたらまだ近くにいるかもしれないと思ったのだ。
けれど私の目に飛び込んできたのは、我が家の玄関に横付けされる王家の紋章が入った馬車だった。
「王子―!」
なぜ叫んだかは自分でもよくわからない。
ただ、うん、王子だなと冷静な自分が頷くだけだ。
ひぃひぃと瀕死の人みたいな呼吸を繰り返しながら、私はメリナの手紙を握りしめ途方に暮れた。
ひとまず両親にメリナがいないことを伝えて、お供の人たちと一緒に探しに行く?
でももしメリナを見つけたとして、無理やり引き戻すことが本当に正しいことなのだろうか。きっとメリナだってたくさん悩んで、こういう行動にでたわけだし。
昨晩メリナが見せた思いつめたような薄茶色の瞳が蘇る。
あの時私は深く考えずに応援するなんて言ってしまったけれど……。
頭を抱えて唸り声をあげると、コンコンと扉がノックされた。
ひょわっとよくわからない悲鳴を上げて、私は飛び上がり、なんならその勢いで脛を強かに机に打ち付け痛みにうずくまる。
我ながら何をやっているのだろうとは思う。
ノックの主は私が立てた物音を聞き取ったのか、心配そうな声で言った。
「大丈夫かい、メリナ?」
聞いたことのない男の声だった。
「大丈夫です!」
とっさに返事をしてしまってから、慌てて口を押える。そんなことをしたからといって、一度発した言葉はもちろん戻らない。
けれど幸いなことに私とメリナは双子だから、声もよく似ている。
実際扉の向こうにいる相手も、私の声をメリナのものと間違えたらしかった。
「メリナ、いつまでも降りてこないからみんな心配している。具合が悪いのか?」
「え、あー、そういうわけでは」
と言いかけて、とりあえず具合が悪いことにして、両親を呼んでもらうのがいいのではと思いつく。
「というわけでもなくて、やっぱりちょっと悪いかもしれないです!」
「どっちなんだ」
「悪いです!」
「……どう悪いんだ?」
「ん!?えっと、お、お腹が?」
痛くもないのに自分のお腹を両手で抱えて、わざと苦しそうな声を出してみた。
よし、この調子で両親を呼んでもらおう。
「医者に診てもらうか?」
「いえ、その必要はありません!もう少し休んだら、たぶん大丈夫ですから!その、よければ父さ……じゃなくて、お父様を呼んでくださると……」
危なかった。父さんとか町娘丸出しな呼び方をするところだった。
こちらの焦りを感じ取ったのか、相手の声に不審そうな響きが混じる。
「本当にどうしたんだ、メリナ?……すまないが、入るぞ」
「え」
ガチャリとノブが回る。
扉が開いて、隙間から白い礼服のようなものが見え、
「わぁああああ!?」
私はとっさに扉に体当たりした。
なんとしても中にいれるわけにはいかない。
しかし何かが挟まっているのか、なぜか閉まらない。
なんで閉まらないんだとイライラしながら視線を下すと、なんと向こう側から侵入してきた足が挟まっていた。
頑丈そうな男物の靴を履いた大きな足で、これでは私がいくら体当たりしたって意味がない。
こいつ、なかなかやりおる!
「おい、なぜ閉める」
さっきまでの優しい声とは別人としか思えないような、地の底から響くような声だった。純粋にただただ怖くて、ひぃと小さく悲鳴が漏れてしまう。
「ごめんなさい、まだ寝間着で……」
「毎朝五時には起きると聞いていたが、そこまで具合が悪いのか」
五時!?
