剣道少女の探索行・後編
東京上野。
新宿を中心に生活する景子にとって通り過ぎたり乗り換えに使うことはあっても駅の外に出るのは初めての経験だった。
人通りは確かに多いが新宿と比べれば少ない。慣れない土地で人の多さに気後れすることがないのは生まれ育った場所ゆえだろう。
しかし、どうしたものか。
あの占い師に上野と言われたが、それ以上の情報はない。
(直前に上野駅ということは、たぶん駅の近く?)
よく考えてみればどれだけアバウトな手掛かりでここまで来てしまったのかと頭を抱えそうになる。普段竹刀を持って構えている彼女からは考えられない姿で、部活の後輩が見たならその自信なさげな表情に心配するだろう。
「――よし」
しかしここで立ち止まっていては始まらない。ここであの男性が通り過ぎるのを待つという手段もあるにはあったが、景子はそれを選ばなかった。
(どうせなら身体を動かしてた方が気分的にいいし)
剣道部に所属しているだけあって身体を動かすことは好きだ。体力にもそれなりに自信はある。見知らぬ土地で迷子になることがすこしばかり怖かったが、駅からそこまで離れるつもりはない。徒歩十分程度で移動出来る範囲に絞れば大丈夫だろう。
あの事件から一週間ほど何故か熱で寝込んでしまったが、今はもう完調している。むしろ身体は軽やかに、力強くなったような気がするくらいだ。
そして、景子は軽やかな足取りで雑踏をすり抜けるように歩き出した。
迷ってはいない。大丈夫だ。大きな通りさえ見つかればすぐに駅が見える、はずだ。
(大丈夫、大丈夫)
東京は狭い。都心なら十分も歩けば何処かしらの駅に辿り着くはずだ。それに人がいくらでもいる。聞けば何とでもなるだろう。
若干の不安を覚えながらも景子はその足を止めずに進み続ける。
「ん……」
「――でさ、この間店長から『もしかして柊ちゃんと付き合ってるのん?』なんて言われちゃってさ~」
「はぁ」
「いやぁそんなことないですけどーって言ったんだけど、周りからはそう見えるのかなってー」
「とても嬉しそうですね郁未さん。でもまずは頼まれた買い物リストの確認から」
「もーわかってるってー」
脇の路地から現れた二人組の少女たちに声をかけようかと逡巡したが、話をしている彼女たちに話しかけるのはなんとなく憚られた。丁度景子とは逆側に歩いていってしまったということもあり、景子は彼女たちの背中を見届けてしまった。
道を尋ねるのならきっとこのタイミングが一番だったのだろう。別に人見知りというわけではないが、おそらく自分と同じくらいの年齢の女子たちが話しかけやすいのは間違いない。
例え片方が金髪に染めていたとしてもだ。
「……どうしよう。――ううん」
そのことを自覚して顔が俯く。
しかし足を止めるわけにはいかない。挫ける為にここまで来たのではないのだ。
何事もまずは足を動かすことから始まる。そう考えている景子はとりあえずまた足を前へ進ませだした。
なんとなくあの二人組が来た路地へ歩き出す。本当になんとなく、だ。
路地は思ったよりも全然短く、すぐに別の道に出る。周囲を見渡して最初に目に付いたのは骨董品店だった。
「……あ!」
古びたビルの一回にあるその店のガラス越しに飾られていた日本刀に、景子は興味を魅かれてかぶりついた。
剣道部に入っているだけあってこういった物には目がない。本当なら自分で入手して毎日愛でたいくらいだ。
「その刀が気になったのかの?」
「あ、その、ごめんなさい」
不意に聞こえた声にばっと離れる。ガラスに手を触れて食い入るように見ていたことに気付いて恥ずかしくなった景子は、自分よりも身長の低いその老人に素直に謝った。
「いやいや気にせんでいいよ。あんまり商品を見てくれる人もおらんしの。好きなだけ見るといい」
「あ、はい。ありがとうございます……」
とてもとても自分の小遣いで買える値段ではない。魅かれはしたが、もし買うとしたらそれは就職してからになるだろう。
「その……一つお尋ねしたいことがあるのですが――」
