旧図書館の門を抜けて
白い丸テーブルを挟み、同じく白い椅子に腰掛けて、やや斜めに向かい合う、二人の男。
周りを数台のカメラが半円状に囲んでいる。
テーブルには、中央に花瓶が置かれ、その隣に“水無瀬万見聞”と銀糸で縫い付けられた、エンジ色の布装丁の分厚い書物が、斜めに傾いたブックスタンドに立てかけられていた。
二人のすぐ前には、やはり白いティーカップとソーサー、30cm程のスタンドマイクが、それぞれに置かれ、何事かを語り合っているようだ。
「私は思うんです――」
二人の内一人、茶色がかった、やや長めの髪を後ろに流し、無精ひげを生やした男が、照れくさそうに笑う。
「――物事を理論的、理性的に分析をしてみせることで生計をたてている“学者”の端くれとして、こんなことを言うと笑われるのでは、とは思うのですけれどね・・・・・・」
年の頃は30の半ばあたりだろう。細められた目の中にも覗く、意志の強そうな瞳。濃い眉。筋の通った高い鼻。しっかりとした顎の輪郭。男の外見は、自身が称した学者というイメージからは、およそかけ離れたものだった。仕立ての良いこげ茶色のスーツの上からでも分かる、均整のとれた肉付きの、敏捷そうな体から発散される雰囲気は、学者というよりはアスリートのそれに近い。
「・・・・・・例を挙げれば、『人と人の出会い』の中に“それ”を見出す人も多いように、やはり『人と本との出合い』にも“それ”があるのではないか? と」
「先生のおっしゃる“それ”とはなんでしょうか?」
言葉を受けて、もう一人の男が問いかける。滑舌の良い張りのある声と、濃紺のスーツ姿は、いかにも局付きのアナウンサーといった感じだ。
「“運命”ですよ」
“学者”は淀みなく答えた。
「運命、ですか? なるほど、そういったロマンテックな感性も、先生に女性のファンが多い一つの要因なのでしょうね」
「はは・・・・・・ファンだなんて言いすぎですよ。私はタレントでもなんでもなく、先程も言ったとおり、古臭い物事をああでもないこうでもないといじくってみせることで生きている、只の学者です。ああ・・・・・・なるほど。その点ではある意味、芸人とも言えるのかもしれませんね」
学者の軽口に、二人は小さく笑いあった。
「話を戻しましょう。本に限らず『人と“何か”の出会いは、全てが運命的である』ということも言えるかも知れません。が、本との出合いには人との出会いに酷似した、ある一つの特徴が見られると思うのです」
「お聞かせ下さい」
「それは『言語による教導』です。これは私的な経験ですが、私がとある悩みを抱えている時に出会った一冊の本は、まるでその時の自分の状況を知っているのではないか? と思われる程に、その解決方法を文章の中に暗示してきました。同じようなものとして“TV”や“映画”といったメディアがあるのですが、一対一のやり取りとして“本”の方がよりパーソナルな感触を受けます。その辺りは、個人の感じ方の違いもあるでしょうが」
「なるほど、優れた“本”の中に記された文章には、時としてその読者に天恵のような導きを与えることがある。ということですね」
「そうです。明示的、暗示的にかかわらず、ね。そしてそれは、“本”のほうが、別のメディアと比べて、より積極的に行われ得る、と自分は夢想しています。ああ、これは夢想ではなく“妄想”ですね、言葉を間違えました。視聴者の皆さんは、気をつけてください。本ばかり読んでいると、こんな人間になってしまいます」
学者は、カメラに向かって冗談めかして言った。
「でも、妄想ついでに一つ言っておきます。今度図書館にでもいったら、真っ先に目当ての書架に向かわずに、ぶらぶらと一度、館内を散歩することをおすすめします。そして、あまり自分が普段読まないようなジャンルのものが並んだ棚の前も、とりあえず歩いて見て欲しいと思うのです。その時同時に、ぼんやりで構いません、棚に並んだ本たちを眺めてやるようにしてみてください。
