呪われた令嬢だけが冷酷公爵に触れられる
――《呪躯》というものがある。
ある者は、生まれながらに人の倍ほども大きな耳を持って生まれる。ある者は片目だけが魔物のように変質し、ある者は右腕だけが異形となり、またある者は身体の一部ではなく、その性質そのものを人ならざるものへ変えてしまう。
原因も症状も一定ではない。魔物の血や魔力に触れたことによって後天的に発症する者もいれば、生まれ落ちた時からその身体を持つ者もいる。血統によるもの、環境によるもの、魔術事故によるもの――様々な説が唱えられているが、発症事例そのものが極めて少なく、個体差もあまりに大きいため、現在に至るまでその全容は解明されていない。
かつて賢者と呼ばれた魔術師、メフィスト・トルムンドールは自著にそう記している。
そして数ある呪躯の中には、本人のみならず、周囲の人間までも不幸にするものが存在した。
北方辺境を治める公爵、アレクシス・グランハルトもまた、その悲劇的な呪躯を持つ一人であった。
彼の身体は、人の生命を喰らう。
より正確に言えば、アレクシスの素肌に触れた生物は、その生命力を強制的に吸い上げられる。ほんの一瞬ならば眩暈や倦怠感で済むが、接触が長くなれば意識を失い、それでも離れなければ、やがて命そのものが尽きる。
幼い頃、彼にそれを制御する術はなかった。
だからアレクシスは、人に触れない。
常に厚い革手袋を身につけ、誰かと握手を交わすこともなければ、舞踏会で女性の手を取ることもない。幼少期から身の回りのことは可能な限り自分で行い、怪我をしても治療は最低限、医師でさえ彼の身体へ直接触れることは許されなかった。
そして、その特異な体質は彼の人生を孤独にした一方で、戦場においては凶悪な武器にもなった。
「公爵閣下、右です!」
声が飛ぶ。
巨大な顎を開いた魔狼が、雪混じりの地面を蹴ってアレクシスへ飛びかかってきた。
通常の狼など比べ物にならない。牛ほどもある巨体を持ち、青黒い毛皮の隙間から瘴気を漏らすその魔物を前にしても、アレクシスは動じなかった。
抜き放った剣を横薙ぎに振るう。
魔狼が身を捻り、刃をかわす。
直後、アレクシスは剣を捨てた。
「閣下!」
周囲の騎士が息を呑む。
飛び込んできた魔狼の頭部を、アレクシスは革手袋を脱いだ右手で掴んだ。
牙が目前に迫る。それでも彼は手を離さない。
暴れていた魔狼の身体が、大きく痙攣した。
次いで脚から力が抜け、巨体が雪の上へ崩れ落ちる。先ほどまで禍々しいほどに満ちていた瘴気は急速に薄れ、やがて魔狼はぴくりとも動かなくなった。
アレクシスは死骸から手を離すと、何事もなかったかのように新しい手袋をはめ直した。
「負傷者を確認しろ。群れが残っている可能性がある。索敵班は北東、追跡班は森へ入れ」
「はっ!」
命令を受けた騎士たちが即座に散っていく。
その姿もまた、普通の騎士団とは少し違っていた。
獣のような耳を持つ者がいた。左腕だけが黒い鱗に覆われた者がいた。瞳孔が縦に裂け、暗闇を昼間のように見通す者もいれば、自らの意思とは関係なく周囲の魔力を引き寄せてしまう者もいる。
北方魔物討伐騎士団。
正式にはそう呼ばれている彼らの部隊には、国内各地から多くの呪躯持ちが集められていた。
理由は単純だった。
普通の土地では生きにくいからだ。
身体の一部が異形であるだけなら、まだいい。しかし呪躯の中には、人間社会で暮らすことそのものが困難になる性質も少なくない。本人に悪意などなくとも、力を制御できなければ事故は起こる。
そうした者たちを、アレクシスは自らの領地へ集めた。
本人に戦う意思があり、能力が戦闘に転用できるならば騎士団へ。戦えない者には砦や城下町で仕事を与え、少なくとも衣食住に困ることのないよう取り計らった。
だが、その実情を知らない者たちは好き勝手な名前をつける。
――呪いの騎士団。
あるいはもっと直接的に、
――厄介者の廃棄場。
アレクシス自身、それを否定したことはなかった。
どう呼ばれようが、ここにいる者たちが生きていけるのであれば構わない。本人にとっては、それだけのことであった。
「閣下」
副官のオスカーが近づいてくる。
彼の右目もまた呪躯によって変質しており、人間には見えない魔力の流れを捉えることができる。だからといって日常生活に大きな支障があるわけではないが、赤黒く変色した眼球を気味悪がり、家族から追い出された過去を持っていた。
「砦から伝令です。例の令嬢が到着したそうです」
「令嬢?」
アレクシスは眉を寄せた。
「三日前に書簡が届いていたでしょう。フェルミナ伯爵家からです」
「ああ」
言われて、ようやく思い出す。
確か、娘が呪躯持ちであるため引き取ってほしいという話だった。
随分と勝手な申し出だとアレクシスは思ったが、珍しい話でもなかった。
呪躯を持つ子供が生まれた貴族家では、それを隠すことが多い。家名に傷がつく、縁談に差し障る、他の兄弟にまで妙な噂が立つ――理由はいくらでもある。
「状態は?」
「聞いていたより悪いようです。馬車から降りたところで倒れかけたとか」
「医務室へ運べ」
