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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

二十年鍛え続けた男、老いた体で魔族に挑むも敗北──それでも喉を噛みちぎる

作者: アポロ
掲載日:2026/04/08

村は静かだった。

燃えているのに、静かだった。


男は崩れた家の前で膝をついていた。

腕の中には、息のない幼い子ども。

その隣には、倒れた妻。

少し離れた場所には、両親の姿があった。


男は震えていた。

声にならない声が喉の奥で潰れていた。

涙は止まらず、呼吸は乱れ、

胸の奥が裂けるように痛んでいた。


「……なんでだ……」


その言葉だけが、何度も漏れた。


少し離れた場所で、魔族たちが笑っていた。

焚き火を囲む子どものような、軽い笑いだった。


「また遊ぼうぜ、人間」


リーダー格の魔族が、血に濡れた爪を振りながら言った。


男はその声に反応し、顔を上げた。

涙で濡れた目に、魔族の姿が映る。


次の瞬間、男の表情から“何か”が消えた。


涙が止まった。

震えも止まった。

胸の痛みも、悲しみも、どこかへ消えた。


ただ、空洞だけが残った。


魔族たちは興味を失ったように背を向け、闇の中へ消えていった。


男はゆっくりと立ち上がった。

家族の亡骸に触れようともしない。

抱きしめることも、泣くことも、祈ることもしない。


ただ、立ち上がる。


その目には光がなかった。

悲しみが消えたわけではない。

悲しみが深すぎて、壊れたのだ。


男は村の外れへ歩き出した。

燃える家々を背に、振り返ることなく。


その夜、誰も気づかなかった。

村の片隅で、一人の男が悲しみの底で壊れ、

そして二十年の孤独が始まったことに。



村の外れに、ひときわ大きな岩があった。

昔は子どもたちが登って遊んでいた場所だが、

今は誰も近づかない。


男が毎日そこに立つようになったからだ。


最初の日、男は拳を握りしめ、岩に向かって振り下ろした。

乾いた音が響き、拳の皮膚が裂け、血が飛び散る。

それでも男は殴り続けた。


翌日も、また翌日も、男は同じ場所に立った。

拳に包帯を巻くこともなく、治療を受けることもなく、

ただ岩を殴り続けた。


最初のうち、村人たちは彼を励ました。


「無理するなよ」

「お前ならきっと強くなれる」

「復讐……果たせるといいな」


男は返事をしなかった。

声を出す必要を感じていないようだった。

ただ岩を殴り続けた。


一年が過ぎる頃、男の拳は変形し始めた。

指の関節は太く膨れ、皮膚は硬く黒ずみ、

拳というより“武器”のようになっていった。


村人たちは心配し始めた。


「拳……あんなに腫れて……」

「治療しないと、本当に壊れるぞ」

「なあ、少し休んだらどうだ」


男は聞いていないようだった。

いや、聞こえていないのかもしれない。

岩を殴る音だけが、彼の世界のすべてになっていた。


二年目、男は殴る速度を上げた。

呼吸は乱れず、表情も変わらない。

ただ、殴る回数だけが増えていく。


村人たちは違和感を覚え始めた。


「……なんか、目が怖いな」

「あいつ、何が見えてるんだ……?」

「怒ってるわけでもないのに……」


男の目には光がなかった。

怒りも悲しみも、何も映っていない。

ただ、空洞だけが残っていた。


三年目、拳の骨が何度も折れた。

折れても、男は殴り続けた。

折れた骨が皮膚を突き破り、血が滴っても、

男は殴る手を止めなかった。


村人たちは不安を口にするようになった。


「……あいつ、本当に大丈夫なのか」

「このままじゃ死ぬぞ」

「誰か止めたほうがいいんじゃ……」


だが誰も止められなかった。

男の背中は、声をかける隙を与えないほど“遠い”ものになっていた。


四年目、男は岩の前に立つ時間が長くなった。

朝から夜まで、殴り続ける日もあった。

拳はもう原形を留めていない。

それでも殴る。


五年目、岩は少しずつ削れていった。

男の拳も削れ続けた。


村人たちは、もう声をかけることができなかった。

応援も、心配も、言葉にできなくなっていた。

ただ遠くから、

「……あいつ、戻ってこれるのか……?」

と、誰かが呟いた。


男は岩の前に立ち続けた。

その姿は、もはや“鍛錬”ではなく、

何かを削り落とす儀式のようだった。


削れているのは岩か、男自身か。

それを知る者は誰もいなかった。


村の外れに、小さな墓が四つ並んでいた。

男が自分の手で作った墓だ。

両親、妻、子ども──家族という言葉のすべてがそこに眠っている。


六年目の春、男は岩を殴ることをやめた。

代わりに、墓前に立ち、剣を握った。


男はゆっくりと素振りを始めた。

一本、また一本。

風の音と、剣が空を切る音だけが響く。


最初は百本だった。

翌日は二百本。

その翌日は三百本。

数は増え続け、やがて千本を超えた。


男は数を数えているわけではない。

ただ、体が動く限り振り続けているだけだった。


村人たちは最初、彼の変化を喜んだ。


「岩を殴るよりは……まだマシか」

「剣の練習なら、まあ……」

「少しは落ち着いたのかもしれないな」


だが、すぐにその期待は消えた。


男は雨の日も、雪の日も、嵐の日も、

墓前に立ち続けた。


剣を振る姿は、祈りにも似ていた。

だが、そこに祈りの気配はなかった。

ただ、空洞のような静けさだけがあった。


七年目、男の動きはさらに正確になった。

無駄がなく、感情もなく、

まるで機械のように剣を振り続けた。


村人たちは距離を置き始めた。


「……あいつ、何を見てるんだ」

「墓の前で、あんなに……」

「もう普通には戻れないんじゃないか」


八年目、男は一日中墓前に立つようになった。

朝に立ち、夜に立ち、

食事をしている姿を誰も見なくなった。


九年目、男の体は痩せ細り、

頬はこけ、目の下には深い影が落ちていた。

それでも剣を振る速度は落ちなかった。


村人たちは否定を口にするようになった。


「もうやめろよ……」

「復讐なんて無理だ」

「家族もそんなこと望んでないだろう」


だが男は耳を貸さなかった。

声をかけられても、振り返ることはなかった。


十年目、男は一度も剣を落とさなかった。

手の皮は何度も裂け、血が柄を濡らしても、

男は振り続けた。


墓前の地面には、

男が踏みしめた足跡が深く刻まれていた。


それはまるで、

“戻る道を自分で消している”

