沈黙と遊惰
毎月の委員会が終わり、遊惰にまとわりつかれながら帰宅していた時のことである。やけにキンキンとした女の声が響いているなと思いながら足を進めると、見覚えのある猫耳ダンボールが視界に入った。
「せんぱーい…あの人、うちの制服着てませんかぁ?」
遊惰が眠そうな目を擦りながら指を刺すので、すぐさま腕を掴んで下げさせる。首を傾げる彼に俺はゆっくりと首を振った。あの手のやつには気付いていることを気付かせてはいけないのである。すぐさま道を変えようと脇道に足を向けるが、遊惰のいる場所とはまた反対の方向から腕を掴まれた。
「おいいいい!待てお前無視するなぁぁぁ」
まだ距離があったはずのダンボール頭がしがみついている。舌打ちすると肩を揺らしたものの、離す気はない様である。
「あ、ちょっと何するんですか〜!先輩は僕と帰るんですから〜!!」
お触り厳禁ですよ!と遊惰がダンボール女、もとい英雄の腕を引っ張るが、彼までも捕まってしまった。
「先輩なんとかしてくださいー」
遊惰も空いている手で俺の残った片腕を掴んだので、それぞれの腕を掴んでしばらく三つ巴の争いを繰り広げていたが、英雄の奥から真っ白な服を着た男が顔を出した。
「おや、ご友人かな」
英雄は体を震わせながら俺の後ろに隠れると、男の方へ押し出した。どさくさに紛れて遊惰も同じように俺を盾にする様だった。
「君たちもどうかな。この後集会があるんだ」
真っ白な男は数枚抱えている紙の束から一枚を取り出すとこちらに見せた。最近何かと耳にする〇〇教の信者らしく、「初めての人歓迎」の文字が大きくプリントされている。
「今彼女を勧誘しているところだったんだ」
巻き込みやがってと英雄を睨みつけるとより一層しがみついてきたので、頭からダンボールを引っ剥がして前に突き出す。
「な、何するんだ!」
「こいつだけ行きます。それじゃ」
「おいいいい頼むよ!」
英雄を放り投げて逃げようとするが、意外にもしつこかった。この女は威嚇しまくる割にビビりなため、断ってもしつこく勧誘されると怖いのだろうか。いいカモである。面倒だが男を追い払わないと離れてくれそうにないなとため息を吐く。大きな欠伸をする遊惰もいい迷惑だろう。
「帰っていいぞ」
「えー…僕は先輩と帰りたいですよー」
「多分長引くぞ」
若干駄々をこねる遊惰だったが、長引くと言った途端あっさりと荷物を肩にかけ直して「今日は家の華道教室を手伝わないといけないんですー」と帰路についた。薄情だが分かりやすくていいなと思わず苦笑する。英雄が信じられないものを見たとばかりに俺の顔を凝視したので額を指先で弾いてやった。
「決して無理強いをするわけではないのですが、是非とも神を信仰する素晴らしさや教祖様の心洗われるお言葉を体感していただきたいのです」
今までの流れを全く見ていなかったのだろうか?男は改めてチラシを差し出す。結構ですと首を振るが、英雄が押せばすぐ釣れそうな女であるためかやけに食い下がる。
「神の子もあなた方をお待ちのはずです」
神の子とは如何や、流石の英雄もこれには「はぁ」と怪訝そうに相槌を打った。
「お二人と同じ高校に通われているはずですから、お会いしたことがあるかもしれません」
「我が校に〇〇教の信者がいるのか…?」
英雄は若干揺らいでいるのか、同じ高校の人がいるなら大丈夫だろうかと頷きかけるので再びその広い額を指で弾いた。
「結構です」
「そうですか…ぜひ、今度はいらしてくださいね」
語気を強めて改めて断ると、ようやく諦めたのか男は去っていった。英雄は相変わらず俺を盾にしたまま、大きく息を吐く。いつまで俺の後ろに隠れるのかと舌打ちすると、ようやく離れた。
「すまん、助かった。〇〇教には近づくなと言われていて…行ったら兄に殺されるところだった」
兄に殺されるってなんだ。一瞬、自分の幼少期が頭を過ぎる。
「…家族に殴られてるのか」
「え?いや、殴られたことないけど」
「お前…」
ぶん殴ってやろうか。
一足先に帰宅した遊惰を待っていたのは玄関で仁王立ちした母だった。
「遅いわよ」
全体的にアンニュイな印象を抱かせる遊惰と同じ重たげな二重と太めの眉は同じなはずなのに、母はなぜか迫力があるのだ。目つきだろうか、幼い頃から不思議で仕方ない。
「〇〇教?とかいうのから勧誘されてたんだー」
「なに?宗教?ホイホイついていったらダメよ」
