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4.警戒

 白くて大きい翼。触るとふわふわしてあたたかくて、ずっとモモにとって憧れだった綺麗な翼。群れの同族達の翼も白くて眩しいけれど、あれはもっと特別な──そう、モモの大好きな、母の翼だ。


 そう気が付いた途端、何もかもが曖昧にぼやけた世界の中で、母の後ろ姿だけが鮮明に象られ始めた。まだ病床に臥していなかったときの、艶やかで長いモモと同じ色の髪。寒い時にモモを包んで温めてくれた大きな恋しい翼。


 ──お母さん、どこに行っていたの。帰ってきてくれたの? 嬉しい、ずっと寂しかった、恋しかった。いい子にしているから、今度こそずっと一緒にいて──……


 ちいさな手を必死に伸ばして、けれどどうしてだかその後ろ姿はどんどん遠ざかっていく。なんで、と呟いて一生懸命に駆けても、距離は開いていくばかりで少しも追いつけない。待って、置いていかないで。

 叫ぶと、母の姿が振り返って、その唇が何かの言葉を形作って。ふわりと笑みを浮かべてから、その輪郭がまた曖昧になっていく。


 嫌、なんで、行かないで。なんて言ったの、聞こえないわ──


「……おかあ、さん……」


 滲んだ自分の声で意識が浮上して、モモはゆっくりと瞼を持ち上げた。木のうろの中にしては眩しくて、ぼんやりと目を瞬かせる。

 また性懲りも無く、母の夢を見ていたようだった。頬が濡れている感触がして、慌てて腕でごしごしと顔を擦る。


 夢を見て泣くなんて、もうそんな歳じゃないのに恥ずかしい。早く起きて支度をして、またたくさん、一生懸命働かないと。そうしないと、群れから追い出されてしまう──そう考えた時、背中がずきりと痛んで。

 どうして、と考える間もなく、まるで悪夢のような現実の記憶が奔流のように蘇ってきて、モモは鋭く息を呑んだ。


「……ッ!!」


 そうだ、トカゲ族が襲ってきて──わたしは群れに置いていかれてしまって、その後。


 ざっと血の気が下がる音がして、モモはがばりと跳ね起きた。普段の木の葉や枝を敷き詰めた寝床とはまるで違う、ふかふかで暖かい布団が乱雑に捲れ上がる。

 ──ここは一体、どこなのだろう。


 周囲を見回せば、モモは見たこともないような大きい天蓋付きのベッドに寝かせられているようだった。カーテンは閉ざされていて、部屋の様子までは伺えない。

 けれど天蓋には翅を抽象化したような美しい紋様が描かれていて、ふかふかの分厚い白い布団に金の糸で施された精緻な刺繍は、群れの中で一番手仕事が上手かった同族にすらとても作れない程のもので。

 あまりに馴染みのない煌びやかな光景に身体を固くするのと、横から声を掛けられたのは同時のことだった。


「……あれ、起きたにゃ?」


「!」


 びく、と肩を跳ねさせて、慌ててそちらを向けば、少しだけ捲られたカーテンから満月のような金色の瞳が覗いていた。

 ピンと立てられた紫紺の三角の耳に、縦に長い瞳孔。耳と同色の癖のない髪が肩あたりでさらりと揺れて、しなやかな尻尾がくねるのが隙間から見えた。


 ネコ族、の、女の子──? 特徴は間違いないはずだけれど、ネコ族の生息範囲はコトリ族とはかなり異なったはず。困惑に言葉が見つからないモモを気にした様子もなく、モモの小さな姿をまるい瞳でじろじろと検分していた少女はおもむろに口を開いた。


「怪我はまだ痛むかにゃ? パニックになって暴れたって聞いたけど、少しは落ち着いたかにゃ」


「あ……貴女は、誰?」


「ん、ネココはネココだにゃ。キミの着替えとか、怪我の手当を任されたんだにゃー」


 緊張感のない間延びした話し方の割には表情が仕事をしていないというか、何となく気だるそうな印象を受ける少女に、モモは少しだけ肩の力を抜いた。

 言われてみれば服が綺麗なものに変わっているし、翼の根元に包帯らしきものが巻かれているような感覚がする。


「こ……ここはどこなの? わたしはどうして、」


 モモの勢い込んだ質問を遮ったのは、コンコン、という部屋の扉を叩く音だった。はぁい、とネココが返事をして、ちょっと待っててにゃ、という言葉と共にそっとカーテンの僅かな隙間が閉ざされる。

