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第九話:焼かれた玉座の前で

 砂の海に浮かぶ緑の島。

 涸れることのないオアシスを抱いたこの土地に、〈緋砂の審判〉の神殿はあった。

 遡ること十余年。

 かつて栄華を誇った王国〈ズィブ・ナーバ〉の宮殿は、一夜にして焼け落ちた。

 自然を畏怖し、寛容を美徳としていたその国は、いまや冷酷な信仰の聖地と成り果てた。粘土と砂岩で造られた壁は派手な装飾に塗り固められ、教団の威信を誇示する容れ物へと変わってしまった。

 神殿の中央。

 玉座が置かれていたはずの広間に、教祖ラドロは立っていた。

 緋色の祭衣を身に纏い、煌びやかな杖を手にしたその姿は、奇妙で粗雑な虚飾に満ちている。

「我らの神殿へようこそ。……殿下」

 ラドロの声は、冷たい余裕に満ちていた。

 口元には皮肉な笑み。その背後には、豪奢な祭壇が、教団の権威の象徴として据えられている。

「ずいぶんと趣味の悪い神殿だな」

 ラドロにかつての呼称で呼ばれ、イェシムは眉を顰めた。

 イェシムにとって、ここは家族と暮らした思い出の場所。伯父王と交わした(まつりごと)の会話も、兄弟と行った武術の稽古も——王国の賑わいは、錆びついた銅のごとく鈍く沈んでいた。

「懐かしいだろう。だが、焼かれたあの夜から、ここは我らの聖域となった」

「お前が焼いた! 伯父上も、父も、母も、兄弟も……すべてお前が——!」

 イェシムの声が、低く震えた。

 右手が、佩刀(はいとう)の柄を、固く握る。

「復讐か? 実に古風だな、殿下。……だが、貴様はひとつ見誤っている」

 一歩、ラドロが近づく。

「私が神に選ばれたあの夜から、この地はもうお前たちのものではない。民も、国も、信仰も……すべては我が意のままにある」

 恍惚すら、漂わせて。

「盗賊風情が……何が神だ。お前に信仰心なんざねぇだろ。その左腕のタトゥーを晒してみろよ。お前は欲望のままに人を騙し、操り、殺しただけの——ただの化け物だ」

 ラドロの過去を吐き捨てる。

 十代の頃から盗賊の一味として略奪を重ね、のちに頭となったラドロは、とある王の墓を荒らすことで莫大な財を成した。だが、独占と口封じのために部下を皆殺しにし、その財で設立したのがこの〈緋砂の審判〉なのだ。

 左腕には、盗賊時代の名残である、剣に尾を巻きつけたサソリのタトゥーが刻まれている。

 ラドロの顔に、わなわなと卑屈な怒りが覗いた。左腕を隠すように、祭衣の袖口をきつく握り締める。

「ふん。ならば、その化け物に一族も国も焼かれた貴様は何だ?」

 風が、やんだ。

 凍りついたような静寂の中、イェシムの曲刀が、するりと鞘を滑る。

 冴えた金属音が、かつての宮殿に響いた。

「……答えはひとつだ」

 構えを取る。

「俺は……お前を倒すためだけに、生き延びてきた」

 そのひとことを機に、火花が散った。

 イェシムの太刀が風を裂き、ラドロの杖と激突する。

 ラドロの武器は、ただの飾りではなかった。中空の金属芯を用いたそれは、儀礼と戦闘を兼ね備えた異形の杖だ。

 打ち合いの衝撃が、砕けた床石を跳ね上げる。

 イェシムの動きには、いっさいの無駄がない。ラドロの振り下ろしを流し、突きを受け止め、次の一手を導く。その剣筋は、王家に伝わる流派のもの——だが、いまや彼ひとりのものとなった。

「王族のくせに、ずいぶん血生臭い腕だな……!」

 ラドロの動きに翳りが差す。顔には、驚愕と焦燥の色が、はっきりと滲んでいた。遠くで響く剣戟の音に、にわかに反応する。

 イェシムは何も言わない。ただ、静かに刀を構え直す。その目に宿るのは、言葉を超えた怒りと決意だった。

 弾みをつけて払われたラドロの杖が、イェシムの腹部をかすめた。皮膚が裂け、灼けるような痛みが走る。しかし、イェシムは怯むことなく踏み込んだ。

 そして、一閃。

 翻った刃が、ラドロの左肩を斬り裂いた。

「ガ……ッ……あァ……!」

 呻きを上げたラドロの杖が、宙に泳ぐ。

 その声は、怒りと悔しさに震えていた。

「ぐッ、貴様さえいなければ……すべては私のものだった……ッ、教団も、この世界も、リ……」

 言いかけて、ラドロの瞳が、わずかに揺れた。

「リンファ、か。……あの子は前に進める。お前と違って。だから——邪魔すんな」

「黙れぇえぇぇッ!!」

 咆哮とともに、ラドロが大きく振りかぶった。されどその軌道は、イェシムの冷静な間合いの外。

 刹那、イェシムの身体が跳ねる。返す太刀を振るう。

 斬撃が、鋭く、深く、ラドロの胸を貫いた。血が——弧を描く。

 ラドロは、よろめいた足で数歩後ずさると、玉座の跡に崩れ落ちた。

「……オレ、は……間違って、な、ど……」

「間違ってなかったと言い張れるなら……地獄でお前の神とやらに慰めてもらえ」

 イェシムの言葉に、ラドロは口を開きかけたが、そのまま息絶えた。権威と支配への渇望が、砂塵のように散っていく。

 曲刀の切っ先から滴る血を、イェシムは冷たい床石の上で静かに振り払った。玉座の跡を見つめるその翡翠に、亡き王国の最後の(ほむら)が揺らめく。

 そのとき。


 おぉおぉォォォォ……!!


 神殿の外で、轟音が上がった。

 幾多もの金属の軋みと(とき)の声が、大地を揺るがす。

 それは、ラミナ・グランツの名の下に集ったクラシス帝国軍が、教団の制圧に成功した合図だった。

 長きに渡る因縁が、ようやく幕を下ろした。


 やがて。

 月が昇り、雲間からひと筋の光が、かつての王都に降り注いだ。


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