「既にそうしているそうですが……本人が嫌がっているそうで」
「なぜだ」
「自分は病人ではない、と」
アレクシスは小さく息を吐いた。
「面倒な女だな」
「まだ会ってもいない方にそれを言いますか」
「倒れかけておいて病人ではないと言い張る人間を、他にどう評価しろというんだ」
オスカーは肩をすくめた。
「その辺りも含めて、一度ご自分で確認なさった方がよろしいかと」
討伐を終えた一行が砦へ戻ったのは、それから一刻ほど後のことだった。
馬から降りたアレクシスは報告を部下へ任せ、そのまま医務室へ向かった。
扉を開ける。
窓際の椅子に、一人の少女が座っていた。
淡い金色の髪が肩から胸元へ流れ落ちている。旅装姿のままではあるが、身につけている衣服や仕立てからして貴族令嬢であることは疑いようがない。
ただし、顔色がひどく悪かった。
透き通るように白い、などという詩的な表現ではない。本当に血の気が薄く、唇にすらほとんど色がない。
にもかかわらず、少女はアレクシスを見ると立ち上がった。
「アレクシス・グランハルト公爵閣下でいらっしゃいますね」
「ああ」
「セレナ・フェルミナと申します。この度は突然のお願いにもかかわらず、私を領内へ置くことを許していただき、ありがとうございます」
淑女らしく膝を折ろうとして、その身体がわずかに揺れる。
「座っていろ」
「ですが」
「礼儀より先に自分の身体を気遣え」
セレナは一瞬だけ目を丸くした後、素直に椅子へ座り直した。
「……噂より、お優しいのですね」
「どういう噂を聞いてきた」
「近づいただけで人を殺す、血も涙もない冷酷公爵だと」
「半分は正しい」
「どちらがです?」
「近づいただけでは死なない」
セレナがくすりと笑う。
その反応に、今度はアレクシスがわずかに眉を動かした。
普通ならば、この話をすれば笑わない。
むしろ後ずさる。
「私の呪躯については聞いているな」
「はい。直接触れた生物から生命力を奪う、と」
「ならば私には近づくな。特に手袋をしていない時は、絶対に触れるな」
「承知いたしました」
驚くほどあっさりとした返事だった。
恐怖も嫌悪も見えない。
アレクシスは少しだけ彼女を訝しんだが、それ以上追及することはしなかった。
「お前自身の呪躯については、書簡に詳しい記載がなかった」
「父はあまり、私のことを詳しく知りませんので」
その言葉に含まれたものを、アレクシスは聞かなかった。
セレナは自分の胸元へ手を置く。
「私の場合は、身体の中で作られた生命力を留めておくことができないのだそうです」
「……何?」
「生きているだけで、少しずつ外へ流れ出してしまうそうです。魔術師の先生には《生命魔力漏出型》ではないかと言われました」
アレクシスの目が細くなる。
聞いたことのない症例だった。
「それで、その顔色か」
「生まれつきですので、本人としてはこれが普通なのですが」
「普通の人間は立ち上がっただけでふらつかない」
「それは……馬車に長く乗っていたせいです」
「言い訳が下手だな」
セレナが困ったように笑った。
不思議な女だった。
自分の命を少しずつ失い続ける身体でありながら、それを悲劇として語ろうとしない。
「ともかく、ここでは好きに過ごせ。働けるなら仕事も用意するが、まず体調を整えろ」
「ありがとうございます」
「それから先ほども言った通り――」
言いながら、アレクシスが右手の手袋を外す。
魔狼との戦闘で裂けた箇所を確認するためだった。
「私の素肌には触れるな」
その時だった。
医務室の外から慌ただしい足音が聞こえ、扉が勢いよく開いた。
「閣下! 南門で――!」
飛び込んできた騎士と扉がぶつかり、すぐ傍に立てかけられていた杖が倒れる。
乾いた音が響いた。
驚いたセレナが反射的に立ち上がる。
「あっ――」
足元がふらついた。
身体が傾く。
アレクシスは咄嗟に腕を伸ばした。
その瞬間、自分が手袋を外していたことに気づく。
「触るな!」
だが、遅かった。
倒れかけたセレナの手が、アレクシスの右手首を掴んだ。
素肌と素肌が触れ合う。
室内の空気が凍りついた。
アレクシスは息を呑んだ。
これまで何度も見てきた。
彼に触れた人間が血の気を失い、その場に崩れ落ちる姿を。
だからすぐに手を振りほどこうとした。
しかし。
「……あれ?」
声を上げたのは、セレナだった。
彼女は倒れない。
それどころか、先ほどまで青白かった頬に、ほんのわずかではあるが赤みが戻っている。
アレクシスは動けなかった。
自分の手首を掴んでいる細い指を見る。
次に、セレナの顔を見る。
「苦しくないのか」
「いいえ」
「眩暈は」
「……ありません」
セレナ自身も戸惑っているようだった。
「むしろ、なんでしょう。身体が少し……楽です」
「そんなはずがない」
アレクシスは呟いた。
だが、異変は彼女だけに起きているのではなかった。
普段なら、生物へ触れた瞬間に流れ込んでくる生命力には、どこか不快な熱がある。
奪っている。
喰らっている。
そう否応なく理解させられる感覚があった。
今は、それがない。
流れ込んでくる力は穏やかで、そして奇妙なことに、一定以上増えない。