ローンは大丈夫か、駅までの道は何処なのか。
そんなことが一瞬頭を過ぎ去ったが一番聞きたいことはそれらではない。
景子は自分の覚えている限りの外見をこの店の者らしき老人に伝えてみたが、反応は芳しくなかった。
「すまんのう、最近とんと目が悪うなってきていての。……あぁ、そうだ。このビルの二階に占ってくれる婆さんがおる。儂の紹介じゃと言えば最初の一回はタダでやってくれるから、良かったら行ってみなされ」
「そうですか、ありがとうございます。行ってみます」
「見つかるといいのう」
人生二回目のちゃんとした占いのタイミングがこうもすぐに来るとは思っていなかった。流れに身を任せるか迷うことはなく、ただ目的に近付くためと老人の提案に景子は頷くことにした。
笑顔の老人に軽く手を振りながら、老人が指を差した先の骨董品屋脇にある階段を上がっていく。どうやら築年数は相当なものでとても綺麗とは言えない。夜中に来たなら踏み入れるのを躊躇うレベルだ。
「ここ、ね」
二階の黒い幕が飾られた扉の前で確認をする。店は、というか扉は一つしかない。
看板はないが老人の言う占い屋はここだろう。扉もそれっぽい雰囲気だ。何より他に扉がないので、景子はノックをしてから部屋に入ることにした。
「? あの――」
返事は聞こえてこない。しかしそのままでいるのも時間の無駄なのでそっとドアノブを回して、景子はその扉を開けた。
そして。
「ヒッヒッヒッ! ようこそ、ようこそ我が『黄昏に染まる魔境』へ――!」
「……」
これはさすがに外れだろう――
景子は部屋にいたその老婆を見て、帰りたくなった。
「……どうしよう」
未だ頭の中に老婆の笑い声が響いている感じがしながら景子は上りと下り、どちらの階段に進むかを迷っていた。
薄暗い店内にいた怪しげな老婆の占いは正直よくわからなかった。どうにでも解釈出来そうだったり、そもそも言葉の意味がよくわからなかったりで参考にならなかったのだ。
むしろ迷いしか生まれず、たった三十分だが非常に時間を浪費してしまった疲労感しかない。
新宿での占いがとても希望が持てそうな雰囲気と結果だった為、今回も期待してしまったのが更に気持ちを落ち込ませていた。本来占いなどそうそう見事に的中するものではないのだ。
「あの、どうかされましたか?」
「え」
自分の選択の間違いを悔やんでいた景子に声をかけたのはおかっぱ頭の少女だった。
見知らぬ制服に身を包んだその少女はどうやらこの階段を上がって来たらしい。
もしかしたらこの占い屋に来た客かもしれない。その観点で見れば扉の前で立ち尽くす景子はとても邪魔だった。
「ごめんなさい、すぐにどくわ」
「ああ、いえ。そうではなく、体調が悪そうに見えたので」
「……すいません。大丈夫、よ」
どうやら純粋に心配してくれたようで勘違いにバツが悪くなる。
しかしそうだとするなら何故この少女はこんな雑居ビルにいるのだろうか。自分たちのような女子高生の興味を惹くような店はここ以外にはない。
「そうですか? では」
「――え」
「? なんでしょうか」
景子が思わず声を出してしまったのは少女がすんなりと立ち去ろうとしたからではななかった。少女が更に上の階に向かって階段を上り始めたからだ。
上の階、三階にはついさっき店を出る時、老婆ではないもう一人いた店員が言っていた店があるはずだった。
「その、上の階の……人?」
「はい。――ああ、紹介されたんですね。うちの探偵事務所に」
探偵事務所。
そう、景子が店を出る直前に聞いたのはこの店の真上にある探偵事務所の存在だった。
「今なら所長もいると思いますし、来るだけ来ますか? 力になれるかは微妙だと思いますけど」
「――はい、よろしくお願いします」
もうここまで来れば何処まででも。幸いなことに門限まで時間はある。
「相談料は初回無料になってるんで大丈夫ですよ」
「ありがとうございます。それは助かるわ」
