4 草原の下
しばらく歩いたが先行する上原の姿は見えない。道があるわけでもないので当然なのかもしれない。
森は広い。少しでもルートが違えば目につかないほど離れてしまうのだろう。
大体きちんと元の場所に戻れるかどうかも怪しい。
太陽が見えないので方角がわかりにくい。距離感も掴みにくい。見通しも悪い。
大丈夫なんですか、マモルさん?
そう、俺はただマモルについていってるだけなのだ。
ちょっとだけ不安になりかけた時、前方に明るい部分が見えた。だいぶ遠いが開けた場所があるようだ。
「さすがマモル」
俺は疑ったことなどこれっぽっちも感じさせないように言った。
「よかった、迷った時はどうしようかと思った」
マモルは額に手のひらを当てて笑った。
「え、迷ってたのか?」
「わたし、気づいてた」
早川が疲れた顔に笑顔を浮かべた。
「マジか」
このなかで一番方向音痴なのは俺か?
「マジマジ」
早川が笑いながら歩き始める。
ふたりから離れるわけにはいかない、と思いつつ、あとに続いた。
しばらく進むと男女ひとりずつが木の陰にしゃがみ込んで草原の様子を窺っているのが目に入った。俺たちからは丸見えだ。
同じ制服のようだ。
草原にまだ緑色のやつらがいるのだろうか?
俺たちもしゃがんで様子を窺う。特になにかいる気配はない。
俺は中腰のまま男女に近づく。結構キツい。
男子が誰かわかった。
「トラ」
やや離れたところから声をかけると、男子は頭を上げてきょろきょろと辺りを見回す。手を振るとやっと気がついて笑顔を見せた。
思った通り、中西大河だ。
クラスのムードメーカー、というか人を笑わせることに命を懸けているようなヤツだ。いつもテンションが高く、よく授業中にふざけたことを言って先生を困らせ、優等生を辟易させている。あだ名は下の名前からつけられた。安直だ。さすがにいまは顔に憔悴の色が浮かんでいる。
一緒にいる女子はポニーテールを揺らすとこちらに顔を向けた。眼鏡っ娘。
おや、と俺は思った。トラとは意外な組み合わせ。
マモルのライバルともいえる成績優秀な女子の名は但馬琴子。シャープな整った顔立ちだが、いつもジト目で人を見るのが玉にキズ。いまもその目でこちらを見ている。
授業の邪魔をしてみなを笑わせるトラを怒るのがこの但馬琴子なのだ。真面目なんだろうな。
そのふたりが一緒にいるのは呉越同舟の感は否めない。
「ご無事でなにより」
俺たちが近づくとトラが言った。俺は頷くと、
「なにかいるのか?」
と、首を伸ばして草原を窺う。まだ距離があってよくわからない。
「いや、いないと思うんだけどコイツがさ」
「わからないでしょ! もっと慎重に行動しないと!」
但馬が抑えた声で怒鳴る。きっとトラと一緒に行動してそう思うような目にあったんだろうな。ご愁傷さま。
「まぁ、ここからじゃよくわからないな。もっと近づいてみよう」
俺が言うと、トラが、ほーらな、と言って、但馬に上腕をグーで殴られた。
草原との境界に生えている草むらの陰までみんなで移動した。
傾いたバスが見えるので元の場所に間違いないだろう。怪物の姿はない。生徒たちもいない。
動くものの姿はなく、静かだ。
百合子先生たち――草原で倒された人たちの姿はない。その者たちの荷物もなくなっている。
倒された者たちは怪物たちに連れ去られたのだろうか。息を吹き返して逃げたのだろうか――いや、それはないだろう。あの様子ではとても自分で動くことは出来ない。
あの様子――いきなりだったが瞼に焼きついて離れない凄惨な光景を思い出し、俺の体はぶるりと震えた。
更に嫌な考えが心に浮かぶ。
もし連れ去られた者たちがまだ生きていたら。
もし生きたまま――。
そんな思考を断ち切ったのは、ぽんと背中に置かれた温かい感触だった。
振り返るとマモルが真面目な顔で俺を見ている。
「マモル」
「なにを考えているのか知らないけれど、たぶん今はそんな時じゃないよ」
そうだった。
生き残った者たちはばらばらにはぐれてしまった。この先なにが起こるかわからない。ここは危険な世界だ。仲間は多いほうがいい。
