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はたち。

作者: montatta

はたち。


 たぶん、誰にも見せないと思いますが、誰かに見せるつもりで書きます。そっちの方が、かえって素直に書けると思うからです。


 大学の入学式当日は、母とつまらないことで喧嘩して、憂鬱でした。ネクタイの結び方について、母があれこれ教えてくれるのがうざったくて、少しきつく対応してしまい、「なんで素直にきけへんねんやろうな」と言われてしまったんです。この言葉は、今までのことが積み重なって出てきた重みのあるものでした。そんな対応を最近よく取っていたんです。これからはできるだけしっかり聞こうと思いました。どんなふうに、自分が母にきつく当たったのかは覚えていません。「分かった、分かったって」という感じだったかもですし、もっときつい言葉だったかも知れません。相手に言われたことは覚えているのに、自分が言ったことは覚えていない。自分勝手です。


 入学式について、書くことは何もありません。ここには、自分が印象に残ったことだけを書きます。印象の薄いことは、そもそもあまり覚えていないので書けません。ただ、決して書くに値することを書いているわけでありません。日記として見てもらいたいです。


 入学式が終わるとガイダンスが数日に渡ってあり、大学の説明やらをしてくれるのですが、その内容は全くといっていいほど覚えていません。ただ、昼休みのとき、後ろの席の子が声を掛けてくれました。

「よかったら、一緒に、食べへん?」

私は高校のとき、あんまり友達がいませんでした。後に腑に落ちることなのですが、私は「親密な関係をつくるのが苦手」なんです。なので、別に人見知りというわけではないのに、雑談したりするような、いわゆる「友達」はいませんでした。

「・・ああ、いいよ。・・行こっか」

急なことで戸惑いながらも、気さくに対応しようとしました。しかし、次に言葉が出てきません。何の話をすればいいのか、、。


 私のように、いろいろ気遣いすぎて無口になってしまう人は、「自分の思っている3倍話す」ということを心がけるといいそうです。最近この方法を知り、実践してみると、案外うまくいきました。「この話はどうかな、、いや、やめとこう」といちいち考えるのではなく、思いついたことをどんどん話すんです。


 しかし、そのときの自分はその方法を知らず、ただあれこれと考え、必要最小限の会話だけをしていました。売店でパンを2個ほど買って、二人で黙って食べました。パンはその日焼いたもので結構おいしいのですが、気まずすぎて、早くこの時間が終わらないかなと思いました。


 私は高校生の頃から、心のどこかで「友達」がほしいと思っていました。でも、いざそれが出来るかもしれないと感じると、不安な気持ちにもなりました。それは自分が真面目だったからだと思います。私は「大学は勉強するところだ!」と意気込んでいたので、友達ができてしまうと勉強する時間が減ってしまうと思ったんです。今思うと、自分のその真面目さに呆れてしまうというか、どうしてそこまで「勉強」を信じれたのか、少し疑問に感じたりもします。高校が進学校で、ずっと受験を意識していた名残りでしょうか。いや、自分は「受験勉強」というものがあまり好きではなかったはずです。受験のためだけに勉強するなんてナンセンスだと思うタイプなんです。ただ純粋に学問として学校の勉強を捉えて、暗記に走ったりせず、なぜそうなるのかを考えずにはいられないタチでした。でも、テストの点数を意識せずにもいられない。そういう状態にあるから自分は生真面目なんです。レールから外れたいと思いながらも、大きく外れる勇気がないんです。


 その昼食を一緒に食べた彼とは、一緒に下校もすることになります(もちろん彼から誘われて)。その途中での会話で、彼が気まずい思いをしてまで、一生懸命に友達をつくろうとしていたのは、彼が寮生だからだと分かります。家族と離れて一人で暮らすことになるので心細く、どうにかして友達をつくっておきたかったそうです。結局、それから彼とは疎遠になってしまいます。しばらく経ってある授業で見たところ、彼の周りにはたくさん友達がいました。


 さて、ガイダンスが終わって、やっと授業が始まりました。自分でいうのも何ですが、その生真面目さゆえに、結構頑張って勉強したので、一年前期の成績は割と良かったと思います。私の勉強の動機として今まで一貫して存在しているのは、「いつか誰かに教えるかもしれない」という気持ちです。ある生徒に自分が学んだことを教えるという妄想をするんです。すると、分かりやすく説明するために、生徒が疑問に思うようなことについて考えたり、調べたりしたくなるということです。なので、ここにそのとき勉強したことを書きたい、教えたいと思うはずなのですが、どういうわけか、あんなに必死に勉強したことなのに、あまり覚えていません(まあ考えていると、いくつか思い出してくるのですが)。


 考えた結果、理由は二つあると思いました。一つは、そうやって誰かに教えることを想定した深い学びは、大量の情報を小さく圧縮するということです。もう一つは、今はそこまで勉強を信じられないということです。入学当初はただただ純粋に学問を楽しんでいました。そして価値あることだと思ったので、他人に教えたくなりました。ですが、今はそう思えないということです。あまり価値を感じない記憶なので、どんどん薄れていっているんです。理由が二つあるというよりは、どちらが正解か決め切れずにいるというほうが正確かもです。


 どうしても自分は、自分を低く評価してしまいがちです。なので、一つ目の理由のようなものは思いついても少し書きにくいんですが、客観的に見ると、他人と同じように、自分にも得意不得意がもちろんあり、自分は勉強が得意な方なんだと思うんです。二つ目の理由は学校教育を否定したいばかりに思いついた、言い訳みたいなものだとも思いますが、半分は真実だと思ってしまいます。


 もしかしたら、嫌なことを思い出すから、過去をただ必死に忘れようとしているのかもしれません。そういえば、大学に入る前の過去も薄れているような気がします。以前までは、しょっちゅう黒歴史を思い出しては発狂したくなるということをしていたのですが、最近その数が減ってきているような気がします。大学に入る前だっていろいろなことを考えていた人生のはずですが、、それだけ大学に入ってからの出来事が自分にとって大きかったのだと思います。今現在の問題がとても大きく(身から出た錆ですが)、過去の比較的小さなことで悩む元気がなくなって来たということです。


 幼稚園に入ったときぐらいの頃に、急に意識が冴え渡って、瞬間的に「自分」が出来上がったように感じたという経験があります(物心がついた瞬間?)。それまでの自分は夢を見ていたような、そしてそのときそれが覚めたような、そんな感覚です。もしかしたら夢かもですし、思い込みかもしれません。ですが、今同じような感覚です。「自分」というものの、過去から今までの連続感が薄れているんです。


 もしかしたら、寝過ぎてただ脳がふやけているのかもしれません。その可能性が大です。


 なので急に夏休みまで飛びます。ここで私は自動車学校に通います。2年の夏休みに通う人も多いので、私は意外にも周りの子よりも早くに車の免許を取得することになります。なんか車の免許を取ることが、大学生の「あたりまえ」となっているので、こぞってみんな教習所に行くんですよね。まあ、正直「もう、免許取ったの?」といわれるたびに得意になっていたのですが、ペーパードライバーとなった今では、取る必要あったか疑問です。「あたりまえ」というのは精神安定剤なんだと思います。車の免許が本当に必要かどうかはなんて、みんなあまり考えてません。取っといた方がいいかもね、というぐらいのメリットしかないなら、本当はただ安心したいだけなんだと思います。よく考えたら、どんな資格だって取っといた方がいいといえるわけで、別に自動車免許に限った話ではありません。「あたりまえ」は同調圧力です。別に気にせず自由に生きればいいのですが、レールから外れて進んでいくと不安な気持ちになることもあります。


