3 森の中の逃走
森のなかを走る。
暗い。ひどく青臭い。
木の根がぼこぼこと地表を覆い、草は少ない。ところどころにある大きな草の塊はシダ類だろうか。
全体的に湿っていて苔も多く、滑って走りにくい。
いくつかの木の幹は三、四人で抱えてやっとというほどに太かった。
ねじれたような、不気味なシルエットの木が多い。
やっと自分から走り始めた早川の足はひどく遅く、よろよろとしていた。
もう息が上がっている。先行するマモルについていけない。時折マモルが足を止めるくらいだ。
細すぎるからだと思っていたが、早川の荷物に気がついた。
大きめのバッグが膨れ上がっている。二泊の行事になぜこんなに荷物がいるのか。
捨てさせるか。しかしこの先なにがあるかわからない。捨てるのはいざという時でいい。
まだいざという時じゃない――はず。
「持つよ」
俺は走りながら早川のバッグに手をかけた。
早川は、はっと初めて俺の顔を見てバッグのショルダーストラップを強く掴んだ。足を止める。
そりゃあ下着とか入ってるだろうから男に渡すのは嫌だろうけど――と思ったら、足を緩めてストラップを頭から抜こうとするが、持ち上がらないので手伝った。
「ごめんね」
荒い呼吸の合間を縫って小さな声で早川は言った。
俺はバッグを受け取りにっこり笑ったつもりだが、うまくできたかわからない。重かったからだ。
衣類だけじゃないなこりゃ。
背後から気味の悪い奇声が上がった。まだ距離はある。灰緑色の怪物だろう。
喉に絡んだような気持ち悪い声。蛙のような、猛獣のような。
俺は早川のバッグを肩にかけた。マモルが走り、そのあとを追った。
早川はバッグを預かっても遅かった。
呼吸もひどく荒い。
汗で髪が顔に張り付き、形のいい顎の先から雫となって滴り落ちた。
木の根が走るのを邪魔するのもある。割と地面には高低差があり、時折倒木が行く手を邪魔した。よっぽどのスポーツマンでもキツいだろう。
俺も人のことを言えないほど息が上がっていた。上り勾配が続くと視野が狭くなってくる。
「あっ」
俺の先を行く早川が、木の根で足を滑らせて転んだ。
俺が先に行くと置いてけぼりにしてしまう恐れがあるので、早川のあとをついていっているのだ。そのおかげで怪物を引き離せない。
怪物は足が速くないのか、追いつかれることはない。それともゆっくり追跡して俺たちを弱らせようとしているのか。
もしそうならそれは成功している。俺たちの限界は近い。
俺は早川の腕に手をかけた。
早川が転ぶのはこれで何度目だろう。
制服はもう泥だらけで、足からは血が滲んでいる。やけに大きく見える膝小僧からの出血が痛々しい。
顔についた泥を汗が流し、縦縞の模様を作っていた。
はぁはぁと荒い息遣いの早川は立ち上がろうとしなかった。限界か。
背負って逃げるか、それとも――。
「隼人」
マモルが前方から呼びかけてきた。
見ると、シダ植物の大きな藪のそばで手招きしていた。木の根がえぐれてちょっとした窪地になっているようだ。
身を隠せるかもしれない。
「隠れよう」
俺は早川を無理やり立ち上がらせると、細い腕を俺の肩にかけて体を支えた。軽い。
脇腹に手を回し引き寄せる。あまりに細く、骨を抱えているような錯覚を覚える。
マモルが反対側から支えて早川を運んだ。
窪地と思ったのは、太い木の根が又になっているところだった。上からシダ植物が覆っていて、奥に身を隠せば見つかりそうにない。多分に希望的観測だ。
地面は腐った植物や苔、新しい芽などで湿っている。木の根もなんだかぬめる液体で覆われていた。
しかし贅沢を言っている場合じゃない。俺たちはそこに潜り込んで身を寄せあった。
シダ植物の青臭いにおいが鼻をついた。一瞬息がつまる。
苔のにおい。腐った植物と水のにおい。それに、早川のいい匂いが混ざる。
動いていた体を止めて、急に汗が噴き出した。
隣には美少女早川がぴったりくっついている。薄い布地を通して彼女の肋骨がわかるほどだ。
