過去との再会
舞台は現代、東京。
バイト帰りの彼の前に現れたのは――
「お先に失礼します。お疲れ様でしたー!」
「おお、おつかれさん。また明日な」
「おつかれー」
「お、これから飲みに行くんだが一緒にどうだ。おごっちゃるぞ」
「すいません、これから寄るとこあるんで。また今度お願いします。では!」
「おう!」
手を振って彼は現場のプレハブ小屋を出た。この現場も早二週間。気のいい人も多く、馴染むのに時間はかからなかった。年下の彼に飲みを奢ってくれるくらいには仲良くさせてもらっている。
「ふぅ……」
肉体労働の疲労と人間関係の疲労。工事現場の仕事は結構入るのでそこまでではない。しかし周囲の人たちがどんなにいい人たちであろうと、そこに疲れを感じてしまう。長く付き合えば付き合うほどにそれは重くなっていき、逃げ出したくなる。すぐに対応は出来るがそれがどうしても長続きしない。
だから彼――柊良治――は登録制の派遣バイトを繰り返していた。
黒髪に中肉中背という平凡な容姿でいかにも何処にでもいそうな男性。まともな人間ではないからこそ、ここ数年彼は意識してそう生きて来た。
「雨か」
派遣先である工事現場の扉を閉じると小さな雨粒が落ちて来ていた。
傘はない。自宅まで一駅なので一瞬走って帰ろうかとも思ったが、自分の虚弱体質を悲しいほどに理解しているので電車で帰ることに決める。雨の中走って帰るなどしたら、十月半ばという季節も相まってまず風邪を引くだろう。
帰り道に寄ろうと思っていた本屋を諦め、駅構内にある本屋に狙いを変更する。定期的に購読しているサッカー雑誌はマイナーだが本屋には置いてある。自宅最寄りのコンビニには置かれないので月に二回は本屋に行く生活だ。
もう一つの趣味である麻雀は一昨日行ったばかりなので候補には入れなかった。雨宿りには最適なのだが、のめり込むのも怖い。
派遣バイトを始めて三年、東京の上野に住み始めて半年が経つ。五年前から日本を放浪し、基本的に三か月を待たずに別の土地に移動していた彼にとって、この生活を始めてから半年は新記録だ。
一度だけ半年近くを新宿で過ごしたが、今回はそれを超えている。あの時は彼にしては珍しく付き合っていた彼女がいたのだが、結局長続きせず別れてしまっていた。ちなみに今まで付き合った女性は二人しかいない。これは彼の生活と人生を考えれば妥当と言えた。
軽く速足で駅に向かう。周囲の人々も傘を持っていない人は小走りだ。段々と雨足が強くなってきている。
信号のない横断歩道を渡り、改札へ向かう大きな階段を駆け上がった。雨宿りの人もいるのだろう。多くの人で混雑をしている。十八時という時間のせいかスーツ姿のサラリーマンも散見された。
「え……嘘、良治?」
階段を昇った先で顔を上げた彼に、驚きの声が届いた。
そこには数年振りに見る顔。組織を飛び出すまで毎日のように会っていた女性の姿があった。
長い黒髪、やや釣り目がちな瞳、モデルのようなスタイルと姿勢の良さ。驚愕に彩られながらもその整った顔立ちは相変わらずだった。
懐かしい。いつかこんな日が来ると思っていた。そんな思いが頭を巡るが彼は感情を隠して一言口にした。
「いいえ、人違いです」
「ちょ、騙されないわよっ!」
記憶にある彼女の声そのままだ。五年前飛び出したあの日のまま。
「だから人違いですって勅使河原結那さん」
「わかってるじゃないっ!」
別に本気でとぼけようとしたわけではない。それに気付けないのか、彼女――勅使河原結那は声を荒げた。
あまりの懐かしさに触れたくなる。昔は向こうからべたべたと触れてきていたのに、こんなことを思うなど信じられなかった。結局それが逃亡の原因になってしまったのだが。
「とりあえず人が見てるので声を抑えて」
「う……わかったわ。その代わり逃げないでよね」
「ああ。でも時間がないから短めに」
ようやく冷静になった彼女が少ししょんぼりしながら言う。
良治も逃げるつもりはない。だが彼女と会ったらどんな話になるかは予想で来ている。だから話はあまりしたくはなかった。
「……もう。あのさ、あの時はごめん。私が悪かったわ。だからその……戻って、こない?」
やっぱりそうなるよな。ほんの少しだけ、口の端が僅かに動いて苦笑いをした。良治の予想通りの言葉だったからだ。