 間を置いてカツカツと靴音が室内へと入ってきて、モモは思わず身を硬くすると息を詰めた。ネココと名乗った少女は入ってきた人物と声を潜めて会話しているようだけれど、生憎モモはとても耳がいい。


「おーさまー、丁度良かった、あの子、今目が覚めたところだにゃ」


「それは……丁度いいのか? 怪我の具合はどうだ、精神状態は」


「怪我は一通り手当したけど、当分は療養が必要だにゃ。一応会話はできそうだったけど、当然めちゃくちゃ警戒してるにゃー」


「うん、そりゃそうだよなあ。まあでも同性のお前の方がいくらかましだろう、とりあえず温かい食事と飲み物を用意させるから、そこから話を……」


 会話が途切れたのは、ばさりと音を立てて、モモが寝台のカーテンを開いたからだった。当然一気に室内にいる人物の視線が集中して、小さな身体が強張る。けれど、もうこれ以上訳の分からない状況に、説明もないまま身を置くのは耐えられそうになかった。


 寝台の瀟洒さから予想していたように部屋はとても広く、モモの群れが祭事を行っていた広場と変わらない程の大きさがあった。

 大きな暖炉に、壁に掛けられた見事な絵画や絨毯。高い天井にもタイル張りの床にも精緻な装飾が施されていて、テーブルや椅子の足すら精巧に彫り込まれていた。


 テーブルの傍で目を丸くしてこちらを見つめる二人は、ネココと、それから声で悟っていたけれどあの時の派手な身なりの金髪の男性だ。

 けれど、部屋の奥に予想外の人影を見つけて、モモは目を見開いた。腕を組んで壁に背を預け、今にも影に同化してしまいそうに気配を消しているけれど、モモが気が付かないはずもない。


「……っ」


 あの、上から下まで黒を身に纏った、トカゲ族の長身の男。部屋に入ってきた靴音は確かに一人分だったはず。それならあの男は、一体いつからあそこにいたのだろう。

 黒曜石のような瞳が真っ直ぐにモモの赤い瞳を射抜いて、どきりとしたモモは慌てて目を逸らした。


 群れを襲った汚らしい男とは随分色合いや見目が異なるけれど、間違いなく憎くて堪らないトカゲ族。モモから群れを奪った、残虐非道な天敵。

 湧き上がるのは憎悪であるはずで、けれど拭いきれない現状への違和感がそれを邪魔した。


『……何をされようと、何があろうと──この世でオレだけは、オマエを絶対に傷付けない』


 間違っても、あんな言葉で絆されたわけではないはずなのに。考えても答えは出ず、モモは乱れた思考から逃れるように金髪の男性の方へと視線を移した。

 このまま寝台の上で会話をする訳にはいかないと、大きな布団を泳ぐようにして降りようとすれば、慌てたように声が掛かる。


「おいお嬢さん、そのままでいい! まだ傷が──」


「あ……貴方は、わたしを買った人?」


 モモのその半信半疑の一言で、室内の空気がぴしりと凍りついた。静止に構わず寝台を降りて、ふらふらと金髪の男性に歩み寄れば、その顔がどんどん青ざめ冷や汗が流れ出していく。

 ちらちらとその視線が窺うように部屋の端に送られていたけれど、必死なモモは気が付かなかった。


「あー……その、お、おお落ち着こうお嬢さん、我がそんな非道な男に見えるか? 我が手段を選ばず買うのは酒樽だけだぞ」


「違うの……?」


「む、むしろ何故そんなことを」


「何故って……わ、わたしを襲ったトカゲ族の男が、わたしは生捕りだって、高く売るって言っていたわ。捕まったあと、……あそこの、黒いトカゲ族の男に引き渡されて、貴方が買ったんじゃないの……?」


 すぅ、と金髪の男性が魂の抜けたように安らかな顔をして、どこかからバキ、と何かにヒビが入るような音がする。にゃあ、とネココが額を抑えて、モモは訳も分からず胸元で手を握り込んだ。

 見たところ金髪の男はとても高貴な身分のようだし、生息地の離れたこのネコ族の少女も収集欲から金に物言わせ囲ったのだとしたら、どうにか現状の説明がつくと思ったのに。


 ……だって、そうでないのなら訳がわからない。記憶が飛び飛びなのも、いきなり全く知らない場所で目が覚めたのも、こんなに絢爛豪華な部屋で寝かされているのも──何一つ説明がつかなくなってしまう。

