隠密少女の観察記
「……ん」
朝陽と言うにはかなり高い位置の陽射しがカーテンの隙間から漏れている部屋で、少女は静かに目を覚ました。
同じ部屋で眠っていたもう一人の姿はない。夏休みも終わりかけで今日は友人たちと宿題のラストスパートで出掛けているはずだ。もっとも、彼女自身の宿題はもう終わっていると言っていたが。
少女は部屋に籠る蒸し暑さに顔を顰めながら起き上がり、汗で張り付いた寝間着代わりのTシャツを剥がして脱ぎさる。
「……む」
姿見を見ると不愛想な表情をしたまるで小学生のような容姿の少女がいた。身体の起伏も乏しく、ランドセルを背負えば十人中十人が小学生と答えるだろう。この小柄な体格が仕事で何度か役に立つことはあったが、それでも少女の不満を解消するには至っていなかった。
服を着替えて身嗜みを軽くチェックし、少女は部屋の扉に手をかけ、タイミングを計る。そして数秒後扉を開いた。
「ん、おはよう朱音」
「はい。おはようございます主様」
朱音と呼ばれた少女は睡眠不足を感じさせない無表情さで、隣の部屋から出てきた自分の主でありこの家の家主である青年に挨拶をした。
江南朱音。現在十七歳。黒影流。身長は149cm。体重は――軽い方だと思われる。つい先日この家に来た自分のプロフィールを書き出すならそんな感じだろうかと朱音は思う。
半ば成り行きのような流れで仕えるようになった主は今、彼女の座るテーブルの向かいで半熟の目玉焼きを食べている。その表情を見るに自身の焼いた半熟具合に満足しているようだ。
「どうした?」
「いえ、なんでもありません」
見つめていたせいか尋ねられるが観察していたとは言えない。彼と同じメニューの食事を朱音も箸を伸ばす。――彼と同じく目玉焼きは半熟派の朱音も満足の出来だった。
「朱音はどうする?」
「同行いたします」
「まぁそうだよね」
食事とその洗い物を終えた主が家を出る準備をしながら問うが、その答えは最初から決まっていた。自分は主に仕える影。一緒にいなければ役に立てない。同居しはじめてまだ数日だが一日たりとも外出に同行しなかった日はない。
「じゃあ行こうか」
「はい」
朱音は頷いて主――柊良治と共に真上に差し掛かった太陽の下に出た。
仕える前から柊良治という存在は知っていた。この狭い世界でその名を知らないのは独立した寺社などに引き籠り外界との接触を断っている者くらいだろう。それほど彼の名は世に知られていた。
ただ名を知っていたとしても彼がどんな性格でどんな人物なのかを知る者は少ない。そして朱音もその一人だった。
彼は自分の師の義兄に当たり、数々の仕事を成功させた若く有能な退魔士。しかしパートナーとの仲違いが原因で行方不明になった。朱音が彼の失踪後に知った表面的な情報はそんなものだ。
しかし朱音は師である彩菜からその人となりを聞き、信用に値すると評価をしていた。ただそれは師を通してでの評価であり、自分で感じて下したものではなかった。
だが、興味は生まれた。見て確かめたいと思った。そんな気持ちがあったからこそ、気まぐれとも思える師と総帥補佐の命を素直に受け入れられたのだ。
――そして朱音は柊良治を観察することにした。
「おはようございます良治さん、朱音さん」
「うん、おはよう天音」
「おはようございます」
まだ三回しか訪れていない上野支部に居たのは落ち着いた雰囲気で事務処理をする女性、潮見天音だった。
彼女の経歴は退魔士の中でも特異なもので珍しいものだ。敵対組織、それも暗部出身でその組織を抜けた後フリーになり、そしてその後白神会に入っている。
それだけでも紆余曲折の経歴だが、彼女は現在第四位階級の退魔士だ。出身や生まれなどの補正なく、むしろマイナスからのスタートでここまで昇ってきたことは驚く他なく、破格の昇進とも言える。もし《黒衣の騎士》がいなければ《黒鎌》とも呼ばれる彼女が時代を代表する退魔士になっていたかもしれない。
