第六話:地図の終わり、既知との境界
ついに、その地へと辿り着いた。
幼い頃、母が繰り返し聞かせてくれた光景が、リンファの眼前に広がる。
「あれが……」
厚く聳え立つ城壁の向こう側。
かつて皇帝が卓越した統治力で荒れた諸部族をまとめ上げ、太陽神を頂点とした多神教信仰の下に秩序と繁栄を築いた〈クラシス帝国〉。
西方最大のその軍は鉄壁を誇り、歴代の将校たちは諸外国から〈帝国の剣〉と畏れられた。
今なお語り継がれているのは、〈エンパイア・アマリリス〉と謳われた美しき女将校——ラミナ・グランツ。
遠い日に母が語った英雄譚は、いつもその名とともにあった。
「お前の生まれ育った村ってのが、どれくらい東にあるのかは知らねぇが……ずいぶん遠くから嫁いだよな。お前のお袋さん」
イェシムを見上げ、リンファは大きく頷いた。
母の強さに、その覚悟に、胸が震える。形容しがたい感慨が内側から波のように押し寄せ、思わず言葉を失った。
「城門をくぐるには何かと面倒な手続きが必要だが、お前なら問題ない」
「……え?」
「お前の持ってるお袋さんの形見。それを見せれば、きっと守衛は通してくれる」
イェシムの言葉の真意が理解できず、リンファは首を傾いだ。だが、それを確認する間もなく、彼はすでに城門へと歩き始めていた。
そのときだった。
湿気た風にまぎれて、遠くから規則的な軍靴の音が聞こえてきた。
イェシムは目を細め、音のするほうへと視線を向ける。やがて、黄昏に染まる大地を踏みしめながら、物々しい一団が現れた。
先頭に立つのは、白髪混じりの男。緋色の長衣をはためかせ、背筋を伸ばし、鋭い眼光でこちらを見据える。
教団の幹部であり、リンファの父——ヤンファンだ。
ヤンファンは無言のまま近づき、そして立ち止まった。その後ろには、護衛と思しき重装備の男たちが控えている。
剣の鞘が、かすかに軋む。
張り詰めた空気が、冷たく啼いた。
「リンファ、戻ってきなさい」
リンファは、じっと父を見つめ返した。
父の表情からは、なにひとつ感じられなかった。ぬくもりも。安心も。
かつての優しかった父は、もういない。今リンファの目に映るのは、信仰に心を蝕まれた、からっぽの器だ。
「嫌よ。わたしは戻らない」
「リンファ……っ」
「わたしはあの男と結婚なんてしない。わたしの人生を、勝手に決めないで」
「なぜだ!! 神の御心に従えば、私たちはまた〈穢れなき永遠の楽園〉でデアに会える!! すべて私たちの幸せのため……そのために、私は……っ!!」
「お母さんは死んだの!! お父さんと結婚するためにここを飛び出したお母さんは……っ、わたしたちを愛してくれたお母さんは、もういないのよっ!!」
リンファの瞳から溢れた雫が、玲瓏な珠となって空へ弾けた。
長く、深く、心の奥底に堆積していた怒りと悲しみが、堰を切ったように迸る。十年間、教団という籠に囚われ、父の盲信に押し殺されてきた少女の叫びが、母の故郷の空にこだました。
時が止まるほどの、沈黙。
「……おい」
その沈黙を、イェシムが破った。凍てついた低声が、場を穿つ。
「ずっと隣にいた娘よりも、見たことも会ったこともない神とやらがそんなに大事か。娘のほうが、よっぽど現実見て立派に生きてんじゃねぇか。たったひとりの娘を犠牲にしてまで縋る楽園とやらが、あんたの願う幸せなのかよ」
イェシムのこの言葉は、間違いなくヤンファンを揺さぶった。
ヤンファンの顔が悲痛に歪む。娘と同じ色の瞳が、激しく揺れる。
己が救えなかった命。絶望を信仰で塗りつぶそうとした過去。娘の面差しが、亡き妻のそれと重なる。
動揺は、しかし一瞬だった。
ヤンファンは、すぐさま信仰の盾で感情を押し殺すと、瞳から彩光を消し去った。
「我らの行くすえを、〈裁かれるべき異端〉が口にするな」
空虚なこのひとことが、リンファの気持ちを決定づけた。
激情の波は、もはやない。
あるのは、至極純粋な拒絶だけだ。
「わたしの幸せは、教団にはない。わたしの幸せは、お父さんと同じじゃない」
背後に控える護衛たちの表情は険しく、皆一様に武器に手をかけている。イェシムはすかさずリンファの前に立ち、曲刀の柄を固く握り締めた。
護衛たちが、ついに武器を抜いた。
一触即発。
イェシムは冷静に状況を見極めつつ、わずかな隙を窺う。
刹那。
はっとしたイェシムの双眸が、地平線に浮かぶ複数の影を捉えた。土煙の奥で蠢くそれらは色を帯び、しだいに形を成していく。——援軍だ。
イェシムは「チッ」と舌打ちをすると、曲刀を一気に引き抜いた。鋼の冷たい輝きが、黄昏の空気を切り裂く。
「俺が喰い止めてるあいだに、お前はクラシスへ行け」
「でも、それじゃイェシムさんが……っ」
「俺のことは気にすんな。……お前は、お前の望む道を選べ」
諦めるな。
絶望するな。
生きろ。
声なき言葉がささやかな希望となって、リンファの心をほのかに灯す。
視界の端。一斉に飛び出す護衛たちの影に、リンファは目を閉じた。イェシムの袖口を、震える指先できゅっと掴む。
「……イェシムさん——」
この一歩が、イェシムの盾となることを、リンファは知っている。
——ありがとう。