かのようだった。


十一年目の夏、男は突然、墓前で剣を振るのをやめた。

剣を地面に置き、ゆっくりと腰を下ろす。

その動きは、疲れたからではなかった。

何かを“思い出した”ような静けさがあった。


男は腰の袋から小さな刃物を取り出した。

村人が遠くからその姿を見ていたが、声をかけることはできなかった。


男は刃を自分の耳に当てた。

そして、ためらいなく切った。


赤い線が走り、血が頬を伝う。

男は痛みに顔を歪めない。

ただ、切り落とした皮膚をじっと見つめていた。


その行為には意味があった。

魔族の笑い声を忘れないため。

あの日の声を、痛みと結びつけて刻みつけるため。


だが、村人には理解できなかった。


「……あいつ、何をしてるんだ」

「耳を……自分で……?」

「頭がおかしくなったんだ……もう戻れない」


十二年目、男は反対側の耳も切った。

理由は誰にも言わない。

言葉を発すること自体、もう必要としていなかった。


村人たちは嘲り始めた。


「見ろよ、あの姿……」

「復讐どころか、自分を壊してるだけじゃないか」

「もう人間じゃない」


だが、嘲りは長く続かなかった。

男の姿は、嘲るにはあまりにも“異様”だった。


十三年目、男は耳の傷を何度も開き直した。

傷が塞がるたびに刃を入れ、

痛みを新しくし続けた。


その姿を見た村人は、ついに恐怖を覚えた。


「……関わるな」

「目を合わせるな」

「何をするかわからない」


男は村人の視線に気づかない。

いや、気づいていても興味がないのかもしれない。

彼の世界には、もう“他人”という概念が存在しなかった。


十四年目、男は耳の痛みを合図に剣を振るようになった。

痛みが走るたびに、剣が空を切る。

その動きは、まるで痛みそのものが男を操っているかのようだった。


十五年目、男の耳は形を失い、

ただの傷跡の塊になっていた。

だが男は満足しているようだった。

痛みが消えない限り、記憶も消えない。


村人たちは完全に距離を置いた。

誰も近づかず、誰も声をかけず、

男の存在を“見ないふり”をするようになった。


男はそれで困らなかった。

彼の世界には、

家族の最後の光景と、

魔族の笑い声と、

痛みだけがあればよかった。


十六年目の冬、男は突然、墓前での素振りをやめた。

剣を地面に置き、ゆっくりと村の外へ歩き出す。

その背中を見た村人は、誰も声をかけなかった。


男は走り始めた。


最初は村の周囲を一周するだけだった。

だが翌日には二周、三周と増え、

やがて村の外れの森まで走るようになった。


走る理由を誰も知らない。

男自身も、もう理由を必要としていなかった。


十七年目、男の体は明らかに衰え始めた。

頬はこけ、背は少し曲がり、

足取りは重くなっていった。


それでも走る。


息が荒くなっても、

膝が悲鳴を上げても、

足の裏が血で濡れても、

男は走ることをやめなかった。


村人たちは遠くからその姿を見ていた。


「……まだ走ってるのか」

「もう五十近いだろ」

「何がしたいんだ、あいつは」


誰も近づこうとしなかった。

男の背中には、声をかける隙がなかった。


十八年目、男は夜も走るようになった。

月明かりの下、影のように村を横切り、

森の中へ消えていく。


その姿を見た子どもが泣き出した。


「おばけだ……」

「違う、あれは……あれは……」


大人たちは子どもを抱き寄せ、

「見ちゃいけない」と目を塞いだ。


十九年目、男は一度も倒れなかった。

体は限界を超えているはずなのに、

倒れるという選択肢が存在しないかのようだった。


村人たちは、ついに無関心になった。


「ああ、まだやってるらしいよ」

「もう放っておけ」

