8 真夜中の逃避行
あと数十分で真夜中になるという時間。
ミュリエルは息を殺してポプラの木の影に座り込んでいた。
アランは来てくれるだろうか。
約束を、守ってくれるだろうか。
不安でたまらない。
新月で、自分の手元も見えない闇の中。ミュリエルは自分の呼吸の音だけを聞いて待っていた。
何だか吐く息が熱くなってきた。
料理人のサムにはせめてお礼を言いたかった。明日、私がいないことがわかったら、父は、母は、どう思うだろうか。ジュリエッタの世話は誰がすることになるだろうか。
私がいなくなって、せいせいしたと、喜ぶのかー
暗闇を見つめながら考えていると、不意に口を塞がれた。
力強い手がピッタリと口を押さえて、ミュリエルの大好きな声がした。
「ごめん。声を出さないで。手を離すけど、静かにできる?」
ミュリエルがこくこくと頷くのを確認してから、そっと手が離された。アラン!
ミュリエルは黙ったままぎゅっと抱きついた。
アランは声を潜めて告げる。
「時間通りだ。良かった。近くに馬車を持って来られなかったんだ。運河の向こうの公園まで、歩ける?」
声を出すのが怖かったので、もう一度しっかり頷く。
「行こう。」
アランはミュリエルの手を取って歩き始めた。
屋敷の窓から、暗闇を見つめてほくそ笑んでいる女が一人。
「期待してるわよ」
どす黒い笑顔で歩き去る二人の方向から目を背けた。
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アランのいう公園まで、少し離れた所の橋を渡る必要があるため、歩いて1時間ほどかかる。
もちろんミュリエルは行ったことがない。屋敷からこんなに離れるのも初めてだ。ミュリエルの靴はサイズこそ合ってはいるものの、堅くて安い木靴で、長く歩くには不向きだった。
目的地まで半分ほど来たところで、ミュリエルは来た道を振り返る。
長く暮らした屋敷はもう見えない。
「うまくいった。さあ、この橋を渡ればあと半刻ほどだ。ミュリエル?」
何だろう。寂しいわけでも、すごく嬉しいわけでもないのに、涙が溢れて止まらない。
「私。 どうして、、、。」
ミュリエルは、こんな橋を見たのも川を見たのも生まれて初めてだった。遠い昔、マリアが読んでくれたお話の中にはお城や馬車、海や川が出てきたが、屋敷から見えるもの以外、実際に目にしたのは初めてなのだ。
今二人が渡ろうとしている石造の橋は、街灯が数本あるだけだったが、周りの景色を幻想的に照らしている。
初めて外で見た景色がこんな夢のような景色で、ミュリエルは胸がいっぱいになってしまう。頬を火照らせて「キレイ、、、」と呟く。
しばらくそんなミュリエルを見つめていたアランだが、チラッと時計を見て言った。
「どんな景色も、見たい時に見せてあげるよ。夜が明ける前にここをなるべく離れたいんだ。」
「そうね。行きましょう。」
二人はこの街から出ていくのだ。同じ景色はもう見られないかもしれないけど、きっと素晴らしい世界が待っている。
アランと一緒なら、それほど怖くない。
公園には、アランが用意した馬車が置いてあった。
「待ったよー 全く」
御者に扮したディーンが不貞腐れている。
「おっと。綺麗なお嬢さん、初めまして。」
ミュリエルが目を見開いて見ているが、アランは彼女をさっさと馬車に乗せてしまう。
「あんなやつ、見なくていい。ほら、早く出せ」
「ええー 俺いい子で待ってたのにー」
ブツブツ言いながらディーンは手際良く馬車を動かした。
「あの、アランのお知り合いですか? ご挨拶を。」
「今日はいい。」
アランはプイッと横を向いて素っ気ない。何か気を悪くさせたのかと、ミュリエルは気が気でないが、初めての外出と慣れない夜歩きで、しばらくすると睡魔に襲われた。
ウトウトするミュリエルを、チラチラと心配そうに見ていたアランだが、馬車がガクッと揺れた拍子にゴツッと頭をぶつけたミュリエルを見て、慌てて隣へ座り直す。
そうっとミュリエルの頭を自分の肩へ乗せると、ミュリエルは安心したのかスウーっと眠りこんでしまった。
さっきはなぜかディーンにイラついた。ミュリエルの手を取って挨拶するつもりだったディーンから、慌ててミュリエルを引き離した。
彼女に他の男が触ると思うと、我慢ができなかった。
これは、こんな気持ちは。 持ってはいけない感情だ。
そう思いながらも、眠るミュリエルの肩をそっと支える手を離すことができない。
夜が明ける頃、二人を乗せた馬車は大きな港街に着いた。
アランが用意した家の前で馬車が止まる。
眠たいと文句を言うディーンに、しっかり礼金を弾むと、ケロッと機嫌を直してどこかへ消えてしまった。
「ミュリエル、起きて。着いたよ」
アランがミュリエルに声をかけるが、起きる様子がない。
夜明けの陽の光で改めて見ると、顔が青ざめており、呼吸も浅い。
「ミュリエル? どうしたんだ。 ひどい熱だ、、、」
アランは慌ててミュリエルを家の中へ運んだ。家の中はすぐに暮らせるように整えられており、ミュリエルをベッドへ運ぶとアランは躊躇いながらも靴を脱がせた。
見ると足は真っ赤に腫れ上がっている。木靴には血も滲んでいた。
「これはひどいな。」
アランは手早く足を消毒して、化膿止めの軟膏を塗った。傷へ包帯を巻いていると、ふと血の匂いがする。
しばらく悩んで、青い顔のミュリエルを見ていたが、
「ごめん。」
アランはミュリエルのスカートを捲り上げると、膝下にさらにひどい傷を見つけた。ハンカチが巻かれているが、血が滲んで真っ赤になっている。そうっと剥がして傷を見ると、刃物で切れたような傷だと思われた。
一旦は止血されたが、また傷が開いたに違いない。
化膿して、腫れ上がってしまっている。熱の原因はこれだろう。
「誰にやられたんだ。こんな、、、移動中ずっと我慢してたのか。」
決まっている。カーマイン家の誰かがやったのだろう。
ふっと覚えた殺意を押さえて、再び傷の手当てをする。
闇ギルドでまず覚えさせられるのは、怪我の治療の方法だ。仕事の傷でホイホイと医者へかかるわけにはいかない。
きっちり手当をして、アランは家を整える作業を始めた。