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沈黙と願望者  作者: 寺田夏丸
7/14

沈黙と姉

暴力的です。

 願望者がいつものように沈黙の教室を訪ねると、彼が機嫌悪そうに座っているはずの椅子は空っぽだった。あれ?と周囲を見渡すと、ドア近くに座っていた女子生徒が駆け寄ってくる。

「今日、〇〇君はおやすみだよ」

「えっ、風邪ひいたとか?」

あの沈黙が!?でも不健康そうだしな、と妙な納得をしていた願望者に、女子生徒は首をふった。

「風邪ではないみたいだけど、たまにこうやって休む日があるの」

「へぇ〜、そうなんだね。残念だけどまた明日にするよ、教えてくれてありがとう」

「うん、あの、それで今度…」

「それじゃ」

彼女が何かを言いかけているにもかかわらず、用事が済んだとばかりに願望者は満面の笑みで去っていった。自分のような化け物と関わる時間は短くしてあげたほうがいいだろうという彼なりの配慮なのだが、突然会話を切られた女子生徒としてはショックが大きい。それでも彼にヘイトが集まらないのは、圧倒的な美貌があるからこそだった。

「う〜ん、今日は何を試すかなぁ」

沈黙がいないなら自力でやるか、享楽に頼んでみようかなぁと精神的に不健康なことを明るい口調で呟きながら、願望者は友人(と思っている男)の不在を嘆くのだった。


 願望者のことなどすっかり頭の中から抜け落ちた状態で、俺はアクリル板越しに久しぶりに会う女性と会話していた。彼女は艶のある黒髪を揺らして、長いまつ毛に縁取られた目を細めて朗らかに笑っている。桃色の頬が一層彼女の美しさを引き立たせていた。

「今日は学校に行かなくてもいいの?」

「うん、大丈夫」

心配そうに声をかけた彼女に、第三者には決して聞かせないであろう微笑みで頷いてみせる。

「勉強は大事よ。私は途中から学校に行ってないけど、あなたは頭も良いし同じようにする必要はないのだから」

「…勉強は問題ないよ、むしろ簡単すぎるくらい。変なやつばっかりだし別の学校に行けばよかった」

「変なやつって?」

目を丸くする目の前の彼女に、思わず口を尖らせて最近の面倒な奴らについて話した。

「信じられない話だろうけど、不死身のやつが同級生にいるんだ。そいつが俺にしつこく絡んできて、どれだけあしらっても声かけてきて困ってる…最悪だよ」

「あら、あなたから学校の人の話を聞くのは初めてだわ」

「笑ってる場合じゃないよ」

「少し嬉しくて。でも困ってるのよね、ごめんなさい」

願望者をぶん殴っていることは伏せておいた。暴力的なことは、彼女に聞かせるべきではないだろうし話すつもりもなかった。彼女は困ったように眉を下げながらもどこか嬉しそうに笑っている。俺としては全く笑えない話題だが、幸せそうな顔を見ていると少し気持ちがほぐれた。彼女の右横にあるドアが開いて男が「時間です」と声をかけた。まだ少ししか話をしていないが、いつものことである。彼女は名残惜しそうに俺の顔をじっと見ると「本当に大きくなったわね」と目尻に涙を浮かべた。

「背は伸びてないけどね」

「そんなことないわよ。大きくなったわ…また会いにきてくれる?」

「もちろんだよ」

不安そうな彼女に笑って返事すると、安心したように頬を緩めてドアの向こうに消えていってしまった。無意識に左右に振っていた手を下げて、帰ろうと出口に足を向ける。一度だけ、彼女が出ていったドアを振り返った。


「またくるよ、姉さん」


 俺と姉の血は半分しか繋がっていない。母の連れ子である姉を、母自身は元夫に似ているせいであまり好きではなく、父も実の息子である俺に比べると姉のことは煩わしく思っていたようだった。それでも姉は6つ年下の俺を虐めることも僻むこともなく、誰よりも可愛がってくれていた。彼女は誰にでも愛を注げる広い心の持ち主だった。俺は姉を愛しているし、姉は誰にでも愛されるべき人だと思っている。それでも両親は、姉を虐待していた。

