沈黙と享楽
「ねー沈黙―!!」
昼休みに飲み物でも買おうと自動販売機に向かうと、最悪なやつに遭遇してしまった。あの一見以来、こいつに付き纏われている。殴ったところですぐに治るのだからやっていられない。そしてうるさい。聞いてる?と尋ねながらよく舌のまわる願望者を無視してコーヒーを押す。
「僕コーヒー飲めないんだよねぇ。コーヒーで窒息させるとかどう?気分最悪かも」
おえー、と舌を出しながら周囲をウロウロするこいつをどうしてくれようかと考えていた時だった。ゴッと鈍い音が聞こえたかと思えば、願望者は大きな体をぐらりと揺らして倒れた。咄嗟に身構えると、見知らぬ女が立っている。背が高く髪が腰まで伸びた女は満面の笑みで願望者を見下ろしている。手にはどこから調達したのが血の付着したレンガが握られていた。女はふとこちらを捉える。
「あれ、知らない人がいる。こんにちはー」
ひらひらと片手を振ったかと思えばしゃがんで願望者をレンガで突き出した。なんだこいつは。何をしている。しばらくすると願望者が「いてて」と頭を撫でながら起き上がった。
「びっくりしたよ、もう」
「あらー、ダメだったわね。奇襲ならいけるかと思ったんだけど」
「中学の時もそれで僕を橋から落としたじゃないか」
2人は状況に合わず談笑を始めた。こちらだけが状況を掴めず握った拳の行き場に困っていた。買ったばかりのコーヒーも構えた時地面に落としてしまったし、余計腹立たしかった。舌打ちして再び自動販売機に向かおうと足を動かすと願望者が女を紹介し始める。
「彼女は僕の中学からの友人なんだ。こうやって死ぬのを手伝ってくれているんだよ」
彼は殺意強めだから殺してくれるよう頼んでるんだ、とこちらを指差す願望者に、女はニコニコと笑っている。
「そうなのね!殺してくれるかもなんて、なんて親切な人!!大好きなあなたを幸せにするのが私の人生だもの。私も頑張るね!」
また頭おかしい奴が増えた。そもそも俺は手伝う気はない。女は倫理観もクソもない、とんでもない享楽主義のようだった。
「よろしくね、沈黙くん!全然しゃべらないってこと??」
髪を揺らしながら微笑む女に、思わず顔をしかめる。仲良くする気はないのだが、どうして我が校はこうも変なのがいるのか。
「…うるせぇ享楽主義者」
「喋ったー!コーヒー落としてるわよ。脅かしたお詫びに同じの買うわ」
享楽はポイっとレンガを放り投げると、本当に同じものを購入した。相変わらず笑顔である。
「一緒に頑張りましょうね!」
「…」
無言でコーヒーを受け取る。手伝いはしないが。願望者が不思議そうに「沈黙?」と首を傾げていてた。確かに普段なら決して受け取ることはない。ただ、どうにも彼女の姿がとある人を連想させたのである。記憶の底にいる、笑顔を絶やさなかった長い髪の女性。大きなため息を吐き出しコーヒーを飲んだ。
その日、珍しく夢を見た。幼い頃の、まだこの家に自分以外の人が住んでいた時のものだった。いつだってこの家は誰かの怒鳴り声と、暴力とゴミで溢れた場所だった。夢だからか体は高校生のままだ。自分の部屋から出てゆっくりと階段を降りると、リビングから叫び声が聞こえる。扉を開けば唾を飛ばしながら怒鳴る男と、我関せずと言った様子でお茶を飲む女。そして、震えている小柄な少年がいた。
−少年は、かつての自分だ。
いつだって怯えていた。何をしていなくとも殴られた。いつもどこかが痛くて、震えながら過ごした。少年は泣いて謝っているが、男はさらに殴ろうと振りかぶる。その時新たな人物が間に割り込んだ。長い黒髪の、どこか少年に似た顔立ちの女だった。
「やめて!痛がっているでしょう!」
彼女も怪我をしていた。それでも少年を抱き寄せて男を睨みつける。直後彼女の体は吹っ飛んでいた。少年が縋り付いて泣いている。
「おねぇちゃん、おねぇちゃん!」
彼女―、姉は安心させるように微笑んだ。大丈夫よ、と掠れた声で頭を撫でた。いつだってそうだ。姉は俺を気遣っていた。クソみたいな家で、姉だけが俺を守ろうとしていた。俺が弱いばかりに、いつも庇った彼女が殴られるのだ。
腑が煮えくりかえるようだった。俺は男に近づき拳を握る。胸ぐらを掴むと「だ、誰だお前」と動揺しているようだった。今ならできる。こいつを殺せる。拳を握ったその時、「ダメよ!▲▲!」と姉が叫んだ。
ふと目を開けると、見慣れた天井だった。乱れた息を整え、ゆっくりと体を起こす。なんの音もしない、綺麗な家だった。
「くそっ」
壁を殴りつけると、姉の声がしたような気がした。
【享楽】
願望者と同じ中学出身の女子生徒。沈黙の隣の隣のクラス。濃茶のロングヘアーで、身長170センチのモデルスタイル。常に笑顔を絶やさない。願望者が好きで、大好きな彼が幸せならとどんどん殺しにいく。その方が自分も幸せで楽しいからという享楽主義者。だいぶ頭がおかしい。
願望者が大好きで大好きでたまらない享楽ちゃん。倫理や道徳ではなく自分の快楽が行動指針の享楽主義者で、願望者の願いを叶えてくれるかもしれない沈黙への好感度は高め。