 例えば、「幸せ」というのも、「これが幸せなこと」とどこか決まっています。友達をつくること、友達と遊びに行くこと、デートすること、結婚すること、、こういうことが「幸せ」であるということは「あたりまえ」です。でも、人それぞれに、それぞれの「幸せ」があり、「あたりまえ」とされていない「幸せ」をそれと認めている人もいます。そういう人は、別に我関せずで自分が楽しいと思うことをしていればいいです。ですが、たまになぜか「不安」になることがあります。一人で自分の楽しいと思うことをしていれば幸せなはずなのに、何かが足りないような気がしてくるんです。「アイアムアヒーロー」という漫画の最終話で、主人公が荒廃した世界の中、彼以外にも生き残りがいるということを知っているのにもかかわらず(もしかしたら死んだと思っているのかも、そこは明記なし)、それを探すわけでもなく、たった一人で生きていくというシーンが描かれています。一人で生きていくと決めた彼も、何かが足りないという気持ちと葛藤しているように見えます。


 誰もいない森の中では「音」は存在しているのか、、。どこかでそんな話を聞いたとき、私はもちろん存在していると思いました。しかし、「音」は存在せず、そこにあるのはただの空気の振動だというのが物理的な考えです。観測者がいてはじめて空気の振動は音となるのだということです。これは「シュレーディンガーの猫」の話に似ています。半分死んでいて、半分生きている(50%「生きている」状態の)猫なんて現実世界ではありえないことから、何でもかんでも確率的にしか分からないという量子力学の世界をシュレデインガーさんは否定したという話です。アインシュタインさんが「神はサイコロを振らない」といったという話と同じです。"神"のような完全な第三者なら、量子(例え話でいうところの、猫)が崩壊しているか、していないか(死んでいるか、いないか)ぐらい分かるはずですが、そもそもそんな「完全な第三者」的状況で観測することはできないということで、確率的な考え方は今では量子力学の「あたりまえ」です。でも、「分からない」ということが、分かっただけなんです。


 私も、どうしてもアインシュタインさんのように考えてしまいます。誰もいない森であっても、"神"は音を感じているはずだと。理科の教科書にも「音の正体は空気の振動だ!」みたいなことが書いてあったじゃないですか。人がいるかいないかで何が変わるというんですか。


 一人で自分が楽しいと思うことをしていても、何かが足りない?そうでしょうか。別に自分の他に誰かいたとして、何か変わりますか?でも、何か足りないような気がしてしまう。本当は足りてるんじゃないですか?本当は満足しているけど、欲張りなだけなんじゃないでしょうか。自分のしたいことをするけど、あわよくば他人から認めてもらいたい。承認欲求なんて流行りの言葉はあまり用いたくないですが、そんな流行りの感情が自分にもあるのかもしれません。


 最初に私はこの文章を、誰かに見せるつもりで書くといいました。その方が素直に書けるからだと。それは、自分のためだけに書くと、どうしても鬱々とした感情をダラダラ書いてしまい、自分が読んでいてしんどいからです。SNSでいう陰口こそが自分の本音だとは私は思いません。むしろ、その人の前で気遣いながら言うオブラートに包んだ言葉こそが本音なんです。「その人の前では言えないけど、実はこう思ってるんだよね」ということの方が、「実は」とあるので本音のような気がしますが、「なぜ言えないか」はいう必要があると思います。人は自分の感情を素直に表現できるほど器用ではありません。酔って大きな声で言ってしまう、言い訳の混じった、自分を棚に上げた強すぎる言葉、あるいは卑下しすぎた言葉は、後で言ったことを後悔するぐらい、本音とはかけ離れています。ストレス発散のためだけに書くのではなく、他人に見られるということを意識すると、恥ずかしいなとか、誤解されるかもなと感じる表現を避けたくなります。読み返すと、そうした方がかえって本当な気がするんです。


 大学の授業中での出来事について、一つだけ書きたいことがありました。取り組んだ課題について、お互いに評価し合うという授業でのことです。私は生真面目を発揮し、かなり頑張ったんですが、書かれたコメントは良いものではありませんでした。評論家を気取ったような、「である」口調の厳しい言葉しかありませんでした。私は早々に見る気が失せてしまいました。しかし、コメントを書いた人と直接話し合ってみると、そいつら、全然自分の書いたこととは違うことを言いやがるんです。なんか物腰の柔らかい感じで、内容もより肯定的。どっちを信じればいいんですか!?私は自分に都合よく、むしろ直接話したときに言った言葉が本音だろうと思うことにしました。良いところの一つも見つけられてないような言葉は本音とはいえないでしょ?本音だったらなぜ直接言えないの?・・そんなことを彼らのいないところで愚痴ってる、私も彼らと同じなんですが、、なぜ直接言えないのかというと、そこまで自分に自信がないからです、、


 自分一人だけだと、卑屈になったり、過激になったりしてしまう。他人がいても、気遣いすぎて疲れてしまうこともあります。でも、やっぱり自分にも承認欲求があるんだと思います。そういえば、私が勉強を頑張っていたのも他人に教えたいからでした。他人の評価がないと、人は生きていけないんだと思います。自分の価値を自分で信じているだけでは、足りないんです。だから、私はレールから大きく外れることができないんです。結局「あたりまえ」に負けてしまうんです。「安心」が欲しいんです。


 しかし、私は決して、他人から褒めてもらえるような行動をすれば、他人から褒めてもらえるようになるとは思いません。私のモットーは「急がば回れ」です。例えば、「絶対に儲かる投資方法」と検索し、出てきた記事に書いてある通りにやっても、儲かることはほとんどなく、逆に損することも多いです。手っ取り早い方法は、結局遠回りなんです。私はレールから外れたいとは思っていました。先生に「覚えといた方がいい」と言われたことでも、なんとか暗記しなくて良い方法を探していました。だからテストで割りと良い点が取れたんだと思います。


 「学問」には、私の求める回りくどさがありました。直接的に、すぐに役立つようなものじゃありませんでした。だから、私は学問を信じていたんです。でも、なぜか今は信じられない。いや、信じたくないのかもしれません。何だかんだいっても、私もせっかちなので、他人の評価を、目に見える結果をすぐに求めてしまうんでしょうね。


 自分のしたいことを、自分が満足するまでするしかないんだと思います。そしたら、もしかしたら他人から評価してもらえるかもしれない。そんなふうに思うしかないんです。ラジオで福山雅治さんが、上手くなろうとしている奴の下手は良い、と言っていました。上手くなろうとしていること、頑張っていることも、自分の価値として信じてあげたらいいんじゃないかなと思います。評価されるまではずっと「足りない」と感じ続けるでしょうが、他人の評価がない=自分に価値がない、ではありません。


 ・・長くなってしまいましたが、「あたりまえ」を嫌いながらも、自分一人で遠くにいくには勇気がいるという話でした。「嫌い」という感情だけならよかったんですが、自分は「あたりまえ」が「できない」のではないかと感じた、教習所での話をしたいと思います。


