2話 校外へ
チャイムが鳴ると同時に早川は立ち上がり、教室前方の扉に向かって駆け出す。帰宅を開始する瞬間の静から動への切り替えの練習は、高校生になってから、みっちりと練習しなおしていた。この動きは他のスポーツにおける素振りに当たるものであり、このフォームがなっていない者は、初動が遅れ、先生の追撃を振り切れない。
「まだホームルームをしていないぞ!」
先生が怒鳴り声をあげて動き出すが、すでに早川は扉に手をかけていた。
「いい感じだ」
幸先の良いスタートを切ることができ、手ごたえを感じた早川が扉を開けて廊下に出ようとする直前、背後から机やいすがぶつかる音が聞こえた。
何事かと振り返る早川が目にしたのは、眼前の椅子や机、人が自らの体にぶつかっても、ものともせずに後方の扉に向けて一直線に突き進む宮田の姿だった。
「俺の進む道にあるものは、すべて蹴散らす!止められるものなら止めてみろ!」
この教室に宮田を止めることができる者がいるはずもない。
「なんつー力業の帰宅だよ」
宮田の実力に一瞬目を奪われていた早川だったが、すぐに我に返り、廊下に出る。
「多いな……」
階段にはたくさんの選手たちが我先にと殺到していた。
普通の大会の規模ならばこれ程階段が混みあうことはないが、全国規模の大会はやはり一筋縄ではいかないと、早川は改めて感じた。しかし、早川にはこの状況で道を作る考えがあった。単純なものである。宮田を使うのだ。
「どけどけ、軟弱者ども。けがをしたくなければ道を開けろ」
後ろから宮田が声を張り上げながら走ってくる。あんな巨体に勢いをつけて体当たりをされればたまったものではないと、階段にすし詰め状態の選手たちはさらに体を押しあって、階段に道を作る。
宮田は人の波の真ん中にできた道を駆け降りる。早川もすかさずその背後に続いて、階段を下りていく。
「俺を人除けに使うとはいい度胸だな、早川」
宮田が体を斜めに反らせて、後ろにいる早川を視界に入れながら、話しかける。
「いやならここで、立ち止まっていればいいんじゃないか?その間に優勝はもらうけどな」
「はっはっは、俺にケンカを売るとは、胆力を身に付けたらしいな」
二階と一階の間の踊り場に差し掛かったところで、二人は、階段を降りた先で何人もの選手達が廊下の先を見つめて、立ち止まっているのに気づいた。
何かが空を切る音、そして何人もの人間の叫び声も聞こえる。
「一体何なにが起きてるんだ」
早川は階段を降りてすぐに、廊下の先に体を向ける。
そこには、防具を身に付け、竹刀を持った剣道部が、廊下の手前から奥まで、両端に隙間なくびっしりと並んでいた。剣道部たちは黙々と素振りを続けている。
「ひぃっ」
「やめてくれ」
「なんでこんなとこで素振りしてんだよ」
剣道部たちの素振りの道に突っ込んでいった選手たちの何人かは道の途中で突破することをあきらめて、身を縮こまらせている。
「どう突破すれば……」
早川は足を止めたが、宮田はお構いなしに突き進む。
剣道部の素振りが宮田を襲う。
――バキッ
振り下ろされた竹刀は宮田の体に当たると、いともたやすくへし折れた。
「この程度、造作もない」
無数の竹刀をその身に受け、それらすべてを折りながら、宮田は突き進んでいった。
早川はその姿を呆然と見ていた。
「これを使え」
気づくと早川の横にはスクールバッグを差し出す遠野の姿があった。差し出された手と逆側の手にももう一つスクールバッグを持っている。
「こんなもの一体どこに?」
「二階と三階の教室の机にかけてあった。この道を突破するためのお助けアイテムってところだろうな。」
「助かった」
二人はスクールバッグを頭に掲げ、素振りの嵐を駆け抜ける。竹刀が振り下ろされるたびにしっかりとスクールバッグで防ぎ、長い廊下を抜けて、なんとか正面玄関にたどり着いた。