まるで不足している器へ必要なだけ水が注がれ、余った分はどこにも溢れず循環しているようだった。
「公爵様?」
セレナが心配そうに覗き込んでくる。
アレクシスは返事をしなかった。
できなかった。
誰かの体温を、これほど長く感じたことがない。
生まれてから一度も。
握手も、抱擁も、手を引かれることもなく生きてきた男にとって、それはあまりにも異質な感覚だった。
セレナが我に返り、慌てて手を離そうとする。
「申し訳ありません、私――」
「待て」
今度はアレクシスが彼女の手を掴んだ。
セレナの瞳が大きく見開かれる。
室内にいた騎士も医師も、誰一人として言葉を発しなかった。
アレクシス自身も、自分が何をしているのか理解できていなかった。
ただ確かめたかった。
本当に彼女は死なないのか。
本当に苦しまないのか。
そして何より――この温かさが、錯覚ではないのか。
「……痛くないのか」
「はい」
「本当に?」
「はい」
セレナはしばらく彼を見つめ、それから少しだけ笑った。
「公爵様の手、温かいですね」
その言葉に、アレクシスは完全に言葉を失った。
人を害するためにあると思っていたこの手を。
生まれて初めて、誰かがそんなふうに評した。
――後に二人は知ることになる。
生命を奪い続ける呪躯と、生命を零し続ける呪躯。
本来ならば決して交わるはずのなかった二つの異常が触れ合った時、互いの欠落を埋めるように均衡することを。
だが、この時のアレクシスにはまだ知る由もない。
ただ一つ分かったことがある。
目の前にいるこの令嬢だけは。
自分が触れても、死なない。
◇
セレナがアレクシスに触れても命を奪われない。
その事実が判明した翌日、公爵領には一人の客が訪れた。
正確には、誰かが呼んだわけではない。
前触れもなく現れた。
「久しぶりだな、アレクシス・グランハルト」
「……どうしてお前がここにいる」
「面白そうだからに決まっているだろう」
当然のように答えた女を見て、アレクシスは深々とため息をついた。
漆黒の長い髪に、妙に整った顔立ち。纏っているのは貴族令嬢が好む華美なドレスではなく、黒を基調とした魔術衣だった。
もし世間一般に語られる《魔女》という存在を体系立て、その典型を形にするとしたならば、おそらく彼女のような姿になるのだろう。
もっとも、本人がそれを聞けば「勝手に人を分類するな」と不機嫌になるに違いない。
賢者メフィスト・トルムンドール。
呪躯研究に関わる者であれば、知らぬ者はいない。
数多くの呪躯を分類し、それまで魔物憑きや神罰として扱われていた症例の多くを、魔力構造上の異常として体系化した人物である。
そして彼女自身もまた、呪躯を持つ。
生まれつきではない。
若い頃の魔術研究によって自らの身体に魔力炉を形成し、それが肉体の一部として定着した後天性の呪躯である。
その経緯について本人はほとんど語らない。
ただし、危険な魔術実験を繰り返した結果であるという点だけは、アレクシスも以前本人から聞いていた。
「随分と元気そうだな」
「見れば分かることを言うな」
「挨拶というものだ」
「必要ない」
「相変わらずだな」
アレクシスはメフィストと数度面識があった。
呪躯持ちを多く受け入れている公爵領という性質上、過去に何度か彼女へ診断や意見を求めたことがある。
そのたびに彼女は問題を解決して帰っていった。
代わりに礼儀という概念を一切残していかなかった。
「それで、どこだ」
「何がだ」
「昨日、お前に触れて死ななかった娘だ」
「人を珍獣のように探すな」
「珍しいのだから仕方あるまい」
「本人の前で同じことを言うなよ」
「なぜ?」
「なぜではない」
言い争っている間に、後方から静かな声がした。
「私のことでしょうか」
二人が振り返る。
セレナが扉の前に立っていた。
昨日に比べれば顔色は多少良い。
ほんの短時間ではあったが、アレクシスと接触した後から身体が軽くなったと本人も話していた。
「お前がセレナ・フェルミナか」
「はい」
「手を出せ」
「メフィスト」
「黙っていろ。確認する」
横柄にもほどがある。
しかしセレナは特に腹を立てた様子もなく、素直に右手を差し出した。
メフィストはその手首を掴み、目を細める。
「なるほど」
「何か分かるのですか?」
「分からん」
セレナが瞬きをした。
「今、なるほどと」
「分からないということが分かった」
「屁理屈だろう、それは」
「学問とはそういうものだ」
アレクシスが何を言っても無駄だと悟り、口を閉じる。
メフィストはセレナの手を離すと、今度はアレクシスを指差した。
「お前も手を出せ」
「嫌だ」
「なぜ」
「その命令口調が気に入らない」
「では帰る」
「待て」
「出せ」
「……」
舌打ちを堪えながら、アレクシスは手袋を外した。
メフィストは直接触れない。
代わりに細い銀の棒を取り出し、先端をアレクシスの指先へ当てる。
途端に棒に刻まれた魔術文字が淡く光った。
「変わらんな」
「何がだ」
「以前診た時と同じだ。お前の生命魔力は常に外部を引き込もうとしている」
次にセレナを見る。
