沈黙と潜水
水に体を沈めると、世界から音が消えた。差し込んだ光が気泡にぶつかり一層きらめいて見える。ここには誰もいない。誰もいない。そう思うとざわついていた心が落ち着いていく。段々と息が苦しくなるが、少しでも長くいようと懸命に粘った。遠くで誰かが呼ぶ声が聞こえた。
「自分、なんでこんな時間にプール入ってるん?」
朝一の巡回中、風紀は肌寒い時期になったというのにプール方面から水音が聞こえたため確認に来ていた。見覚えのある生徒が沈んでいる姿に思わず大きなため息が溢れる。生徒はゆっくりと上がってくると、決まりが悪そうに伸びた前髪で目を隠した。
「す、すみません」
「そもそも使用許可出してへんやろ。あと20分でホームルームやけど、教室行く気なかったやんな」
「す、すみません」
「はよ準備しぃや。2年の▲▲やろ?何回このやり取りするねん」
「す、すみません」
彼は大きな体を縮こませて、何度も頭を下げた。これだけ気が弱いのに、彼がこの注意を受けるのは1年生の時から通算して300回目くらいである。水泳部が使っているため封鎖するわけにもいかないので、風紀委員と教師はほとほと困り果てていた。更衣室に逃げていった彼の背中を見ながら、風紀は背伸びする。
「潜水くんねぇ…噂の通り沈んどってびっくりしたわ。なんでこうも問題児が多いんやろうな」
頭痛いわぁと息を吐き出して、改めて潜水を急かす。
「あと5分で出てこやんかったら無理やりひこずり出したるからな」
更衣室からは「はいぃ」と蚊の鳴くような声が漏れ出していた。
朝のホームルームが始まる直前、廊下に熊のように大きな男が現れた。肩まで伸びた髪は濡れているようで、目元を隠した前髪から水滴が垂れていた。大柄な体のくせして縮こまった様子で、他の生徒に怯えながら歩く様は1年生の頃から変わっていないらしいと元クラスメイトに呆れた視線を送る。
「今日は早いな…」
クラスメイトの誰かが呟いた。そう、今日生徒がざわついたのは彼の風貌ではなく、時間である。基本的に奴は1限ギリギリに滑り込めばいい方で、ホームルームや休み時間にはほぼいないのだ。対人恐怖症を拗らせすぎて教室にいることが難しいらしい。6時間授業中にいるだけ頑張っている方なのだろう。
彼と出会ったのは1年の4月である。入学式の日にクラスに行ったら前方の席が空いていて、初日に欠席とは災難だなと思っていた。式が始まる直前、担任の手により式場となる体育館へ入場する列にねじ込まれたのが彼である。当時はまだ前髪が眉と同じくらいの高さに切り揃えられていて、伏し目がちに周囲を見渡しては猫背になって歩いていた。俺としては前方に出現した大きな背中にイラつきを覚え、態度にイライラが募り、今にも蹴り飛ばしたい気分になった。聞いたところによると入学時の彼の身長は185センチ。でかいわけだ。今はもっと伸びていることだろう。教室に入ってからはもっと酷かった。そもそも前方がデカすぎて黒板が見えない。俺の席は廊下側から2列目の最後で、毎回体を傾ける必要があった。そのくせ奴は人に怯えてほぼ俯いているのでムカついた。教室内で大きな声を出すのは好きではないが、この時ばかりはそうも言っていられない。ホームルームが始まってすぐに挙手をした。
「先生、前方の彼が大きくて黒板が見えません。席を前後変えてください」
「あら…それもそうね。▲▲君、初日から申し訳ないんだけど、荷物だけ持って席を交換してもらえるかしら」
担任の女性は比較的柔軟な人で、すぐに応じてくれた。他の生徒にも不便があれば申し出るように促し、同じような理由でもう1グループ席を変えていた。前方の奴は視線が集まったからか完全に固まってしまい震えている。俺は今すぐにでも落ち着いてホームルームを過ごし1分でも早く帰りたかったので、つま先をタンタンと上下に動かして促すが、全く動く気配がなかった。
