第三話:緋砂の審判
砂漠を渡る旅は、過酷を極めた。
容赦なく照りつける真昼の太陽。骨の髄まで冷やす夜の空気。
乾いた砂塵に晒されながら、イェシムとリンファはひたすら西を目指した。
そうして、ディル・カラを出発してから一週間が経過した頃。
御者の協力を得て、長い移動を終えたふたりは、ようやくひとつの町に辿り着いた。
砂漠の十字路〈アグラム〉。
東西を繋ぐ交易路の交差点に位置するこの町は、旅人や傭兵、商人たちが行き交う活気の中心地だ。日没後は通りにあかりが灯り、酒場から笑い声や楽器の音が響き始める。
情報渦巻く、旅の分岐点。
「ここには俺の古くからの知人が多い。この先に進むための有益な話が聞けるはずだ」
町に入ると、イェシムは早速顔見知りの商人たちから声をかけられた。皆一様にイェシムの無事を喜び、祝い、肩を叩く。傭兵として信頼されているだけでなく、この地に彼を慕う人間が大勢いることを、リンファは知った。
旧友たちとの挨拶もそこそこに、イェシムは町で最も賑やかな酒場へと向かった。
厚い砂岩を積み上げて造られた外壁。〈陽炎亭〉と書かれた看板のかかった扉を開ければ、炙った肉の香ばしい匂いと、陽気な客たちの声が、勢いよく溢れ出す。
リンファは、その賑やかさに思わず身を硬くするも、イェシムに促され、おそるおそる足を踏み入れた。
「イェシム! 久しぶりだな!」
イェシムが中に入るやいなや、年配の店主が景気よく声をかけてきた。
恰幅のいい褐色の男性。白髪混じりの髭を撫でながら、イェシムにいつもの酒を注ぐ。
「アンタが生きてりゃ戦の風向きも変わるってな。……そっちのお嬢さんは?」
「客だ。道案内を頼まれた」
「へぇ。ずいぶんな別嬪じゃねぇか。どっかの貴族のお姫さんかい?」
からかうような口調に、イェシムは笑って軽く受け流す。
やがて、ふたり分のつまみと、柘榴のジュースが運ばれてきた。新鮮なこのジュースは、リンファのために店主が気を利かせて作ったものだ。
酒場の片隅。窓際の席に座り、グラスを傾けながら、イェシムがさりげなく話を探る。
「最近、教団の動きはどうだ?」
これに対し、店主は少しだけ声を潜めて答えた。
「ああ。あくまで噂だが……ヤツら、最近大きな祭事の準備をしてるらしい。なんでも、教祖のラドロがあの年で婚約したって話だ」
カチン、と。
不自然に、グラスのぶつかる音がした。
イェシムが横目でリンファを見やる。すると、彼女は俯き、かたかたと身体を震わせていた。鮮やかな柘榴の赤が、わずかに波立つ。
音楽と喧騒が満ちた空間で。
ふたりの周囲だけが、まるで異質な空気に包まれていた。
「……ご馳走さん」
「なんだ。もう行くのか?」
「ああ。ここんとこずっと移動しっぱなしだったから、早くこいつ休ませねぇと。……ありがとな」
店主に礼を言い、注文した金額の倍の硬貨をテーブルに落とすと、イェシムは席を立った。リンファに「行くぞ」と低く告げ、足早に店をあとにする。
腰に佩いた曲刀の柄を、強く握り締める。イェシムの喉奥に、灼けつくような鉄の味が広がった。
夜の町を歩く。
頭上には無数の星が瞬き、町じゅうに吊るされた透かし彫りのオイルランプが幻想的な光を放つ。
しばらく無言で歩いたのち。
人通りの途絶えた、路地裏で。
「……〈緋砂の審判〉」
足を止めたイェシムが、ぽつりと呟いた。
イェシムが口にしたもの。それは、黒い噂にまみれた、ある巨大な宗教団体の名称だった。
刹那。リンファの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「そろそろ聞かせてくんねぇか。お姫さんを匿ってるなら、危険の程度くらいは把握しておきたい。……話してくれ。お前が何から逃げてきたのか」
ひどく怯えるリンファを見つめ、イェシムが言葉を継ぐ。
「お前の持ってるブローチが、教団のものだってことは知ってる。ヘビが尾を咥えたあの意匠は、最近教団の幹部連中がこぞって使い始めた紋章だ。……まさか、さっき言ってた、ラドロの婚約者ってのは——」
リンファは、着ているローブの胸元をぎゅっと握った。
母の形見のペンダント、その感触を、必死で探る。
「……わたし、です」
痛みを孕んだこの声を、夜風がひやりと攫っていった。
〈緋砂の審判〉——ここ十数年のあいだに急速に勢力を拡大してきた、唯一神を掲げる宗教団体だ。
彼らの説く〈穢れなき永遠の楽園〉とは、信者だけに与えられる救済。信者以外は〈裁かれるべき異端〉と見なし、極めて排他的な教義に基づき弾圧する。
その力は信仰心のみならず、教祖ラドロが率いる絶対的な武力に裏打ちされている。
「教祖の婚約者なんて、なろうと思ってなれるもんじゃねぇ。お前の意思なのか?」
「ち、違います……!! ラドロが、父に命じて……っ、父は、教団の幹部だから……わたしには、拒否する権利すらなくて……っ」
ここまで言うと、リンファはその場に頽れた。堪えきれない涙が、乾いた石畳を濡らしていく。
「父は、わたしのことなんか見てないんです……わたしの話に、耳を傾けることさえしない……教団に身を捧げることが、わたしの幸せだから、従えって……——」
小さな嗚咽が、路地裏に響き渡る。
イェシムは動かなかった。……動けなかった。目の前の少女の絶望が、遠い過去の傷を容赦なく抉り出す。
憎悪、共感、葛藤——あらゆる感情が、熱砂のごとく押し寄せる。
あの日。すべてを燃やされ、何もかもを奪われた。
国も。
一族も。
同胞たちも。
イェシムもまた、絶望の中で生き残った、ただのひとりに過ぎないのだ。
それでも。
「……お前は、悪くない」
イェシムは、重い一歩を踏み出した。リンファの傍らにしゃがみ込み、震える肩に自身の手をそっと添える。
数多の戦場を生き抜いてきたその手は、あまりに静かで、あまりに優しかった。
「今まで、よく耐えたな」
「……っ——」
視界が滲む。両手で顔を覆う。呼吸が、うまくできない。
ほんの少しでよかった。ただ、誰かに気づいてほしかった。
これまで誰にも届かなかった叫び。
彼が……彼だけが、気づいてくれた。
「過去は変えられない。けど、これから先の道は、お前が選べる。選んでいい」
イェシムの言葉ひとつひとつが、リンファの胸を熱く打ちつける。これほどまでに涙したのは、母が亡くなって以来、初めてのことだった。
イェシムに連れられ、宿へと向かう足取りは、まだ覚束ない。
けれど、泣き腫らした瞳には、ほんの少しだけ、きらめく星辰が戻っていた。