「娘。お前は逆だ」
「逆?」
「お前の生命魔力は、外へ逃げ続けている」
セレナは自分の手を見る。
「では、私が公爵様へ生命力を与えているということですか?」
「違う」
即答だった。
「お前は誰かに与えているわけではない。ただ漏らしているだけだ」
「……漏らしている」
「底の抜けた桶から水が落ちているのを見て、その桶が水を恵んでいるとは言わないだろう」
「もう少し言い方を考えろ」
「事実は事実だ」
メフィストは面倒そうに肩をすくめる。
「アレクシスも同じだ。お前は生命力を喰らっているわけではない。接触した相手の生命魔力の流れを、自分の側へ強制的に引き寄せている」
「何が違う」
「結果だけ見れば大差ない。だが構造は違う」
メフィストは卓上に置かれていた水差しを取った。
二つの杯へ水を注ぎ、一つをアレクシスの前へ、もう一つをセレナの前へ置く。
「生命というものは、ただ溜め込めばいいわけではない。身体の中を循環し、必要なところへ流れ、再び戻る」
セレナの杯を指差す。
「娘は、その流れが外側へ向きすぎている」
次にアレクシスを見る。
「お前は逆に、外側から内へ引き込みすぎる」
「だから触れるとどうなる」
「やってみろ」
「答えになっていない」
「実物が目の前にいるのに、なぜ口だけで説明せねばならん」
やはり無礼だった。
しかしセレナは既に理解していたようで、そっと手を差し出してきた。
「公爵様」
「……いいのか」
「昨日も大丈夫でしたから」
アレクシスは数秒ためらった後、その手を取った。
指先が触れる。
手のひらが重なる。
何も起きない。
昨日と同じだ。
普段なら、触れた瞬間に相手の生命魔力が自分へ流れ込んでくる。
だがセレナにはそれがない。
メフィストは二人を見ながら、僅かに眉を上げた。
「ふむ」
「何だ」
「珍しい現象が見られるかと思っていたが」
少し間を置く。
「逆に何も起こらなくなるとはな」
アレクシスが顔をしかめた。
「楽しみにしていたのか」
「当然だろう」
「最低だな」
「研究者を何だと思っている」
「お前のような者だと思っている」
メフィストは無視した。
二人の手元を見ながら、その周囲に小さな魔術式をいくつも展開する。
光の環が重なり、生命魔力の流れを可視化していく。
「……なるほど」
「今度は本当に分かったのですか?」
「少しな」
セレナの問いに、メフィストは頷いた。
「お前たちは互いに生命力を奪ったり与えたりしているわけではない」
「では、何が?」
「流れを打ち消している」
二人を見る。
「アレクシスの異常は内向き。セレナの異常は外向き。その二つが接触した時だけ、生命魔力の流れが正常域へ戻る」
「正常……」
「簡単に言えば」
メフィストはそこで一度言葉を切った。
「お前たちは触れている間だけ、普通の人間になる」
室内が静かになった。
セレナが自分の手を見つめる。
アレクシスもまた、握ったままの彼女の手を見た。
「治ったわけではない」
メフィストは続ける。
「離れれば元に戻る。セレナはまた生命力を漏らし始め、お前はまた他者の生命力を引き込む」
「どれくらい触れていればいい」
「知らん」
「お前は賢者なのだろう」
「だからこそ、知らないものを知ったふりはせん」
言っていること自体は正しい。
態度以外は。
「数日見る」
「滞在するのか」
「嫌なのか?」
「嫌ではないが、お前は勝手に食堂の酒を飲む」
「また仕入れればいい」
「そういう問題ではない」
「公爵なのだから金はあるだろう」
「帰れ」
「まだ帰らん」
結局、メフィストは三日間滞在した。
その間、セレナとアレクシスは何度も接触時間を測らされた。
最初は十分。
次は三十分。
さらに一時間。
手を繋いでいる間、セレナの顔色は明らかに良くなった。
身体のだるさが消え、食欲が戻り、夜もよく眠れる。
一方、アレクシスにも異常はない。
普段なら他人に触れた際に生じる不快な生命魔力の流入もなく、長時間セレナに触れていても彼女を害する兆候は見られなかった。
三日目の朝。
メフィストは言った。
「もういい」
「何がだ」
「見るものがない」
アレクシスが眉を寄せる。
「結論は」
「一日に一、二時間程度触れていれば、娘の状態はかなり安定するだろう」
「かなり、とは曖昧だな」
「症例が一つしかないのに断言できると思うか」
それも正論だった。
メフィストは荷物を纏めるでもなく、その場から立ち上がる。
「しばらく続けてみろ。変化があれば記録を送れ」
「次はいつ来る」
「面白いことが起きたら」
「起きなかったら」
「行かん」
「待て」
「ではな」
魔術式が足元に広がる。
数秒後、メフィストの姿は消えた。
沈黙が残った。
セレナがぽつりと言う。
「自由な方ですね」
「自由という言葉で済ませていいのか、あれは」
アレクシスは額を押さえた。
こうして治療方針が決まった。
一日一時間から二時間。
アレクシスとセレナが触れ続けること。
最初の数日は、互いに向かい合って座っていた。
しかし一時間ともなると、さすがに会話だけでは間が持たない。
五日目。
「……仕事をしてもいいか」