「先輩が追い払ってくれたから平気」
「早く着替えてきて」と部屋に押し込まれ、勢いのあまり遊惰は畳の上に転がってしまった。窓の外からの光で温められた畳は気持ちが良く、そのまま寝ようかなと大きく体を伸ばす。ふわふわと欠伸しながら、結局先輩に絡んだ〇〇教の人と巻き込んだよくわからない女子生徒は無事だろうかと思案した。先輩が暴行で捕まってなきゃいいけど。襖越しに母の「早く!」という声が響いたので、仕方なく緩慢な動きで制服を脱ぎ着物に着替えていく。
遊惰の家は何代も続く華道の家元である。毎日のように生徒が自宅で開いている教室に来るが、まれに遊惰も手伝いに駆り出されていた。手伝いといっても、各席への花や道具のセッティング、途中経過を見ておくくらいのものだが。彼自身は面倒くさいのもありさっぱり腕が上達せず、母はすでに遊惰ではなく弟子の誰かを後継に考えている様だった。わざわざ自分が手伝う必要があるのか甚だ疑問だったが、少しでも興味関心を持って欲しいという母の気持ちなのだろうか。今日使う花をある程度手入れしていると、準備を終えた母が部屋に入ってきた。
「…仲の良い先輩がいるの?」
突然の疑問に首を傾げながら肯定すると、母は大きなため息を吐いた。
「迷惑かけてないでしょうね」
「うーん、なんだかんだ面倒見はいい人だからなぁ」
「あなたマイペースすぎるから…先輩にお礼を言っておくのよ」
「はーい」
教室の生徒が来るまでの準備も終わったため、母に言われた通り沈黙にお礼を言っておこうとスマートフォンを手に取ると、画面に「帰れたか」とメッセージが来ていた。委員会の時に頼み込んで連絡先を教えてもらった甲斐があった。沈黙は人嫌いだし、愛想もない上短気で暴力的だが、なんだかんだ遊惰のことは気にしてくれている様だ。それが妙に気恥ずかしいが、嬉しいのである。
「あ、り、が、と、う、ご、ざ、い、ま、すっと。やっぱり優しいあのお姉さんに似てるなぁ」
遊惰は自分が小学生の頃を思い出していた。
幼い頃の遊惰は、まだ母親に華道を仕込まれていた。どれだけ教えられても、人工的な美しさがあまり好みではないことと、一輪ずつバランスを考えて指していくのが面倒くさくて全く楽しくない。こっそり裏口から家を抜け出しては公園で時間を潰すことが多々あった。その日も1人でブランコをして、どこまで遠くに飛べるかに挑戦していた。
「危ないよ」
ふと、近くで女性の声がしたので驚いて顔を向けると、黒く長い髪を風に揺らすセーラー服の少女が立っていた。彼女の細い手や足にはなぜか包帯やガーゼが巻かれていたので、まだ幼かった遊惰は「ブランコで落ちたの?」と疑問を口にした。彼女はしばらくぽかんと口を開けていたが、意味がわかったのかクスクスと笑い始めた。
「そうだよ!だから手を離したらダメ」
「お姉ちゃん大きいのに変なのー」
「そうねぇ…もう夕方になるよ、家に帰りな」
「やだー」
首を振って拒否すると、セーラー服の少女は少し険しい顔を浮かべる。
「家に帰ると、何かよくないことがあるの?」
「お花楽しくないから…」
え?と首を傾げる彼女に事情を話すと、また面白そうに笑っていた。低くなった太陽の赤い光に照らされて、とても綺麗な笑顔だった。
「じゃあ、お家までお話ししながら帰りましょうか」
なんの解決にもなっていない様な気もするが、それはそれで素敵な提案だと思った。遊惰はブランコから手を離すと、少女の手を握る。彼女は嬉しそうだった。
「あなたくらいの弟がいるのよ。優しくて思いやりのあるいい子なの。きっとあなたと仲良くできるわ」
「そうなの?学校同じかなぁ…」
「▲▲小に通ってるよ」
「ザンネーン、隣の学区なんだねー」
誰かと手を繋いで歩くのは本当に久しぶりだった。母は忙しいし、父は出張が多くて家にいないことがほとんどだ。しばらく会話していると、あっという間に家に着いてしまった。
「また会えるかなぁ…」
手を改めて強く握ると、彼女は微笑んで頭を撫でてくれた。
「大丈夫、きっと会えるわ。中学校はあの公園の近くだし、通学路で通るから」
そのまま別れても、少女が角を曲がるまで遊惰は手を振っていた。母には案の定怒られたが、遊惰の頭は「彼女の弟にも会えるといいなぁ」でいっぱいだった。