そこに見えませんか? 一冊だけ微妙に表紙の飛び出している本が。背丈の並んだ列の中に、一つだけ小さな本が。明らかに場違いな装丁の本が。あるいはどこが他のものと違うとも明言できないのに、妙に『ひっかかる』本が。
それは――『呼び声』です。本の発する声なき声なのです。その声を聞いたなら、迷わずその本を手にとってみてください。そしてページをめくってみてください。そうしたなら、きっとその本は、あなたに何かを示してくれるはずです」
「・・・・・・そうしてそれが、先生の本であったなら、素敵なことですね」
「そうだった、今は私の本のPR中でしたね。関根さんはお上手です。司会者というのは、こうも見事に支離滅裂な話をまとめてみせるものですか。感心します。・・・・・・そうだ、良い事を思いつきました。私、この後ちょっと図書館に寄って、自分の本をでっぱらせてこようと思います」
再び笑いあう二人。
「ああ、そうそういい忘れてました、最後に一つご注意を。本との出会いはあなたに何かを『与える』だけ、とは限りません。もしかしたら時には、あなたから何かを『奪う』可能性があることも、言い添えておきましょう」
変わり者の学者は、仕事に忠実な司会の気遣いを台無しにした。
―地方局“水無瀬放送”での、“深青学園大学考古学教授”逢沢裕輔氏の“水無瀬万見聞”発刊に際してのPRVTRより―
1
山中を、賑やかに過ぎる蝉の声に追い立てられるように上る。
うだるような山道。視界を彩るのは、躍動感に満ちた緑。
上がり始めた呼吸を整えるために、すう、と、大きく息を吸い込む。香るのは、むせ返るような命の匂い。
汗の伝う頬を、時折吹き抜ける風が撫でるのが心地よかった。
しばし立ち止まり、5m程の幅でだらだらと続く、土が剥き出したままの山道の先を、ぼんやりと眺める。
目当ての建物は、未だ見えてこない。
なぜ? と僕、“加納知己”は思った。
当然の疑問だと思う。
なぜ図書館などという建物が、こんな山の中にあるのか? と。
なんでも明治時代に建てられたという古い建物らしいが、その頃から数えても、決して利用者の数は多くはないはずだ。
こんなにも不便な場所にある図書館に、足を向ける酔狂な人間など、ほとんどいないだろうから。
ふぅと一つ息をついて、夏服のシャツの袖口で汗を拭い、僕はまた山道を登り始めた。
僕の通う“深青学園高等部 第一校舎”から、上りの道を徒歩で20分。
その情報が確かならば、そろそろ見えてきてもいいはずだ。
いや、この頭上を覆う生い茂った木々さえなければ、とっくにその姿は見えているはずなのだ。
もしかして道を間違えたのだろうか? と、ふと不安になり始めた時だった。
――それは、突然に自身の姿を、僕の眼前にさらけ出した。
山深い木々の間に、にゅうと突き出すようにそびえた、巨大な、ほとんど遺跡めいた古代の塔のごとき偉容。
それは古いイタリア建築の修道院にある鐘楼のようにも見えた。しかしその大きさはおそらく、ごく一般的な鐘楼と呼ばれる建物の、何倍もあるのではないだろうか。
口の広いコップを逆さまにしたような形をしたそれは、鐘楼、というよりは、闘技場にすら近いのかもしれない。
――遠めに見るのとはまるで違う、圧倒的な存在感。
一言で言ってしまえば見た目の古臭い、良く言えば、細かな装飾が施され、年月による消耗にも負けないよう丁寧に建てられた、味わい深い、建物。
――傍目にはそれが図書館であることなど、全く分からない。
太平洋に面した新興都市である僕らの町“水無瀬市”。
そこにある、近代設備が行き届き、通学以外は利便性に富んだ私学校のものにしては、古風な、しかも塔などという建築物は、明らかに周囲から浮いているように思えた。
いや、おそらく日本のどこにあったとしても、違和感を拭うことなどできないかもしれない。