「もちろんです」
「では書斎へ来い」
それ以降、接触時間はアレクシスの執務中に取られるようになった。
セレナが隣に座り、右手を差し出す。
アレクシスがその手を握る。
左手で書類を取る。
左手で書く。
数日も続ければ、それが当たり前になっていた。
「閣下」
「何だ」
書類を運んできたオスカーが、机の上を見る。
アレクシスは左手で筆を持ち、器用に署名をしていた。
「ずいぶん左手で書くのがお上手になりましたね」
「慣れただけだ」
「そうですか」
オスカーの視線が、二人の繋がれた右手へ落ちる。
「一つ疑問があるのですが」
「言え」
「別に右手で触れなくてもいいのでは?」
筆が止まった。
セレナも顔を上げた。
「……何?」
「効果は皮膚接触であればいいのでしょう?」
「そうだが」
「では左手でセレナ様の手を握って、右手で書けばよろしいのでは?」
沈黙。
あまりにも当たり前だった。
「……」
「……」
セレナはアレクシスを見る。
アレクシスは書類を見る。
オスカーは二人を見る。
「閣下?」
「うるさい」
「何もまだ言っていませんが」
「仕事に戻れ」
「承知しました」
オスカーは口元を僅かに緩めながら部屋を出ていった。
扉が閉まる。
セレナが繋がれた手を見る。
「左手にしますか?」
「……今さら変える必要もないだろう」
「右手の方が書きやすいのでは?」
「左手でも書ける」
「ですが」
「問題ない」
即答だった。
セレナはしばらく彼を見つめた。
そして、小さく笑った。
「分かりました」
それ以上は何も言わなかった。
アレクシスも筆を動かし始める。
ただし、先ほどまでと比べて明らかに字が乱れていた。
治療は続いた。
しかし日を追うごとに、二人の間から「治療」という言葉は減っていった。
セレナは本を読むようになった。
アレクシスは仕事をする。
二人とも喋らない時間の方が長い。
それでも、不思議と気まずくはなかった。
ある日、セレナが本を読みながら眠ってしまった。
頭がゆっくり傾き、アレクシスの肩へ触れる。
彼の身体が固まった。
手だけではない。
肩に重みがある。
髪が触れている。
穏やかな寝息が、すぐ隣から聞こえる。
アレクシスは動けなかった。
動けば起こしてしまう。
それだけの理由だ。
少なくとも本人は、そう思っていた。
しばらくしてオスカーが入ってくる。
「閣下、こちらの書類を――」
「静かにしろ」
声を潜める。
オスカーはセレナを見る。
次に時計を見る。
「治療時間は三十分前に終わっていますが」
「起こす必要はない」
「左様ですか」
「何だ」
「いえ」
オスカーは書類を机へ置いた。
「大変合理的なご判断だと思いまして」
「出ていけ」
「はい」
扉が閉まる。
アレクシスは再びセレナを見る。
眠っている。
自分に触れている。
それなのに誰も傷つかない。
今でも時々、不思議に思う。
人の体温とは、こんなにも穏やかなものだったのか。
誰かの重みとは、こんなにも心地よいものだったのか。
セレナが目を覚ましたのは、それからさらに半刻ほど経った後だった。
「……私、寝ていました?」
「ああ」
「申し訳ありません」
慌てて身体を起こそうとする。
その瞬間、アレクシスは反射的に肩へ手を添えた。
「急に動くな」
セレナが止まる。
アレクシス自身も止まった。
手を握る必要はある。
だが、肩へ触れる必要はない。
「……公爵様」
「何だ」
「最近、よく触りますね」
アレクシスは答えなかった。
正確には、答えられなかった。
セレナも責めるつもりはなかったらしく、少しだけ楽しそうに笑う。
「嫌ではありませんけれど」
アレクシスの手が僅かに動いた。
「そうか」
それだけ答える。
だが、その日の夜。
寝台に入ってからも、アレクシスは彼女の言葉を何度も思い出した。
嫌ではない。
その程度の一言が、妙に胸に残った。
さらに数日が経った。
セレナの体調は目に見えて良くなっていた。
頬には血色が戻り、以前より長い距離を歩いても息を切らさない。
ある日など、城の中庭まで一人で出ていたほどだ。
その姿を見つけたアレクシスは、自然に声をかけていた。
「何をしている」
「散歩です」
「一人でか」
「はい。随分元気になりましたから」
「無理はするな」
「していません」
セレナが笑う。
「公爵様のおかげです」
「私ではない。呪躯の性質だ」
「それでもです」
セレナは歩き出す。
アレクシスも隣を歩いた。
石畳の途中に、小さな段差がある。
セレナがそこへ足をかけようとした瞬間、アレクシスは自然に手を差し出した。
セレナがその手を見る。
「……」
「何だ」
「いえ」
彼女は手を取った。
段差を越える。
本来なら、それだけで離していい。
だが二人とも離さなかった。
数歩進む。
十歩進む。
セレナが横目で彼を見る。
「公爵様」
「何だ」
「治療の時間ではありませんよ」
アレクシスの足が止まった。
「……そうだな」
それでも手は離さなかった。
セレナも離さない。
風が吹く。
庭の木々が揺れる。
「離しますか?」
セレナが尋ねる。
アレクシスは少しだけ迷った。
以前なら迷う必要などなかった。