 教習所での日々は、はっきりいって地獄でした(笑)。「教習所が地獄って、、そんなことじゃ先が思いやられるな」という声が聞こえてきますね。その通りです。自分でも自分が心配です。


 教官は基本的に苦手だったんですが、一人本当に無理だと思う人がいました。その人は笑顔が張り付いているようで、一見絵に描いたように優しそうでした。しかし、私は初めて会ったときから警戒していました。それは映画や漫画では、その人の見かけはミスリードに使われることが多いからです。だから優しそうなら、本当は怖いんです。映画と現実をごっちゃにするなといわれるでしょうが、あくまで主観的には、そうであることが多いように思います。


 今回もその推測は当たりました。その教官の何が嫌だったのかというと、うるさいことです。タイヤが一周するごとに怒られるような感じ。笑顔の裏に怒りを潜めながらガミガミ「教育」してくるんです。なのでずっと自分はビクビクして、過緊張になって、でもその不安が杞憂になることはなく、ずっと怒られてました(怒る、というと語弊があるかもです、、彼はずっと笑顔なんですから、、でも、本当に怖かった)。終わると、なんだか「ごめんな。本当はこんなことしたくないねん」みたいな感じに優しくなり、それで騙されて何度かその人の教習を受けました。で、そのたびに泣いてました。私の教習所では教えてもらった教官にgoodまたはbadをつけることができ、good教官の授業は増やし、bad教官の授業は減らしてくれます。結局何回か泣いてからやっとbadを押し、それからはその教官の教習はなくなり、だいぶ気が楽になりました。今思うと、もっと早くそうすればよかった。


 具体的にどんなことがあったかは不思議なほど覚えていません。嫌な気持ちになった感触しか覚えていないです。まあ、過去のことなんで、どうでもいいです。例え事細かに覚えていて、それを話したとしても、過去の自分に共感してくれる人はそんなにいないと思います。共感というのも「あたりまえ」が下敷きになっているからです。私はセンチメンタルですが、同情はあまりしないようにしています。冷たい人と思われているかもしれませんが、他人を100%理解することなんてできないからです。そりゃ、いろいろと推測はでき、その推測が全然的外れだということでもないんですが、完全には理解できません。共感能力が高いという人の大体は、自分の中の「the悲劇」と照らし合わせることで、それを可能にしています。決して他人を理解する能力が高いというわけではありません。かなり限定的なものなんです。自分は、自分が悲劇の主人公だなんて思えないので、共感なんてされないと思っています。怒られるのは自分の至らなさゆえなので。なので、誰にも話さず、こんなとこに愚痴ってるんです。


 誰にも話してないというのはだいぶ嘘ですね(笑)母には泣いているところを見られてしまってどうしても話さないといけなくなったので、話すと「しょうもないなあ」と言われました。そして、badを押すことを勧めてくれました。精神科の先生にも、高圧的な人が嫌みたいなことをいって、間接的には伝えました。はっきりとは言わなくても、その先生も母と同じように思っていることが分かりました。ただ、母の語気は少しだけ強かった。私が苦労しているということを必死に否定しようとしていたのかもしれません。


 怒る、というのは、相手に罪悪感を与える行為です。立場的に相手が自分以下という状況で、基本的には何か理由がないと怒ることはできません。なので、怒る人は怒ることに多少の正義を感じ、怒られる人は、その理由がよほど理不尽でない限りは、黙って聞くしかありません。あたりまえのことですが、この構造が少しだけずるいなと思います。相手を死ぬほど追い込んだとしても逃げる余地が残されているからです。それが「正義」です。最近「オッペンハイマー」という映画を観ました。オッペンハイマーさんを中心としたチームは原子爆弾を完成させ、その結果戦争は終わります。しかし、彼は日本の惨状を直視することができなかった。だから、彼は正義も、科学も諦めたんです。彼は、正義を言い訳にはしなかった、できなかったんです。「踊る大捜査線」の映画で、正義なんて内に秘めているぐらいがちょうどいい、というセリフがあって、その通りだと思いました。正義は、それを叫んでしまったら言い訳になってしまうんです。だから、「怒る」はずるいなと思うんです。必死に自分は正義だと言い訳しているからです。


 まあ、授業で提出課題にグループの子からコメントをもらったときも思いましたが、大体は言い方が問題なんです。やたらめったら怒る人のほとんどは、その言い方を間違ってしまう、または、それについて無関心だったり、他人の感情の機微が分からないという人なんじゃないかなと思います。そういう人は人付き合いが苦手です。どんどん人が離れていきます。そうなるとかなり不幸かもしれません。私のような人はそもそも他人にあまり近づかないですが、近づきたくても離れられるというのは辛いですね。離れられているという自覚がなければ何ともないかもですが。


 怒ると自分の心が多少なりとも痛みます。よく怒る人は、自分は強いと思っているのではないでしょうか。その錯覚によって怒ることによる心の痛みを感じずにいるんです。「強い」とか「弱い」というのは時と場合によって変わるもので、その人の性質を表すものではないと思います。勉強が得意な人は、勉強という分野では、強くなれます。私も正直、何でみんな勉強できないんだろうと思うこともありました。自分の得意分野では誰だって強くなるんです。留意しないといけないのは誰にだって得意不得意があるということで、自分が強くなれる分野だけを見て、努力すれば何でもできると思って、その自分の高いレベルを相手に求めたりしてはいけないということです。


 、、みたいなことをいってみたりして、仮免の実技試験に何回も落ちた自分を守ってやりたいんです。得意不得意があるよね、、って。「仮免なんて一発合格があたりまえやろ」という声が聞こえてきます。最近、「正論」が流行ってますよね。それができへん奴はどうすればいいねん、、努力が足りないということでしょうか。みんな、あたりまえにできるのに、自分はできないというのは、おかしな話ですよね。まあ、もう乗ってないんやから、いいやろ。


 正論や「あたりまえ」のずるいところは、「事実」しか言わないところです。それについて自分がどう思うかということの方が大事で、それを掘り下げいくていくと、自分の考えの本質に気づきます。それをするとボロが出るから、あえてしないんです。自分が仮免に一発で合格したから、相手は「弱い」と錯覚しているだけなんじゃないですか。逆に自分が強かっただけだと思っておけばいいのに、それを「あたりまえ」だとしてしまうのは、なぜなんでしょう。人は、何かが他人より得意なことより、「あたりまえ」であることに喜びを感じるんですかね。いや、喜びというより、「安心」を感じるんでしょうね。


 少し教習所の話を続けたいと思います。なんと、最後の卒検の実技試験の監督が、その苦手な教官だったんです。なぜかその人は坊主にしてました。ただの散髪なのか、何かを反省してそうしたのか、、よく分かりません。緊張しましたが、あくまで試験監督なので、運転中、彼は何も言いませんでした。終わると、彼はようやく口のチャックを開けて、私に試験結果を言おうとしました。そこが緊張のピークでした。あれこれうるさく言われると思っていたからです。

「注意するとこ、ないわ。完璧!」

え!?拍子抜けでした。まあ、彼とは路上教習の最初の方で会ったきりなので、私の急な成長に驚いたのかもしれません。その後も縦列駐車や方向転換といった難しい課題があったんですが、親と駐車場で何回も練習していたので、特に何も言われることなく、試験を終えることができました。