はぐれた仲間を見つけるのだ。
俺は大きく頷くと視線を草原に戻した。
誰の姿も見えない。俺たちと同じようにすぐそばまで来ているのか、それともまだ森の奥で逃げているのか、迷ってしまっているのか。
藪や灌木の陰にいたとしても見通しが悪くわからない。
「すぐ近くにいるかもしれないのに」
俺は歯噛みする思いでぼやいた。
「大声で呼べばいいんじゃね?」
トラが言って、バシンと誰かに叩かれた。たぶん但馬だ。
俺はトラたちに目を向けた。
「いってーな、なんだよ」
「あの変なのに聞こえるかもしれないでしょ!」
但馬が小さく怒鳴る。姿は見えずとも森のなかに怪物たちがいるかもしれない。
「じゃあどうするんだよ」
トラが口を尖らせた。
「ちょっと出て行ってみるよ」
マモルが立ち上がって俺は驚いた。
「ちょ、マモル」
「このまま待っていてもしょうがない。もしあいつらが出て来たら逃げよう」
マモルは草むらを踏み倒しながら草原へ出ていく。
マモルだけを行かせるわけにはいかない。逃げなければならない状態になった時のために早川のバッグを肩にかけると、マモルのあとを追った。
俺が一緒にいてもなにかが変わるわけでもないけれど。
マモルは普通に歩いていくが、遠くからも見えるところに出るのはどうにも不安になる。
俺は腰を落とし、恐る恐る歩を進めた。辺りを見回す。
特に最初に怪物たちが姿を現したところに注意して――。
がさっ
後ろから草むらを掻き分ける音がして、俺は飛び上がった。
振り向くとそこには、笑いながら姿を見せる俊足の弓道部員、上原がいた。
「よう、追いついて来たな」
「おどかすなよ」
俺はほっとため息をつく。
「お前のへっぴり腰、なかなか笑えたぜ」
や。俺は慌てて真っ直ぐ立つと、
「へっぴり腰じゃないし。高度な臨戦態勢だし」
自分でもわけのわからないことを言った。
「ふーん」
上原はにやにやしている。
「緑色のやつらはいないようだな」
上原も辺りを見回す。上原が出てきたあたりから、森の中で見かけた男女が出てくる。トラたちも出てきた。
「お、トラ。なんだよ、無事だったのか」
「残念そうに」
上原の言葉に、トラは後ろを向き、
「言うなー!」
振り向きながら手の甲を当てるフリをする。
こういったワザとらしさはちょっとどうかと思う。いつかとことん話しあおう。
上原は大喜びだが、但馬にいたっては顔を歪めて舌打ちをしたのを俺は見逃さなかった。
再会を喜び合っていると、左手からも生徒たちが出てきた。丸川鈴や清水蛍の姿も見える。
十人ほどだろうか。こちらへ歩いてくる。
但馬がその群れに駆けていった。そのなかの数人と手を取りあって喜んでいる。
これで二十人ほどか。仲間が増えたし怪物もいないようだ。
俺はほっとして、バッグを置くと草地に腰を下ろした。森のなかの虫だらけでどろどろした地面に比べたらここは天国だ。柔らかいし。
他も大体男女に分かれて集まり、草地に直接座り、寝転ぶ。
「あ、そうだ。隼人、いま何時?」
マモルが俺の隣で聞いてくる。俺はスマートフォンを取り出した。
「四時四十分」
マモルが空を見上げる。俺もつられて視線を上げた。
高く、青く、いくつかの雲がぽっかりと浮かんでいる。やや青が濃い方向は東だろうか。
なんの変哲もない普通の空。なぜかそれがとても美しく感じる。
きっと暗い森のなかで逃げ回ったからだろう。
空を見上げるなんて久しぶりのような気がした。
「二十四時間かな」
マモルは草原に落ちる影に目を移していた。
「なんの話だ?」
上原が聞いてくる。
「ああ、一日の時間のこと」
俺が言うと、
「え、なに言ってんの? 一日が二十四時間なんてあったり前じゃん!」
トラが笑った。しまった、変なヤツと思われる。
「あー、なるほどね」
しかし、上原は真面目な顔で俺を見た。
「え? あれ? どゆこと?」
トラが俺と上原の顔を交互に見比べて不思議そうな顔で言った。
「なんでもないよ。それよりトラ、なんか食べるもの持ってないか? 腹が減った」
上原が言った。
そう言えば走り回って腹が減ったな。喉も渇いた――あれ?