 初めは些細なことだった。俺が4歳だった頃、姉が食事中にお茶をこぼしたとかで父が怒り始めた。姉は謝ってすぐに雑巾を取りに行こうとしたが、勝手に動くなと父に殴られた。俺は突然のことに驚いて固まってしまい、その光景を見ることしかできなかった。姉はすぐに「ごめんなさい」というと、俺に被害が来ないようにすぐに部屋の奥に転げていく。今思えば、姉が素早く判断できたのはこの出来事の前から殴られていたのかもしれない。母に連れられて部屋から出ていく俺の姿を見て、姉はいつものように優しく微笑んだ。「大丈夫よ」と囁いて。


 この状況が数年続いた。俺は恐ろしくて、よく外で震えていた。姉は俺がいないと気づくとしばらく経って外に出て、抱き抱えて散歩してくれていた。姉はとても細かったが暖かくて、一番安心する場所だった。だからこそ、太陽のように明るく美しい姉の体に絶えない傷があることが許せなかった。

 勇気を出して父の足にしがみついて姉を守ろうとしたが、当然10歳にも満たない子供の力では叶うはずもなくすぐさま吹っ飛ばされた。何度も邪魔をする俺に対しても、父は暴力を振るうようになった。一度箍が外れてしまったためか、歯止めが効かなくなっていたのだろう。母はもはや何も言わなかった。

 その日は特に激しかった。家中がひっくり返されたかの如く家具や荷物が散乱し、俺たちは幾度も転がされた。俺を守ろうとしていた姉だったが、父の投げた椅子が頭に当たってから血を流して動かなくなった。「おねぇちゃん、おねぇちゃん」と呼びかけて揺すっても、ピクリとも反応しない。まさか、死んでしまったのではないかと頭が真っ白になった。父は疲れたのか、俺たちを睨みつけてからテレビを見ている母の隣にドカリと大きな音をたてて腰掛けた。おねぇちゃんが殺されたかもしれない。どうしよう、どうしよう、どうしよう。混乱した俺の耳には、なんの音も聞こえてこなかった。目に映る映像もやけにゆっくりに見え、思考は異常なまでにクリアだった。明確な目的は一つだけ。お姉ちゃんのために、こいつらを殺そう。ただそれだけ。

 俺はキッチンから包丁を取り出すと、こちらには目もくれずに寛ぐ父を後ろから刺した。何度も何度も突き立てて、椅子から崩れ落ちてからも馬乗りになって懸命に刺した。うまく行かないことも暴力でなんとかできると「父の姿から」学んでいた。しばらくして父が動かなくなって、驚いて逃げようとする母にも飛びかかった。こちらも複数回刺すとだらしなく四肢を投げ出して絶命した。母に包丁を刺したまま肩で息をしていると、後ろからふと「〇〇…?」と弱々しく俺を呼ぶ声が聞こえた。姉は気絶していただけだったようで、血が流れる頭を抑えたまま、呆然とこちらを見ていた。俺はそれが嬉しくて嬉しくて、人生で初めて満面の笑みを浮かべたと思う。

「もう大丈夫だよ、お姉ちゃん。痛いことされなくて済むよ」

呼びかけると姉は顔を青くして俺を強く抱きしめる。その体は小刻みに震えていた。

「そうね、そうね…ありがとう。血がたくさんついてるから、お風呂に入っておいで」

固い抱擁から解放されると、姉は脂汗を額に浮かばせながら暖かな笑みを向けてくれた。俺はこれから姉と2人での幸せな日々が来るんだと思った。怖い人はもういない、優しい姉と2人でずっと楽しく過ごせる。当時の俺は幼かったし、学校には通っていたが家以外の世界を深く知らなかった。人を殺してはいけないということも分かっていたが、この後のことなど何も考えていなかったのである。俺は言われた通りお風呂に入り血をシャワーで流した。


 お風呂を出ると、なぜか姉の手が血に塗れていた。俺の姿を見るなり「大丈夫よ」といつものセリフを口にする。もう怖いことは何もないのに、妙だなと思った。姉は俺の顔を焼き付けるように眺めると、もう一度強く抱きしめた。

