餓鬼ノ参
藤沢はケンを抱き上げ家に運んでいく。わずかに体温が残っている小さな体は、まだ硬直してはいなかった。ケンの寝床であった黒いローソファーに横たえてやる。・・・いつもの寝姿と何ら変わらない、今にも起きだしてきそうに思える。
・・・ケンの腹部に深く刺さっているものは、銛を短かくぶった切ったものらしい。藤沢はケンの身体を傷つけないように慎重に抜こうとするが、銛の先には『返し』がついているから、簡単には抜けてこない。両手を血まみれにしてやっと抜きだすまでに、30分以上かかった。どうやら心臓をひと突きされたらしい。
湯に浸したタオルで、傷口と血をきれいに拭いてやる。眠っているようなケンの姿を見ていると、また新たな悲しみと怒りがこみ上げてきた。藤沢は床に座り込んだまま1時間ほどケンを眺めていた。
作業着のポケットから携帯を取り出して、梶浦に電話を入れる。「申し訳ありませんが、しばらく休ませてください」と言うと、梶浦は少しの沈黙のあと、「・・・なにかあったな」と低い声で言った。梶浦のあの目つきが脳裏に浮かんできた。
「・・・いえ、ちょっと用事ができましたので。・・・すんません」藤沢は梶浦にかける前に、理由を用意していなかった。「・・・まあいい、わかった」梶浦は短かく言うと電話を切る。
・・・携帯をテーブルに放り出した時から、藤沢の目つきは明らかに変わりはじめる。リビングの隅に立てかけてある大きなトランクケースを引きずってきて、床に倒してからケースを開けた。衣類を上から順に取り出すと最後に黒っぽいダブルの縦じまのスーツが出てきた。それを横によけると、1本の匕首が転がっている。藤沢は匕首を白鞘から抜く、・・・青白い刃が冷たく部屋の明かりを照り返していた。
作業着を脱ぎ捨て、かつて愛用していたそのスーツとシルバーグレイのシャツに着替える。ネクタイはつけなかった。藤沢の目はギラリと光り、顔はますます陰惨なヤクザ時代の翳りを帯びている。・・・刃渡り30cmの匕首を左の内ポケットに忍ばせる。
ケンの屍の前にしゃがみこみ手を合わせる。(お前の死は無駄にはしない、きっと仇はとってやる・・・)藤沢はケンの身体から抜きだした銛を片手に玄関を出る。
ジープのエンジンをかけるとスーツのポケットから黒革の手袋を取り出して、両手にはめた。ここ一番の襲撃の時にいつもはめていたものだ。助手席に置いた銛を握りしめると、革手袋はキュッと掌にくいこむ。
ジープはもう深夜になろうとしている山道を駆け下りていく。
・・・やがて街の明かりが近くなってきた頃だった、突如ジープのバックミラーにヘッドライトの光芒が迫ってくる。それはかなりのスピードで追いついてきて、あっと言う間にジープを抜き去る。「ちっ!」藤沢が舌打ちをしてる間に、今度は減速して急ブレーキを踏んで停車した。それは藤沢が見たこともない古い国産のスポーツカーのようだった。色は黒か深い緑色のようだ。(・・・なんだ!この野郎は!)藤沢の頭に血が昇ってきた。
藤沢がジープを飛び出すのと、スポーツカーから人間が降りてきたのはほぼ同時だ。藤沢は駆け寄りながら、「てめえ!いったい何のつもりだ!」と怒鳴り上げる。野沢襲撃の逮捕以来、こんなに声を張り上げたのは何年ぶりだろうか。・・・スポーツカーから降りてきた男は全身黒づくめの服装で、おまけに黒い目出し帽で覆面をしている。
藤沢が興奮のあまりに殴りかかると、男は機敏に身をかわした。そして右手を前に翳して、「突然現れて失礼しました」と、落ち着き払った声で言う。態度も至って冷静だった。
「誰だてめえは!これはいったい何のつもりだ!」藤沢の怒りは収まらない。もう一度踏み込んだ、覆面は軽やかに身を翻してから藤沢の正面に向き直る。
「藤沢さん、私はあなたの敵ではありません。・・・少し落ち着いて話を聞いてくれませんか」・・・藤沢は自分の名前を言った男の素性を計り兼ねる。
「なぜ俺の名を知っている、敵ではないとはどういう意味だ」藤沢は構えながらも、少し冷静さを取り戻す。
覆面は変わらず落ち着いた態度で、「あなたがヤクザに戻ることを阻止しに来ました。名前は・・・六地蔵、とでもしておきましょうか」覆面の声はまだ若い男のようだった。
「なんでそんなことを知ってる?それがお前と何の関係がある。・・・六地蔵だと?ふざけたことをぬかしやがって!」藤沢は意味不明なことを言う覆面に、また腹が立ってきて身構えた。
「・・・俺は今夜やらなきゃならねえことがある、てめえが六地蔵だかなんだか知らねえが、ジャマをするなら、てめえを先に潰すぜ!」藤沢は三白眼を光らせて、懐の匕首を抜いた。
覆面はまったく怯んだ様子も見せずに藤沢に言った、「残念ですが、今のあなたでは匕首を持っていても、私には勝てない」その声はあくまで冷静で、藤沢を説き伏せるような響きを含んでいる。
藤沢はカッとなった、「なにを!面白えじゃねえか!」構えた匕首を左から右へ鋭く薙ぐ、空気に裂け目が生まれる。覆面は胸の高さに飛んできた刃を易々をかわした。
今度は上段に構えてから振り下ろす、覆面は首を曲げ上体を捻ってかわした。・・・その無駄のない動きは、まるで次の一手を完全に読みきっているようだった。藤沢はそのまま腹に向かって刃を突くが、また右にかわされる。
「くっ!」苦し紛れになった藤沢は、覆面の顔めがけて匕首を突き出した。・・・その瞬間、覆面は首をねじってかわしざま左手で藤沢の右手首をつかむ。(しまった!)と思った矢先、覆面の拳が藤沢のみぞおちに叩きこまれる。重い拳一発で藤沢は意識が遠のいていった。




