7.アレクシス・エイグス
アレクシスの下へ帰って来たのは、唯一ギルバートのみであった。
傷を負い、血を流している彼の姿は、兵士達に大きな衝撃を与えた。だが、それ以上に驚きの報告がアレクシスを襲った。
「全滅だと? こちら側では無く、敵が!?」
「然様にございます。クルスどのの攻撃により多数の損害を受けた敵は撤退し、もはやここまで侵攻してくることもないでしょう」
ギルバートが断言すると、アレクシスは息を飲んだ。
そこまでハッキリ「侵攻はあり得ない」といえるほどに、敵は大きな被害を受けたのだ。それも、口ぶりから察するに来須一人の力によって。
荒い息を吐いてから、どうにか兵たちの一部を現場へと確認に向かわせる。命令を出した。包囲の為に伏せておいた兵たちは、一度陣へと戻す。
「それで、姉上とクルスさんは……死んだ、のか?」
戻って来ていないということが何を意味するのかわからないアレクシスでは無い。だが、はっきりとギルバートの口から確認しておきたかった。
死体が回収できるなら、せめて盛大に送り出してやりたい。
「……若様。少々お耳を拝借したい」
「なに?」
天幕の中、誰かに聞かれる心配も無いだろうにと思ったアレクシスだが、ギルバートの真剣な目を見て何かあると感じ、すぐに腰を屈め、簡素な治療を受けて座っている相手に顔を近づけた。
「ヒヴァリー様もクルスどのもご存命です」
目を見開いたが、アレクシスはギルバートから声を抑える様に言われ、喉まで出かかった言葉を押しとどめる。
「刺されはしておりましたが、クルスどのは健在。今はヒヴァリー様とお二人で山中を進み、私が教えた村を目指しておられることでしょう」
「どうして、そうなる?」
生きているのならば戻ってくれば良いでは無いか、と自分の姉ながら奇妙な行動をとるものだと拗ねてしまった。
しかしギルバートの言葉は続く。
「……全ては、若様のお父上……当主様のご命令による“ヒヴァリー様暗殺”が発端でございます」
自分でも俄かには信じがたいことだと前置きし、ギルバートは来須が語った兵士達の会話を包み隠さず伝えた。
「……父上は、そこまで姉上を疎ましく思っておられたか」
「エイグス家を永続させるため、と考えれば理解できなくはありませんが……」
ギルバートの呟きを受けて、アレクシスが見せたのは憎悪の視線だった。腹心として信頼して来た男が言うことではないと思ったからだ。
だが、続く言葉で緊張は解かれる。
「ですが、我が子を手に掛けるような真似を正当化する家に仕えるつもりはございませぬ。一度ここに戻りましたのも、一つは来須どのからの伝言をお伝えするため。もう一つは、このままエイグス家にお仕えするか否かを見極めるためにございます」
見上げるギルバートの目。そこには覚悟がある。
彼は自分の信義に基づいてここにいる。生まれや育ちなどではなく、エイグス家こそが覇権を握るべき豪族であると信じていたから。
その信義が揺らいでいる今、彼はアレクシスに問いたいのだ。「目の前に居る若い後継者は、このギルバート・ギネスが命をかけて仕えるに値する家であるか」と。
「……誰か! 先ほどクルスさんの件で報告に戻った二人を呼べ!」
「若様……」
「僕はね、ギルバート。何度も言っていたけれど、弟たちが家を継ぐのに適格ならそれでもいいと思っていたんだ」
だが、とアレクシスは脇に置いていた両刃の片手剣を掴み、その刀身に刃こぼれが無いかを確認するため、鈨元から切っ先に掛けてゆっくりと視線を沿わせていく。
「でも、それじゃ駄目なんだと今更気付いたよ。僕がしっかりして、姉上もクルスさんも守らなくちゃいけなかった。これは僕の失策であり、僕の油断だった。成すべきを成す気持ちも持たない奴だから、こんな馬鹿な結果になる」
「若様……」
ギルバートは自分が斬られる可能性も考えていたが、アレクシスの言葉は悔恨であり、怒りがあるとすれば自分に向けたものだ。
