第四話:薬草と夢と、父への祈り
昼夜を分かたぬ移動から解放され、砂ばかりだった景色に少しずつ色彩が加わる。
砂漠の荒野から緑に満ちた草原へと植生が変化していくように、イェシムとリンファの纏う空気もいつしか柔和なものとなっていた。
リンファのほうから話しかける機会も増え、笑うことも多くなった。そんなリンファに、イェシムもあたたかい眼差しを注ぐ。
今、彼らのあいだに存在するのは、確かな信頼だけだ。
朝まだき、西へと続く道。
林縁をなぞるように伸びる小道を行けば、背の高い草に混じってところどころに淡黄色の花が咲いていた。
腰を下ろしたリンファが、指先でそっと花びらに触れる。手に抱えた麻袋には、すでにいくつかの植物が収穫されていた。
「それも薬草か?」
「はい。ラトゥ草といって、解熱に効く薬草です」
イェシムの問いかけに、リンファは小さなナイフを取り出しつつ答えた。根元の部分に刃を当て、丁寧に切り取る。
「詳しいんだな」
「母に教わりました。母は薬剤師で、薬草も育てていて……小さい頃は、わたしもよく世話を手伝っていました」
澄んだ陽光が、リンファの横顔を優しく照らす。そこには、亡き母に対する哀惜と、過ぎ去った日々への愛おしさが滲んでいた。
「ずっと、母のような薬剤師になるのが夢でした。人の痛みを和らげる仕事って、素敵だなって」
「お袋さんは、病気で?」
「はい。十年前に、流行り病で……」
リンファの言葉が、ふっと途切れた。草木を撫でる風の囁きだけが聞こえる。
亡き母デアは、この陽光に似た金髪と、橄欖石のような緑眼をした美しい女性だった。
西方出身ということもあり、村ではひときわ目を惹く存在だったが、薬剤師として、夫であり医師であるヤンファンと小さな診療所を営んでいた。
しかし、十年前の冬。
流行り病が村を襲い、夫とともに患者に寄り添っていたデアは、自らも病に倒れた。
「父は、懸命に母を治療しました。昼夜を問わず、寝る間も惜しんで」
愛する妻のため、ヤンファンはあらゆる知識と技術を駆使した。己のすべてを捧げ、消えかかった命の灯火を必死で繋ぎ止めようとした。それでも、妻を救うことはできなかった。
このとき。
世界の理不尽を前に、ヤンファンは嘆き、怒り——絶望した。
「父は、とても優しい人でした。母が亡くなる前は、いつもわたしの夢を応援してくれて……。でも、母の葬儀のあと、村にやってきた〈緋砂の審判〉が、父を変えてしまったんです」
リンファの指が、持っていたラトゥ草の茎を無意識に折る。その仕草は、まるで感情の置き場を探しているように見えた。
ヤンファンは、クラシス帝国の医学校に在籍している際、研修先の病院でデアと知り合った。ふたりが恋仲になり、結婚を意識するようになるまでにさほど時間はかからなかったが、デアの母親が、ふたりの結婚に猛反対したらしい。
デアの母親は、帝国でも名高い将校だった。真面目一辺倒で厳格。そんな母親とたびたび衝突していたデアは、ヤンファンとの結婚を認めないばかりか、勝手に部下との縁談を進めようとした母親に憤慨し、激しい口論のすえに家を飛び出した。
以来、一度も故郷の地を踏むことなく、デアはこの世を去った。
「教団の教えに従えば〈穢れなき永遠の楽園〉でまた母に会えるんだって、父はそればかり言うようになって……教団の中枢に近づけば近づくほど、どんどん遠くへ行ってしまいました」
デアを救えなかった贖罪と、この世界の苦痛に耐えかね、ヤンファンは医師としての矜持を捨てた。教団の甘言と排他的な教義の中に、狂おしいほどの安らぎを見出してしまったのだ。
さあっと。一陣の風が、空に舞い上がった。
ふたりのもとへ、朝の匂いを運んで。
「……救いを求めて神を信じるのは、べつに悪いことじゃない。だが、それ以外を否定するのは、違う」
今まで黙ってリンファの話に耳を傾けていたイェシムが、ここでようやく口を開いた。
その声には、重く錆びついた響きがあった。
「自分の信じるものだけが正しいと疑わない奴は、やがて他人の犠牲を正義にする」
「……そう、かもしれません」
リンファは、視線を落とし、握った草の穂を見つめた。ひとひらの穂が、風に攫われ零れ落ちていく。
心のどこかで期待していた。また、昔の父に戻ってくれるのではないかと。自分のことを、見てくれるのではないかと。
母を喪った絶望が信仰に繋がったことは、幼いリンファにも理解できた。だからこそ、父を咎める気にもなれなかった。
けれど、あのとき。
教祖への忠誠として自分を捧げた、あのとき。
父に対する愛惜は、深く冷たい失望へと変わってしまったのだ。
「……薬剤師に、なりたかったな……」
今にも消え入りそうな、か細い呟き。
しかし、イェシムは、しっかりとそれを掬い上げた。
「なんで諦めるんだ?」
「……え?」
イェシムの翡翠が、リンファの青藍を、まっすぐ射抜く。
「諦めなくていい。誰かに従う人生は終わったんだ。お前の夢に、父親の信仰も、ましてや教団も関係ない。お前の人生は、お前だけのもんだ」
リンファの心の奥で、何かが震えた。込み上げる情動に、飾らないその優しさに、目頭が熱くなる。
口元をきゅっと結び、抱えた麻袋を胸に寄せる。
草木の香りの中に、亡き母の記憶と、自分自身を見つけた気がした。