 まあ、本当に言うことがなかったんでしょうね(笑)自分でいうのも何ですが、結構上手く運転できたんです。仮免に何回も落ち、他人よりも練習できたからでしょうね。仮免の試験のときは過緊張だったかな、、自分の今の100%を出せればいいやと思えば、緊張を抑えられます。卒検のときはそんないい精神状態でした。


 もし、最後までその教官と会わずに教習が終わっていたら、もしかしたら私は彼を恨むことができたかもしれません。しかし、最後の最後に良いことがあったということが、心のどこかに今も残ってるんです。まあ、私は他人を恨んだことは今までありません。これからもしないようにします。


 「おやすみプンプン」という漫画を知っていますか。この漫画のメッセージの一つに「"黒点"はいない」というものがあります。黒点がいることが絶望だと思いがちですが、この漫画は、いないからこそ絶望なんだと一貫していい続けています。黒点が、恨むべき人がいなければ、自分を恨むしかないからです。


 さて、教習所で嫌な経験をした私は、自分には勉強しかないと思いました。実際、実技はダメでも、筆記試験ではあまり困りませんでした。自分は本当に不器用だけど、その分、頭を使うことは得意なんだと。いや、得意だから頑張ろうとまでは思えてなかったですね。あくまで、自分には選択肢がその一つしかないという、自分を追い込む気持ちです。その気持ちは教習所にいたときからあったので、筆記試験の勉強は完璧といえるレベルまでしていました。その甲斐あって、仮免、卒検ともに満点でした。まあ、今はすごく便利な時代で、スマホでゲーム感覚で過去問が解けるようになっているので、それを全パターンしていれば高得点は間違いないといっても、過言ではないんですがね。同じような問題しか出ないんで。


 でも、今までの自分なら満点は取れなかったと思います。私は、スマホで調べられるこの時代に暗記なんてナンセンスだと思うタイプだからです。正解すればそれでいいとは思わないんです。それより理解することの方が大事だと思うんです。だからこそ、高校の定期テストはあんまり点数取れてません。一度内容が分かってしまったら興味がなくなるからです。問題が解けるということにあまり興味がなかったんです。


 そんな私は、大学の数学の授業で、深い理解を重視する一方、実際に問題が解けるかは確かめませんでした。その結果、2回も再テストになりました。そのとき、勉強自体はかなり頑張っていたので、すごく悔しさを感じたんです。そこからようやく、完璧に解けるようになるまで何度も解き直すという勉強をし、やっと合格しました。その悔しい経験がなければ、免許の筆記試験も満点ではなかった、あるいはそこでも何回も落ちるということになっていたかもしれません。


 まあ、私はかなり頑固な人間なんで、悔しいという気持ちだけでは、頑張りきれなかったのではないかなとも思います。それだけでなく、問題を実際に解くことで学ぶことも多いなと気づいたんです。そういえば、ギリギリになって、塾の先生に怒られてから始めた受験勉強というものも楽しかったし、ある程度価値のあるものだとも思いました。深い理解のためには、もちろんそればかりを重視してはいけないと思いますが、問題を解くということも大事だと思ったんです。その気づきと、自分には勉強しかないという気持ちが、大学の勉強への意欲につながりました。完璧にこなしてやろうと思ったんです。今思えば、意気込みが強すぎました。まあ、大学の授業は、ある程度頑張らなければ単位を落としてしまうので、ある程度意気込まなければいけないんですが(笑)。そういう意味では、高校の授業ほど融通がきかないんですよね。


 そのたった一つの選択肢にすら自信がなくなったということについて、これから書いていこうと思います。


 私は教習所での日々は、嫌な経験だったけど、いい経験だったと思っていました。自分には勉強しかないということが分かったからです。その決意は、ちょっとやそっとでは揺るがないはずでした。でも、ある講義の最初の授業で、また一人どうしても嫌な先生に出会ってしまったんです。基本的に私は教授という生物が嫌いでした。得体が知れなかったからです。いつ怒るか分からないので、腫れ物に触るように接していました。授業中は極力静かにしていました。授業中静かにするなんて当たり前のことだと思いますが、友達のいる他人にとっては違うみたいですね。教室がどこか騒がしいと、他人のことなのに、「頼むから静かにしてくれ」と手汗を滲ませていました。他人が怒られるということにもビクビクしていたんです。小中高校までは「どうせ、あいつらの成績が下がるだけや」と思えていた気もしますが、大学の成績ってそういうもんじゃないんですよね。大学教授は、いちいちその生徒だけに怒ったりしません。怒るときはガツンと嫌な怒り方をするので、周りの空気が悪くなって終わることが多いんです。


 今まで私が恐怖した他人に共通しているのは、融通のきかないところです。何をいってもダメだと、まだ何もいっていないうちに思ってしまうんです。もしかしたら頑張って話してみたら、案外話の通じる人だったのかもしれません。私の人付き合いの経験不足による勘違いなのかもしれません。ですが何か本能的に恐怖を覚え、諦めてしまうんです。これも「正義」という奴のせいなのではないかなと思います。どこにも絶対の善なんてありません。彼らが振り回す「正義」というものにあるのも結局は彼らの価値観や、論理であり、絶対的なものなんてありません。なぜ私はそんなものに怖気付き、萎縮してしまうのか。彼らがそれを絶対のものと信じ、私も心の奥ではそれを正しいものだと思っているからでしょう。その「正義」の正体は、「あたりまえ」なんです。「あたりまえ」も価値観の一つなんですが、なぜ絶対であるように感じるのか。「あたりまえ」には安心や無難、手っ取り早さがあります。結局そういうものの方が理解されやすいんです。というより、そういうものでしか、私たちは分かり合えないんでしょう。何が安心か、無難か、手っ取り早いか。そういう質問に対する答えは広がりのあるものではありません。何が「幸せ」かだったら、人それぞれ答えは分かれるでしょう。だから「あたりまえ」は他のあらゆる価値観より少しだけ優位であると信じられているんです。


 「人間」とは弱いものです。ロボットは強いです。ロボットになれたらもっと生きやすいのに、、そうでしょうか。もし人間がロボットになったら、何もしなくなると思います。ロボットが動くのは、人間が命令を出すからであり、ロボットそれ自体が自分の「正しさ」に基づいて行動することはないでしょう。何度もいうように、絶対的に正しいものなんてないからです。ロボットに自分の価値観を形成することができるでしょうか。できたらそのロボットはもう、弱い「人間」です。


 しかし、自分のことを「強い」と錯覚している人はいます。その錯覚を可能にしているのが、他の価値観より優位であるような「あたりまえ」です。何の命令も受けていないロボットは、きっとどの価値観より優位な「あたりまえ」に基づいて行動する、、と信じているんです。「あたりまえ」に基づいて行動することで自分たちも強い、ロボットになれると。そういうふうに信じている人がいるというより、弱い人間が強くなるにはそうするしかないんです。比較的元気なときは「あたりまえ」に基づいて行動できます。すると周りの人から評価され、そういう自分を誇りに思うこともあります。「あたりまえ」が自分を鼓舞してくれるときもあります。ですが、結局人間は弱く、今度はその「あたりまえ」が自分の首を絞めるということもあります。今の私のように。


 結局、私が他人の目を恐れているというだけなんです。他人に何か言われたとしても、無視すればいいだけです。でも、少しも安心というものがない道に行こうとすると、私自身も私のことを引き止めようとするんです。ならば安心できるように自分でその道を、少しでも補強してやればいいんですが、「あたりまえ」に打ちひしがれてしまった私は、それすらもやりたくないんです。言い訳ばかりです。