鉄扉の開け放たれたアーチ状の門を抜けて――
その図書館、“旧図書館”に、僕は初めて足を踏み入れた。
受付で処理を済まし、ひんやりと空気の沈んだ一階ホールに足を踏み入れた時に思った。
なるほど、話に聞いた通りの場所だ、と。
2
その日、放課後の食堂のテラスで、僕は困り果てていた。
悩みは深刻だった。読書や、進学のための勉強に集中する場所が、きちっと定まらないのだ。どこにいても、いまいちしっくりとこない。
――もう3年生の夏になるというのに、だ。
僕は、個室で静かに勉強しているよりも、ある程度広く、開放的な場所でしたほうが、より能率が上がるタイプの人間だ。
な、ものだから、その日はとりあえず校舎の外れにある、下校時刻まで営業しているテラスでノートと参考書を開いていたものの、じりじりと焼け付く夏の日に炙られて、内容は一向に頭に入ってこなかった。
僕の姿を見つけてテーブルの向かいに座った友人に、愚痴っぽく現状を話した後、「それなら良い場所がある」と言って教えてくれたのが、校舎外に別棟として存在する、旧図書館だった。
僕が通う“深青学園高等部”の第一校舎は、“今須山”と呼ばれる山の中腹にある。そこから更に上方へ20分ほど山道を歩き、枝道へ入ったところに、その図書館はあるという。
実際に入ったことはなかったが、その存在だけは以前から知っていた。
下校時、下りの山道から幾度となく見上げた、巨大な塔。
傾きかけた陽を受けて、赤々と燃える塔の最上階の窓から、囚われのお姫様が今にも手を振ってきそうな風情だった。
初めてその建物が、貸し出し禁止の書物が大量に納められた図書館だと知った時には、とても驚いたものだ。
日常的に有用な参考書や、読みたい流行の小説なんかは、校舎の中にある図書館で事足りるので、僕はもっぱらそちらを利用していた。
なので特別、20分近くも登りの山道を行かなければならない旧図書館に、足を向ける理由もなかったのだ。
・・・・・・ああ・・・・・・白状しよう。僕は悔しい。
“貸し出し禁止図書”などという貴重な書物が蔵書されている場所が、一般生徒に普通に開放されていたと知っていたなら、僕は山道などものともせずに、旧図書館に通いつめていただろう。
僕は旧図書館と言えば、学生では“修道士”や“修道女”くらいしか入れないもの、と思い込んでいた。
ここで言う修道士と修道女というのは、本物の、神に祈りを捧げつつ暮らす共同生活者のことではなく、校内の成績優秀者が集まる“特待生クラス”から選出される“旧図書館専属の図書委員”のことだ。
男子なら黒い長衣を腰帯で縛り、女子ならゆったりとくるぶしまである黒いワンピースを着ている。図書館での作業中に制服が汚れないようにという理由から、旧図書館委員に学校から貸与される衣服らしいが、遠くからでも一目で分かる黒尽くめのその姿から、誰からともなくついた呼び名が、修道士に修道女だ。
黒一色の小集団が、放課後、人の流れに逆らって山道を登っていく姿は、どこか浮世離れしていて、その呼び名もさもありなんと思えた。
旧図書館とは、そんな一部の人間だけが立ち入ることのできる場所だと、思っていた。
「だろ?俺もずっとそう思ってたよ」
友人もそう言っていた。広く生徒達の旧図書館に対する認識は、そんなものなのかもしれない。だから、あれほど特徴的な建物なのに、生徒達の話題に上ることがほとんどないのだろう。みんな、旧図書館は自分とは全く縁のないものと思っているのに違いない。
「それに旧図書館のあの見た目、なんかとっつき辛いよな。だからさ、ほとんど人がいないんだ。行くのに山登りしなきゃいけないという他にも理由がある。出入りする時に受付で筆記用具以外の荷物を預けないとならない。生徒証が必要。氏名、クラス、生徒番号も記帳させられる。こんな面倒な思いまでして図書館に入っても、中には内容もちんぷんかんぷんな、面白くもない古臭い本ばかり。そりゃあ利用するやつも少ないはずだよ」