謝罪と、組織への復帰。きっとあの頃の仲間は自分と会ったならそれを口にするだろうと。特にその直接の切っ掛けとなった結那なら。
「戻ることは考えてない。……あの時は俺も悪かったと思ってる、ごめん。……じゃあ悪いけど予定があるから」
「よ、良治っ」
だが戻ることは考えていない。あの時のことは悪かったとも思っているし、若かったとも思っている。だが今更戻る気はないし、今のマイペースで少し自堕落な生活もそんなに悪くないと感じていた。
結那の手は空を切り、所在なさげに揺蕩った後、ゆっくりと戻っていった。
この展開は予想をしていた。きっとこうなるだろうと。昔の友人である勅使河原結那に会ってしまったということは、彼女の友人にその情報は伝わるだろうと。
そうなればきっと会いに来るだろうと。
「……良治」
工事現場を出てすぐのところで待っていたのは、短めのポニーテールを結った女性。戸惑うような、怖いような。会いたかったのに会うのが怖いそんな表情で両手をぎゅっと握り締めている。
「まどか……結那に聞いたのか」
やや気弱な彼女の様子は今まで何度も見たことがあった。言いたいことがあるのに言い出せない時の顔だ。
柚木まどか。目の前の彼女は良治が初めて付き合った彼女だった。
彼女との思い出は多い。中学二年から別れた二十歳までの青春時代はずっと一緒だった。楽しい思い出のほとんどに彼女の姿はあった。
「うん、きっとこの辺に住んでるか働き先があるはずって」
「そっか。それで……なんだ? あまり時間は取れない」
話の内容はきっと昨日と同じだ。彼女が近くに来た事は昔結んだ契約でわかったが、逃げるのも不義理な気がして会うことにした。良治がわかったということはまどかも彼が近くにいることはわかっている。彼女を避ければ間違いなく傷付くだろう。まどかはあまりメンタルが強くないことを知っていた。
「ずっと後悔してるの。あの時あんなこと言ったこと。ごめんなさい、もう二度とあんなこと言わないから……戻ってきてよぉ……」
「……悪い。戻るつもりはもうない。俺は俺で好き勝手に生きると決めた。だから白神会にも戻らないし、まどかとも縒りを戻すつもりもない」
「……っ」
静かに涙が流れる彼女にとってその言葉は厳しく辛いものだった。
彼女を傷付けることを理解して、真っ直ぐに良治は言った。
「俺もごめん。あの時何も言わずに出て行って。あの時言われたことは忘れられないけど、俺の行動も酷かった。それだけは本当にごめん」
「なら……」
「でもあの時まどかは俺にとって言ってはいけないことを言ったし、それは俺にとってまどかとの関係を終わらせるには十分なことだったんだよ。
この間結那も謝ったけど、俺は三人ともが悪かったんだと思う。それにあれから五年も経ってだけどみんな謝れたんだ。だからそれでいいと俺は思う」
良治にとって全ては過去のこと。今回のことはその清算だ。これから前を向いて生きていくことに必要なもの。
逃げていた過去が今追いついたのだ。なら、これからの人生を進む為に終わらせないといけない。そう思ったのだ。
「じゃあ戻ってきても……」
「駄目だよ。みんなそれぞれ別の道を行く、それでいいじゃないか」
「わ、私は今でも……!」
別れた時は感情的になったと良治は自分でもそう思う。まどかのことは嫌いでもないし、好意はある。でもそれは全てを放って優先するほどではない。これくらいの気持ちは昨日会った結那にも持っているし、五年前にももう一人いた。
「時間だ。……ごめんな」
「よ、良治ぅ……」
初めて会った時にこんな女の子と付き合えたらなぁと思った彼女が今泣いている。
謝罪の言葉を残して、昨日買いそびれた雑誌を今日も買うことはできずに良治は帰路に立った。
曇天模様の空が、雨粒を零した。
二度あることは三度ある。
肉体的な疲労とここ二日の精神的な疲労を引きずって工事現場を出た彼を待っていたのは見知った女性だった。しかしそれはうっかり鉢合わせた結那でも、その翌日待ち伏せされたまどかでもない。ちょうど昨日思い出した女性だった。
「こんにちは。奇遇ですね」
「こんな仕組まれた奇遇は初めてだよ、天音」