探偵に仕事を頼めるほどの金銭は持ち合わせていない。バイトもしていない女子高生には小遣いしか収入はないし、お年玉ももうすっからかんだ。
「ではこちらに」
階段を上り切り、佐倉崎探偵事務所と書かれた店に入っていく。少しばかりの緊張感はさっきの店のせいだ。
「はーはっはっはっは――ごはぁっ!?」
「所長、お客さんが来る度に高笑いをするのはやめてください」
「ぐ、しかし晴稀くん、いきなり手近にあった本を投げるのは止めた方が良いと思うぞ」
「そうですね。本が傷みますから」
景子を見るなり高笑いを始めた中年の男性目がけて分厚いハードカバーを投げつけた案内人は、今起こったことは大したことではなさそうな雰囲気で中に入っていく。
「ふむ。依頼人だね? ささ、こちらのソファに座るといい」
「……はい」
眉間をさすりながら促すここの所長らしき人物に、景子は真下の店に入った時と全く同じことを想いながらくたびれた革製のソファに腰を下ろした。煙草の臭いが少しだけ不快だがこうなっては仕方ない。
「さてさて、女子高生がこんなところまで来ないといけない相談事とはなにかな? やはり恋愛相談……なら友人にでもすればいい。友人には出来ない相談となると、何か表にはしたくない犯罪絡み――こんなところではないかな?」
中らずと雖も遠からず。
景子は素直にこの胡散臭い中年探偵に感心した。
恋愛感情とは言えないが憧れやそれに似た感情だと自分では考えている。友人に相談できないのも、その切っ掛けが犯罪絡みであることも間違っていない。
「そうですね。だいたいそんな感じです」
「ふむふむ。なら目的は探し人か探し物か……前者かな。前者だね。私が信頼に足る能力を持っていると思えたのなら詳細を話してくれたまえ。勿論他言はしない。探偵業は信頼が第一だ」
白髪交じりの中年男性は胡散臭い。それもとても胡散臭い。
だが何も話してもいないのにある程度のことまで探り当ててきたことは確かで、男性の言うように能力だけなら信じてみようかと思える。
ちらりと男性の傍らに立つ彼女を見る。彼女は僅かに首を縦に動かした。
それで、景子は決断した。
「他言無用でお願いします。あれは――」
今日三回目になる説明。あまり口の回る方ではないがそれなりに滑らかに説明できたと思う。
「なるほど。君はそのヒーローのように現れた彼に会って礼を言いたいと。だが手掛かりはなく占いを当てにしてここまで来たと。――素晴らしい!」
「え」
「過程はともかく君はここまで、この私のところまで来た! ならもう目的は達成されたと言って過言ではないッ!」
「所長煩いです」
「ぐ……ゴホン、その青年はおそらく私と同じような仕事をしているのだろう。警察と顔見知りらしいがそれなら説明がつく」
確かに所長の言う通りだ。彼本人が警察の人間という可能性はあったが、なんとなく彼の持つ雰囲気がそれを否定していたように思える。
「同じような、つまり探偵業ですか?」
「うむ。だが私も探偵業界は長いが、そんな見た目の青年に心当たりはない。となると新規事業者か似たような仕事をする何でも屋となる。警察の知り合いに聞けばヒントくらいは教えて貰えるかもしれんが……無理か」
「無理なんですか?」
「うむ……」
「所長は現場に行くと必ず事件が長引いたり面倒になったりすると警察の方にはもっぱらの評判で。率直に言うなら嫌われているのです」
「はははははは晴稀くん!? そんな本当のことを言うのはどうかと思うよ! 私でもちょっとばかり傷付く!」
涙目になる中年男性を前にしたらどう対応すればいいのか、人生経験のまだ浅い景子にはわからない。知りたくもないし学びたくもないのでそっとしておくことにした。
「まぁそれはどうでもいいとして。所長続きを」
「どうでも……ぐ、まぁそんな感じで警察に現状伝手はない」
「そう、ですか。いえ、ありがとうございました」
当てにしていたわけではないが、一瞬期待してしまった分気落ちする部分がある。だが出来るだけそれを表に出すことはしないようにして真っ直ぐに所長の顔を見て礼を言った。
