地獄ノ玖
翌日の10時の休憩時、一同は足場材の上に腰かけ缶コーヒーを飲んでいる。話題はパチンコやテレビ番組、若者ふたりはお笑いネタの物真似をしてはしゃいでいた。
藤沢の携帯が鳴る、・・・山野井の番号だった。「やあ、おはよう。・・・昨日は大変だったらしいな、怪我などは大丈夫か?」山野井は単刀直入に話しかけてきた。藤沢は大丈夫だと伝える。
(・・・昨夜の銃撃のことを知っているのは近所の住民と、事情聴取に来た警察官ぐらいのはずだが・・・この男はいろんな情報網を持ってるらしい)
・・・あの後じきにパトカーが到着して玄関先でいろいろと聞かれたが、さほど長くはかからなかった。警察は藤沢が元ヤクザだと知ってるから簡単に済ませたのかもしれない。帰り際に外で、「警察は、あのろくでなしを放置するつもりか!」と詰め寄る野次馬の声が聞こえた。
「それで君にちょっと話があるんで、今夜君のお宅に伺おうかと思ってるんだが・・・」山野井は気さくな感じで話す。「それなら自分が本社に伺います」藤沢が答えた。「うーん、・・・なら仕事帰りに鳶組の事務所で会おう」山野井が言って電話は切れる。
暗くなりはじめた頃鳶組のヤードに着く、若いひとりが、「あ、デイムラーだ。社長が来てるっすよ」と言った。材料の山の隅に黒塗りのデイムラー・ダブルシックスが停まっているのが見えた。暗がりでも艶々と輝いているのが判ったが、かなり古い型のようだ。おそらく1980年代前半のモデルだろう。だとしたら30年以上も前の車だ。
ハイエースから降りると、先に帰ってきてユニックで荷下ろししている連中をみんなで手伝う。ここの連中は他人の仕事の手伝いをすることを面倒だと思っていないようだ。人海戦術でやるからすぐに片付いた。これも梶浦の教育方針なのだろう。
ひと通り終えて事務所に入る。パーテーションの向こうから、「おう、おつかれさん」と、ふたり分の声がした。「武彦はこっちに来な」梶浦に呼ばれたので、パーテーションの奥へ行く。梶浦の席をのぞくとデスクの横で、イスに逆向きにまたがって梶浦に向き合っている山野井がいた。
初日に本社で見た仕立てのいいスーツではなく、カジュアルな服装でハイライトをくわえている。藤沢を認めると片手をあげた、立場にふさわしくない人懐こい笑顔だった。
「まあ座れや」梶浦に言われて近くのイスに腰を下ろす。「昨日のことは今さっき、社長から聞いた。えらい目に遭ったな」梶浦はパーテーションの向こう側に聞こえないよう、いくらかトーンを落とした。
峰を箱から1本抜き出してくわえてから、「おめえが出所して、長野に戻ってきたことを知った原島の陰謀だと思う」火を点け煙を吐き出す。
「かつての組長、野沢襲撃の仕返しのように装っちゃいるが違うな。あの野郎の性格だ、カタギに戻って何の後ろ盾もなくなった丸腰のおめえを、いたぶるのを楽しもうとしてんのさ。猫がネズミをいたぶってから殺るようにな。・・・そしておめえが反撃してくるのを心待ちにしている、そうなりゃ大儀ができたようなもんだ、遠慮なしにおめえを叩きまくれる。・・・いいか、その手には乗っちゃなんねえぞ、武彦!」三白眼が現役の頃のように光った。山野井はそばで黙って聞いている。「わかりました、ご心配ありがとうございます」藤沢は座ったまま頭を下げた。
「で、俺の話なんだが」と、山野井が切り出す。「三登山の方に、うちの不動産部が古いログハウスを持っててね。・・・元々は東京の小さな会社の持ち物だったんだが、資金繰りが厳しいらしくて、うちに是非買ってくれと頼まれて仕方なしに買ったんだが、なんせ古い家だから空家にしとくと傷むのが早くてね。・・・そこで昨日のこともあるし、君に住んでもらってある程度の手入れをしてもらいたいんだ」山野井はそう言うと、いい返事を期待する子供のような目つきで藤沢を見た。
「・・・それはありがたい話ですが、俺は手持ちの金持ってないですから・・・」藤沢が言うと、「そういう心配はいらない。買う買わないじゃなくて、君に住んでもらって家に命を入れてもらいたいんだよ・・・もちろん、気に入ったのなら買ってもらっても結構だよ」山野井はますます子供のような目になる。
「いい話じゃねえか、武彦。・・・今の実家に住んでたら野沢組には狙われるし、近所からはそのうち嫌がらせか、立ち退きの署名でも突きつけられるかもしんねえぞ」
藤沢は自分が狙われることは仕方ないと思っていたが、近所の無関係な住民に被害が及ぶことだけは絶対避けたいと思っていた。(無関係な人間を巻き込むことだけは、自分が死んでも阻止する)事情聴取の際、藤沢が腹に決めていたことだった。
「ありがとうございます、・・・俺のような刑務所帰りのならず者に、ここまで目をかけていただいて、・・・このご恩は一生忘れません」藤沢が立ち上がって深々と頭を下げると、「おいおい!大げさだよ!」と、山野井が白い歯を見せて笑った。