 思えば今まで、他人の顔色ばかりうかがっていました。その人の機嫌がよくなることが私の喜びでした。なのに、多くの人に理解されるだろう、「あたりまえ」についていけませんでした。とはいっても、「あたりまえ」を振りかざす人に対抗できるだけの「正義」もありませんでした。


 私は他人が怖いです。昔からその感はあったんですが、最近は内弁慶がさらに進んだような気がします。昔、私の周りにいた他人はもっと純粋だったような気がします。「純粋」というのも融通がきかず、怖い部分もありますが、、そうですね。昔と今では周りにいる他人が変わったというより、ずっとみんな、私も含めて純粋なんだと思います。その純粋さが心地いいと感じるときもあれば、鋭いナイフのように感じるときもあるというだけです。


 純粋さ、、それが怖いんです。あの教習所の教官は、決して嫌な人じゃないんです。本当に純粋な人なんです。だから、他人の一挙手一投足について怒ることができるんです。そして心から他人を褒めることもできるんです。「あたりまえ」を根拠としているんです。あの教官、よく笑うんですよね。「できない」ということを馬鹿にするんです。それは「できる」を「あたりまえ」にしてしまっているからだと思います。


 「あたりまえ」とは、「分かる」ということです。私はそんな簡単に分かることなんてないと思います。「分からない」ということの方が正常だと思います。「分かる」というのは異常なんです。でも、人はついそれをあべこべにしてしまいます。だから喧嘩してしまう。「分からない」のが普通なのに、他人を分かりたいし、他人に分かってほしいと思ってしまうんです。


 ・・長くなってしまいましたが、どうしても嫌な教授に出会ったという話をやっと始めたいと思います、、


 私は教授という生物の純粋さに本能的に恐怖していたので、その教授のことも最初の授業から警戒していました。不安が杞憂になることを祈っていたんですが、彼の第一声から私は絶望しました。まあ、多くの学生がそうだったと思います。彼は講義室の後ろの方に座ろうとする学生に前に座るよう注意しました。そして、「みんなやる気ないんだね」というふうなことを言いました。


 別に彼は何一つ間違ったことなど言っていません。だから純粋で、だから融通がきかない。だからといってそこにあるのは「正義」ではなく、「あたりまえ」です。他人を制御するには「あたりまえ」が必要なんです。絶対の善なんてないので、「正しさ」なんてものでは他人に有無を言わせず、自分の思うように行動させることはできないんです。絶対の善がなければ、絶対の悪なんてものもありません。強いていえば、外に出してしまった、鋭利な正義こそが、悪なんです。


 もし彼が自分のしていることは「正義」だと錯覚しているなら厄介です。人間のどんな行動も偽善ですが、偽善だと分かっている偽善はむしろ美しいと思います。そんな偽善は柔軟で、そのデメリットをいかに減らすか考えることもできると思います。しかし、自分のことを「正義」と錯覚している偽善は融通がきかず、ろくに他人の話も聞きません。自分の行動のメリットばかりに目を向けて、「でも私の行動は正義だから」の一点張りです。


 その教授は、あくまでその専門分野において、世間から評価されているんです。それ以外のことについても「正しい」とは限らないし、「分からない」のが正しいんです。例えば、熱があるという患者に対してすぐに、ただのカゼだと、高を括る医者なんていないと思います。熱があるという情報だけではまだ、多くの病気の可能性が残っています。「分かった」というのは「正しさ」ではないんです。なのに人は、そんな間違った「正しさ」に酔いしれ、溺れてしまうんです。


 「分からない」が正しさなら、そんなもので他人を動かすことはできませんよね。だから「あたりまえ」なんです。「あたりまえ」という言葉は思考を浅くします。だから早く決断できるようになるという利点はあります。どんなものにもメリット、デメリットがあるんです。


 なぜ人は、「あたりまえ」というものを作り出してまで、他人に求めてしまうんでしょうか。それは社会を作ったからだと思います。ほとんどの文化は、自己完結して生きるためにあると、私は思います。他人に求めずに、自分一人で生きていくためにあるんです。一番分かりやすい例は、宗教です。今書いているこれも、一種の宗教だと思います。学問だって、本来はただ知的好奇心の赴くままにすることで、あくまで自分のためだけのものだったはずです。それが社会と関わり出してから、他人のためになるようなものが期待されるようになり、今ではあたかもそれが、絶対の善かのように求められます。でも、「役立つ」ってそんなに綺麗なことですか。戦争に使う武器を作るのに「役立つ」、、そんな場合もあります。


 どんなものにもメリット、デメリットがあるので、そのメリットに注目すればどんなものだって役立つんです。最近コスパという言葉が流行っていますが、何がコスパがいいか、その答えは人によって違います。何をパフォーマンスとするか、何をもって役立ったとするかが人によって違うからです。「1+1=2」であっても、何を「1」とするかは人によって異なるんです。どんな議論も結局はお互いの価値観の衝突になります。それを防ぐためには、前もって何を「1」とするかを決めておくか、妥協案を示すしかありません。人の価値観に優劣なんてつけれないからです。


 コスパや、役立つという言葉はとても主観的なものなんです。いくら「役立つ」といったって、勝手に役立ってくれるものなんてありません。「椅子」は役立つものですよね。でも、勝手に椅子が近くまで歩いてきて、座らしてくれたりはしません。座るために使うから、役立たせるから、椅子は役立つんです。役立たそうという気持ちがなければ、椅子はただそこにあるだけです。また、別に座るためだけでなく、電球を替えるために使うこともありますよね。どんなふうに役立つか、それは使い方次第なんです。


 役立たせるという気持ちは、学問においてとても大切だと思います。学問とは客観的な「事実」の吸収、つまりそれは自分を忘れることだと思っている人もいるかもですが、それだったら学問はただの暗記になってしまいます。人間は自分に何にも役立たないような情報をむやみに覚えられるようにはできていません。しかし、「事実」自体が勝手に動いて、勝手に役立ってくれることはありません。なので学習するには、自分がその情報を積極的に役立たせようとすることが大事だと思います。客観的な事実をただ見つめているのではなく、それを自分の主観的な世界に持ってきて、自分の考え、「真実」を構築するのに使わないといけないんです。自分を忘れるというのと真逆です。


 学問が社会にとって役立つものを生み出すというより、社会が勝手に学問を役立たせればいいと思います。役立つものを作るというのは、ニーズに応えるということで、それはビジネスです。学問が社会的になったというより、ビジネス(社会)が学問を使うようになった、、としたほうがいいと思います。あくまで学問はビジネスとは異なるところにあるということです。


 学校は社会のためにある、、でも具体的にどう学校は社会に役立っているのでしょうか。ルールを守れるようになるとか、でしょうか。でも、それは学校の一つの機能かもしれませんが、学問とは異なります。社会のいろいろな問題を解決するためには学問が必要です。学校で学んだからといって必ず解決できるようになるとは限りませんが、基礎的な知識や考え方を学ぶことは非常に大切だと思います。ですが、それだけで、教育というのは重要だといわれているのでしょうか。