触れる理由がなければ、触れない。
それが彼にとって当然だった。
だが今は違う。
「……もう少し」
「はい?」
「もう少し、このままでもいいか」
セレナは目を丸くした。
それから、ゆっくりと笑った。
「もちろんです」
二人は再び歩き出した。
治療でもない。
呪躯の研究でもない。
必要だからでもない。
それでも繋がれた手は、城へ戻るまで一度も離れなかった。
◇
セレナの体調は、それからも順調に回復していった。
もちろん、呪躯そのものが消えたわけではない。アレクシスと長く離れていれば生命魔力は少しずつ身体の外へ流れ始めるし、以前のように無理をすれば疲労も蓄積する。
それでも、毎日一定の時間をアレクシスと過ごすことで、彼女の身体は明らかに変わっていた。
朝、自分の足で食堂まで歩いてくる。昼には庭を散歩し、時には城下町まで馬車で出かける。夜になっても顔色を失わず、翌朝には疲れを残さず目を覚ます。
セレナにとっては、それだけのことが新鮮だった。
これまで彼女の人生では、何をするにもまず身体のことを考えなければならなかった。
今日はどれほど歩けるだろう。この階段を上った後、休む場所はあるだろうか。外へ出たとして、帰るだけの体力を残しておけるだろうか。
数日先の予定を立てることさえ難しかった。
けれど今は違う。
明日も同じように目を覚ませると思える。今日できたことなら、明日はもう少し先まで挑戦できるかもしれないと思える。
そんな当たり前の未来を考えることが、これほど楽しいものだとは知らなかった。
そして、アレクシスにも少しずつ変化が起きていた。
彼は相変わらず無愛想だったし、必要以上に言葉を飾ることもない。
だが、セレナが書斎へ来る時間になれば、いつの間にか椅子が一つ用意されている。彼女がよく飲む茶葉も置かれるようになり、散歩へ出れば段差の前で自然に手を差し出す。
治療時間が終わっても、会話が続いていれば手を離さないことも増えた。
最初の頃は、触れることには必ず理由があった。
今では、その理由を考えることの方が難しくなっていた。
そんな日々が続いていたある午後、フェルミナ伯爵家から一通の書状が届いた。
それを読んだセレナは、しばらく何も言わなかった。
「どうかなさいましたか?」
同席していたオスカーが声をかけると、セレナは書状を丁寧に畳み、少し困ったように笑った。
「父からです。そろそろ家へ戻るように、と」
執務机で書類を読んでいたアレクシスの手が止まった。
「戻る?」
「はい」
「なぜ今になって」
「体調が随分良くなったことを、先日報告したからだと思います」
アレクシスは眉を寄せた。
「それで、どうして帰るという話になる」
「父からすれば、私をこちらへお願いした理由は、呪躯のため普通の生活を送ることが難しかったからです。元気になったのなら、いつまでも公爵家のお世話になっているわけにはいかない、と考えるのは自然でしょう」
言われれば、その通りだった。
フェルミナ伯爵がセレナをここへ送った時、アレクシスは彼女を呪躯持ちの一人として受け入れただけだ。
婚約をしているわけでもなければ、永久に彼女を預かる約束を交わしたわけでもない。
状態が良くなった娘を家へ戻したいという父親の申し出に、不自然なところはなかった。
「いつ戻る」
「一週間後に迎えを寄越すそうです」
「一週間……」
アレクシスはそれだけ言うと、再び書類へ視線を落とした。
だが、それからしばらく筆が動くことはなかった。
その日の接触時間も、いつも通り書斎で過ごした。
セレナが隣へ座り、アレクシスがその手を取る。卓上には仕事の書類が積まれ、セレナの膝には読みかけの本が置かれている。
いつもと何も変わらないはずだった。
それなのに、妙に静かだった。
「公爵様」
「何だ」
「先ほどから、同じ書類をずっと眺めていませんか?」
アレクシスは手元を見る。
確かに、先ほどから一枚も進んでいなかった。
「少し考え事をしていた」
「私が帰ることですか?」
あまりに直接的に尋ねられ、アレクシスは答えに詰まった。
セレナは彼を困らせようとしたわけではないらしい。視線を落とし、繋いだ手を見ながら静かに続ける。
「私も考えていました。家へ戻った後、どうなるのだろうと」
「体調のことか」
「それもあります」
アレクシスとの接触を失えば、セレナの生命魔力は再び身体の外へ流れ始める。
今は十分に回復しているため、数日離れた程度ですぐ以前の状態へ戻るわけではない。それはメフィストが滞在していた間にも確認していた。
だが、一週間、二週間、一月と離れ続けた場合にどうなるのかまでは分かっていない。
メフィストが確かめたのは、わずか数日間の変化だけだった。
続きを知りたければ本人に尋ねればいい、という話でもない。
メフィスト・トルムンドールという女は、気まぐれと自由をそのまま人の形にしたような存在である。
どこに住んでいるのかすらアレクシスは知らない。以前助力を求めた時も、何通も送った書状のうち彼女の手元まで届いたものがいくつあったのか分からず、返事が来たのは数か月後だった。