「関わるだけ無駄だ」


男は村人の視線に気づかない。

いや、気づいていても興味がないのだろう。

彼の世界には、

走る道と、

痛む体と、

消えない記憶だけがあった。


二十年目、男は走る速度を落とした。

老いた体は限界に近づいていた。

だが、足を止めることはなかった。


その夜、男は森の奥で足を止めた。

月明かりの下、

二十年前と同じ笑い声が聞こえた。


魔族たちがそこにいた。


男はゆっくりと剣を握りしめた。

震えていた。

だがそれは恐怖ではなかった。


二十年ぶりに、

“生きている”と感じた瞬間だった。


森の奥は静かだった。

風も止まり、虫の声すら聞こえない。

ただ、遠くから聞こえる笑い声だけが、夜気を震わせていた。


男はその声を知っていた。

二十年前、家族を奪ったあの声だ。


木々の間から、魔族たちが姿を現した。

二十年前と変わらない顔。

老いることも、疲れることも知らない化け物たち。


リーダー格の魔族が、男を見て笑った。


「おいおい……本当に来たのかよ。

 二十年もかけて、また遊びに来たのか?」


男は答えない。

ただ剣を握りしめる。

その手は震えていたが、恐怖ではなかった。


生きていると感じていた。


魔族たちは面白がるように近づいてきた。


「お前、ずいぶん老けたな」

「人間ってのは弱いくせに、しつこいよな」

「まあいい、遊んでやるよ」


男は踏み込んだ。

二十年分の鍛錬が、老いた体を無理やり動かす。


剣が唸り、空気を裂く。

だが魔族は軽く避けた。


「遅いな」


男は何度も斬りかかった。

剣筋は鋭く、無駄がなく、

二十年の積み重ねが確かにそこにあった。


だが届かない。


魔族の動きは、二十年前と同じだった。

いや、むしろ軽くなっているようにすら見えた。


男の剣は一度も当たらなかった。


逆に、魔族の爪が男の体を切り裂いた。

肩、腹、背中──血が溢れ、地面を濡らす。


それでも男は立ち上がった。

何度倒れても、立ち上がった。


魔族たちは笑い続けた。


「まだ立つのかよ」

「しぶといなあ」

「でも、もう終わりだろ?」


男の視界が揺れた。

足が震え、剣が重くなる。

呼吸は荒れ、膝が崩れ落ちる。


それでも剣を握り直す。


魔族のリーダーが、つまらなそうに言った。


「もういい。飽きた」


そして、男の首を切り落とした。


視界が回転し、地面が近づく。

男の体は倒れ、首だけが転がった。


その瞬間、男の脳裏に光景が蘇った。


焼け落ちる家。

泣き叫ぶ子ども。

倒れた妻。

血に濡れた両親の手。

あの日の笑い声。


岩を殴り続けた拳。

墓前で振り続けた剣。

耳に刻んだ痛み。

老いた体で走り続けた夜道。


二十年のすべてが、

一瞬で胸に押し寄せた。


魔族のリーダーが、転がる男の首を見下ろして笑った。


「終わりだよ、人間。

 また遊ぼ──」


その言葉の途中だった。


男の首が、魔族の喉元に噛みついた。


肉が裂け、血が噴き出す。

魔族のリーダーは絶叫し、のけぞった。


男の顎は離れない。

首だけで、全力で噛みちぎる。


二十年の怒りも、悲しみも、痛みも、

すべてがその一噛みに込められていた。


魔族の喉が裂け、リーダーは倒れた。


男の首は地面に転がり、

その口元には微かな笑みが浮かんでいた。


誰にも知られず、

誰にも評価されず、

誰にも語られない復讐。


だが男にとっては、それでよかった。


これは、

自分だけの二十年だった。


そして静かに、

男の意識は闇に沈んでいった。

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