 昔は、教育と宗教は密接に関係していました。でも実は、今だってそうなんじゃないかなと思うんです。ビジネスができるようになるためだけでなく、他人に求めないよう自分の中に宗教をもつために教育というのはあるんだと思うんです。よく学校の目標に、生徒の「自立」というような文言がありますが、それは一人暮らしができるようになるという意味だけでないのかもしれません。


 社会というもの本質は、他人に求めることです。でも結局、他人に求めすぎない人を育てることが、社会のためなんでしょう。社会で過ごしている以上、他人に助けてもらうことは日常茶飯事ですが、最低限、しっかり感謝を伝えるべきだと思います。私たちは、本当はただ一人で生きていくべきで、むしろそれが「あたりまえ」なんだ、、とまで思っておいたほうがいいかもしれません。


 だとしたら、他人を制御する「あたりまえ」って何なんですか。自分のわがまま以外に何がありますか。結局自分の価値観を押し付けているだけじゃないですか。


 、、また長くなってしまいました。こんな抽象的なことを考えたってどうしようもないかもしれませんが、現実的なことばかりを考えても辛くなるだけなんで、どうしても考えてしまうんですよね。話は戻りますが、やっぱりその教授は自分と合わず、私は教室に行くのをやめます。でも単位を落としたわけではありません。彼はまめな人で、対面授業とは別にその内容を短くまとめた授業動画をアップしてくれていたので、それを見ながら自分でやった方がいいと思ったんです。彼は出席をチェックしていたわけでもなかったので、そもそもあまり生徒に授業に来てほしくないタイプの先生だったかもですね。


 でも、私は、教習所のときと同じように、その決断をするまでかなり悩みました。今思えば、もっと早くそうすれば、、ってこれも教習所のときと一緒ですよね。なぜそれができなかったか。一つは、もしかしたら対面授業ではもっと詳しく話すかもしれないと思っていたからです。対面でしか聞けないことがあると思っていたんですよね(何がテストに出るか、とか)。実際はそうでもなかったですがね。あと、出席しないといけないと思っていたところもありました。いつかチェックされて、出席しろと怒られるんじゃないか、と。そういう不安からか、なんか逃げてはいけないように思ってしまうんですよね。教習所のときもそうでしたが、私は原因を特定するのが遅いですね。いや、もしかしたら、実は対症療法にすぎないのかもしれませんが、、


 その教授の授業は課題も多く、ずっと課題に追われる日々が続き、いつの日か私は初めて夢精しました。確かに私が要領の悪いところもありました。しかし私は一応、勉学こそ自分の最後の手段だと思っていたので、手は抜きたくなかったんです。でも結局、途中で息切れして、何回か課題をせずにサボりましたが、、


 まあ、私は別にその教授の授業が嫌だったというだけで休学したわけではないんですがね。そのときも大学に行きたくないと強く思ったことはありましたが、、実際に休学という決断をしたのはもっと後です。対面授業にいかないようにしたら楽になったし、別にそれだけなら続けていけたと思います。実験という座学とは異なるものが始まってからが、ダメでした。まあ、それでもたった二つのことです。でも、それだけで十分だと思いました。それほどにストレスを感じました。


 私は、自分の悩みを誰にも理解してもらえないことにも悩んでいましたが、今こうして客観的に見れば、そりゃ理解されないよなと思います。実験が嫌だとか、教授が嫌だとか、、何甘えたことばかりいってるんだ、と怒られても仕方ないですね。でも、それが私にとっては全てなんです。


 学問において一般化は大事だと思います。しかし、それをしすぎるのは極端な思考につながるので良くないです。私はこうして俯瞰してみて、やっと自分がかなり極端な考え方をしていることが分かりました。だから原因が分からなくなるんです。本当はたった一つのことが嫌なだけなのに、全てが嫌だと勘違いしてしまうんです。そう、ただの勘違いなんです、、でも、もしかしたら本当に、もっと深くに原因があるのかもしれません。


 「理想」を求めすぎでしょうか。現実はそんなに甘くない、ということでしょうか。そもそも私は本当は何を求めていたんでしょうか。私の「理想」って何でしょうか。本当にそれが「安心」なんでしょうか、、


 「理想」とは、「安心」でもあり、「幸せ」でもあると思います。「安心」と「幸せ」の違い、、私は「安心」は未来に対して使うもので、「幸せ」は今この瞬間に対して使うものだと思います。例えば、ふとコーヒーが飲みたいと思って自販機まで買いに行くというのが「幸せ」で、いつでもコーヒーが買えるような状態にするというのが「安心」です。


 「安心」と「幸せ」の違いはもう一つあります。「幸せ」は、たとえこの世界に自分一人しかいなかったとしても感じることができるものだと思うし、そうでなくてはいけないと私は思います。でも、「安心」という感情の中には、社会の中でしか存在しないものもあるんです。


 私はそこまで社会から認められたいと思っていたんですかね、、そんなに私は社会的な人ではないと思います。むしろずっと社会というものが嫌いだったんです。なのに社会的な側面もある「安心」を心から求めていたんでしょうか。本当は欲しくないものを仕方なく求めていた、、という方が適切だと思います。他人の目が怖かったからです。


 私の理想は何なのか。少なくともそれは本当は「安心」ではなかった。そりゃ、安定した生活を送るという意味での「安心」は求めていましたが、あくまでそれは「幸せ」のためです。でも、そのために理不尽なことに耐えてまで社会で、ある役割を担いたいとは思えない、、甘え、ですよね。でも社会がはじめに「正義」を持ち出して来たんじゃないですか。なのに理不尽だといっても、全く変わろうとせず、柔軟性がない。蓋を開けてみれば、社会にあるのは「あたりまえ」ばかりで、社会は正しさなんてもので動いてはいなかったんです。社会の成長がとても速い理由は、「あたりまえ」を基準にして選択しているからです。社会は強力な、偽善の執行装置です。その偽善によってたくさんの人が救われている一方、たくさんの人が苦しんでいます。


 外から見えるものの中に、正義なんてものはどこにもない。中途半端な正義を掲げ続けるより、もっと仲良くやればいいのに、と私は思います。いや社会は、そんなお飯事みたいに生ぬるいものじゃないという人もいるかもしれませんが、今だって社会が求めているのは自分の思い通りに動かせる人形で、十分お飯事なんじゃないかなと思います。みんなお飯事をしたいんです。みんなわがままなんです。仲良くお飯事をするためには、他人に求めすぎないことが大事です。そして実はそれが、社会が最も求めている「コスパ」というものを良くする、一番いい方法だと思うんですが、どうしても人は手っ取り早い方法を選ぼうとしてしまうんです。


 コスパという言葉を使う人の中には、目に見える結果しかパフォーマンスに入れないという人もいます。確かにパフォーマンスというからには何か目に見えるものであってほしいですが、あくまでそれは「外から」見えるものを指すという人が多いです。誰かに自慢できるような結果だけしか認めないということです。確かにそれも大事なんですが、成績とかテストの点数のためだけに勉強したって、正直うまくいかないんです。「急がば回れ」です。私は勉強を純粋に学問として捉える気持ちを忘れないようにしていました。それは遠回りだといわれましたが、結局勉強を「安心」のための道具だとしか思っていない人たちは、どうしても無理な暗記などの根性論に走ったりしがちで、そっちの方が遠回りをしているように私の目には映りました。遠回りを楽しもうという気持ち、「幸せ」がなければいけない、、分かっていたはずなのに、私はいつしか「安心」ばかり追いかけ、近道のはずが結局遠回りです。