「急いで靴を履きかえるぞ。スクールバッグは置いていこう。これをもって長い距離を走るのは非効率的だ」
遠野の言葉に、早川は無言でうなずく。
早川が自分の靴箱を開けると、中に一通の手紙が入っていた。ハートの形をしたシールで封がされている。
「悪趣味な罠だな」
早川は手紙には手を出さずに靴を履き替え、玄関を出る。しかし、待てども遠野は出てこず、代わりに別の選手たちが出てくる。その中には、百瀬も混じっていた。
「こんなとこで立ち止まってるなんて馬鹿じゃないの?」
百瀬は早川に向けてそう言うと、早川の隣を通り過ぎていった。早川は今すぐにでも百瀬を追いかけたいと思ったが、今は遠野を待たなければならないので、その気持ちをこらえた。
「それにしても遅いな……」
早川は嫌な予感がした。
まさかそんなはずはないと自分に言い聞かせながらも玄関に戻った早川は、何人もの選手たちがニヤニヤしながら手紙を読んでいる中に遠野の姿を見つけた。早川の予感は的中した。
「何してるんだ遠野!早くいくぞ」
「え~?でも、屋上で待ってる子がいるんだけどな~」
開いた手紙をひらひら左右に揺らしながら早川を見る遠野の顔は、表情筋を失ったかのようにふにゃふにゃになっている。幸せの絶頂にいるようだ。
遠野はこの手紙が罠であるという現実を直視できていなかった。
「しっかりしろ!これは罠だぞ!」
必死に声をかける早川の言葉を、遠野の耳は拒絶する。
「よく気付いたなぁ」
突然、靴箱の物陰から二人組が姿を現した。早川はこの二人組を知っていた。
「新潟代表の双子の兄妹、丸川空と丸川奏! この罠はお前たちが仕掛けたのか」
「そのとおり、この手紙は俺たちが選手たちの靴箱に仕込んだものさぁ」
双子の兄の空が答える。その髪には緩くウェーブがかかっており、目じりが少し垂れ下がっている。
「こんなすごいこと思いつくなんて、お兄ちゃんはやっぱり最高にかっこいいわね!」
双子の妹で、兄とは対照的に、髪は腰ほどまで垂れたストレートで、目じりが少し吊り上がっている奏が兄に尊敬のまなざしを向けている。
「俺たちは、同じ釜の新潟産コシヒカリを食べて育ってきた。そんな俺たち兄弟の絆にお前らみたいなやつらが敵うかなぁ?敵うわけねぇよなぁ」
「この手紙は偽物だったのか」
さっきまであれほどふにゃふにゃと崩れていた遠野の顔は、早川が今まで見たことがないくらいに凛々しく、引き締まった顔つきに変わっており、その声には、幸せの絶頂から突き落とされたことに対する怒りや憎しみ、悲しみ入り混じっていた。
「眠れる獅子を起こしちまったようだなぁ」
そう言い捨てると、空は奏の腕を引っ張り、走り去った。
「大丈夫か?」
「ああ、問題ない。」
「君たち、優雅さが足りてないね」
声の主は出野であった。出野は二人と丸川兄妹の会話を聞いていたようでだった。
「あんな見え透いた罠に引っかかるだなんて心の余裕がないんじゃないのかい?」
「お前こそ、百瀬と合流していないみたいだな」
「彼女は僕の優雅さを理解できないらしい」
百瀬と出野は同じ北海道代表ではあるものの、協力関係はないのだと、早川は悟った。
「さっき百瀬を見たぞ、おいて行かれたのか?」
「まぁ、そうなるね。彼女にも、僕の考えを理解してほしかったんだけどな」
出野は少し悲しそうな顔をして答えた。
「早川、先を急ごう」
遠野はそう言うと走り出した。早川もそれに続く。
「……なんでお前が俺たちに並んで走ってるんだ?」
並んで走る早川と遠野の横に、当たり前のような顔をして、出野が走っている。
出野は遠野の疑問に対して、やれやれという風に、ゆっくりと顔を左右に振った。
「そんなの決まってるじゃないか。君たちに僕の優雅な技を見せるためだよ」
「そんなものに、興味なんてない」
「遠慮しなくていいんだよ」
早川が淡々と返した言葉を、出野は全く気にしていない。
やがて三人は巨大なドームの入り口に辿りついた。