畜生ノ壱
・・・携帯電話の呼び出し音で目を覚ました。暗闇の中、携帯画面の明かりを頼りに手に取る。『藤沢和彦』の文字が読めた。(叔父貴か、・・・こんな時間に)藤沢は電話に出る。
「武彦君・・・」藤沢はいつものヤニに灼けた和彦の声じゃないことに戸惑った。黙っていると、「私、理恵子だけど・・・」と、意外な名前を聞く。藤沢は一瞬(理恵子・・・って誰だ)と思ったがすぐに気づく。
「理恵ちゃんか、どうした?」藤沢はやっと平常な感覚を取り戻した。だが電話の向こうは沈黙する、やがてしゃくり上げる息遣いが聞こえ、そして泣き声に変わる。「・・・おとう、・・・お父さんが」そこまで言うと理恵子は泣き出して会話にならなくなった。藤沢は不穏な響きに心臓の鼓動が高鳴り、背筋から頭までジンジンしてきた。だが理恵子の様子が落ち着くのを待つ。
・・・5分後、藤沢はジープに飛び乗ってエンジンを掛けるとすぐに飛び出す。・・・深夜の山道はタヌキや鹿がうろちょろしている、そいつらを蹴散らす勢いで夜道を駆け下りる。・・・頭の中はまだガンガンしたまま、心臓の高鳴りもそのままだ。
『・・・お父さんが轢き逃げされて病院に運ばれたんだけど、まだ意識が戻らないの・・・』理恵子の言葉が何度も頭をよぎる。藤沢は病院の名前を聞いただけで、電話を切って飛び出したのだ。理恵子が伝えた病院は市内で一番大きな総合病院だった。
藤沢の住む山からは同じ市内といえど結構距離がある。・・・いつもの半分の時間で市街地まで下りると、二車線の主要道路はガラガラだった。100km/hのスピードで駆けていく。どうでもいい信号は減速してパスしていく。早鐘のような心臓のまま、(叔父貴、死ぬなよ!)と、繰り返し念じた。
河川敷の近くにある巨大な建物が見えるとジープを駐車場につっこみ、夜間受付の玄関に走っていく。・・・救命救急センターを探して歩いていると、「武彦君・・・」と、声を掛けられた。理恵子だった。(・・・久しぶりの再会が、こんな場所でこんな形になっちまうとは)
理恵子は泣きはらしたようで真っ赤な眼をしていた。産後間もない身体にも相当ひびいているだろうと切なくなった。・・・理恵子の後ろに長身で眼鏡の痩せた男が立っていた、旦那だろう。理恵子以上に蒼白な顔をして藤沢に頭を下げた。
理恵子夫妻に促されて、暗い待合に行く。和彦が処置を受けている場所からは離れているらしいが、そこで待機させられているようだ。・・・見覚えのある男たちがうなだれて座っているのが見える、『藤興業』の若い衆が全員顔をそろえていた。藤沢を認めると、「武彦さん・・・」と言って沈痛な目を向ける。藤沢はやり切れないため息をついた。
放心状態の理恵子が近づいてきて、無表情に話し出した。「・・・お父さんは全身と頭を強く打っていて、意識を取り戻すかどうか今はわからないって言ってた・・・。あと、右足をひどく傷めていて、それは膝から下を切断するしかないって・・・」
理恵子の蒼い顔を見つめると、藤沢は何も言えなかった。(・・・昨日の夜、あんなに元気で孫の誕生を喜んでいた叔父貴が・・・)藤沢は両手を強く握って、ひたすら和彦の生還を祈る。
・・・暗い待合にふたり分の足音が近づく、藤沢は顔を上げて振り向く。梶浦と山野井だった。同時に振り返った一同に深々と頭を下げた。山野井は沈痛な面持ちのまま立っていたが、梶浦は藤沢に近づいて、「武彦、ちょっと・・・」とつぶやく。見つめている梶浦の目は、あの頃の険しさと同じだ。ふたりとともに待合をあとにする。
昼間は患者や見舞い客でごった返す広いロビーの片隅で、梶浦と山野井は足を止めた。梶浦は少しためらったような目をしたが、「藤さんとおめえのことだから話すが・・・」とつぶやきはじめる。
「・・・昨日の夜8時頃、藤さんは野沢組の事務所を訪ねていった。アポを取って行ったのかはわからねえが、組長の原島は事務所にいて藤さんと2時間ほど話したそうだ。・・・内容は野沢組がおめえに、これ以上関わらねえでほしいとの請願だ。・・・これまでのイザコザはすべて忘れるように武彦を説得するから、組の方も今後一切関わらねえでくれと、示談金として原島に100万渡したそうだ。・・・原島は『そんな事実はひとつもないし、今後もそのつもりはない』と言ったらしいが、藤さんの渡した金は『前組長の見舞金』としてなどと言って受け取ったそうだ」
・・・藤沢は奥歯を強く噛みしめた、身体の震えを止めるためだ。だが握りしめた拳はひとりでに震えだす。・・・和彦のひたむきな姿勢と原島の陰険な表情が、すぐそこにあるように目に浮かんだ。
「・・・それでな、藤さんは野沢組まで歩いて5分ぐれえの駐車場に車を停めてたんだが、組を出て駐車場に着く寸前に轢き逃げされたらしい。・・・車は盗難車で容疑者はまだ上がってねえ」
そこまで聞いた藤沢は、狼の唸りのような声を吐き出して肩を荒く震わせた。もう尋常な精神状態ではない、阿修羅像のように全身から怒りのエネルギーを発散していた。・・・察した梶浦は、「武彦、落ち着けよ!」と声をかけたが、藤沢には聞こえている様子はない。
鬼のような目に変わった藤沢は、出口に走って行った。「武彦!」と叫ぶ梶浦の肩を山野井が叩いた。




