最終話:砂漠に咲く蓮の花
まだ夜が明けきらぬ砂漠の空に、薄桃色の光がひっそりと滲んでいた。
戦火の名残は風に流され、しんとした静寂が砂丘の果てまで広がる。
その朝、リンファは、オアシスのほとりにいた。
腰を下ろし、水辺を見つめる。青く澄んだ泉の縁には、この空の色によく似た蓮の花が一輪咲いていた。
砂の世界で凛と立つその姿は、どこか穏やかで、力強い。
「きれいだろ」
背後から、イェシムが歩み寄ってくる。その足取りには、戦いを終えた男の重みと静けさがあった。
「十年もここで暮らしていたのに、知りませんでした。こんなにもきれいな場所があったなんて。……ずっと、外に出ることを、禁じられていたので」
リンファは、すっと手を伸ばし、水面に指先を沈めた。揺れる波紋が岸辺へと広がり、音もなく消えていく。
ぐっと、足に力を込めて立ち上がる。そうして呼吸を整えると、イェシムのほうへ向き直った。
深い悲しみに沈んだ面差し。
言葉を選ぶように、唇を震わせる。
「聞きました……イェシムさんの、国のこと。ご家族のこと……わたし、何も知らなくて……っ、ごめんなさい……——」
リンファの瞳から、懺悔と哀悼の光の珠が、はらはらと零れ落ちる。
イェシムは、そっとリンファの涙を拭った。血と砂の記憶を刻むその手は優しく、そして、あたたかかった。
「お前が責任を感じる必要なんかない。お前だってラドロの被害者なんだ。……よく、生き抜いたな」
イェシムはそう言うと、両腕で包み込むようにリンファを抱き締めた。
リンファも、その細い腕を彼の広い背中に精いっぱい回し、強く強く抱き締める。
熱も、痛みも、言葉さえも超えて——ただここにある命を確かめ合うように、ふたりは互いの鼓動を感じていた。
小鳥が囀る。風に吹かれた泉の水面が、さわさわと波立つ。
どこまでも静かで、どこまでも優しい時間。
やがて抱擁を解いたイェシムは、ゆっくりとリンファの頬に触れた。風に乱れた黒い髪をひと房掬い上げ、耳の後ろへかけてやる。
「これからどうするか決めたのか?」
「はい。おば……あっ、グランツ将軍、が、医学校への入学を、勧めてくれて……。入学試験、挑戦してみようかなって」
「そうか」
「……その医学校、父も卒業したところなんです。どこまでできるかわかりませんが、両親の想いを継ぐためにも、がんばりたいです」
「大丈夫だよ、お前なら。……それはそうと」
きょとんとした顔で、リンファがイェシムを見上げる。
彼は口元をふっと緩めると、わずかに茶目っ気を込めて言葉を続けた。
「将軍のこと、『おばあちゃん』って呼べばいいのに」
ぴしっと。
イェシムのこのひとことに、リンファは硬直した。
まるで石像のように動けなくなるも、すぐさま我に返り、おろおろと身体の前で両手を泳がせる。
「お、恐れ多くて……! いいんでしょうか……呼んでも」
「普通に喜んでくれると思うけどな。……それに、あの人のことそう呼べるのなんて、お前くらいのもんだろ」
たったひとりの孫なんだから、と彼は笑った。
蓮の花が揺れる。
風に吹かれてなお、濁らぬ水の上で、まっすぐに茎を伸ばして。
「誰かに決められた道を歩くしかないって、ずっと思ってました。……でも、そうじゃなかった。選んでも、よかったんですね」
「選ぶってのも、案外難しいけどな。怖いし、面倒くさいし、たまに後悔もする」
それでも……と、イェシムは言わなかった。
けれど、その言葉の先は、確かにリンファに伝わっていた。
「……それでも、選びたいです。たとえ間違っても、自分の足で立って、自分の言葉で、誰かと向き合えるように」
迷いもない。怯えもない。
長い旅の果てにようやく見つけた、自分の輪郭。
「……イェシムさん」
「ん?」
「また……会えますか?」
問いかけるその声は小さく、かすかに震えていた。
イェシムは、一瞬だけ瞳を閉じると、潤んだリンファの瞳をまっすぐに見つめ返した。
腰に佩いた曲刀に触れる。
それはもはや王族の表徴ではない。目の前の少女の未来を護り抜いた、旅する傭兵の剣だった。
「お前が呼べば、どこにいても駆けつける。——必ず」
翡翠色の双眸に宿る光は、出逢ったあの夜の月虹のように、澄みきっていた。
朝焼けの中。手を取り合ったふたりの影が、歩き出す。
いつかその道が、ふたたび交わることを信じて。
風が、過去を攫っていく。
戦火の果て。命を燃やして散った者たちに、想いを馳せながら。
痛みは癒えない。
それでも。
蓮の花は、咲いていた。
この過酷な砂の上で。
静かに。
美しく。
<了>