そんな状況でだらだらと汗を流すのは不本意だが、汗を止められるはずもない。呼吸も整わない。
女の子の隣で汗をだらだらと流しながらはあはあと荒い息遣い。普段なら通報レベルだ。あまり嫌われないことを祈るしかない。
そんな早川も汗だらだらではあはあ言ってるんだが。
正常な男子なら陥る妄想の世界から、尻に染み込む冷たい水が引き戻した。気持ち悪い。
背中にも冷たい水が染み込み、俺に現実を思い起こさせた。
呼吸音が聞こえないように大きくゆっくり息をする。
ぺちゃ
足音が聞こえた。たぶん足音。それほど遠くない。
びくんと早川の体が震えた。俺の体も強張る。
俺たちを緊張が包んだ。
耳にありったけの神経を集中させる。どこも見ていないのに大きく目を見開く。
怪物の短く早い呼吸音。時折痰が絡んだような音が混じる。
小枝が折れる音。
近づいてくる。
ふと、足に妙な感覚がするのに気がついた。ズボンに小枝が引っかかったような、そしてそれを引っ張られるような感覚。
嫌な予感を覚えながら目を向けると、予感を上回る嫌なものがそこにあった。
体長三十センチはあろうかというバッタに似た巨大な虫だった。
叫び声を上げそうになるのをかろうじて堪える。
羽根のないずんぐりと丸い胴体に長い後ろ足を持っていた。ゆっくりとぎこちない動きで俺のズボンを登ってくる。
隣で虫に目を止めた早川がびくりと体を震わせる。
叫び声を上げる前に早川の口を手のひらで押さえた。泥だらけだったがこの際仕方がない。
俺は、空いた手の人差し指を口の前で立て、声に出さずにしーっと言った。
早川の体はがくがくと震えていた。
怪物は俺たちの気配を感じたのか、二、三歩素早く動いたのが音でわかる。
すんすんという音は鼻を鳴らしているのか。
においで俺たちを見つけようというのか。
ぺちゃ。ぽき。だんだん近づいてくる。
あ、またなにか別のものが体を這い上ってくる感覚。
早川が体に力を込めたのがわかった。
長い足がたくさんある大きな虫が、早川の生脚にも這っている。マモルの体を這っているのはゴキブリだろうか。十センチ以上あるが。
他にも何匹もの虫が這い出てきた。
早川の目から涙が溢れ、鼻に回った涙が可憐な鼻の穴から出て俺の手を濡らした。そう、これは涙、汚くなんかない。
ゲジゲジのような虫に顔を這われた時にはなんだか達観したような気持ちになった。
早川はまだその域に達していないらしく、時折身悶えている。
怪物は俺たちが身を隠す根の持ち主である大木のすぐそばまで来たようだ。
ごつんとその大木をなにかで殴ったような音がした。棍棒だろう。百合子先生や女生徒の頭を砕いた棍棒。
その棍棒を振り回した動きからすると、怪物たちは体は小さいが怪力だ。
チンパンジーの力もものすごいという。自然の中で生きるものはみな逞しいのだ。
とても素手では敵わないだろう。たとえ武器があっても素人の俺たちでは倒せるかどうか。
見つかったら終わりだ。
俺は覚悟を決めた。
せめてマモルと早川でも逃げられるように、見つかったら怪物にしがみつこう。密着した相手に棍棒を振るうのは難しいだろう。
少なくとも威力は軽減されるはずだ。
怪物が木の根を回ってくる気配。怪物の姿が見えたらすかさず飛びかかるのだ。
怪物の息遣いがすぐそこにある。近づいてくる。
俺は腹に力を込めた――悲鳴が聞こえた。近くではないが、そう遠くでもない。女子のものだ。
男子の喚く声もした。誰かが俺たちのすぐ近くにいるこの怪物を目撃したのだろうか?
すぐ近くまで来ていた怪物が唸り声を上げた。
ごつんと木の根を叩くと奇声を上げながら足音を立てて遠ざかっていく。
――気配が消えた。いなくなったのか?
わからない。罠かもしれない。上手に気配を殺して待ち構えているのだ。
しかし、もういないかもと思うと、うじゃうじゃと蠢くこの虫が耐えられないものになってきた。達観なんてウソだ。
早川の目が、早く解放して欲しい、と訴えてくる。
マモルの目が、まだまだ、と俺を押さえつける。
一分――二分――もうダメだ!