短めの少し茶色がかったクセっ毛。小柄で落ち着きのある態度は五年前別れたまま変わっていない。むしろ更に落ち着きが増したように感じるのは茶色を基調にした衣服の影響かもしれない。良治やあの二人よりも二歳年下なのだが誰よりも落ち着きがあり冷静だった。彼女が声を荒げるところはほとんどない。
「褒めて頂いて何よりです。それで、最近どうですか?」
「ぼちぼちだよ。最近平穏だった毎日が崩れそうな予感がしてるけど」
当たり前のように世間話を始める。五年間の空白などなかったように。
その気遣いに感謝し、良治はそれに乗る。こうやって軽口を叩くのも久し振りだ。逃亡中の五年間に心を開けた人間は数えるほどだった。
「良い勘してますね。一線から退いても勘は鈍っていないようで安心しました」
「ただの皮肉だよ」
「はい、わかってますよ。さすがにお疲れかと思いまして」
「ならなんで来たんだ。特に話はないんだろ?」
二人の話は聞いているようだ。ゆっくりと歩き出した良治の横に並んで天音もついてくる。話の内容によっては長くなるかもしれないので、話を切ることが出来るように駅に向かう。あまり交通費は使いたくなかったが仕方ない。
「私はお二人とは違いまして謝ることはさほどありませんから。ただあの時の良治さんに負担をかけていたなら申し訳ありません。それくらいです」
「別に気にしてないよ。天音なりに上手く立ち回っていたと思うし」
良治に好意を向けながらも一線を超えないように振る舞っていたことを思い出す。まどかという彼女に遠慮していたのと、きっと良治がまどかとその周囲との関係を壊すことを望んでいないことを察していたのだろう。天音は頭の回転が速く、考え方も彼に近いものがある。それだけに信用もできた。
「それなら良かったです」
「で、それだけならもう行くぞ。時間もないしな」
「ええ、大丈夫です。私の用事は済みましたから」
「用事?」
穏やかな表情を浮かべる彼女には確かに満足感があった。しかし天音が何かしたことに心当たりはない。
疑問を浮かべる良治に微笑んで彼女はこう言った。
「はい。今日は良治さんに会いに来ただけですから。私は満足です」
「……まったく。変わらないな天音は」
「変わってませんよ。この気持ちもあの時から」
「……じゃあな」
「はい、それでは」
大した女だ。そう心の中で呟いて苦笑する。本当に変わっていない。それなりに年月が経っているにもかかわらず、的確に人のしてほしい行動や嬉しい言葉を紡いでくる。
「でも、駄目だ」
人間関係は億劫だ。それが昔からの知己だとしても、きっと深くまで関われば煩わしく感じるだろうし、逃げ出したくなる。
それは逃げとも臆病とも言われるだろうが、彼自身はそれでもいいから好きに生きたかった。自由に、勝手気ままに人生を過ごしたいと思っていた。
潮時だ。長居し過ぎた。もうこの場所を離れるべきだろう。
良治は決断した。今の現場も明後日には終わる。今後も別現場の仕事を頼まれていたが、それは全てキャンセルして別の土地に行こう。
そう決めた良治は軽やかに電車に乗り込む。待たずに乗れたことに少しだけついているなと感じて、きっと上手くいくと感じていた。
そう感じていた、いや信じようとしていた良治だったが、やはりそう上手くはいかなかった。
「ごめん、良治。ちょっと協力してほしいの」
工事現場最終日の仕事を終え、これから少ない荷物を纏めて引っ越しの準備に入ろうと思っていた彼の前に現れたのは申し訳なさそうな結那だった。衣服は先日会った時と変わっていたが相変わらずのミニスカにニーソだ。この組み合わせは嫌いではない。むしろ好きだと言ってもいい。
「良治?」
「あ、いや。で、なんだ協力ってのは」
「ここじゃちょっと。車で来てるからそこで。……安心して、そのまま連れ去るなんてことしないから」
「わかった」
返事に頷いたことを確認した結那が歩き出す。そう遠くない場所に彼女の車は止めてあった。少しだけワゴンっぽい、シルバーの軽自動車だ。綺麗なのは買ったばかりなのか手入れがされているのか。その判断はつかなかった。
「さ、乗って」
「よっと……で、強引に車に乗せて用件はなんだ?」
「一応言っておくけど他言無用で。――福島支部が襲撃されたわ」
「……どうなったんだ」