「…おい、早く動け」
「ご、ごめん」
イライライライライライライライラ
「ごめん、う、動くから、うっ」
俺の乱心がきちんと伝わったようで、彼はなんとか青い顔で立ち上がった。直後、上半身をくの字に曲げる。
「は」
直後、酸っぱい臭いが教室に広がった。俺の足元で。
「む、無理…」
奴はか細い声でそう呟くと目の前でしゃがみ込む。二発目を予感したあたりで首根っこをつかんで教室から摘み出した。水道まで蹴り飛ばすと、案の定嘔吐する声が聞こえる。
「ふざけんなよクソが…!」
怒りのあまり震えながら頭を水道にぶつけてやろうと掴みかかるが、担任がすぐさま間に入った。
「ひとまず職員室に行って着替えを借りてきなさい。予備があるはずだから。▲▲君は保健室ね」
彼女は4年目の教諭だったが常に冷静で、いつでも冷静な対応をとる人だった。2年目になる頃には他校へ移ってしまうのだが、彼女がいなければ確実にこの時彼の骨を粉砕していたことだろう。立ち去る際にもう一度睨みつけると、わかりやすく肩を揺らしていた。
若干埃くさい予備の制服を借りると、教員からは「初日から災難だな…」と励まされていたたまれない気持ちになる。汚れてしまった新品のズボンとスリッパを簡単に水で洗うと、教員に言われるがまま武道場下で干す。教室に戻った頃にはホームルームも終わり、クラスメイトは帰っていた。待ってくれていた担任から教科書やこれから1年間の簡単なスケジュール、注意事項、部活動紹介の冊子を受け取る。教室を出ようとすると、体の大きい彼が入ってきた。
「あ、あの…」
無視して進むと腕を掴まれる。ビビりな様子から積極的に話してくることはないと思っていたので流石に驚いて足を止めてしまった。
「あの、ごめん」
俯きがちな顔で手を震わせながら謝罪される。この頃にはすっかり頭も冷えていたので、殴るような気持ちはなかった。
「ごめん、僕、人に見られてるとと緊張しちゃって…さっきは目が回って…」
また彼は小さくなっていった。どうにも小さい子供を相手にしているような感覚を覚えてしまう。
6月に入ることには、何かにつけてはプールに潜る悪癖のせいで「潜水君」というあだ名が付いていた。どうやら水の中だと人の視線を感じないかららしい。出席率が悪いので成績もイマイチ振るわず、自習時間に後方で唸られるこっちの身にもなってほしい。
「おい、うるせぇぞ」
「あ、あ、ごめん」
何度注意しても「あ、あれ」「どうだっけ」「えぇ」と呟かれ、こちらまで全く集中できない。
「どこで悩んでんだお前」
「お、教えてくれるの」
「うるせぇ」
「ご、ごめん」
今思えばこの時の選択がミスだったのかもしれない。この日以来、潜水は何かと困ったことがあると俺に言ってくるようになってしまった。数学の公式が覚えれないだの校舎裏に猫が住み着いているだの。初日の怯えはどこへやら、一度勉強を教えただけで少し睨んだだけでは効かないほど懐いたのである。2年生になり分かれてからも変わらず、クラスの用事で連絡を取るために教えていた携帯番号にかけてくる。早い時間に教室へ来たところを見るに、教師か風紀に捕まったのだろう。以前似たような状況で「プール接近禁止令」を出されたらしく、長々と「どうしようどうしよう」と電話してきたから困った。よもや今回もそうならないだろうなと思うとどうにも面倒だ。
放課後帰宅した頃に、想定通り電話がかかってきた。鳴り続ける上マナーモードにしていても何十件とくるので仕方なく出る。