今回は珍しい症例の噂をどこからか聞きつけ、自分から現れたに過ぎない。
次も来るなどと期待する方が間違っていた。
「父は、体調が悪くなったらまたこちらへ伺えばよいのではないかと考えているようです」
セレナの言葉に、アレクシスは眉間の皺を深くした。
「悪くなってから?」
「はい。今の私なら、すぐに以前のような状態になるわけではありませんから」
「だから、衰弱したらここへ戻って回復し、また帰ると?」
「父の書状を読む限りでは……そういうことになるのでしょうね」
理屈としては成立しているのかもしれない。
倒れるほど生命力を失う前に公爵領へ来て、アレクシスと一定時間を過ごす。回復したら伯爵領へ戻る。
それを繰り返せばいい。
だが、その考えを聞いた瞬間、アレクシスの胸には明確な苛立ちが生まれた。
「私は気に入らない」
口から出た言葉に、セレナが顔を上げる。
「公爵様?」
「悪くなってから戻ればいい、という考え方がだ。今までお前がどれほど身体に気を遣って暮らしてきたのか知っているだろうに、なぜまた衰弱することを前提にする」
「父なりに、私が家へ戻れるよう考えてくれているのだと思います」
「それは分かっている」
アレクシスは言葉を切った。
問題はそこだけではない。
セレナの身体を考えるなら、公爵領に残る方がいい。
それは言える。
だが、それだけならば単なる治療の話だ。
「……帰りたいのか」
しばらくして、アレクシスが尋ねた。
セレナはすぐには答えなかった。
「分かりません」
「分からない?」
「家ですから、戻るべきなのだとは思っています。でも……」
繋がれた指が僅かに動いた。
「こちらでの暮らしが、思っていた以上に好きになってしまいました」
その言葉に、アレクシスは返事をしなかった。
ただ、離れかけていたセレナの指を無意識に握り直していた。
それからの一週間は、驚くほど早く過ぎた。
アレクシスは普段通り仕事をした。
セレナも普段通り生活した。
二人で散歩をし、書斎で本を読み、食事を共にする。
変わったことなど何もない。
ただ、その一つ一つに終わりがあることだけは、どうしても意識せずにはいられなかった。
帰郷を翌日に控えた午後。
いつものように庭を歩いていたセレナが、ふと足を止めた。
「公爵様」
「何だ」
「こちらへ来られて、本当によかったです」
アレクシスは彼女を見る。
「急にどうした」
「明日は慌ただしくなりそうですから、今のうちにお伝えしておこうと思いまして」
セレナは庭を見渡した。
「こちらへ来る前は、正直に申し上げれば怖かったんです。呪躯持ちばかりを集めた騎士団があって、その長は人の命を奪う冷酷な公爵様だと聞いていましたから」
「酷い言われようだな」
「本当に聞いた話ですよ?」
「否定できる部分も少ない」
そう答えると、セレナは楽しそうに笑った。
「でも、実際に来てみたら全然違いました。騎士団の皆様も城の方々も親切でしたし、公爵様も噂とはまるで違いました」
「私は別に親切ではない」
「そういうことにしておきます」
アレクシスは反論しなかった。
セレナは少し遠くを見るようにして続ける。
「ここへ来てから初めて、明日の予定を考えるのが楽しみになりました。今日は庭まで歩けたから、明日は城下町へ行ってみようとか、次は何を食べてみようとか。以前はそんなことを考える余裕がありませんでしたから」
その言葉を聞きながら、アレクシスは胸の奥に重いものが沈んでいくのを感じていた。
これは別れの言葉なのだ。
一週間前から分かっていた。
明日には迎えが来る。
自分もそれを止めなかった。
それなのに、今になって強烈に後悔している。
「公爵様?」
「……私は」
口を開いたものの、その先が続かなかった。
身体のためにここへ残れ。
そう言うのは簡単だった。
実際、医学的な意味だけを考えれば、公爵領に残って定期的に接触する方が安全なのだろう。
だが、それを理由にしたくなかった。
セレナの身体を盾にして引き留めれば、本当に彼女自身を求めているのか分からなくなる。
「明日は何時に発つ」
「朝食の後です」
「……そうか」
結局、その日はそれ以上の言葉を口にできなかった。
翌朝。
フェルミナ伯爵家の馬車が城門へ到着した。
荷物は多くない。
そもそもセレナは、ここへ来た時から必要最低限のものしか持っていなかった。
使用人たちが荷物を積み込む間、彼女は城の者たちへ一人ずつ挨拶をして回った。
騎士たちにも、厨房の者にも、世話をしてくれた侍女にも頭を下げる。
そして最後に、アレクシスの前へ来た。
「公爵様。本当にありがとうございました」
「ああ」
「身体のことについては、父とも話してみます。もしまた状態が悪くなってしまったら、その時は……」
「セレナ」
アレクシスが遮った。
彼女が目を瞬く。
「何でしょう」
「その話はもういい」
「でも――」
「お前がここへ戻る理由を、呪躯だけにしたくない」
セレナが黙った。
アレクシス自身も、口にしてしまってから心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