「良治、おはよっ」
「おはよう結那。来てたのか。珍しい」
「そう? そうでもないと思うけど。あなたもおはよう、朱音」
「おはようございます」
主が事務仕事の準備に入った瞬間支部の扉を開けたのは快活そうな黒髪の女性。白神会でもトップクラスの近接型の勅使河原結那だ。
モデルのようなスタイルの良さと鮮やかな長い黒髪。道をすれ違う男性のほとんどが振り向くような美女だと朱音は思う。端的に言えば華のある女性だ。
更に実力的にも申し分がない。彼女は退魔士とは無関係の出身にも関わらず白神会に入り、文字通りその拳一つで階級を上げていった。小さな頃から空手などの格闘技を習っていたというが、それでも途中から退魔士となってここまで来れたことは驚嘆に値する。
「ね、今日の予定は? 暇なら出掛けない?」
「事務仕事とかやりたいことあるから無理。というか仕事に来てその準備中に『暇?』とか聞くなと。それにこんな暑い中外に出る気にはなれんよ」
「けちー」
「それは違うと思うんだけど」
「まーいいけど。ねー天音ー」
「はいなんですか結那さん」
特に機嫌を悪くした様子もなく良治から離れる結那。そしてそのまま天音の方へ移動していく。その様子を見ていた朱音と天音の視線が瞬間交わった。
(見られて、ましたか)
良治を観察する朱音のことを観察されていた。だがそれは当然のことだろう。数日前急に現れていきなり仕えるとなった者を信頼する者はそうはいない。
天音も朱音も暗部出身。それ故にお互いが考えていることが理解出来てしまう。名前も似ていて親近感もある。これは朱音の一方的なものだろうが。
(目的は観察。それ以外はないけど、疑念を持たれるようなことは控えないと)
同じ暗部出身とは言え、その実力差は余りある。上野支部での異分子は自分、もし支部や良治に何かあれば排除される可能性は高い。そして自分は実力行使に出られたら抗う術はない。朱音の側に付いてくれる者はいないだろう。
少なくとも上野支部の中心であり良治の恋人でもあるこの二人は、良治に害する存在に対して容赦はないと思われた。
「じゃあしばらくここで仕事してるけど、何か他にやることやりたいことがあるなら外出しても構わないから」
「はい。ではここで待機しています」
朱音が僅かに思考していたのがわかっていたのか、彼女の視線がほんの少し上がったのを見計らって良治が声をかける。内容は昨日と同じもの、そして朱音の返答も全く同じものだった。
「さて、今日は魔獣と魔族に関して。おさらいから始めようか」
良治がリビングで席に着いた三人を見渡しながら話し始める。時刻は二十時、全員が帰宅し夕食を終えてからの講義だ。
「じゃあ郁未。魔獣と魔族の共通点と相違点を」
「はーい。えっと、共通点は目が赤いこと、相違点は言葉を喋ること?」
「優綺、補足は?」
「え、足りなかった?」
「足りないな。優綺」
自分の答えに足りない部分があったことを指摘され項垂れるのは金色に髪を染めた少女。普段はツインテールに縛ってあるが先ほどシャワーを浴びて来たせいか今はそのまま下ろしている。
生方郁未、彼女は今年に入ってから良治に弟子入り、しかもそれまで退魔士でなかったという人間だ。今もアルバイトをしているといい、朱音としては彼女を退魔士として認めていいのか迷いがあるくらいだ。
知識も実力もまだまだだが、白神会では存在しない『魔眼』という特異能力を持っている。そのことが彼女が良治に弟子入りを許された理由だと考えていた。
「はい。基本的なことですけど、魔獣と魔族は魔界に住んでいることが共通点かなと」
「正解。あとより正確に言うなら、言葉を喋ると言うよりも知能が高い、かな。――魔獣と魔族、根本的には同じ存在だ。人間たちが便宜上区別しているに過ぎない」