「失礼します!」
「来たね。入りなさい」
恐る恐るといった様子で入って来たのは、来須を刺した二人の兵士だった。
「お呼びとのことですが……」
どうやら二人はまだ、来須が生きていたことを知らないらしい。ただ、傷ついたギルバートが天幕内にいたことで、緊張感を増しているようだ。
「正直に話して貰いたい。クルスさんを刺したと聞いたが、事実か?」
「畏れながら、全く以て身に覚えのないことで……」
ギルバートのことを気にしながらも、二人は否定する。証拠など何もない、と高を括っているいるのだろう。
だが、アレクシスの目は厳しい視線を送り続けていた
「では、家に戻ったら父上に聞いてみるとしよう。『この二人に姉上を殺す命令を下しましたか?』と。本当であれば、父上は認めるだろうな。僕に嘘をついてまで誤魔化す理由は無い」
首尾よくことが運んだとなれば、邪魔もできないと考え、如何にヒヴァリーの存在が邪魔で、必要な処置であったかを説明するだろう。
当主はアレクシスを“育てたい”のだから。
「えっ、そ、それは……」
「腰のナイフを見せてみろ」
狼狽える二人に、アレクシスは剣を握っていない左手を差し出した。
突き出された手を前にしてまごまごとして応じない二人の後ろに、ギルバートが立ち、有無を言わさず鞘ごとナイフを奪い取る。
そして、乱暴に二本まとめて引き抜かれた刃には、わずかな刃こぼれと拭いきれていない血の曇りがあった。
「と、当主様のご命令によるものです!」
「我々はエイグス家の忠臣として……」
言葉を最後まで聞かず、アレクシスの剣が一人の喉を引き裂いた。
「う、うわ……、畜生!」
「むっ!? いかん!」
とにかくこの場を逃れよう考えたのだろう。仲間の血しぶきをかいくぐる様にして、もう一人がギルバートの手からナイフを奪い取り、アレクシスへと迫る。
怪我を負ったギルバートが手を伸ばしたが、制止には間に合わなかった。
「若様!」
「心配いらないよ、ギルバート」
右へと剣を振り抜いた格好のアレクシス。迫りくる相手との距離が近すぎて不利になると瞬時に判断した彼は、あっさりと剣を手放した。
ナイフを突き出す相手の手首に、アレクシスの左手が拳を作って叩きつけられた。
「ギルバート。僕は一つ決めたことがあるよ」
叩き落とされたナイフを蹴り飛ばし、そのまま相手の首を右腕ごと抱え込む。
「……っあ!」
がっちりと極められた兵士は、信じられないという顔をして抵抗する。
「お見事でございます。若様」
「ありがとう。そのナイフを貸してくれないか」
「どうぞ」
ギルバートの手に残ったもう一本のナイフを受け取り、アレクシスは躊躇いなく目の前にある無防備な兵士の背中に突き立てた。
肋骨を避けるように寝かせた刃が、過たず心臓を突き通す。
一度だけ動きを見せたように見えた兵士だったが、それは死の痙攣であったらしい。アレクシスが手を放すと、そのまま床へと倒れ伏した。
「父上に話をする。その心を聞いてからだけれど……代替わりをしてもらうよ」
「御意」
傷の痛みを忘れ鷹の如く、機敏な動きで跪いたギルバート。彼の主は、この時点でエイグス家当主からアレクシスへと変わった。
アレクシス・エイグス。強大な豪族エイグス家の長子であり、あまり表舞台で目立つことが無かった人物。
その実、愚直なまでに繰り返された鍛錬で作られた身体は、見た目の細さ以上に筋力を持ち、ギルバートとの絶え間ない試行錯誤で作り上げられた組内術は、時に師であるギルバートですら舌を巻くものだった。
「戦いは終わったから、帰ろう、ギルバート。そして、道中でクルスさんからの言伝や、姉上の様子がどうだったか教えてくれないか」
「もちろんですとも」
聞かずともアレクシスにはすでに確信していたことがある。
自分の姉が、これまで見せたことが無いような笑顔で恋人と旅だったことを。