それでも今度は言葉を止めなかった。
「昨日までずっと考えていた。お前の身体を理由にすれば、ここへ残れと言うのは簡単だ。実際、その方が安全なのだろう。だが、それでは私が本当に言いたいこととは違う」
セレナが静かに彼を見つめる。
アレクシスは一度息を吐いてから、彼女へ手を差し出した。
セレナがその手を見る。
いつもと同じ右手だった。
「最初は、お前が私に触れても死なないから特別なのだと思っていた」
誰にも触れられなかった。
だから、自分に触れられる唯一の人間へ執着しているだけなのではないか。
何度もそう考えた。
「だが、今は違う」
アレクシスは彼女を見る。
「お前と食事をするのが好きだ。書斎で隣に座っているのも、庭を歩くのも好きだ。来る時間になれば待っているし、いなければ落ち着かない。体調が良ければ安心するし、楽しそうにしていれば私も嬉しい」
口にしてしまえば、呆れるほど単純なことばかりだった。
「だから、もし明日お前の呪躯が消えて、二度と私に触れる必要がなくなったとしても、私はお前にここにいてほしい」
セレナの唇が僅かに開く。
「それは……」
「ああ」
ここまで言えば、もう誤魔化す理由もなかった。
「私は、お前が好きだ」
長い沈黙があった。
戦場で魔物の群れを前にした時ですら、これほど返事を待つ時間が長く感じられたことはない。
やがて、セレナが小さく息を吐いた。
「公爵様」
「何だ」
「一つだけ、ずっと聞きたかったことがあります」
「……今なのか」
「今だからです」
セレナはアレクシスが差し出した右手を見る。
「どうして、ずっと右手だったのですか?」
アレクシスは黙った。
「オスカー様のおっしゃった通り、左手でもよかったんですよね。右手を使えれば、お仕事もずっと楽だったはずなのに」
「その話を今する必要があるのか?」
「あります」
セレナは僅かに笑っていた。
「私は、嬉しかったんです」
「何がだ」
「公爵様が、いつも同じ手を差し出してくださることが」
あの日。
倒れかけたセレナへ、考えるより先に伸ばした右手。
自分が触れれば命を奪うと知っていながら、それでも身体が先に動いた。
「最初に私を支えてくださったのも、この手でした」
セレナはそう言って、その右手を取った。
「それに、公爵様が私の手を握ったまま、一生懸命左手で文字を書いているのも好きでした」
「それは忘れろ」
「嫌です」
あまりにも迷いなく返され、アレクシスは言葉を失った。
セレナは笑いながら、もう片方の手も彼の手へ重ねる。
「私も、ここにいたいです」
アレクシスが彼女を見る。
「身体のためだけではなく?」
「はい」
「私に触れられるからでもなく?」
「もちろん、触れられることは嬉しいです。でも、それだけではありません」
セレナは少し考えてから、ゆっくりと言葉を続けた。
「もし明日、公爵様の呪躯が消えて、誰にでも触れられるようになったとしても、私は公爵様の隣にいたいです」
アレクシスはしばらく何も言えなかった。
自分と同じだった。
互いの呪躯が噛み合ったから出会った。
触れることができたから、一緒に過ごすようになった。
けれど、その偶然がなくなっても残るものを、二人はもう知っている。
「……そうか」
「はい」
短い返事だった。
けれど今度の沈黙は、少しも苦しくなかった。
フェルミナ伯爵家の馬車は、その日のうちに領地へ戻っていった。
ただし、セレナを乗せずに。
代わりにアレクシスは伯爵へ正式な書状をしたためた。
セレナ本人の希望を確認した上で、公爵家に長期滞在させたいこと。
呪躯の性質上、その方が彼女の身体にも望ましいと考えていること。
そして何より、自分がセレナ・フェルミナを一人の女性として想っており、双方の家に異存がなければ、正式に婚姻を申し込みたいこと。
その内容を読んだオスカーは、しばらく黙っていた。
「何だ」
「いえ。ようやく治療以外の理由をお書きになったのだなと思いまして」
「余計な感想はいらない」
「失礼いたしました」
そう言いながらも、オスカーの口元には僅かに笑みが浮かんでいる。
アレクシスはそれを追及せず、書状へ封をした。
メフィスト・トルムンドールが、次にいつ姿を現すのかは誰にも分からない。
一年後かもしれない。
十年後かもしれない。
あるいは二度と会うことすらないかもしれない。
だが、それでよかった。
二人の呪躯について、まだ分からないことはいくらでもある。
それでもアレクシスとセレナは、もうその答えを誰かが持ってきてくれるのを待つ必要はなかった。
翌日の午後。
いつものようにセレナが書斎へ入ってくる。
「公爵様、お時間です」
「ああ」
アレクシスは書類から顔を上げた。
そして、当然のように右手を差し出す。
セレナはその手を見て、少しだけ笑った。
「今日も右手なのですね」
「悪いか」
「いいえ。私はこちらの方が好きです」
指と指が重なる。
かつては誰かの命を奪うだけだった手を、今は彼女が自分から握っている。
治療のために必要な時間は、まだ始まったばかりだった。
けれど二人とも、もう時計を見ることはなかった。




