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第七話:父と娘

 満月が、夜を見下ろしていた。

 薄暗い牢の格子窓から差し込む光が、膝を抱えるリンファを照らす。

 風はない。音もない。

 ただ時を凍らせたような沈黙だけが、リンファの孤独に輪郭を与えていた。

 教団の本拠地があるオアシスまでは遠く、リンファは連日の移動を強いられた。あとどのくらいかかるのだろうか。同行している父に訊けばわかるのだろうが、正直、話したくはなかった。

 目を閉じる。

 ふと、脳裏に浮かぶのは、あの砂漠の夜。

 イェシムと出会ったあの夜も、空には満月が浮かんでいた。あれからもう、ひと月が経つ。

 彼との旅路には、不安なんて、ひとつもなかったのに。


 ——行くなっ、リンファ!!


 今なお耳に焼きついて離れない、イェシムの叫び。

 クラシスへは行かなかった。……行けなかった。彼をあの場に置き去りにしたその先など、想像したくはなかった。

 だから、己を差し出した。震える足で、一歩を踏み出して。

 この幽閉はその代償だが、あのときの決断に、悔いはない。

「……イェシムさん」

 ぽつりと、彼の名を呼ぶ。

 返事はないとわかっている。けれど、音にすることで、なぜだか不思議と心が凪いだ。

 不意に。

 牢の外で、何かが軋む音がした。まるで金属が砂を噛むような、ざらついた音。錠前が、かちゃりと回る。

 リンファは身構えた。逃げることなどできないこの空間で、冷えた身体を強張らせる。

 扉がゆっくりと開き、ひとつの影が入ってきた。

 黒い外套。引き結んだ口元。そして、どこか切実な光を宿した瞳。

「リンファ」

 ——父だ。

「すぐにここを開ける。今が一番手薄な時間だ。早く逃げなさい」

 外に漏らすまいと囁く父の声には、かすかな焦燥と、かつての柔らかさが戻っていた。

「どうし、て……」

 惑い、疑い、問いかける。

 これに対し、父は揺れる眼差しでリンファをまっすぐに見据えると、掠れた声でこう言った。

「……ようやく迷いを断ち切ることができた。目が覚めたんだ。お前がいなくなってから。……彼に、言われてから」

 リンファは息を呑んだ。

 そこには、父がいた。

 言葉を探るその隙間に、本物の、父が——。

「彼の言った通りだ。お前を犠牲にして得られる幸せなど……約束された楽園など、あるはずないのに」

 ヤンファンの瞳に、妻を喪った悲哀と、深い悔恨の影が満ちる。

「デアの面影に、縋るだけだった。医者としての無力を、神の名のもとに誤魔化して……。逃げていただけだったんだ、私は。許してくれ、リンファ……」

「お父さん……」

 リンファは頷いた。何度も何度も頷いた。

 何度も頷き、涙し、目の前の父を抱き締める。父もまた、昔のように、強く抱き締めてくれた。

 長い苦しみの果て。止まっていた親子の時間が、ようやく動き始めた。

「急がないと。さあ、早く」

 差し出された父の手は、乾いているがあたたかい。リンファは、迷わずその手を取った。

 牢を出て、地下の隘路を進む。朽ちた石壁に沿って、親子は音を立てないよう足を運んだ。

 しかし、教団の中枢は、すでにヤンファンの離反を読んでいた。

 長い通路の先。

 外へと続く階段に差しかかったとき、黒衣に身を包んだ男たちが、姿を現した。

 彼ら教団の私兵には、容赦も慈悲もない。あるのは、教団に対する盲目的な忠誠のみだ。

「見つけたぞ!」

「逃がすな!」

 閃く剣を手に、兵たちが迫る。

 ヤンファンは、躊躇うことなくリンファの前へ踏み出すと、両手を広げて立ちはだかった。

 リンファが青褪める。ひゅっと、喉が鳴る。

「お父さんっ!!」

「行きなさい!! 早くっ!!」

「いやよ!! お父さんを置いてなんて行けないっ!!」

 兵たちが、親子を捕らえんと、一斉に踏み込んだ。

 そのとき。


「リンファっ!!」


 階下から、黒い影が疾風のごとく舞い上がってきた。

 血の花が咲く。

 砂を纏い、獣のような炯眼を湛えたその影は、曲刀で一瞬にして兵たちを斬り伏せた。

「イェシムさん!!」

「遅くなって悪い」

 イェシムはリンファに微笑みかけると、最後のひとりへと向かっていった。リンファの顔に、ほのかに精彩が戻る。

 しかし、ヤンファンの背後で蠢く影——今にも散らんとした命を引きずる影——が、渾身の力で刃を振り下ろした。

「ッ!」

 反射的に、ヤンファンが振り返った。

 直後。

「きゃあぁあぁぁぁ!!」

 リンファの絶叫が、地下に響き渡った。

 ヤンファンの胸元から、真っ赤な血が噴き上がる。だらりと腕が垂れ、よろめき、膝をつく。

 光が失われていく中、それでも、その目だけは、しっかりと娘を見つめていた。

「リン、ファ……生き、て……」

 父の最後の声を、命の色を、冷たい石床が吸い込んでいった。

「……お父さん……や……いや……っ、お父さんっ!!」

 リンファが駆け寄ろうとするも、イェシムが腕を掴み、首を振る。いつ応援が来るとも限らないこの状況では、一刻の猶予もない。

 イェシムは、リンファを抱きかかえるようにして階段を駆け上がり、外へと飛び出した。

 リンファが囚われていたのは、町の片隅にある古い倉庫だった。月光に照らされたふたりを、夜の町が静かに見送る。

 なんとか人気(ひとけ)のない砂漠の岩陰まで辿り着いた頃、リンファは、ついにその場に(くずおれ)れた。

「……お父さん……おとう、さ……っ」

 声が、全身が、震える。

 とめどなく零れ落ちる透明な雫が、砂を黒く塗りつぶした。

「リンファ」

 傍らに膝をついたイェシムが、そっと呼びかける。

「親父さんは、お前を守るために戦った。……最後まで、お前の味方だった」

 そう言い切ると、イェシムは、血と砂にまみれたその手で、リンファの身体を強く抱き締めた。リンファの頭を自身の肩に引き寄せ、ゆっくりと背中を撫でる。

「わたしのせいで……っ、お父さんが……わたしの……っ——」

「お前は悪くない。お前が背負うべき罪なんて、どこにもない」

 抱き締める腕に力を込める。

 ふたつの心音が、重なる。

「……大丈夫。お前は、生きていける」

 砂漠の夜空に、リンファの慟哭がこだまする。その涙と嗚咽のすべてを、イェシムは受け止めた。

 未来へと託された命が、揺るがぬぬくもりの中で、確かに拍動していた。


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