「え、ないことはないけど。なんだよ、お前、持ってないのかよ」
「いや、あるけどお前のが食べたい」
「ふざけんなよ! 自分のを食え!」
「そこは『え、わたしが食べたい? いやーん』とかじゃねえの?」
上原のが面白いんじゃないか? とか思ったが、そんな場合じゃない。
「おい」
「ん?」
「ドリンク、どれだけ持ってる?」
「……ないな」
「バスに置いてきちまった」
上原もトラも飲み物を持っていない。
人は、食べ物がなくてもしばらくは保つが、水がなければすぐ死んでしまうという。どれくらいだったかは忘れた。
俺たちはバスを見た。斜めになった屋根が半分ほど沈んでいる。
あの中にいくつかペットボトルに入ったドリンクが浮いているだろう。空っぽでも容器として使える。
どうやら状況はサバイバルの様相を呈してきた。回収しておきたい。
しかも、もうすぐ日が暮れる。明日の朝までバスがいまのような状態にあるとは限らない。
時間がない。だが、万が一怪物が現れた時にも森から遠い。危険だ。
「あそこの水、飲めないかな?」
トラがバスを指さした。
「おすすめはしないね」
マモルが肩をすくめる。
「しゃあないか」
トラが制服のボタンをはずし始めた。
俺と上原は顔を見合わせ、次の瞬間にはボタンに手を掛けた。
俺とトラはトランクスで上原はボクサーパンツだった。
そんなことはどうでもいいが、とにかくパンツ一丁になった俺たちはバスに向かって走っていった。
女子たちのグループから悲鳴が上がる。
上原が口に人差し指を当てると静かになった。
トラが手を振る。俺は恥ずかしさに顔を熱くして二人を追った。
別に水泳の時と同じような格好なのだが不思議なものだ。
窓が上を向いているほうへ回り込む。
かなり離れたところから草地が水に沈み込み始め、バスのあたりは結構深いようだ。
「変な生き物とかいないよなあ?」
ちょっとだけ水に入ったところで水面を見つめながらトラが言った。
俺たちはなにも言わない。わからないからだ。
あ、気休めを言った方がいいか。
「大丈夫だヨ」
変に棒読みになった。
「なんだ、その言い方は。でもまあ行くしかないか」
トラはざぶざぶと歩いて行く。
俺たちも水に入る。冷たいが耐えられないほどじゃない。
水は透明で飲めそうな気もしてくる。
トラが腰まで水に浸かって飲めなくなった。
丸川鈴がちょっと顔を赤くしながら走ってきた。
「あんたたち、なにやってんの?」
丸川は水際で足を止めた。
「ちょうどよかった。ドリンクやペットボトルを回収しようと思ってるんだけど、丸川、なかに入った時はそういうのあったか?」
上原が足を止めて言った。
「あーなるほど。飲みかけなのも空っぽなのもいくつかあったと思うけど、そこまで気がつかなかったや。持ってくればよかったね」
丸川が済まなそうな顔で言う。
「いやいや、あの時はしょうがないさ。ドンマイドンマイ」
上原が再び歩き始める。
「なにか手伝えることある?」
「んー」
上原が俺の顔を見た。
「じゃあペットボトルを放るから集めておいてくれるか?」
俺が言うと、
「わかった!」
丸川は大きくうなずいた。
トラはもうバスの側面にたどり着いていた。泳いで渡ったようだ。
バスは四十五度ほどの角度で傾いていて、窓の下枠に水が届くほど沈んでいる。
トラは窓枠に手を掛けて中を覗き込んだ。
「おーあるある。大漁だぞ、こりゃ」
その拍子にバスがわずかに沈んだ。時間はなさそうだ。
トラもそう思ったのか、頭からバスのなかに入っていった。
俺と上原も窓まで泳ぐ。
「俺が外に出すからそれを隼人は丸川に投げてくれ」
「いや、俺が――」
「いいからいいから」
上原がなかに入った。先に入られてしまった。
上原が窓の近くに陣取り、トラがよこすペットボトルを俺の近くに放り投げてくる。
空っぽのものからほぼ満タンのものまでを、俺は丸川のそばに投げる。
丸川はちょこちょこ走り回ってそれを集めてくれた。
二十数本目を投げた時、バスがまたずるりと沈んだ。
窓が完全に水没する。ヤバい。
「おい! 出てこい!」
俺が叫ぶと遠くから見ているやつらがざわめいた。
すぐに上原が窓から出て来て浮き上がり、顔を拭う。
「トラは!?」
「まだ中に!」
「トラ!」
まだバスの天井部分には空気があるだろう。すぐ溺れたりはない。
そうは思うが強烈な不安が俺を包む。
不意にバスの向こう側――昇降口のある方から水面が跳ねるような音がした。
同時にバスが沈んでいく。
沈むにつれ傾きが大きくなる。草地が裂けたのだ!