少女との出会いから1ヶ月過ぎた頃だった。朝のニュースで『虐待に耐えかねて両親を殺害した』少女が自首したと読み上げられた。学校の関係者や近隣住民が「怪我が多かった」「いつも穏やかで優しい子だった」「本当に可哀想だ」と、やけにドラマティックな演出がなされていた。遊惰は何気なく聴いていたが、犯人の人柄や中学、通学路、家族構成、告げられる怪我の様子からして彼女のことかもしれないと直感してしまった。
「あら、すぐ隣の学区じゃないの…可哀想に…」
同じくニュースを見ていた母も口に手を当てて同情の言葉を紡ぐ。珍しく家にいた父も、母と事件について話していた。遊惰は何も言えなかった。初めて会った時の彼女の傷の多さはそういうことだったのだ。あの時自分が両親に話していれば違ったかもしれないと後悔が押し寄せる。アナウンサーは最後に、事件当時弟は自宅にいたものの無事であることを知らせた。彼女には会えなくても、弟なら歳も近い様だし中学校で出会えたりしないだろうか。
中学生になってからは、先輩の教室を一通り回ったり、疲れてしまい廊下で寝てしまったりと色々あったがそれらしき人は見つけられなかった。ここではないどこかの親戚に引き取られたり、施設に預けられたりしているのかもしれない。あの人の顔を忘れないように、こっそりと家の新聞から切り出した写真を眺める。正直諦めかけていたが、高校生に期待しよう。
高校生では図書委員会に所属した。理由はなんとなく楽そうだったし、図書室の静かな空気はよく眠れて気に入っていたのだ。初めての集まりで本を枕にグゥグゥと寝ていると、頭を軽く叩かれた。何事かと見上げると、黒髪で目つきの悪い生徒が「涎垂らすなよ」と注意していた。何処か見たことあるような、ないようなと思いながら「はーい」と返事する。カウンター当番でも彼と一緒だった。非常に寡黙だったが、なんだかんだ面倒見が良い人なのだろうなと遊惰は彼が気に入った。一度、遊惰があまりにも寝るので呆れ返った彼が笑ったことがある。笑ったといっても、若干口角が上がるぐらいのものだが。その姿がどこか、あの日の少女に重なった。
「…先輩ってお姉さんいますかー?」
質問すると彼は目を丸くしてしばらく停止した。珍しい表情だなぁとしばらく干渉するが、たっぷりの間を置いて彼は否定した。なんだ違うのかと思ったが、似ていると思えば似ている様な気がするのである。事件のこともあったし、隠しているのかもしれないと遊惰は珍しく空気を読んだ。
「昔優しくしてくれたお姉さんに似てますー」
まだ眠気があったので大きく息を吐き出して腕を伸ばす。まだ寝るのかと責める視線が向けられたが、今は図書室に誰もいないから少しくらいいだろうと目を閉じた。
「…そうかよ」
意識を手放す直前、先輩の声が聞こえた気がした。
登場人物紹介
【遊惰】(幼少期→高校生)
常時眠たい人。無意識のうちに沈黙の情緒を育てることに一役買っている。家にいるのも苦しいけど甘えたい盛りの頃優しくしてくれたお姉さんが大好きになった。想いを拗らせ過ぎて、もはや弟とほぼ確信している沈黙のストーカーみたいになっている。当の沈黙は遊惰の話している「お姉さん」は姉っぽいけど姉じゃないと思っている。姉と沈黙の顔はあまり似ていないのに、わずかな微笑みから雰囲気をキャッチした意外とめざとい男。英雄に対しては「なんだこいつ先輩を横取りして」と内心ムカついていた。
【沈黙の姉】(中学時代)
遊惰と出会ったのは事件の1ヶ月ほど前。公園に1人で遊んでいて危ないなと思って声をかけた。各家庭ごとに複雑な事情があるんだと、よりひどい環境にいるのに心の底から遊惰を心配していた。マイペースだが人懐っこいし、少し気難しい弟の友達になってくれたらなと思っている。高校生になった弟が絡まれまくっていることは知らない。
【英雄】
今回の被害者であり元凶。無事に帰宅できたがおでこが痛い。喧嘩屋は真っ赤になった額を見て早々に吹き出した。沈黙は怖いし好きではないが、なんだかんだゴリ押せば助けてくれると学んでしまった人。きっと今後も巻き込んでいく。ちなみに〇〇教に絡まれて大変だったストーリーをクラスで吹聴したので、クラスメイトの享楽経由で願望者に伝わってしまうかもしれない。
遊惰が沈黙に懐いている理由の話。沈黙は人助けするタイプでもないし後輩なんて虫くらいにしか思ってないが、なんやかんや懐いてくる遊惰は面倒を見てしまう。英雄はぶん殴りたい女だがそれ以上の面倒ごとを運んでくるので結果的に助けたことになっている。