「市民プールにでも行け」
結論を述べて通話を切ろうとすると、電話越しに何やら騒いでいた。不良にでも絡まれたか?と携帯を耳に近づける。
『こ、子供が道で倒れてるんだけどどうしよう』
「はぁ?」
倒れている?涼しくなっているこの時期に考えにくいが熱中症、持病…色々な可能性が脳内を駆け巡る。
『怪我してて、どどどどうしよう、血が、血が…』
「…救急車を呼べ。意識はあるか」
『見つけた時はまだあったんだけど、今は』
「どこにいる」
潜水がいる場所は家から5分ほどの距離にある小さな路地だった。なぜそんなところをビビリが通っていたのかはわからないが、人を避けていたらたどり着いていたのだろう。ひとまず救急車を呼ばせ、救急箱から綺麗なガーゼなどを取り出して家を出る。別に誰がどこで死のうが関係ないのだが、子供と聞いて気づけば行動してしまっていた。
走ればすぐに現場へたどり着いた。救急車はまだ到着しておらず、男児の周りでウロウロする潜水がいた。
「こ、ここだよ!」
ぐったりと倒れた子供は、頭から血を流していた。かなり痩せており、手足や顔にある痣に見覚えがある。かつて自分や姉の顔にできていたものとよく似ていた。一瞬あの男の拳が見えたような気がして、唇を噛む。男児は呼吸しているが意識はないようだ。
「俺が来るまでの間、体を揺すったりしたか」
「してない、俺、どうしたら良いかわからなくて、」
「見つけてどれくらいだ」
「電話する直前だから、まだ10分も経ってない、です」
あまり動かさない方が良いだろうと思い、ひとまず流れている血を止めるためガーゼを当てて圧迫する。
「ガキに呼びかけとけ」
「う、うん」
潜水は赤く染まるガーゼに顔を青くしつつも、あの日のように吐いたりはせず「大丈夫だよ」と呼びかけ始めた。アドレナリンが出ていたのかもしれない。そうしていると、白い服が潜水の奥に見えた。こんな時になんだと睨みつけると、小柄な中年男性が顔を歪めて立っていた。
「誰だお前ら!」
「うわぁ!」
早足でこちらに来るため、男に驚いて飛び跳ねた潜水に圧迫止血をするように指示をして交代する。震える手でも俺を真似てしっかりと押さえつけていた。これなら大丈夫だろうと男に目を向ける。この白い服には見覚えがありすぎる。〇〇教の信者。
「どけ!そいつは俺の子だ!」
俺を押しのけようとした手を掴み足をかけて地面に倒した。そのまま押さえつける。チラチラとこちらを見る潜水に「構うな」と首を振る。
「そいつは失敗作だ!俺の手で処分する!」
「はぁ?」
「そいつが信心深くないせいで、全く御加護を手に入れられない!」
「…はぁ?」
男は拘束から逃げ出そうと激しく体を揺らしていた。肩を固めているので痛いはずだが、元気なものだ。2発ほど憂さ晴らしも兼ねて殴るとサイレンが聞こえてくる。
「ガキを殴れば御加護が手に入るって、随分な神だな」
「お前のような奴には分からないだろうが、神は永遠の肉体を下さるのだ。私たちも信心深くあれば神の子をこの世におろしてくれる。彼の方のように、永遠の肉体を」
「神の子」という単語は先日ダンボールを被ったチビといた時に耳にしたものだった。〇〇教共通の概念のようだ。永遠の肉体、神の子。ふと、今年になって出会った彫刻のように整った顔の男が脳裏に浮かぶ。あいつの本名はなんだったか。興味がなさすぎて記憶になかった。聞き出そうとしたところで救急隊員が駆け込んでくる。周囲を見ると、思っていたよりギャラリーが集まってしまっていた。子供を受け渡した潜水は安心感と人の多さに驚いたのか目を回して倒れる。
「あ、気にしないでください大丈夫です」