完全に水没して傾いたバスから、ごぼりと空気が泡となって上がってくる。
バスが傾きを大きくして向こう側に転がった。水中にある草地の陰に消えていく。
草地の切れ目からバスが完全に落ちると草地が持ち上がり、次の瞬間には俺と上原は草原に横たわっていた。
真っ平らの、そこに水があったとは思えないほどの平原。
そこにトラの姿はない。
俺は愕然として草地を見つめた。
トラは草原の下の水のなかに――。
「トラ!」
俺は気を取り直すと四つん這いで草原を這った。
「どこだ! どこだ!」
気が狂ったように這い回る。あるものを探して。
「あった!」
草地の切れ目。草に隠れてわかりにくいがバスに擦れてわずかに隙間がある。
ちょっと離れたらわからなくなるであろう草地の切れ目を俺は見つけた。
手を突っ込むと細い根だか茎だかに指を突き刺し、力いっぱい持ち上げる。俺の乗った草地がわずかに沈んだ。水が染み出してくる。
上原も気づいて草地を持ち上げる。逆に足元が沈んでいく。
「手伝ってくれ!」
草地は厚い。
少々ずらしても人が通れそうな隙間があかない。
それに固い。
二人では隙間を作れそうになかった。
すでに状況を理解していた者が何人かすぐに駆けつけてくれた。
草地は三十センチほどずらしてやっと空間ができた。まだだ!
いきなりざぶんと水が跳ね、巨体が俺の隣に立った。
エースで四番杉浦!
さっきまではいなかったが戻って来たんだ!
「なにやってんだ!?」
すでにみんなと同じように草地を持ち上げながら杉浦が怒鳴った。
「トラが下に!」
「なにっ――あとで聞く!」
杉浦の腕に太い血管が浮き上がり、筋肉が盛り上がった。ぐっと足元が下がる。三十センチほどの隙間があいた。
「俺がいく!」
上原がしゃがんだ。隙間から入っていくつもりだ。
上原が大きく息を吸い込んだ時、隙間から手が出てきて一瞬どきっとする。
「トラだ!」
俺の声に上原が素早く動き、水中から出てきた手を掴む。
「もうちょっと頑張れ!」
上原の声に隙間が大きくなる。何人かが寄ってきてトラの腕を引っ張る。
体が出てきてトラとはっきりわかった。
しかしヤバい。
トランクスが引っかかってこのままでは脱げてしまう。
そう思った時、誰かの手が伸びてトランクスを掴んだ。マモルだった。ナイス、マモル!
「いいぞ!」
上原の声に力を抜く。指を離すと足元が持ち上がり、水が引いていく。草原に戻った。
「ガハッ! ゲホッ!」
トラが四つん這いで水を吐く。
生きてる。というか意外に元気っぽい。
俺は力が抜けてへなへなと草地にヘタリ込んだ。
上原がトラの背中をぽんぽんと笑いながら叩く。
杉浦はなんでこうなっているのかさっぱりわからない顔でトラを見下ろしている。
女子のうち何人かが安心したのか泣き声をあげた。
一番大泣きしているのは但馬琴子だ。一緒に逃げていたからな。
「ま――」
トラの声に、みんながそちらに視線を向ける。
「満タンゲット」
トラの手には未開封のペットボトルが握られていた。