今良治が解説をしているのは一人前になった退魔士にとっては当たり前のこと。退魔士が死亡する大きな理由は仕事中の事故で、その原因は魔獣と魔族によるものだ。
「あの、なんで魔獣と魔族を分けているんですか? 同じ存在なら別に区別しなくても」
同じ存在なら統一してしまえばいい。ある意味合理的な意見で普段から冷静な優綺らしいものだ。
「さてその疑問に答えられるかな朱音」
脈絡なく質問を投げられ微かに眉が動く。自分は良治に仕えてはいるが弟子ではない。もう一人前の退魔士だ。
「……危険度が違うからです。高い知能を持つ個体は高い戦闘能力を有する確率が高い傾向にあり、同じ存在と確認されてからも危険度の違いを表す為そのまま使用することになったと聞いています」
「その通り。さすが」
「いえ」
当たり前のことを答えて褒められても特に嬉しくはない。だがそれを表情に出すのは控えておく。
「じゃあおさらいはここまでにして本題に。今回は魔族について。――魔族にはたくさんの種類がいるのは理解してるね?」
「はい。この間の町田さん……黒い霧のような魔族に――」
「あ、あのカメレオンみたいなのもっ」
優綺の言葉を勝手に郁未が繋ぐが優綺自身は特に不満はなさそうだ。こういう人間だと理解しているのか諦めているのかそれはわからない。
「黒い霧は恐らく死霊魔族、カメレオンは獣魔族だね。他にも鬼魔族、蟲魔族……人魔族など多種多様に存在するらしい。いまだ確認されてない種もいるはずだし、初見は警戒を怠らずに」
「はい」
「はーい」
(何故……!?)
二人が返事をする中、朱音は胸の内で激しく動揺していた。
魔族の生態は未知なことの方が圧倒的に多い。わかっていることなどほんの一かけらに過ぎない。
(私の知らないことまで知っているのは、何故?)
朱音は黒影流の一員として一般の退魔士よりも得ている情報が多い。魔族に関しても一般の退魔士なら魔族という魔界に住む住人がいる、魔獣とは根本的には同じ種族という知識だ。
だが良治はその先、更に細かな種族が多数存在することを知っていた。朱音ですら知らない種族の名前を羅列していたのだ。
(師匠の義兄だから? 志摩崩の従兄弟だから? それとも他に理由がある?)
柊良治という退魔士が総帥から、黒影流継承者から、自分の師など幾多の実力者から一目置かれていることの一端を垣間見た気がした。
(これが、《黒衣の騎士》)
退魔士として高い実力を持っているだけではない。それも一つの理由だろうが、もしそうでなかったとしても重用されていただろう。
「この間経験したからわかるだろうけど、もし単独行動中に遭遇したらまず逃げること、生き残ることを目標に。最低でも三人以上で対応すること。魔族はどんな攻撃手段を用いてくるかわからない。普通の退魔士相手と同じ対応で上手くいくとは考えないこと。魔族の攻撃方法は個体によって違うけれど、彼らは同じ攻撃方法を多用、つまりあまりバリエーションが少ない傾向にある。どうしても戦闘を避けられないようならまずは相手の攻撃方法を観察すること。……わかった?」
「はい。大丈夫です」
「う、うん……」
「郁未も自信がないなら優綺みたいにメモして」
「う、はい……優綺ぃ」
「はいどうぞ。でも次からは自分で用意してくださいね」
「ありがとー!」
優綺からメモとペンを借り、そのまま優綺のメモを写し出す。急いで書いているが思っていたより綺麗な字で少し驚いた。
(彼の知識や経験は確かに貴重。このレベルまで達すると、白神会としての重要度はもしかしたら継承者と同じかそれ以上……? それこそ雄也様と同じくらい……いや、さすがにそこまでは)
頭に浮かぶのは黒影流のトップである浦崎雄也。彼は他の継承者たちとはその役割が違い、立ち位置が違う。そんな《影裂き》と呼ばれる彼と良治、朱音はなんとなく似たような印象を持った。性格も見た目もまったく違うのに。共通点といえば二人とも黒を好むくらいなものだ。