俺たちは窪みから飛び出した。手についた早川の涙が糸を引く。
俺は足踏みしながら狂ったように体にまとわりついた虫を叩き落とした。叫びたいのはなんとか我慢する。
マモルと早川も飛び出してくる。お互いの背中の虫を叩き落とし合う。
早川の小さくて薄いお尻に触れてしまったのは不可抗力だ。だって虫がいたし。
虫を駆除したからといって安心はできない。いつまた怪物が戻ってくるかもわからないからだ。
俺たちは怪物が去って行ったのとは反対の方向に移動した。とはいえ追って来るものがいないのでゆっくりと歩く。
歩きながら俺は、俺たちが助かった悲鳴のことを考えた。俺たちの代わりに怪物に追われているのだろうか。
おかげで俺たちは助かったがなんとも気持ちが悪い。無事でいるといいんだが。
「あ、誰かいるよ」
マモルの声に顔を上げた。
木立を通して何人か同じ制服の姿が見えた。
ほっとする。
少し早足になってそちらへ向かう。一人が俺たちに気づいて手を上げた。俺も手を上げ返す。
ほかの者も気づいて手を振ったりしてくる。
「無事だったか」
最初に気づいた男が笑顔をよこした。
上原史人。校内きっての俊足なのだが、なぜか部活は弓道部。せっかくの足を活かせないものをなぜ選ぶのか。どこか飄々とした男だ。
「一応ね」
俺は苦笑いで返す。
「ひどい格好だな」
「お互い様だろ」
上原たちの服もひどく汚れている。同じように苦労したのだ。
俺たちほどじゃないにしても。
上原以外はみんな疲れきった顔をして倒木に腰掛けていた。
男子ひとりに女子三人。
体力的なものだけではない、わけのわからないモノに追われる恐怖からくる疲労に覆われている。
こんな状態で笑える上原の方が異常なのだ。でも口にはしない。
「俺たち、そろそろバスのところに戻ろうと思うんだけど、お前たちはどうする?」
上原が聞いてくる。
「あー」
どうしよっか。大人数のほうがいいかな。
「僕はちょっと休みたいな」
マモルが倒木の空いたところに腰を下ろした。マモルはそれほど疲れているようには見えない。
「早川さんもおいでよ」
隣のスペースを手のひらで叩く。早川を気遣っているのだ。さすが気配りの男マモル。
早川はこくりとうなずくとマモルの隣に腰を下ろした。深いため息をつく。
「俺たちはしばらく休んでいくよ」
「わかった。じゃあ、またあとでな」
上原は笑顔で言うと、ほかのみんなを促し歩いていった。
俺は早川の横に彼女のバッグを置いた。
「あ、ありがとう」
「気にしないで」
マモルが言った。
「なんでお前が言うんだよ」
俺は笑いながらマモルの隣に腰を下ろした。
ポケットからスマートフォンを取り出し時間を確認する。二時五十四分。
俺は空を見上げた。樹木の葉でほとんど見えない。
「なぁ、時計、合ってると思うか?」
マモルに問いかける。
ここは俺たちが暮らしていた世界とは違う。時計が狂っていることも考えられるだろう。もし思っているより早く日が暮れてしまったら、この森を移動することは困難になる。
「ん? 何時?」
「三時」
マモルは俺たちを覆う木の枝葉を見上げた。
俺の言わんとすることを理解して、ここの時間をわずかな木漏れ日などの自然を目安に計ろうとしているのだ。きっと。
「大体合ってると思うよ」
ほっとした。日暮れにはまだ時間がある。
「一日が二十四時間だったらね」
マモルが真面目な顔で恐ろしいことを言った。一日が二十四時間ではないかもしれない、ということだ。
しかし、見たこともない生き物がいるここで、誰がそんなことはないと言えるだろう。
「どういうこと?」
早川の疑問ももっともだ。だが、正直に話しても不安にさせるだけだろう。狂人認定されるのも避けたい。
「まったく意味がわからないね。さぁ、出発しよう」
俺は立ち上がった。
「え、もう?」
「ごめん、ちょっと急ぎたいんだ」
俺の心にとてつもない不安が渦巻いていく。俺は早川のバッグを肩にかけた。
「ううん、大丈夫。さあ、行こう」
早川は立ち上がるとスカートをはたく。
「ごめんね、重くて」
「全然平気さ」
マモルが言った。
「だからなんでお前が言うんだよ」
そんなやりとりを見て早川が、ふふっと笑った。バスを降りて初めての笑顔かもしれない。