 それは見知らぬ地へ売り払われることよりも、余程恐ろしいことのような気がした。


「ね、ねぇ、一体──」


 なんなの、何が起きているの、と震える声が零れ落ちる前に。ひら、と視界の端を黒い影が横切って、同時に金髪の男とネココがあ、と口を開けた。怪訝に思う間もなく、ちいさな体に影がかかって視界が暗くなる。

 え、と掠れた声を漏らして二人の視線が向かう先を見上げれば、激情の燃え盛る黒曜石の瞳が逆光の中でこちらを見下ろしていて、モモはぴ、と鋭く息を呑んだ。


「……ソイツに、何をされた」


「、え……」


「売り物に傷を負わせるなんざ、正気の奴がやることじゃねェだろ。まともな扱いをされたとは思えない……何を言われた、どこに触れられた」


 ──目に……せてやる。……をしてでも──


 まるで地獄の底から這い出してきたかのような唸り声は、けれどモモの耳に届く前に恐怖に逸る鼓動の音にかき消されてしまった。

 ずっと見上げていたら後ろにひっくり返ってしまいそうなほど長身のトカゲ族の男が、震える拳を白くなる程に握りしめて、抑えていても分かるほどの激昂に瞳を滾らせながらこちらを見下ろしているのだ。恐ろしくないわけがなかった。


「ち、違うわ、この傷は……っというか、貴方もトカゲ族じゃない、奴らの仲間なんじゃないの……!? あ、貴方、いったい──」


 誰なの、という震える問いかけに、男の瞳が微かに揺れる。激情が煮えたぎっていた瞳が、迷うようにして逸らされた。


「……オレは……」


 躊躇いがちに呟かれた言葉は続くことなく、とうとうその場に沈黙が落ちる。それが居心地の悪い余韻を残す前に、頭を掻きながら金髪の男が割り込んできた。


「はいはい王様スト〜ップ! どーどー、気持ちはわかるが落ち着け。すまないお嬢さん、まずは自己紹介からだよな。この黒いのの名前はカゲ、見た目通り陰気臭い名前だろう? そして我はアル、座右の銘は酒だ! さ、お嬢さんのお名前は?」


「えっ!? えっと、モ、モモ……」


「モモか! お嬢さんにぴったりの可憐な名前じゃないか」


「ネココはネココだにゃ」


 流れに任せて二度目の自己紹介をしたネココに突っ込むこともできず、モモは目を回しながらその場の面々を見回した。訳がわからなすぎて、全部木のうろの中で見ている夢なんじゃないかと思えてくる。

 目が覚めたら、また老婆のがなり声で呼びつけられて、代わり映えのない一日が始まって──……と現実逃避に意識を飛ばし始めたモモを引き留めるように、アルがコホン、と咳払いをした。


「あー、申し訳ない、さぞかし混乱していることだろう。聞きたいことが山程あるだろうし、それは我らも同じだ。説明するから、無理せず寝ていてくれ。ただ、これだけはどうか覚えておいてほしい」


 す、と自然に膝を着いた金髪の男──アルの青い瞳と同じ高さで目が合って、モモはその真剣な表情に思わず息を呑んだ。


「──我らはお嬢さんの敵ではないし、決して害することもない。どこの世界の神にだって誓おうとも」


 勿論酒にもな、というお茶目な声と共に両目で送られたウインクに、ネココがにゃあと心底呆れた顔をして、モモのルビーのような瞳が瞬かれる。

 向けられた笑顔が温かくて、強張っていた小さな身体からほんの少しだけ力が抜けた。


 警戒心を解いたわけではないけれど、確かにこの場にいる面々から敵意は感じられない。トカゲ族の強い悪意に触れたばかりのモモにとって、それは何よりも重要なことだった。──……ただ。


 ちら、と伺うようにカゲと呼ばれた男を見上げて、ばちりと目が合って慌てて視線を逸らす。


 ──このひと、どうしていつ見ても絶対に目が合うのかしら。


 敵意とはまた違う、けれど形容し難い感情を宿した瞳でじっと射抜かれると、小さな胸がざわざわと騒いで酷く落ち着かない。

 トカゲ族への恐怖や憎悪と考えるには、それは未だにモモの中で、この黒を纏った男とははっきりと結びつかないままだ。


 ……もしかしたら、話を聞けば分かるのだろうか。この男が向ける視線の意味も、落ち着かない心の正体も。


 拭えない恐怖は飲み下して。アルと名乗った男へと向き直ると、モモは促すようにそっと頷いて返したのだった。

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