「大したことを言えなくて申し訳ない。――あぁ、そう言えばこの上の階に最近開業した『京都ホワイトサービス』という会社があるのだが、時間があるのなら行ってみるのもいいだろう」
「…………そうですね」
正直もうたらい回しはうんざりだ。返事はしたもののこのまま帰ると決めている。
夏が近づき陽が伸びてきたとはいえもう一時間もすれば陽が落ちるだろう。慣れない土地ではまた迷うかもしれない。
「あの、ありがとうございました」
「いやいや。力になれなかったのが不甲斐ない。軽い依頼なら経費だけで一度請け負おう。また来るといい」
「はぁ」
いまいち頼りになるのかならないのかわからない。おそらくもうここに来ることはないだろうと思いながら腰を上げる。
「こういったことは探すのをやめた頃に見つかるものですよ」
「そうかも、ですね。今日はありがとうございました」
自分と変わらぬ歳の少女に頭を下げて静かに探偵事務所の扉を閉める。溜め息を吐きたくなったがさすがにそれは失礼だろう。少なくとも真剣に相談には乗ってくれたのだから。
名前も知らない誰かを探すことなんて、これからの人生でもそうあることではない。それに協力してくれたのだ、今訪れた所長たちをはじめ、今日出会った人たち全てに景子は感謝していた。
「うん、帰ろ」
もう自分の中で気持ちの整理は出来た気がする。
頑張ったし、助けられもした。それがこの結果なら満足するしかない。
すっきりした気持ちで景子は階段を下り出して――そこで下から上がってくる人物がいることに気付いた。
この階段は二人並べば窮屈な狭さで、体格の大きな人ならすれ違うのも困難だろう。しかし景子も上がってくる人物も女性なので身体を斜めにすればそのまますれ違うことは難しくない。
だが景子は足を止めてしまった。
「ん?」
その女性は景子を見ると眉根を寄せて階段の途中で足を止めた。その為お互いに止まって見つめ合う格好になる。長い黒髪でスタイルの良いその美人に――景子は見覚えがあった。
「あの、もしかして新宿で助けてくれた……」
「新宿? ああ、あの時捕まってた高校生?」
「その、あの時はありがとうございました、本当に。あの、それで……あの時の男性は……?」
「良治? 良治なら事務所にいるんじゃない? 四階よ?」
「京都ホワイトサービス!?」
今さっき聞いたばかりの名前を叫ぶ。行くのを止めた場所の名前を聞くなんて想像もしていなかった。
「んもう、急に大きな声出さないの。そうよ。行くならついてくる? 私はどっちでもいいけど」
「ごめんなさい、お願いしますっ」
「……なんだか、何か間違えた気がするわね。うーん……」
何故か小さく唸る女性は最後に溜め息を吐くと気持ちを切り替えたように階段を上り、景子の手を取った。
「ま、いいわ。こんなとこで悩んでても仕方ないし。行くわよ」
「はいっ」
あの――良治というらしい――人に会える。
(会ったら何を言おう。挨拶? お礼? ああそれとあの占い師さんの伝言も忘れないようにしないと)
階段を一歩一歩上がるごとに胸が高鳴る。鞄を握る手に力が入り、手汗が気になったがもう目的の場所はすぐそこだ。
「良治ー、お客さんよー」
「おかえり結那。でも挨拶はしような」
開かれ扉の向こうに見えたのはやはりあの時見た彼だった。
優し気な瞳と柔らかな雰囲気。自分の中の『何か』が確かな形を成したのが理解できてしまった。
最初に言うのはやはり挨拶にしよう。
「――はじめまして、浅霧景子といいます。新宿の事件では助けていただいて、本当に、本当にありがとうございます」
そして――浅霧景子の恋物語は始まった。
【警察の知り合いに聞けば】―けいさつのしりあいにきけば―
職業柄時々警察関係者と話をする機会があり、二十年経てばそれなりの知り合いも出来るらしい。
だが基本的には一方的に迷惑をかける側なので煙たがられるばかりのようだ。
「来ないことが一番の捜査協力」とはトレンチコートの似合う知り合いの警察官の言葉である。