聖女ってそんなに早起きなのか。
「……ええ、まぁ」
あいまいに頷き、早く帰ってくれと願う。
というかなぜ私はメリナの振りをしているのだ。そもそもそこからして間違っていたのではないか。
様々な思いが駆け抜けていくが、ふと向こう側から開けようとする力が弱まる。
納得してくれたのだろうか。
「貴族の娘がそんな早起きなわけないだろ。お前、メリナじゃないな」
「嵌めたんですか!?ひ、卑怯ですよ!」
「卑怯で結構!」
「ぎゃー!?」
いきなりドンと強い力でこじ開けられて、吹き飛ばされた私は床に尻もちをついた。
そこにいたのは、白と赤を基調にした礼服を身にまとった長身の男だった。私が小柄な部類なので、かなり見上げなければならない。手には真っ白な手袋をしていた。
年は二十三、四くらいだろうか。黒い髪をオールバックにしていて、あらわになっている眉間には深いしわが刻まれている。
深い緑の眼光は鋭く、全体的に整った綺麗な顔立ちなのに、厳しい目つきのせいで人相が悪く見えてしまっている。
彼はじろりと私を見下ろし、部屋の中に他の人間がいないことをすばやく確認した。
「メリナはどうした?」
「これは、あの……」
何か上手な言い訳はないものかと考えを巡らしてみるが、悲しいことにとっさに誤魔化せるほど私の頭はよくなかったらしい。
鋭い緑の眼光にとうとう観念するしかなくなり、私はおずおずとメリナの置手紙を差し出した。
怪訝そうな顔で受け取った彼の人相が、手紙を読むうちにますます凶悪になっていく。
もはや魔物もかくやと化すのも時間の問題に思われる。
なんとか魔物になる寸前で人間に戻ってきた彼は、どすのきいた声で私に問いかけた。
「お前、メリナの双子の妹だな」
「騙してすみません……!」
「このことはまだ誰にも言っていないんだな?」
コクコクと私が頷くと、彼は親指で下唇を数回なぞった。
「メリナがいなくなったのはいつだ」
「たぶん三十分前か、それくらいです」
廊下に誰もいないことを確認して、彼はそっと扉を閉める。
そして情けなく座り込んだままの私の前にしゃがみ込むと、ぐわしと手袋をした手で顎を掴んで上を向かせた。
彼は検分するように私の顔を右に向け、左に向け、また右に向けた。
文句を言いたかったが口が潰れて上手く話せない。
「立てるか」
「え、あ、はい」
手を貸してもらって立ち上がる。
彼は自分と私の身長差を確認し、次に一歩離れてじろじろと上から下までまたもや検分するように見てくる。
「あの、一体なにを」
「名は?」
人の話を聞かない人だなぁと思いつつも、たぶん服装からして偉い人っぽいので素直にリアですと答えた。
「悪いが今日のパレードを中止するわけにはいかない」
「でも、メリナは」
「メリナは俺の私設隊に探させる」
それでも見つからなかったらどうするのか。
そんな疑問を口にしようとしたのだけれど、それは彼によって遮られた。
唐突に彼が私の前に跪いたからだ。
「え!」
彼はいかにも苦渋の決断をした人らしい苦々しい顔で、私の手を取った。白い手袋に包まれた手は大きく、凶悪な人相からは想像がつかないけれど温かい。
「私、ハインリヒ・ヴァルター・イェーリスから貴女に謹んでお願いしたい。どうか、パレードの間だけでもいいから、メリナの振りをしてくれないだろうか」
ハインリヒ・ヴァルター・イェーリスってそれ、第一王子の名前じゃないか!
ということはこの人がメリナと婚約するはずだった王子様というわけで。
……私、王子様の足を扉でめちゃくちゃ挟んじゃったよ。どうしよう。後で怒られないかな。
「おい、早く返事を」
「え?はい!」
聞いてるのかと言われているのだと思って、とっさに返事をした私に、王子は初めて明るい顔をした。
彼が喜ぶ顔は案外子供っぽくて、私は一瞬あっけにとられてしまう。
「そうか、引き受けてくれるか!」
さっさと立ち上がった王子はここにいろよと再び凶悪な人相に戻って私に命令し、つかつかと部屋を出て行った。
ぽつねんと残された私は、さっきまで彼に握られていた手をぼんやりと見つめる。
「……ん?」
もしかして、私、とんでもないことに巻き込まれてしまったのではないだろうか。
ようやく自分がとんだ迂闊な返事をしてしまったことに気が付いた私は、ただただ静かに冷や汗があふれ出す感覚を味わいながら、生まれたての小鹿のように震えるしかなかったのであった。