第二話:宝石と旅立ち
まだ暗い時分に洞窟を発ったイェシムとリンファは、砂漠を西へと進んだ。
向かう先は〈ディル・カラ〉。交易路沿いの小さな町で、砂漠の傭兵たちが情報を仕入れる中継地として知られている。
「身につけてるモンは外してこの袋に入れておけ。目立って仕方ねぇ。……お袋さんの形見は、見えねぇように服の内側にしまってろ」
イェシムのこの指示に、リンファは素直に従った。
最初に外したのは胸元のブローチだった。一匹のヘビが楕円を描くように身をくねらせ、自らの尾を咥えて輪を成す独特の意匠。目の部分には、リンファの虹彩によく似た、青藍のラピスラズリが瞬いている。
ついでネックレス、イヤリング、ブレスレットにアンクレット。指輪もすべて外した。
どれもかなりの代物だが、驚いたことに、リンファはそれらを袋ごとイェシムに差し出した。
実に無造作で淡々とした手つき。愛着や未練といった色は微塵も窺えなかった。
身軽になった彼女は、どこかほっとしているようにも見えた。
ディル・カラに到着したのは昼前のこと。
中心部には色とりどりの露店が軒を連ね、そこかしこから威勢のいい声が聞こえる。香辛料や果実、織物の香りが、乾いた風に乗って鼻先をかすめた。
行商の呼び声に客の笑い声。そのどれもが熱を帯び、町に活気をもたらしている。
「町の北側に知り合いの宿がある。そこで飯でも食って休もうぜ」
「……はい」
イェシムのあとを追うリンファは、町の喧騒に気圧されたのか、あるいはすれ違う人々に怯えているのか、ときおり目を伏せた。さりげなく歩調を緩めたイェシムの背に隠れるように、砂を踏みしめ足を運ぶ。
ほどなくして、ふたりは古びた石造りの建物の前へ辿り着いた。扉の上には〈砂猫亭〉と彫られた木の看板がぶら下がっている。
「ここだ」
イェシムが扉を押すと、ひんやりとした空気と、香ばしいパンの匂いが、ふたりを迎え入れた。
「いらっしゃ——って、あら。イェシムじゃないの」
カウンターの奥から現れたのは、褐色の肌に赤いストールを巻いた女性だった。年の頃は三十半ば。すらりとした体躯に、眦の上がった琥珀色の目をしていた。
彼女の名はナディア。ここ砂猫亭の女主人である。
「また傷だらけで戻ってきたのかと思ったけど、今回は女の子連れ? ふうん、趣味が変わったのね」
「茶化すなよ。こいつは途中で拾っただけだ。砂漠で倒れてた」
「拾ったって……あなたね……」
ナディアは呆れたように息をつくと、リンファに視線を向けた。
ふとした仕草に艶を感じさせる美貌。だが、その眼差しは柔らかく、どこか母のようなあたたかさを湛えていた。
「まあいいわ。部屋をひとつ使いなさい。その子に水を飲ませて、身体を拭かせてあげて。……あとで食事も持ってくわね」
「悪い。助かる」
イェシムは軽く会釈をし、リンファを連れて二階へと上がる。
用意してくれた部屋には、素朴ながらも清潔なベッドが二台と、磨き上げられた木製のテーブルが備えつけられていた。
「お前の体調が回復するまで、しばらくここに滞在する」
「あ、ありがとうございます。でも、わたし、何も持ち合わせてなくて……」
「お前みたいなガキに金たかるような真似しねぇよ。余計な心配すんな」
「!」
こつんと、リンファは軽く額を小突かれた。反射的に両手でそこを押さえ、ぱちぱちと目をしばたかせる。リンファのその様子に、イェシムはふっと笑みを漏らした。
太陽が、まっすぐ降り注ぐ。
光を抱いた砂が、世界を白く包み込む。
まもなく、ナディアがふたり分の食事を運んできた。
ナディアの傍らには、笑顔の愛らしい少年の姿。迷わずイェシムに駆け寄り、ぴょんと飛びつく。
無邪気にはしゃぐこの子は、もうすぐ十歳になるナディアの息子らしい。
かつて自分と生まれたばかりのこの子を戦火から救ってくれたのが、傭兵として戦場に身を投じていたイェシムだったのだと、ナディアは教えてくれた。
レンズ豆のスープ、焼き立てのパン、グリル野菜のサラダ——彩り豊かな料理の数々に、乾びた心が潤っていく。
ナディア親子が部屋をあとにし、ふたりきりでの食事が始まる。
最中、イェシムが静かに口を開いた。
「ひとつ、聞いていいか?」
食べる手を止め、改まった態度の彼に、リンファはこくりと頷く。
「あんな危険を冒してまで、どこに行こうとしてたんだ?」
どこから、とは訊かない。あくまで目的地についての質問だった。
これに対し、リンファは俯きがちに答える。
「……とくに、決めていたわけでは」
「あてもなく砂漠を歩いたのか」
「はい。とにかく、遠くに行かなきゃって、それだけで……」
スープの湯気とともに消えた、か細い声。その響きは、どこか自分自身を責めているようにも聞こえた。
彼女の〝これから〟をともに探らんと、イェシムはさらに問いかける。
「なら、行きたい場所はあるか? 目的じゃなくて、望みでもいい」
イェシムのこの言葉に、リンファははっとしたように顔を上げた。長らく秘めていた感情が、ゆっくりと胸の奥から込み上げてくる。
いつか叶えたかったもの。
叶うはずないと、諦めていたもの。
「……母の故郷に……〈クラシス帝国〉に、行ってみたいです」
「クラシス……あの山脈を越えた西の大国か」
西方最大と謳われるクラシス帝国は、軍事大国でありながら、学問と交易で栄えた豊かな国だ。
水と緑に恵まれた首都は太陽の都と呼ばれ、その平和と寛容さには目を見張るものがある。
クラシスまでの道のりは遠い。だが、不可能ではない。
イェシムは、深く息を吐くと、懐からリンファの装飾品が入った例の布袋を取り出した。その中からひとつ、金の細工が施されたネックレスを指でつまむ。
「これだけもらっておく。傭兵としての報酬だ」
「えっ?」
この旅はかなりの危険を伴うはずだ。その対価が、ネックレスひとつでいいわけがない。
そう考えたリンファは、これまででいっとう大きな声を発した。
「そ、それだけで足りますか? よかったら、全部もらってください。全部差し上げますっ」
眉根を上げて必死で訴えるリンファのこの姿に、イェシムは思わず噴き出した。
「マジで言ってんのか? お前ほんとに価値とか興味ねぇんだな。……いいよ。これだけでじゅうぶんだ」
何がそんなにおかしいのかわからず、困惑気味のリンファ。一方、相好を崩したイェシムは、リンファにしっかり目を向けてこう告げた。
「クラシスまでお前を護衛する。出発は明後日だ。それまでに、もっと食って、眠って、体力つけとけよ」
命令、ではなく、未来を請け負う心強い言葉。
「はい。……ありがとうございます、イェシムさん」
この瞬間、闇に続く道の向こうに、かすかな光が差し込んだ。
それは、彼女がようやく見つけた、ほんの少しの〝これから〟だった。




