合宿、東京支部
「では今週末、東京支部に合宿しに行きます」
良治がそんなことを唐突に言ったのは、月曜日の夕飯を終えてからのことだった。
「合宿、ですか」
「合宿……?」
疑問を持っているのは二人とも同じだが、その意味合いはだいぶ違いそうに思えた。郁未は食後のコーヒーを持ったままきょとんとしている。
いきなりこんなことを言ったのは良治だが、突然の状況に対する反応がそれぞれなのが面白い。
「ああ、合宿だ。たまには環境を変えた方がいい」
ストイックに同じ環境で同じような訓練をしていくよりも、多感な時期に色々な経験を積ませた方が良い。
優綺にとっては里帰り的な意味になってしまうが、もしかしたら見える景色が変わっているかもしれない。
「また急ですね」
「まぁ思い付きだから。でも出来ることは出来るうちにちゃっちゃとやっておこうかなと」
今後何か起これば合宿なんて余裕はなくなってしまう。基礎訓練の終わりが見えてきた優綺にもっと多くの相手との戦闘訓練をしてほしい。その手始めが一番身近な東京支部というわけだ。
別に良治はその場の思い付きで提案したわけではない。既に支部長である葵と副支部長のまどかに許可は取ってある。
おそらく前日に、いや当日の朝に連絡しても快諾されそうではあったが。
「私も週末にはバイト入れてないしちょうどいいかも。それであのさ、東京支部って何処にあるの? ここも東京だけど」
「東京支部は八王子にある。上野支部は東京支部の更に支部って感じだよ」
「なんでそんな不便な場所に? 都内っていうか都心の方が何かと便利なのに」
「東京支部の支部長の家系は碧翼流っていう剣術の流派なんだけど、今の東京支部の道場がその始まりなんだよ。だから昔というか最初からあの場所にあるんだ」
白神会が出来た時にはもうあの場所に根付いてたと、良治は今は亡き師匠に聞いたことがあった。
昔は今ほど仕事も多くなかったこともあり、不便は不便だが所縁のある道場の場所を変更することは考えていなかったようだ。
仕事が急激に増えてきたのはあの陰神という組織が現れ、白神会と対立して以降だ。付け加えるなら富士山の結界が揺らいで魔界と行き来の出来る穴が出現してらから更に仕事は増えたと言えよう。
「へー。なら簡単に変えられないっか。あ、だから都心に新しくってこと?」
「そういうこと。じゃあ二人とも準備をしておくように。と言っても普段訓練でしてる準備でいい。あとは自分が必要だと思ったもので」
「はいっ」
「はーい」
心なし浮いた優綺の声。彼女にとっては実家に帰省するようなものだと気付いて、良治はなんだか温かい気持ちになった。
「――よし、身体は解れたな。という訳で早速模擬戦といこうか」
その週の土曜昼過ぎ、東京支部に到着するや否や準備運動をさせてすぐに訓練に入る。優綺も郁未も不満の色はなく、むしろ緊張感のある良い表情で気が引き締まっているようだ。
二人はそれぞれ動きやすい服装で準備運動を終える。道場内なので靴は履かずに裸足だ。
「じゃあそうだな――郁未と正吾、やってみようか」
「っ、はい!」
「わかりました」
今回の合宿に参加しているのは優綺と郁未だけではない。当然と言えば当然だが元からこの東京支部に所属している正吾も参加者だ。
浅川正吾、二十二歳。若手と呼ぶにはもう若くない。
幼い頃から東京支部で育ち、中学生高校生の頃には良治や和弥たちと一緒に訓練していた彼はもう一人前以上だ。
「正吾、頼んだ」
「構いませんよ。良治さんの頼みならこのくらい」
少しおどけて答える正吾。良治にとっては一番身近な後輩であり、正吾にとっては兄のような存在だ。相性も悪くなく良治にしては珍しく気安く声をかけられる同性になる。
「助かるよ。じゃあ二人とも構えて」
正吾は結那と天音の抜けたこの東京支部をまどかと共に支えている。実戦経験も豊富な彼がこの場にいるのは優綺と郁未の相手をしてもらう為だ。
木刀を手にした正吾に相対するのはようやく手に、身体に馴染んできた棒を構える郁未だ。やや緊張しているが力は入りすぎてはいない。良い状態だ。
「――はじめ」
「はっ!」
「おっと」
良治の合図と同時に踏み込んだのは郁未。正吾は驚いたような声を出すが実際には想定内なのだろう、滑らかな動きで繰り出された棒を木刀で弾く。
突きから入り、次は下から上に振るい、今度は上から短く振り下ろす。どれも完全に防御されて郁未は大きく棒を横に払いながら後ろに下がる。
この一連の動きは良治が教えたもので、隙の少ないパターンの一つだ。防がれた場合一旦距離を取って落ち着くところまで問題なく出来ている。あまり身体を動かすのが得意ではない郁未だが、それでも努力の結果が現れていた。
「……ふぅ。――はぁ!」
一度仕切り直すがすぐに前に出る。積極的なのはいいことだ。
気合の入った郁未の突きも正吾は難なくいなしていく。それはそうだ、実力に差がありすぎる。
「っ?」
「やぁっ!」
焦れた郁未がその場で一回転し、まるで後ろ回し蹴りのような動きで棒を振る、というか振り回す。
「っと。はい」
その動きに僅かに正吾は驚いたが問題なく躱し、隙だらけの郁未の肩に木刀を置くように当てた。
