滴るマンション
上京して三年目、常態化した残業と人間関係に疲れ果てた私は――――仕事を辞めた。
「さて、どうしようかな」
幸い貯金はそれなりにある。休日出勤で使う暇が無かったという悲しい事情には目をつぶろう。お金はすべてを癒してくれるのだから。
身の回りのモノはトランク一つに入る分を除いて全部処分した。部屋も解約した。結局――――私は三年かけてここに居場所を作ることが出来なかったのだろう。
「トランク一つでどこにでも行けるって……身軽で良いかも」
無理に前向きになっているわけではない。色んなしがらみから解放されてほっとしているのは事実だ。仕事のことも、人間関係のわずらわしさも今は考えなくていいのだ。
「実家に戻るのは最後の手段として……とりあえず旅行に行くのも悪くないよね。あ、そうだ――――」
ふと浮かんだのは同じ東京に住む親友のこと。
そういえば仕事が忙しくてしばらく会ってなかったっけ……
私は早速スマホを取り出すのだった。
「暑い……暑すぎる」
子どもの頃はこんなに暑くなかったはずだが、東京の夏はコンクリートの照り返しのせいか一層暑さを感じさせる。青々と茂る森、さらさらと流れる清流、当たり前だったものが当たり前じゃなかったことを知った。東京に出てきて得た数少ない収穫かもしれない。
澪が住んでいるのは根津駅から歩いて徒歩十五分ほどの距離にある築四十年の古びたマンションだ。
上京してからしばらく一緒に住んでいたこともあって、私にとっては第二の故郷のような場所。本駒込駅から歩いた方が近いのだが、根津駅から根津教会、根津神社を巡り、夏目漱石や森鴎外を感じながら寺巡りをするルートが私のお気に入りなのだ。東京は今でも苦手だが、この下町情緒のある落ち着いた雰囲気が私は嫌いではなかった。猫が多いのも何気にポイントが高い。
「澪~!! 久しぶり、元気だった?」
「まあ、ぼちぼちかな。美咲は相変わらずみたいだね、昔から困るとすぐに私のところに来るところとか」
さすが親友、私のことをよくわかっている。しっかり者の澪、昔から頭が上がらない。
「それでさ、しばらく居させてもらってもいいかな?」
「構わないけど……お風呂使えないよ?」
「え……? マジで」
「マジで。もう建物自体が古くて取り壊すことになってるから修理しないんだってさ。その分家賃安くなってるから私は我慢出来るけどね。ま、近くに銭湯あるからなんとかなるよ」
夏に風呂シャワー無しは正直キツイ。でも他に行くところも無いし……。
「わかった、よろしく澪」
「ああ、よろしく美咲」
こうして親友との同居生活が始まったのだが――――
「ね、ねえ澪」
「どうしたの?」
「水の音が気になって眠れないんだけど……」
昼間は気にならないが、夜――――周囲が静まり始めると水滴が落ちる音が存在感を増し始める。
「そのうち慣れるよ、耳栓使う?」
「うーん……大丈夫、音楽でも聴きながら寝るよ」
澪はすごいな、こんな環境で普通に暮らしているんだから。
「昔話でもしようか?」
「良いね!」
その晩は、澪と二人で昔話で盛り上がった。
七月二日水曜日――――
「じゃあ、私は仕事行ってくるけど、危ないから絶対にお風呂場には入らないようにね」
「わかった、行ってらっしゃい」
現在フリーの私と違って、澪は仕事がある。あらためて仕事を辞めた実感が湧いてくる。
「危険……ねえ?」
お風呂場は部屋の一番奥。ドアには危険を知らせる黄色いテープがガチガチに貼られている。聞いた話だといつ床が抜けてもおかしくないらしい、ナニソレ怖い!! 部屋の方は一応大丈夫らしいけど、ギリギリまで粘るのは止めた方が良い気がする。
まあ、澪も引越し先を探しているようだが、予算的に難航しているようだ。澪が帰ってきたら、私が半分出すから一日も早くここを脱出するように提案しよう、そうしよう。
突然――――スマホが鳴った。
「亮……?」
去年まで付き合っていた元彼の亮。最初は優しかったが、次第に暴力的な本性を隠さなくなってきて――――正直、嫌な思い出しかない。今更何の用だろうか?
「……何?」
正直、無視しても良かったのだが、性格的に気になってしまう。
「久しぶり……元気か?」
「うん、まあまあ。そんなことを聞くために電話してきたの?」
「あ、いや、お前には悪いことをしたなって……ちゃんと謝ってなかったから」
出会った頃の亮はこんな感じだった。でも――――もう騙されない。
「そう、もう気にしてないから、亮も忘れて良いわよ」
「そっか……あのさ美咲、俺たちやり直せないかな?」
「……ごめん、無理」
「だよな、わかった……もう連絡はしない、元気でな」
「うん、亮もね」
なんだかスッキリした。心のどこかで気にしていたのかもしれない。
「美咲、何か良いことあった?」
「ううん、特にないけどなんで?」
「そう……? なんかスッキリした顔してるから」
澪には話さない方がいい。亮から何度も匿ってもらったこともあったし、終わったことで余計な心配させるのは申し訳ない。
七月九日水曜日――――
――――スマホが鳴った。
「……知らない番号……悪戯か詐欺か……」
無視が一番なのはわかっているが、気になるので一度は出るのが私だ。
「水沢くん、元気かい?」
「……森野課長、何の御用でしょうか?」
私が仕事を辞める決定的な原因となった人だ。正直、二度と声を聴きたくなかった。
「私も仕事を辞めたんだ、妻とも別れた。良かったら――――」
「……もう会うつもりはありませんので。二度と連絡はしてこないでください」
「……そうか、わかった。すまなかったね」
はあ……なんか疲れたな、もう番号変えよう。
でも――――これで縁が切れたと思えば気持ちが軽くなった気がする。
「あれ……? またなんかスッキリした顔してるね」
澪は本当に鋭い。
「うん、今日さ、スマホ変えたんだ。番号も変えたらなんかスッキリした」
「そっか、それは良かったんじゃない」
普段あまり表情に変化のない澪が少しだけ顔をほころばせる。ずいぶん心配させちゃったからなあ……。
「ところで美咲、来週旅行に行かない? 有給貯まってたから一週間くらい」
「良いね!! ちょうど私も行きたいと思ってたんだよ」
最近、仕事遅くまで頑張ってると思ったら……旅行のためだったんだ。だいぶ慣れて来たとはいえ、水音だんだん酷くなってきている気がするし、久しぶりに静かな夜を過ごしたい!!