福島支部。それは白神会三大支部の一つ、北の守りの要だ。そんな重要拠点が襲われたなんてにわかには信じ難い。しかし結那が嘘を言う必要を感じられない。ということは本当なのだろう。そしてそれなら問題は襲撃者と被害状況に当然移る。
「今のところ死者三名、負傷者は七名って話よ。……勝夫さんも亡くなったわ。犯人は、多分霊媒師同盟」
「勝夫さん、やられたのか……」
勝夫とは福島支部を治める蓮岡家の縁者で、現当主の後見人だ。良治の知っている五年前の段階でも老齢だった。襲撃に対処しきれなかったのかもしれない。
そしてもう一つの情報も気になった。霊媒師同盟のことだ。
霊媒師同盟。それは東北地方に強い影響力を持つ組織だ。白神会とは福島付近を境に接していて、交友はない。
「でもちゃんと説明するなら車じゃなくて、新幹線の方が楽でよかったんじゃないか?」
「こんな話誰が聞いてるかわからない新幹線の中で話せるわけないじゃない。ってかこういう機密に関しての規則って昔良治が決めたんじゃないの?」
「ああ、そういえば俺が決めた気がする」
組織を出る前に作った覚えがある。白神会は日本最大の組織の割に脇が甘いと言うか、細々とした約束事や決まり事が少なく、問題が出そうなことを中心に規則を作ったことがあった。今回結那が言ったこともその一つだ。良治本人は最初から気を付けていたし、規則が施行されて間もなく抜けたので実感がなかったので忘れてしまっていたのだ。
「それで部外者の俺にどうしろと」
「人手が足りないの。急なことだったし、どうも止めないとこのまま侵攻してきそうな感じなのよ」
「人手はあるだろう。結那にまどかに天音。それに葵さんや東京支部のメンバー。それで足りなきゃ長野支部に救援を求めても」
良治が組織を抜けた時点でそれなりに戦力はあったはずだ。あれ以降大きな事件も聞いていないので順調に行っていれば更に戦力は増えているはず。
「それでも足りないのよ。次に襲撃される支部が何処かわからないから、可能性のある支部にばらけて配置になったの。福島支部から南下するのか西進するのかまだわかってないのよ」
「宇都宮か新潟方面か、ってことか」
「そう。あとまどかは東京支部から動けないし。知ってる? まどか今東京支部の副支部長よ。一昨年葵さんが結婚して子供産んで、それから実質まどかが仕切ってるの。葵さんはもう半分引退ね」
「はー……時の流れを感じるな」
葵は東京支部の支部長だったがもうあまり仕事はしてないようだ。結婚も出産も知らなかったので少しびっくりした。確か二歳年上だったので今二十七歳のはずで、それならそんな話も納得できる。
「……良治、本当に戻ってこないの?」
「戻らない。というかもう無理なんだよ」
良治の様子を慎重に伺うように尋ねる結那。触れて欲しい話題でないのは重々承知しているらしい。それが感じられたので素直に理由を口にすることにした。
「無理って?」
「なんだろうな。気が抜けたっていうか、もう集中力が続かなくなってる。長い期間同じところで働くって行為がどうしても出来ないんだ」
「……あの頃、ずっと働きづめだったから、壊れちゃうかって心配だったのよ?」
「壊れたからこうなったんだよ」
「……ごめん」
自然と責めるような口調になってしまったことに自分で苛立つ。こんなことを言いたかったわけではない。
「いや、いいよ。お互いに謝ったし、もう終わった話だ。でもだからと言って全部が全部元通りになるわけじゃないし、しないといけないわけでもない」
別の人生を歩き出した良治にそこまでの未練はない。
それに先ほど言ったように、戻ってもしばらくしたらまた抜けることになるだろう。同じことを繰り返しても意味はない。
「……うん、わかった。戻ってこなくてもいいわ」
「すまないな」
「だから雇うわ。白神会東京支部の第四位階級退魔士・勅使河原結那として、退魔士・柊良治を」
結那はにやりと笑ってそんな提案をした。
悪霊や魔獣、時には魔族といった魑魅魍魎を相手に戦う退魔士として。
【退魔士】―たいまし―
古来から伝わる祈祷師、陰陽師から連なる悪霊や魔物、魔族といったモノを実力で排除する力を持った人々の総称。
組織に属する者、寺社仏閣で独立する者、各地を放浪する者や犯罪に手を染める者など様々である。