「う……参りましたぁ」
「最後のはびっくりしたけど、まぁ全体的にまだまだだね」
息も切れておらず余裕の正吾は笑顔さえ浮かべている。
良く見てみれば彼は軸足を基点として一Mも動いていない。それが二人の力の差を如実に語っていた。
「はい。郁未と優綺交代で。郁未は反省点と改善点を考えておくこと。ああいやその前に優綺と正吾のをちゃんと見てて」
「うん。あ、はい!」
戻ってきた郁未に声をかけながら交代で道場の中央へ向かう優綺の背中を見る。気負いや迷いはなさそうで、力強ささえ感じそうな雰囲気だ。
「へぇ。目つきが……いや違うか。顔つきでもない。東京支部にいた頃とは心構えが違うね。何が切っ掛け――いや語るまでもないか。語るのはこれでいい」
「はい。宜しくお願いします」
すっと構えた木刀に合わせるように優綺も使い慣れたいつもの棒を構える。
優綺にとって正吾はこの数年共に東京支部で過ごしてきた兄のような存在だ。ずっと稽古をつけてきてくれた存在でもある。
(――強い)
知ってはいた。何故なら一度たりとも彼に勝てたことはないのだから。
だが感じたことはなかった。強いと。勝つのは難しいと思える力の差を。
――優綺は初めて、彼の強さを肌で実感した。
「二人ともいいな? ――はじめ」
良治の声と同時に前に出るのは郁未と同じ。正吾は必ず様子見から入ると思っていたからだ。
これは経験を積ませる為の稽古。まずはどんな攻撃をしてくるかを見、そしてそれから反撃に出るはずと優綺は読んでいた。
「っと!」
案の定正吾に前に出るような仕草はなく、守りから入っていたことで優綺の突きをしっかりと木刀で迎撃する。
更にそこから一歩踏み込み再度思い切り突きを繰り出し――それは正吾の左肩の道着を掠めた。
「ぐ……!」
痛みはない。直撃ではないのだから当然だ。しかしその一撃は正吾の闘志に火をつけた。
「っ!?」
突きで伸び切った棒を戻すと同時に振るわれた木刀を、ギリギリのところで両手持ちした棒で受け止める。上段からの一撃は重く、手が痺れそうなくらいだ。
「はっ!」
木刀はすぐに戻され、今度は右からの横薙ぎ。
(はじ――無理!)
優綺は弾きに行くかほんの一瞬だけ迷ったが安全に防ぐことだけに集中することを決めた。中途半端なことをしてもダメだ。そんなことをすれば押し切られるだけだと。
「う――!」
横薙ぎを防いでもそれで終わりではない。今度は左からだ。息つく暇さえないとはこのことだ。
(――?)
絶え間ない連撃。しかしそれは不意に、僅かばかりだが奇妙な空白が生まれた。
だがそれは当然のことだ。ずっと繰り返し攻撃が続けられるわけがない。何処かで一息つかなくてはならないタイミングがいつか来る。
優綺はこの機を逃してはならないと、痺れだしていた両手に活を入れて半歩踏み出した――そのタイミングだった。
(!)
相手の、正吾の表情を見た瞬間後悔が襲った。
先ほどまでの余裕のない顔ではない。既に落ち着きを取り戻し、罠にかかった得物を見るような強かな笑みだ。
やられた。やらかした。誘われた。
色々な言葉が浮かぶが決断は早かった。迷っていられる時間はない。迷っていては今までと何も変わらない。
「――ぁあっ!」
優綺の選択はそのまま前に出ること。攻撃すること。棒を叩き付けること。
そして。
「そこまで」
良治の声が、師の声が無音の道場内に響く。
優綺は背中に当てられた固い感触に、心まで固められたような気がした。
「……まさかあそこで攻撃に踏み切るなんてね。びっくりしたよ。今までの優綺なら出来なかったんじゃないかな」
木刀を下げた正吾は優しい声でそう言った。
優綺の棒は彼に当たることなく躱され、正吾は身体が伸び切った彼女の背中を容易く捉えた。
「……ありがとうございます」
勝てるなんて思っていなかった。敵うなんて思っていなかった。
それでも悔しさは胸に在る。
今までの、良治との訓練の日々が無為になったような喪失感――
「――優綺。ここで終わりじゃない。まだ先は長いよ。というかスタートラインにも立っていないんじゃないか?」
「あ……」
いつの間にか隣に立っていた《先生》の言葉に気付く。
そうだ、自分の目標はここじゃない。道程の途中でもないのだ。
今までまったく敵わなかった相手の本気を垣間見て、それに耐えられて、そこで勝機を見出してしまった。
だからこそ悔しかったし喪失感が生まれたのだ。
「優綺はこれからもっと伸びるけど、その途中でたくさん負ける。今日みたいにね。悔しさを忘れちゃいけないけど、でもそこで諦めて欲しくはないな」
敗北を糧に、この先に活かせるように。
「――はい。私の目標はまだまだ先にあります」
「うん。それでいい」
きっと優綺は笑えていたと思う。
頑張れる。頑張りたいと心からそう思った。
【八王子】―はちおうじ―
東京都八王子市。多摩南部にある街。古くは桑の都とも。高尾山のある市でもある。碧翼流道場創設の地。
駅付近は栄えてはいるが山野も多く残り、交通の便も悪くない。都心に通勤するサラリーマンも数多い。
良治は通勤ラッシュの時間帯に都心に出るのが嫌で上野支部に前向きだったのではないかとも言われている。