「ふふ、せっかくだから水着新調するか」
社会人になってから川なんて行ってなかったからなあ。清流で川遊びにバーベキュー、ワクワクしてきた。
「あれ? 美咲?」
「あ、早川先輩!! お久しぶりです」
こんなところで元同僚に会うなんて……でも――――早川先輩はあの職場で唯一の味方で癒しだった。
「元気そうで良かったわ、すっごい心配したんだから。連絡しても繋がらないし……」
「あはは、ご心配おかけしました。えっと……色々あって番号変えたんですよ」
早川先輩はなるほど、という顔で納得してくれた。
「でも――――早川先輩だけには教えておきます」
「え? 良いの? わかった――――誰にも教えないから安心して」
「はい、お願いします」
新しい番号を知っているのは、澪と早川先輩だけだ。そんなことはないと信じているけど、もし番号が漏れたら――――また変えれば良い。三年も暮らした東京で、誰とも繋がっていないなんてさすがに寂しすぎる。
「それじゃあ水着選ぼうか!」
「はい!!」
「見て、新しい水着買ったんだ」
「……なんで私も誘ってくれなかったの?」
澪がジト目で恨めしそうにしている。
「い、いやだって……昨日遅かったし、気持ち良さそうに寝てるから起こすの悪くって」
「まあいいや、私も明日買いに行くから付き合って」
「へいへい仰せのままに――――あ、そういえば水着売り場で偶然早川先輩に会ったよ、何度か会ったことあるよね?」
「ああ、あの美人の先輩ね。もしかして番号教えたの?」
「うん、これも何かの縁かなと思って。先輩良い人だし」
「そうなんだ……まあ美咲がそれで良いなら」
七月十六日水曜日――――
澪と二人でやってきたのは山梨。南アルプスの清流で遊べて自然も満喫できるし、果物やワインを巡るつもりだ。
「うーん、空気が美味しい!! なんか地元を思い出すね」
「たしかに。美咲、年末は地元に帰る?」
「上京してから一度も帰ってないからなあ……さすがに今年は帰らないとだよね」
仕事してないんだから帰らない言い訳は出来ない、というか別に帰りたくなくて帰らなかったわけではない。帰れなかっただけだ。
「じゃあ一緒に帰ろう」
「うん、楽しみだね」
帰ったら……そのまま残るのも悪くないかな。
「美咲が地元に帰るなら……私も仕事辞めて戻ろうかな」
「え? それはさすがに申し訳ないというか――――」
「忘れたの? 私が上京したのは美咲が心配だったから」
そうだった……当時は冗談だと思っていたけど、澪は昔からそうだった。実際、澪がいなかったら私はどうなっていたのかわからない。
「……ありがとね、澪」
「ううん、私が好きでやってることだから」
七月二十三日水曜日――――
旅行から帰ってきた私たちは、ホテルに宿泊していた。
留守中にマンションが全焼してしまったからだ。
「私は大丈夫だけど……澪は大変なことになっちゃったね」
「問題ない、あんな状態だったから貴重品は部屋には置いてなかったし、むしろ見舞金やら引越し費用やらで大幅なプラスだよ。仕事も合法的に休める」
澪が嬉しそうだから別に良いか。どうせ近々取り壊す予定だったんだから。
七月三十日水曜日――――
私たちは年末を待たずに地元へ帰ることになった。優雅なホテル暮らしも悪くなかったけど、久しぶりにお盆を地元で迎えたかったし、夏祭りもある。
新幹線は快適だ――――隣で澪がすうすう寝息を立てている。
もう東京に思い残すことは何も無い。
ちょっとだけ気になるのはあのマンションで発見された身元不明の三人の焼死体。
損傷が酷く性別や年齢すらわからないとか。
旅行に出ていなかったら私もあんな風になっていたのかもしれないと思うとゾッとする。
「そういえば……早川先輩と連絡とれないんだよなあ……地元へ帰るって知らせたかったんだけど」
気にはなるけど、あれだけの美人だ。きっと何か事情があったのかもしれない。私ですらそうだったんだから。落ち着いたら連絡くれるかもしれない、くれないかもしれないけど――――こればかりは私にどうにかできることではないし。
「……私も眠くなってきた」
瞼が重くなってくる。降りたら在来線とバスを乗り継いで三時間半……うん、寝よう!
私は高速で流れてゆく車窓の景色をぼんやりと眺めながら意識を手放す――――
『美咲は私が守るからね――――これからもずっと』
それは澪の声だったのか、それとも突然降り始めた豪雨によるものなのか。
私にはわからなかった。