それからも続く講義の中、朱音は良治に新たな気持ちを持ち始めた。
「ッ!」
「うぅっ!」
真夏の夜に鈍い音が響き渡る。お互いにほぼ同じ棒を操っているが趨勢は開始当初から一方的と言えた。
優綺は自分の出来ることを確実に遂行し、妹弟子を追い詰めていく。郁未も何とか事態を打破しようとしているがその隙さえ見えていない状況だ。
「く……いやぁぁぁっ!」
「――」
「ぐぇ……」
郁未が大声を上げながら無理矢理前に出ようとするが、優綺はむしろこれを狙っていたのだろう。声に反応することなく冷静にがら空きになった腹部に棒を突き刺した。
「はい、そこまで」
「はい。……大丈夫ですか郁未さん」
「うぇ……う、大丈夫……でも痛いし気持ち悪い……」
完全に隙だらけの鳩尾に入ったせいか喋りつつもまだ地面にへたり込んで苦しそうにしている。
そんな郁未を心配そうに手を差し伸べる優綺。彼女はほとんど息を切らせていなく、まだまだ余裕がありそうだ。この暑さ故汗だけはかいているが。
(《黒衣の騎士》の一番弟子、石塚優綺。東京支部に居た頃は話に上がらない程度の実力しかなかったはず。なのに今は一人前と呼べるほどの棒捌きにあの冷静さ。……指導力もある?)
石塚優綺は魔術型として登録されている。なのに戦闘スタイルは完全に近接型だ。最初の適性検査で間違えたのか、それとも隠れた素質でもあったのか。
「お疲れ様です」
「ありがとうございます」
「痛い……」
毎日の日課となっている模擬戦を終えた二人に、ペットボトルのお茶を渡す。模擬戦は訓練の最後に行われるので、少しばかり休憩をしたら後は帰宅するだけだ。
「朱音」
「はい。なんでしょうか」
振り向くと何故か笑みを浮かべている良治が背後にいた。二人に気を取られていたとはいえ気配を消して忍び寄るのは趣味が悪いように思える。
「模擬戦しないか?」
予想外の誘い。二人の模擬戦を見て自分もやりたくなったのだろうか。
観察を始めて数日ではあるが、彼は少しばかり子供っぽいところが稀に見え隠れする。
「……遠慮いたします」
「残念」
少しだけ考え、朱音はその申し出を断った。勝てるとは思えないし、まだ勝てるビジョンのアイディアすら浮かんでいない。次に戦う時はせめてそれが形になってからにしたいと考えている。
良治は残念そうな表情も素振りすらなく二人に歩み寄り、今の模擬戦の良かったところと悪かったところを話し出す。
なんとなく置いて行かれたように感じて朱音は小さく息を吐いた。
流派のトップと似た雰囲気、師の義兄という関係性もあり、なんとなく、本当になんとなくだが――彼に親近感を覚えた。
日常生活をこの数日見ていたが彼は悪い人間ではない。お人好しとは言えないが弟子や周囲の人間には優しく、気遣いも忘れない人間だ。一つ言うなら周囲にいる人のほとんどが女性なことくらいだろうか。
人間性、性格的には問題ない。退魔士としての実力も知識も。
浦崎雄也とは違う部分が大部分だが似た雰囲気。彼のようなカリスマ性を感じることはないが、それは大きな問題ではないと思える。
(……信じて、みようか)
言葉上、表面上では『主様』と呼んでいたが確かに使えるに値する人物であると朱音は結論付けた。
だが観察し始めてまだ数日、あくまでも仮決定だ。
(私も、まだ成長できるかな)
主とその弟子たちを見る視線に、羨ましさが混じっていたことに彼女は気付けないでいた。
【魔族の生態】―まぞくのせいたい―
時折現れる魔界との扉の影響で昔より遭遇率の高くなった魔族だが、その生態は依然としてそのほとんどが謎に包まれている。その原因の一つに、魔族は死ぬと塵になって消えてしまうことがあり、研究はほぼ止まったままである。
しかしこれでも白神会は他の組織に比べて研究や情報が格段に多く、対魔族戦には長じている。