 コスパを求める社会にとって、仲良くするというのは一見、遠回りです。他人を自分の思い通りに動かすということを可能にする権力、支配があった方がいいと思ってしまいます。それが合理的だと。だけどその考えは、どこか外部からしか見ていないところがあるように思います。内部に目を向けると、その方法にたくさんの穴があり、それをできるだけ埋める必要があることが分かります。それを考えると、結局支配より、仲良くやる方がコスパがいいんじゃないかなと思うんです。


 社会の外面ばかり気にする性質によって、支配が正当化されている、、それなら改善していくこともできる気がしますが、もしかしたら人には、支配欲というものが強くあるのかもしれません。何を「正しい」と思うか、何を「1」とするか、、つまり価値観は人によって異なります。でも本当の「正しさ」というのは、価値観の違いも受け入れた、「分からない」です。それでも人はなぜ価値観というものに執着し、時にはそれを「あたりまえ」という言葉を使った極端な言い方をしてまで表現しようとするのか、、それは他者を支配したいと思っているからでしょう。


 私だって、そうです。他者が怖いという気持ちは、他者を支配したいと思っているからこそ生じるものです。生物は、常に自己中心的だと私は思います。他者に嫌われたら自分の身が危ないと思うから、私は人と関わっているとき常に不安なんです。できるなら他者を支配したい、、そうしないと相手が自分に何をしてくるか分からず、怖いんです。


 私のように、一人でいる時間が長い人ほど他者を怖がっていて、逆にたくさんの他者と関わっている人ほど他者を恐れていないように見えます。慣れの問題なのか、それとも他者を支配できていると勘違いしているのかもしれません。例えば、権力を信じている人は、自分は相手より立場が上だから、相手が自分を嫌っても自分に危害は加えないはずだと思えるでしょう。相手に何をしても自分は大丈夫、、そう思ったとき人はどこまでもサディスティックになれます。「あたりまえ」をどんどん広げて相手を完全に支配しようとします。そんな勘違いを起こしてまで、人は他者を支配したいと強く思っているんです。


 私にも支配欲はあります。だから私は学問を信じていたんです。ただ知的好奇心を満たすためだけに勉強していたわけではなく、勉強して分かったことを他人に教えたいと思っていた、、今、あまり学問に執着する気持ちがないのは、それで本当に他者を支配できるのか疑問に思ったからでしょう。みんな分かりたくて、勉強している。多くのことが分かれば、他者を支配できる「正しさ」が手に入るはずだと。でも、本当はどこまでいっても分からないんです。


 社会が、社会が、、といっている自分は本当に恥ずかしいです。私は本当に痛みに弱いです。私は完璧主義なところがあり、だから少しの傷も許さないんでしょう。でも、私は自己中心的な生物が、本当に社会のためだけに生きていけるのか、疑問に思います。そりゃ、褒められたら嬉しいです。でも、褒められるためだけに行動できますか。社会に属したいという人はできるかもしれません。でも私は別に一人でいいんです。ただ褒められたい、、そういう感情も承認欲求といわれているところがある気がするんですが、あくまで承認欲求は個人的なものだと思います。自分のしたいことをして、それが他者から評価されたら嬉しいなというものです。褒められるためだけに行動するというのは承認欲求というより、社会に属したいという気持ちです。その感情が求めるのは社会的理想であり、「安心」したいということなんじゃないかなと思います。私はどちらかというと内的世界にいることが多く、外から見た「私」というものにあまり興味がないからか、積極的に社会に関わりたいと思ったことはないです。


 私に何か社会的理想があれば、社会のためだけに行動しているように見せることもできたかもしれません。社会的理想があるという人も、外から見た自分を意識しているだけで結局は自己中心的だと思います。私も外から自分を見ることがないわけではありません(まあ、あくまで自分の中にある、小高い山から自分を見るという感じですが)。内的世界がないという人もいません。内側か外側、どちらにより重点を置くかが人によって異なるということです。


 実験の授業が始まったとき、何人かの生徒が自分たちの白衣姿を写真に収めていました。私はただただ緊張していました。実験というものに苦手意識があったからです。教習所でも実技はダメでした。でも、緊張の原因はただ不得意だからではありません。私は教授が怖かった。実験の授業中は明確に主従関係があります(実験でなくても高圧的な教授はいますが、、)。教授は、なろうと思えばどこまでもサディスティックになれます。


 生徒の数が多いからか、教授たちは必死に目を光らせていました。少しでも目を離すと調子に乗ってすぐ増長しやがるからです。だけど、教授は生徒に何を、どこまで求めていたのか、、それがはっきりしないまま始まってしまえば、教授はどこまでも求められるわけです。それは教育ではないです。


 そんな状況が嫌でない人なんていないでしょう。大事な自分に危害が加えられる恐れがあるんですよ。それでも、危害と同時に何か利益も得られるというなら我慢できたかもしれませんが、そもそも私は実際にできるということにあまり興味がないんです。確かに実際にしてみることで学ぶことも多いですが、私は外側より内部の方が気になるんです。その事象の仕組みの方が気になります。実験が好きな人は社会的だと思います。逆にその仕組みには比較的興味がない、、実際にできてしまえばそれで十分なんです。


 学問を「安心」のための道具としか思っていない人もいる、、と書きましたが、そういう人は社会的なのかもしれません。学問を宗教ととらえることがそもそも性に合わず、できないんです。外から見えるパフォーマンスばかり気にしてしまうんです。つまり、世の中にはいろんな人がいるという、ただそれだけのことなんでしょう。ですが、勉強が苦手だという子の中には、私と同じようにテストの点数とか成績とか、そういうものにあまり興味がないという人もいると思います。そういう子に、暗記してでも実際にできたという感覚を覚えさせるという方法は、もしかしたらあまり適さないかもしれません。実際にできるということにあまり喜びがないからです。そういう子には、ちゃんと理解できるように教えないといけないんですが、なかなか時間的に難しいというのが現状だと思います。


 教育が社会的なものになるほど、勉強が苦手だという子に教育が届かなくなるのではないかなと思うんです。逆に勉強がそもそも得意な子のためだけの教育になってしまうんです。勉強が「安心」のための道具だと思えない生徒には興味がない、、とにかく厳しく言って、それについてこれない生徒は放っておく、、それはもはや教育というより、支配です。


 社会は、できない奴に興味がないんです。自分の思い通りに動いてくれる人形が欲しいんです。そこに教育はありません。


 支配と教育の大きな違いは、相手との距離だと思います。支配は相手と距離が近すぎるんです。だから、他人であるはずの相手をあたかも自分自身かのように思ってしまうんです。教育のゴールを社会的なものにすると、どうしてもそうなってしまいます。教育の目的は、相手の内的世界をより豊かにすることだ、、というふうにしたら、自然と相手と距離が離れませんか。実際にできることも確かに大事ですが、そればかりを重視すると相手を支配したくなってしまうということです。


 支配的な教育にもある程度の効果はあります。実際にその問題が解けるようになるということも大事です。しかし、そればかりを重視すれば、その問題は解けても、他の同じような問題は解けないという状態になる恐れがあります。支配的な教育には即効力はあっても、応用の効くような内容がないんです。つまり、生徒が自分の足で歩いていけなくなる、、支配には「自立」がないんです。