潜水に駆け寄る救急隊員を制止すると、彼らは俺の下にいる男に注目した。「あの子を殴ったそうで、取り押さえてます」と事情を説明すると、すぐに警察も来ると教えてくれた。
「神の子ってのはどんな見た目だ」
「お、お前に教えるものか」
体重をより強くかけると、うなり始めるものの口を割らない。人が見ている限り吐くまで殴るわけにもいかず、諦めて警察を待った。
最後に警察に事情聴取を受ける必要があった。警察とは話したくないし、発見した時の様子は潜水にしか分からないのだが、彼は依然として目を回している。仕方なく彼が対人恐怖症であることを説明し、聞いた様子と俺がきてからの状況を説明すると思っていたよりもすぐに終わった。
「おい、起きろ」
潜水の頬を軽く叩くと、意識を取り戻したようだ。
「あ、あ、人が、」
「別の通りに出るぞ」
幸い、この路地はよく深夜徘徊で通ったところだった。ふらつく潜水を引きずって歩く。彼は手についた血を見て震えていた。
「ぼ、僕、あの、どうしたら良いか分からなくて、ごめんね、忙しいのに呼んじゃって」
謝る潜水に、今日ばかりはむかつかなかった。〇〇教から得た情報を思い出し、思わず唇の端が上がるのがわかった。
「今回だけは許してやる」
あの信者が言っていることが教団全体の考えで、虐待が横行しているのであれば。
「〇〇教を潰す」
「え、え?」
困惑する彼とコンビニのトイレで手を洗うと、市民プール方面に蹴った。
「学校のプールはしばらく我慢しろ」
「ど、どのくらい…」
「風紀に聞け」
じゃあなと自宅へ歩き出すと、彼はすんなりと市民プールに向かい始めた。水に沈むためなら細かいことを気にしなくなるのはあいつの良いところだろう。ひとまず、脳内で願望者に事情を吐かせようと計画を立て始めた。
【潜水】
誰がなんと言おうが間違いなく沈黙の唯一の友達。身長191センチで体質的に筋肉がつきやすくガタイが良い。鼻の辺りまで伸ばした黒い前髪で目を隠して、極力人の目線が見えないようにしている。対人恐怖症で人に囲まれていたり見られたりする状況が苦手。小学生の授業でプールに沈んでいた時、人の声が遠くなり視線を感じないと気づいてからほぼ毎日勝手にプールへ入っている。ビビリでコミュ障なので、懐くと距離の詰め方が常人より激しい。誰からもウザがられる中、勉強を教えてくれた沈黙は怖い人からいい人に昇格した。視線を避けて歩いていたらいつの間にか知らない路地に迷い込んでおり、さらに血まみれの子供が倒れていて大混乱。困ったら沈黙へとの方程式が脳内に勝手にあり即連絡した。今回のMVP。
【沈黙】
本人は否定しているが潜水の友達。押せば面倒見が良くなるという自分の特性に未だ気付いておらず、潜水はもちろん英雄や遊惰にも世話を焼いている。潜水に対して初対面は「ゲロ吐いたやつ」の印象で、今では「あほ」と思って手助けしているが本人は全くの無意識である。お人好しの姉の教育が行き届いた結果がこれです。〇〇教に「虐待された子供」という地雷を踏み抜かれた。無理矢理にでも願望者に情報を吐かす。
【〇〇教】
信者が逮捕されたが教団は「勝手にあいつが暴走しました」ということにした。マスコミ対策として「戒律を外に漏らすと御加護が貰えなくなる」とか適当なこと言っておいたらしい。洗脳はバッチリ。でも地雷を踏み抜いた。
【願望者】
なんだかくしゃみが止まらなくて享楽に心配された。信者が逮捕されたらしいやったね。翌日沈黙にボコボコにされて喜ぶが〇〇教について詰め寄られて泣く。
沈黙の友人である潜水君が出ます。彼は対人恐怖症でコミュ障ですが、今回ばかりはがんばりました。沈黙は〇〇教の闇深さを改めて感じ、警戒心を引き上げることになります。