なるほど、と思った。確かにそんな場所なら、落ち着いて静かに勉強や読書に勤しめそうだ。それに友人は『面白くもない』などとこき下ろしたが、そこに蔵書されている書物にも、少なからず興味を持っていた。
貸し出し禁止図書というのがどんな類のものかは想像するしかないが、おそらく専門書が多く、確かに実際読んだところで、意味の分かるものなど少ないのだろう。けれどそこには“意思”が込められているのだ。
顔も見たこともない、どんな趣味趣向を持ち、どんな時代にどんな人生を生きたのかも知らない“誰か”が、同じように知らない“誰か”に伝えようとした何かが、そこにはあるのだ。
それはなんだか、とてつもないことのように思えた。
――だから僕は“本”が好きだった。
それが所狭しと並べられている、図書館という場所が好きだった。
この3年間部活にも入らずに、放課後は大抵図書館で過ごしていた程だ。そんなに好きならと図書委員に推薦されたりもしたが、仕事として図書館に通うのでは、全く意味が違ってしまうので断った。
そんなこんなで過ぎ去ったこの3年。正直それを、寂しい青春だと思わないこともない。
けれど僕には、図書館で勉強の合間に、適当に本を書架から引っこ抜いてめくっているときの、あのなんとも言えない安らぎみたいなものを捨てることが、どうしてもできなかった。
校内にある図書館にいるときの唯一の不満と言えば、人が多すぎるということに尽きた。
本当に自分でも、この理由は傲慢なことだとは思う。
大学の付属学校だというのに、進学に中々に厳しい査定や試験があることも、図書館が込み合う大きな要因だろう。3年になってから移ってきた第一校舎の図書館は、そのためか連日結構な盛況具合で、図書室内には受験勉強独特の切羽詰まったような緊張感が満ちていて、なんだか落ち着くことができないのだ。
試しに市内にある公営の“中央図書館”にも行ったことがあるが、そこは尚更人が多くてだめだった。
僕は男子寮から学校に通う寮生だが、僕の暮らす第4男子寮には図書館などという気の利いたものは無い。自習室という20人程が共同で使えるスペースがあるが、その少ない書棚に並んでいるのは参考書ばかりで、図書室と同様の理由から居心地が悪かった。 「でも、あの図書館、お前みたいな奴にはぴったりなんじゃないかな」
友人の言葉に悪気は無いと知っていても、なんとなく傷ついた。いったいどういう意味だよ。
そこで僕は意地悪な気持ちになって聞いてみたのだ。そういうお前はあまり本に興味はないはずだけど、どうして旧図書館のことについて色々と知っているのかと。
帰ってきたのは、意外な返答だった。
「噂があるんだよ、あの旧図書館に。面白い噂がさ。だから俺、この間それを確かめに行ったんだ。前から気になってはいたんだけど、なんか踏ん切りがつかなくてな。でも、もう俺たちも3年だろう? もうすぐ卒業じゃないか。だからその前に、と思ってさ」
僕がその噂について問い返す前に、友人は自らそれを語りだした。
「その噂ってのはさ・・・・・・聞いたことないか?“旧図書館の宝”とか・・・・・・“車椅子の少女”とか。学校によくある七不思議みたいなやつ」
知らなかった。初耳だ。
「そうだなぁ・・・・・・旧図書館に入ったことなくても外から見たことぐらいはあるだろ? 下から上に行くにしたがって細くなってく円筒形の建物だってことぐらい知ってるよな? それで旧図書館の中ってさ、入り口にある受付を通って長い廊下を抜けると、ばーんと3階まで吹き抜けなんだよ。
1階は直径20mくらいの丸い広場で、読書スペースになってて丸いテーブルと椅子がいくつか置いてある。それで壁際にずらーっと3mくらいある書架が並んでるんだ。1階だけじゃない、3階までずっとだぞ? あの塔の内側全部に本棚が張り付いてるようなもんだ。どれほどのものか想像がつくだろ?