 他人のために生きることは美徳とされがちですが、人は、生物は、本当の意味で他人のために生きていくことなんてできないと、私は思います。あくまで偽善なんです。みんな自己中心的なんです。自分を無視して他人のために生きようと思っても、そもそも無理だし、裏返せばそれは、その他人がいないと生きていけないという依存です。自己中心的なことは悪いこととされがちですが、自立に必要不可欠なものといえるかもしれません。


 そういえば、精神科の病院でも私はいつもどこか責められているように感じます。目的が社会的なものになるほど、いつか強く責められるんじゃないかと不安になるんです。


 話は戻りますが、実験の授業中、私は手に汗を滲ませ、どこかいつも震えていました。でも苦手意識から、予習はしっかりするようにしていたので大きなミスはしなかったし、毎回あるレポートも自分なりに丁寧にしていたので、成績はそこまで悪くありませんでした。まあ、実験は毎回出席しないといけませんが、他の授業は数回ほどならサボっても問題ないので(サボるとその分テスト勉強が大変になることもあるけど)、実験だけにいく週とかを勝手に自分で作りながら、何とか、という感じですが、、。


 授業をサボって、私はよく海を見にいっていました。自然を見ていると、全てがどうでも良くなります。まあ、そんな感覚は一瞬のもので、すぐに私はまた悩み出すんですが、そんなどこか怒りの混じった感情が、少しの勇気に変わって私を生かしていました。大海原を見ていると、私は本当は自由なはずだ、と思います。そしてすぐに、私は本当に自由なのか、、と思います。


 いや、私は自由を恐れていたんです。支配を恐れながら、支配に依存していたんです。


 私は今までそんなに選択に時間がかかったことはありません。自分の理想というより、「あたりまえ」を基準にしていたからです。私はずっと「安心」を求めていました。「安心」が手に入るのだから無理してでも卒業はするべきだと、私の中の「あたりまえ」が何度も私に忠告します。就職したら安心だから、、でも就職しても、結局いろいろ不安なんだろうなと思います。今の不安よりはマシになるかもですが、どこか「安心」には底がないような気がしてきたんです。そもそも私には就職できる自信がないです。


 大学を続けていく自信がないなら、私に残った選択肢は就職だけでした。しかし、台風の影響でずっとアルバイトをしていた塾が閉鎖することになったので、また違う塾でアルバイトをし始めたんですが、そこで私は社会の厳しさを知りました。


 何があったか、、覚えていないところもあるし、書いたってしょうがない気もするので詳しくは書きません。本質とはズレたような細いところを見られて、「できない」ことを嘲笑される、、という感じです。当初はそれは同調圧力のせいだと思っていました。なので「あたりまえ」に執着していた私は、そこにある程度の正義があるように感じていました。だから、結局そのバイトを研修期間中に辞めてしまったことを、ずっとどこかで罪悪に感じていたんですが、今ならそれは同調圧力でも何でもないことを知っています。ただ自分の思い通りに動いて欲しかっただけなんです。


 自分と全く同じ行動をしていないと落ち着かない。「安心」を感じない。でも、目的を一つに決めておいてから取り組めば、本質的には同じ行動をしているといえます。それに気づかない。外ばかりを見ているとそうなるのかもしれません。自分の内部を見ようともしない。だから、他人の内部も分からないんです。つまり、社会が分からないんです。


 社会的な人ほど、社会が分からなくなるのかもしれません。本当は、いろいろな価値観の人がいることを知っている、寛容な人ほど社会的だといえます。そうなるためには、まず自分の内部を知る必要があります。社会ばかり見ていても、社会は分からないんです。そのために教育があるんです。確かに教育は社会のためにあります。しかし、その目的は社会的なものではない。これは矛盾しているようでしていないんです。


 内部にある本質を見ないと、結局さまざまな情報をそれぞれに暗記するだけになる。一般化というものができないんです。


 一般化には、確かに極端な思考につながってしまうというデメリットもありますが、極端な思考が絶対の悪というわけでもないんです。それがないと本質に気づかないんです。極端な思考をただ否定した、地に足のついてないポジティブはただの空元気です。私は最近になってやっと、過去のトラウマを乗り越えられるような気がしています。今まではただ自分を責めて、相手を許そうとしていました。ですが極端な思考と向き合うことでやっと自分のことが、そして相手のことが分かってきた。自分が間違っていたわけではない、、。そう思えたので、もう誰も責めたりはしません、、といいながら、このままだと逆に少し相手を責めているような気もします。


 支配というのは、愛でもあると思います。支配的な人は、相手と密接な関係を築きたいと、どこかで思っているのかもしれません。寂しいんです。でも、じゃあ尚更、他人には優しくした方がいいと思います。急がば回れです。その人が欲しいと思ったら、逆にその人から一歩遠ざかるぐらいがちょうどいいと思います。


 個性なんてない、、。それは自分の内部を見ることで、他人の内部も分かるということだと、私は思います。この言葉は一見硬さがあるように見えますが、実は柔軟なんです。柔軟さがないと、人は不幸になります。個性なんてないかもですが、「あたりまえ」なんてものもないんです。「あたりまえ」という極端な言い方をしたって、他人を支配するのは難しいです。極端な意見が、極端な思考にとことん向き合ったものとは限りません。向き合い切れていないから、極端な意見になってしまうんです。「分からない」が正しいんです。


 、、今まで書いてきたコレは、本当は自分が20歳のうちに書く予定でした。20歳までの自分を全て書こうと思ったんです。でも、書いているうちにどんどん考えが広がって、結局途中で21歳になってしまいました。人はずっと途中なんだろうなと思いました。終わることなんてない、、。これからも私は考え続けていくと思います。


 成人式、私は本当は行きたくありませんでした。今もそうですが、自分には他人に自慢できるものが一つもなかったからです。それを自認できている今は、たぶん、そのときよりは辛くありませんが、そのときはそれが耐え難い苦痛でした。なのですぐに帰りました。帰る途中でタバコを吹かしているやつがいて、別に成人したから普通のことなのに、それがなんか気になりました。そしてなんとなく、そいつよりは大人になれたかなと思いました。そう思うことにしました。


 そんなこといったって、今、私は不安でしょうがないんですがね、、。でも、わずかな「安心」しかなかった、あのときに戻りたいとも思えない。ネクタイも結べない私は、海の藻屑になるのがオチですかね。でも、どうせ死んだらみんな同じ服を着せられるじゃないか、とも思います。地に足がついてないのは、今の私の方ですかね。夢とか、理想とか、希望なんて非現実的ですよね。でも、それがなかったらどこに進めばいいか、まったく分からない。あのときの自分は、分かったつもりになっていた。ただ「あたりまえ」にしがみついておけばいいと思っていた。夢とかそんな脆弱なものにすがっている人を見て笑っていた。「あたりまえ」だって、藁ほどの細いものだということに、気がつきもしていなかった。


 そりゃ、いつかは「安心」を手に入れたい。でもそれが実現したとき、私はまた「あたりまえ」になるんでしょうね。これまで書いたコレも、私の価値観や考えでしかありません。「あたりまえ」なんてない、という「あたりまえ」を押し付ける気はありません。また冷たい「現実」が押し寄せてくる、、。でも私は、何が現実か、いまだに決め切れずにいるんです。

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