「お姉ちゃん、また血がついちゃうよ」

くすぐったい気持ちで笑うと、姉もそうだねと声を出して笑った。この家で笑い声が響くのは本当に珍しいことだった。これからは心いくまで笑えるはずなのに、俺はとても寂しい気持ちになっていた。

 どのくらいそうしていただろうか。突如インターフォンが鳴り、姉は名残惜しそうに俺から腕を離すとゆっくりと玄関に歩いていった。「あなたは奥にいてね」と言われたが、不安でその場に立ち尽くす。外には、厳しい顔をした制服の警察官が複数人立っていた。姉を警察官が外に誘導する。残りは家の中に入ってくると、父と母の亡骸を見て一瞬足を止めた。1人はすぐこちらに駆け寄ってきて「もう怖くないよ」と声をかけてきたが、俺は首を傾げていた。「お姉ちゃんはどこにいくの」と尋ねるが、もう大丈夫だよと言われるばかりで、本当に姉が遠くへ連れて行かれるのだと思った。警察官を押し倒して姉を追いかけようとしたが、混乱しているのだと取り押さえられた。


 後から聞いた話によると、姉は自分が親からの暴力に耐えられなくなり遂にやってしまったと供述したらしい。「俺がやった」と話しても、姉を庇っているのだと取り合ってもらえなかった。返り血のついた俺の服についても、血塗れの床を拭こうとしたとか、冷静になってから止血しようと近くにあった服を使ったからとか言って誤魔化していたらしい。そもそも俺のような小さな子供が、アレほどのことをすると思わなかったらしい。姉も当時は10代の子供だったというのに。「度重なる虐待が背景にあった」として減刑されたが、俺が高校生になった今も姉は女子刑務所に入ったままである。俺は親戚に引き取られたが、姉の帰ってくる場所が欲しいからと頼み込んで高校生になると同時に元の家に1人で住むようになった。彼方も、温厚な姉ではなく俺がやったのではないかと薄々感じていたらしく、あっさり応じてくれた。姉は俺のせいで自由な時間と若い時期を捨ててしまうのだと思うと、呑気に高校生活を送っている自分が嫌になる。本来は姉が送るべき人生だった。あの事件以来、何かあるとすぐ手を出してしまう性格も大嫌いだ。それに加えて、あの願望者である。俺は2度と人は殺さない。姉のためにも、絶対と誓っている。それをしつこく付け回されて非常に腹が立つし、そもそも死なないのだから誰にも殺しようがないではないか。ただ、明日登校したら願望者が面倒くさそうだなとため息をついた。



 登場人物紹介


【沈黙】(幼少期→高校生)

 究極のシスコン。父も母も初めは自分に優しく接してくれたが、誰よりも面倒を見てくれる姉を冷遇したので大嫌い。姉を助けたい気持ちや、コントロールできない激しい怒りにより事件を起こした。暴力で物事を解決できると親の姿から学習してしまったので、今でもそれ以外の解決方法がよく分かっていない。下手に口を開くと父が突然怒って暴力を振るうことがあったため、姉以外に対しては無口。高校生になっても「口は災いの元」と基本話さない。愛想なさすぎてかえってトラブルになっているが、なんでも拳で解決できてしまったためよく分かっていない。情緒は育たなかったが、頭はいいので勉強は非常に良くできる。


【沈黙の姉】

 沈黙の6つ上の姉。長い黒髪、色白の肌など美人(沈黙談)。沈黙とは正反対の常に穏やかな笑顔を浮かべた寛容な女性で、弟の沈黙のことは何よりも大切。この人もなんだかんだブラコン。母も父も自分のことを嫌っていると分かっていたが、懐いてくる沈黙を無視できずにずっと面倒をみていた。沈黙が暴力を振るわれるようになったのも、事件を起こしたのも全て自分のせいだと思っている。長年刑務所に入っているが、あまりにも聖人なため看守からも受刑者からも大人気。基本的には常識人だが、弟への想いと他者へ献身的すぎる姿は病的とも言える。

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