2階、3階の壁際には、わっかが張り付いたような廊下がある。1階の中央から上に行ける螺旋状の階段があって、そこから各階に手すり付きの渡り廊下が4方に伸びてるんだ。その渡り廊下を通って2階や3階の壁際まで行けるから、壁際の円形の廊下にたどり着けば、ぐるっと壁際を一周できるようになってる。でもあれは高所恐怖症の奴には無理だな。
4階以上の階もあるみたいなんだけど、らせん階段は3階にある天井でぶつ切りになってていけなくなってた。
しかし、なんていうかあそこまで本が多いと圧巻だったよ。何かの拍子に本が飛び出したりしないように書架の格段には木製の板がはめられてるけど、そんなの大きな地震でもきたら簡単に外れるだろうし、そうしたらきっと塔の中には分厚い本の雨が降ってくる。その時中にいたやつは死ぬぞ、確実に。
まあそれはとりあえずいいや。大体の中の様子は想像できるようになったか? じゃあその噂話に入ろう。
俺が確かめにいったのは・・・・・・“旧図書館の宝”の噂だ。あの古臭い図書館のどこかに、とんでもないお宝が眠っているって話。
おいおいそんな顔するなよ。俺だってそんな話本気で信じちゃいないって。ただの好奇心だよ、好奇心。
吹き抜けの図書館のどこにお宝を隠す場所があるのかって? そりゃあ決まってるだろ、本の向こうだよ。
あのな・・・・・・これは冗談抜きでちょっと凄いと思ったんだけど、旧図書館の1階のホールに立って、吹き抜けの壁一面に埋まってる本の数にびびったって言ったろ? 実は、まだそれだけじゃないんだ」
どういうことだろう?
「おかしいとは思ったんだよ。あの馬鹿でかい旧図書館の外観に比べて、中のホールは随分狭いなぁって。で、案の定だったよ。まだあったんだ。おれが一目見て圧倒された以上の数の本が、まだまだあそこにはあったんだ。あのな、あそこの図書館の本棚、3mくらいある大きさなのにな――全部動くんだ」
それを聞いたとき、なぜか僕は背筋がぞっとした。
「傍目には一直線に並んでいるように見える書架は、実はでこぼこに交互に並んでるんだ。それが留め金をはずすと左右にさ、ずるずるっとスライドするんだよ。移動書架ってやつさ。ちょっと重そうで無理かな、とも思ったんだけど、それがどんな仕組みになってるのか、案外簡単に動くんだよ。で、やってみたんだ。その向こうに何があると思う? ご名答、2mくらいの幅をおいて、またずらっと書架さ」
この感覚は――テラスのざわめきが遠のいていく。
「また書架を動かすと、その向こうも書架、その向こうも、その向こうも――」
――なんだ?
「俺は件の“旧図書館の宝”を見つけようと、1階の適当な所から、どんどん奥へと入っていった。特別な準備なんてしていない。どこにあるとも、どんなものとも分からないから、手当たり次第に書架を動かしては奥へ、また動かして奥へ。何回書架をずらしたか覚えてない。結構な回数だったと思うんだけど・・・・・・それで何度目かの書架を動かした時、俺はもう動かすのをやめて、ホールに戻ってきたよ」
なぜ?
「こっから先は、冗談として聞いてくれて構わないよ。実際にみた俺でも、信じられないくらいなんだからな。でもな、俺、見たんだ。
繰り返しになるけど、もう何回目かも忘れた書架を動かしたときだ。その次の書架は『縦に並んで』た。俺の目の前に現れたのは横並びの書架の列じゃなかった。左右を書架に挟まれて伸びる廊下だったんだよ・・・信じられるか? 暗いせいもあっただろうけど、先まで見通すことはできなかった。俺は試さなかったけれど、もしその縦に並んだ書架が動いたとしたら? その向こうはどうなってる? 廊下か? 書架か? 一体どこまでこれは続く?
