地獄ノ肆
マンション前の道路にパトカーと救急車が到着すると、周辺の景色は回転灯の光で真っ赤に染まる。光と警戒音に導かれるように、野次馬が次々集まってきた。
警察官が駆け寄ってきて藤沢の姿を見てギョッとなる。顔にまで返り血を浴びた藤沢は血まみれで、白目だけが異様な光を帯びていたからだ。
警察官は事情説明を求める、藤沢は「俺が殺った」と短く言うと両手を差し出す。警察官はニッケルメッキされた旧型の手錠を出して、両手に掛けた。同時進行するように救急隊員も、あわただしく周囲を駆け回っている。
警察官に腰縄を打たれた藤沢が通りに出ると、野次馬たちはその容姿を見て悲鳴をあげる。あわてて逃げ出す者もいた。パトカーの後部座席に乗り込むと車内は無線の音がひっきりなしに応答している。
藤沢は心も身体も疲れ果てていた、シートに座って目を閉じると、泥のような眠りに落ちてしまいそうになった。
中央署に着くと狭い取調室に連れていかれ、図体の大きい刑事が取り調べを担当した。耳が妙な形に崩れているので一見して柔道家だと判る。角刈りの頭の半分は白髪だ、目つきの鋭さはやはり刑事のそれだが、藤沢に対する態度はいたって冷静で紳士だった。
藤沢はすべてを真実のままに話す。いづれ死刑になって実尋のところへ行く身に、隠すことも飾ったり嘘をつく必要もないからだ。藤沢は片山という名の刑事に、明確な殺意があってそれは計画的だったことも話す。
・・・別の刑事が調べ室に入ってきて片山に耳打ちした、片山は短かくうなづく。そして藤沢の目をまっすぐに見つめてきた。「これは君にとって幸か不幸かわからんが、・・・野沢は一命を取りとめた。つまり君の容疑は『殺人未遂罪』ということになる」
(・・・悪運の強い野郎め、生き残りやがったか!)藤沢は自身の罪が軽くなることなどちっとも嬉しくなかった、野沢を完全に殺さなかった自分の詰めの甘さに憤った。そして実尋に詫びたい気持ちでいっぱいになる。
翌日検察に送検され10日後起訴される。2ヶ月後に裁判になり、求刑10年のところ懲役6年という実刑判決が下った。藤沢は控訴しなかったので刑が確定する。千葉刑務所に服役することになり、刑務所生活がはじまった。
頭を丸め、薄草色の作業着を着て、施設内のどこへ行くにも整列・行進の日々だ。塀の中にはいろんな人間がいた、藤沢と同じぐらいの年齢から、よぼよぼの年寄りまで。藤沢の同業者もいれば一流企業の社員もいる。・・・刑務所に入所してから藤沢は必要なこと以外、ほとんどしゃべらなくなった。感情を表すこともなく淡々と過ごしていた。
野沢を殺しきれなかった後悔から、自分の末路などどうでもいいと思うようになっている。『俺の心はもう死んでいる』そう感じていた。
刑務所に入った翌年、父親が脳梗塞で死んだ。その翌年には母親が心臓を患って死んだ。兄弟のない藤沢は天涯孤独の身になったが、悲しみの気持ちは湧いてこなかった。
(親の死に目に会えない、いや両親の死の原因は自分が作ったようなものだ。・・・つくづく親不孝者だ)と思っただけだった。
藤沢は刑務作業で木工に携わる、図面通りに墨出し材料を切り出して組み立て、研磨して仕上げる。椅子や箪笥やベッドなどの家具を製作する作業だ。ただひたすら一心不乱に作業に集中していると、その時間だけは実尋を失った喪失感から逃れることが出来る。他の受刑者や刑務官と煩わしい関わりあいもしなくて済む。いつしか藤沢の技術は本職レベルになるが空疎な気持ちは何も変わらなかった。
ある日慰問で、どこかの坊さんが講演に来た。坊さんは仏教の理論である『六道輪廻』について話す。「人間は生命状態や行いによって、六つの世界をぐるぐると転生するのです。・・・死後どの世界に生まれ変わるか、ということでなく生きている現在の我々の暮らしそのものが、六道輪廻なのです」・・・藤沢は坊さんの言葉に熱心に聞き入った。
坊さんはそれぞれの界を説明した。地獄界とはその名の通り、さまざまな苦しみを受けるもっとも辛い界。餓鬼界とは深い欲望の世界、常に物事に飢えと渇きを感じ続け、そして他人を妬む。畜生界とは本能ばかりで生きるものの世界、理性というものを持たない・持てない生命状態。修羅界とは終始戦い争い続ける世界、怒り狂うことで苦しみが絶えることはない。人界とは人間が通常に生きる世界、苦しみもあるが楽しみもある、・・・穏やかに生活している生命状態といえるかもしれない。天界とは人界よりも高いところにある生命状態だが、高慢な意識が強いため煩悩から解き放たれることはない。
・・・藤沢は坊さんの講釈を、自分なりに解釈してみた。(・・・俺の人生はほとんど、地獄・餓鬼・畜生・修羅の四界を転生しているようだ)