それが1階だけじゃないんだぜ? 2階も3階も、同じようになっているはずなんだ。あの旧図書館には、一体何冊の蔵書があることになるのか・・・・・・。
振り向いたら、俺が最初に動かした書架の隙間から見える館内の光が、小さく小さくなってた。その時俺が立ってた場所はほとんど真っ暗に近かった。・・・・・・もし誰かが気まぐれを起こして、俺が奥に入ったことに気付かずに最初の書架を元の位置に戻したらどうなる? 俺はその『形を変える書架の迷路』の中に光もなく閉じ込められることになるんだ。それを考えて、正直ぞっとしたよ。
遠くに見える入り口の光が、今にも狭まって消えてしまうんじゃないかって気が気じゃなくなった。それで・・・・・・ちょっと恥ずかしい話なんだが、俺は走った。入り口の光に向かって。
体のあちこちを書架にぶつけながら、それでもそんなことは全然気にならなかった。その時はただ、『この暗闇から抜け出したい』それだけだったよ。
そして・・・・・・俺は戻ってきた。ここからさらに信じがたい話になるんだけど・・・・・・。
ようやく入り口にたどり着き、照明に満たされたホールに戻ってきた俺は、そこで叫び声を上げそうになった。
俺は・・・・・・確かに1階のホールの書架を動かして、奥へ入っていったはずなのに、出てきたのは二階の廊下だったんだよ。
自分の目が信じられなかった。もちろん途中で階段を上ったりなんてしていない。なのにいつの間にか、1階の書架の奥を彷徨っていたはずの俺は、2階の書架の間から出てきたんだ。
下を見下ろして自分が最初に動かしたあたりをみても、ただずらっと書架が並んでいるだけだ。修道士達も、何も気付かない風に自分達の作業に没頭している。
訳が分からなくなった俺は、渡り廊下の手すりにすがるようにして、震える足を引き摺りながら、螺旋階段にたどり着き下へ降りた。
その時に修道士の一人と目が合ったんだけど、そいつは何も気にしてないようだった。旧図書館の中は飽くまで平静で、何事もなくて、つい今しがた信じられない経験をした俺のことなんか、誰も気にかけてないみたいだった。もし俺が、あのまま書架の迷路の中に消えてしまっていたとしても、誰も気付かなかっただろうさ。
もうだめだった。俺は受付で自分の荷物を受け取ると、足早にもと来た道を引き返した。結局『旧図書館の宝』がなんなのかは分からず終い。笑える話だろ?」
友人の乾いた笑い。
にわかには信じがたい話だ。だがその話をしているときの友人の瞳には、確かな恐怖の揺らめきがあったように感じた。
「静かで、人も少ない。勉強に励むにはもってこいの場所だと思うけど。俺はもうあそこには行かないね。お前も旧図書館を利用するときは、書架の奥へ行ったりなんかしないようにする方がいいと思うぜ」
――空間が捻じ曲がってしまったかのような“本の迷宮”
その話に僕は、恐れを抱くどころか、俄然興味が沸きだしていた。
それが友人の作り話だったとしても、一度は行ってみる価値のありそうな場所だ。
好奇心を刺激された僕は、あともう一つの噂話のことも聞いてみることにした。
3
「・・・・・・ああ・・・・・・“車椅子の少女”の話だな。それは、こんな話だ。
昔、俺たちが入学して来るよりずっと昔の話らしい。一人の本好きの美しい少女がいた。その少女は足が不自由で車椅子に乗って生活していたんだそうだ。外で遊ぶことのできない少女は、いつも大好きな本を読んで、一人で時間を過ごしていた。なんでもいいところのお嬢さんだったという少女は、毎日、毎日、自動車に乗って山道を上り、付き添いの人に車椅子を押され、あの旧図書館を訪れていた。
なんでよりによってあの旧図書館なのかは知らないよ。噂話なんてそんなもんだろ?
そこで少女は、不自由な体で懸命に書架を動かし、そしてどこからともなく自分の気に入った本を探してきては、それを読みながら日々を過ごしていたって話だ。
ある日、いつものように少女は旧図書館の書架を動かし、本を探しに書架の奥へと入っていったが、戻ってきた少女は本を手にしていなかった。
ホールで少女を待っていた付き添いは言った。「あら、お嬢様。今日は、読みたい御本は見つからなかったのですか?」少女は答えた。「いいえ、とっても素敵な本をみつけたわ。ただちょっと奥の方にあって道を忘れてしまいそうなの。だからお願い、これを持って入り口で待っていてくれないかしら?」少女から渡された糸巻き車を見て、付き添いは彼女を止めた。「この広い図書館であまり奥へいくなどと、私は心配です、おやめ下さい。お嬢様に万が一のことがあれば、私はどうすればよいか・・・・・・」しかし少女は付き添いの言うことを聞かずに、小さなランプの明かりと、道標として床に垂らされた糸を頼りに、最初の書架の場所に付き添いを残し、奥へ、奥へと進んで行った」
そして――
「――そして『万が一』は起きた。しかも最悪の形で、だ。付き添いの手元でからからと音を立てて回っていた糸車は、突然、動かなくなった。いつまでたっても戻ってこない少女を心配して、付き添いは糸車から伸びる糸を頼りに少女を追った。
もうわかるだろう? 糸は途中でぷっつりと切れていた。近くに少女の姿はどこにも見当たらない」
すっと小さく息を吸い込むと、友人は言った。
「少女は消えた」
笑顔は引き攣っていた。
「その後どんなに探しても、少女は見つからなかったらしい。あの旧図書館に飲み込まれでもしたように、少女は消えた。そして今でも少女は“とっても素敵な本”を探して旧図書館を彷徨っているんだそうだ。
――噂では、その少女に会う方法があるというんだ。
少女に会う方法は『糸車の糸を、少女が入っていった一番最初の書架のところに結びつけ、奥へと進む』すると『書架が縦に並んでいる場所』に出るらしい。そうしたらこう言うんだ『お嬢様。お嬢様がお探しの本はこちらですよ』あとは糸巻き車を巻きながら戻るだけ。けれど決して入り口に戻ることはできない。なぜなら、もうその言葉を口にした時点で、最初の書架に結んでいたはずの糸は、別の場所に結ばれているからだ」
――僕には、分かった。
「なあ・・・・・・俺さ・・・・・・なんでもない、じゃあな」
なにも答えず、考え込んだようにうつむく僕を見て、友人はその先を続けず、席を立った。
僕には分かった。友人は嘘をついている。
“これ”を見つけた僕は、全てを覚った。
――友人が確かめにいったという噂は、“旧図書館の宝”の噂ではない。
遠ざかって行く友人の背中に、僕は俯いたまま声をかけた。
「なぁ・・・・・・」
掠れた声が出た。
友人は耳ざとくもその声を聞きつけたらしく、振り向いた。
僕は言葉を続けた。
「なあ・・・・・・お前、噂を確かめに行ったのはこの間だって言ってたけど、いつの話だ?」
その言葉を聞いて、視界の隅で友人はピクリと体を震わせた。
「いつって・・・・・・」
「あのさ・・・・・・それってそんなに前じゃなくて、つい最近のことじゃないか? 例えば・・・・・・昨日、とか?」
「どうして・・・・・・だよ」
友人は足を止め、振り向いた。
「それで、見つけたんじゃないか?」
「見つけてなんかねぇよ。旧図書館のお宝なんて、残念ながらありませんでした!」
――そうじゃない。
「違うよ。お前・・・・・・見つけたんじゃないか?」
「なんだよさっきっから。何の話だよ」
友人の声は震えていた。同様に僕の体が小刻みに震えていたことが、友人にわかったかどうか・・・・・・。
「見つけなかったか?『誰も乗っていない車椅子』」
息を呑む空気が伝わってくる。
「・・・・・・お前・・・・・・なんで・・・・・・」
僕は先程見つけてしまったものから、目が離せなくなってしまっていた。
友人のポケットから伸び、風にたなびく、細く、夏の日の光にキラキラと輝く絹糸。
それは垂れ落ちて地を這い――
「なんで分かるんだよ!?」
友人はその場で大声を上げた。周囲にまばらに散らばっていた生徒達が、何事かとこちらに注目するのを感じた。彼らには、見えているのだろうか?“これ”が。
「なんでだよ!? 答えろよ!」
僕は目を離せなくなっていた。
地を伝う糸は、先程まで友人がついていたテーブルの下へと潜り込み――
「おい! 頼むよ! 教えてくれよ!」
じゃあ教えてやるよ。
お前のポケットから伸びてるその糸。
このテーブルの下で、四つん這いでこちらを睨み上げている女の子の腕に絡み付いてるぞ。
4
その日を最後に、友人は消えた。
そして――その図書館、“旧図書館”に、僕は初めて足を踏み入れた。
――良く回る、小さな糸車を持って。
終