特別調査室にて
一体己が生きるために他人が必要というのはどういう気分なのだろう。
「人間なんて飯を食い糞をして寝てしまえばそれだけで生きてしまえるからね。下手をすると飯が食えなくても点滴だけで生きられたりもするし」
雪は悩ましげに言った。調査室に来るのは遅れてしまったが、いつもの雪がやってくる時間よりは早かった。昨日といい今日といい、めずらしいこともあるものだ。
母はもう口からものを摂っていないらしかった。オートマトンはゼンマイを巻いてもらうのに誰かを必要とするが、母は点滴の栄養剤を必要としていた。己はなんだろう。強いて言うなら金か。山奥ででも生きない限り、生活するにはなにをおいてもまずそれだ。
「ゼンマイを巻く者がいなくなれば自分も動かなくなってしまうのだから、それに対して並々ならぬ思いを抱くのももっともなのでは? 私はオートマトンのことはよく分からないけど」
「私だって深く知っているわけではないですよ。ただ店主と知り合いというだけです」
それが暁人だということは結果的に伏せているが、いずれ知られたときはまた根掘り葉掘り聞かれそうだった。桃は己が来たことを彼に言うだろうか。
「それで? お人形さんを借りる件はどうだった?」
オートマトンを知らないとは言うくせに、己が借りるのかは気になるらしかった。鈴鹿は器用にも、調査室のデスクに一番高く積み上げられた書類の天辺に立ち、これがベルベルの頭があがらないひとなのねえ、もしかしてオートマトンを借りたかったりするのかしら? と好き勝手に言っていた。雪はやはり気づいていなかった。長い夢であることだ。
「結局言い出せずに終わりましたよ」
なるたけ鈴鹿を意識しないようにして言う。店主にも会わずに逃げ帰ってきたのだ。なにしに行ったのだろう。「そりゃまたどうして」と当然のように問われる。「あれを自分のために使うのは忍びない」
「オートマトンはそうやって生きるのに?」
そうやって生きざるを得ないとも言えるわね。
「母の死を待つのがつらいから付き合ってくれなどと、いくら人形とはいえ」
ゼンマイを巻けばよろこんで付き合うでしょうね、そういうものよ。
「ただの人形だろう、生きているわけじゃない。……いや生きているとは使うが、実際のところゼンマイで動いているだけだ」
生きることは人間だけの特権かしら?
「生きているように見えますよ、私は」
そう見えるだけなの? やっぱりベルベルも生きてないって思う?
「ならひとりで待つのかい。いつ終わるとも知れぬ日々を」
それに関してはギブアンドテイクな関係よね。あたしたちはゼンマイを巻いてくれるひとがいて動いていられるし、ベルベルはひとりじゃなくてすこし心が安まる。
「私はあいつらのゼンマイを巻きたくないんです。命を握っているようで。心臓を握って慰めを求めるほど酷いことはないでしょう」
心臓じゃなくてそれを動かす鍵だけどね! 同じことかしら?
「人形と人間が平等な関係が築けるものか」
これはお雪さんが正しいわねえ、その通りだわ。
「それでも、あいつらは私たちと同じ姿をしているんですよ」
ベルベルがそう言ってくれるのはうれしいわね。
「同じなものか。現に飯も食えない」
食べられたら楽しいでしょうねえ。
「食えるようになったら?」
うれしいわあ! お腹いっぱい食べてみたい!
「涙も流せない」
あたしだって泣きたいときくらいあるわよ。泣きたいならもう泣いているのと同じよね?
「流れるようになったら?」
もっとかわいくなっちゃんじゃないかしら。どうしましょう。
「血だって流れていない」
血が流れていないなら生きていないの?
「流れるようになったら?」
ちょっと気になるわねえ。でも痛いのはいやよ!
「それは人形といえるのか?」
そもそも、おっきいとはいえゼンマイで人形がこんなように動くかしら?
「いまはまだ」
ほんとにゼンマイで動いてるのかしらねえ?
「いまはまだ、ただゼンマイで動く人形だろ?」
時計じゃないんだから。
「うるさい鈴鹿! 口を挟むな!」
合いの手のように挟まれるかわいらしい声に耐えがたくなって、思わずふたつのこぶしをデスクに叩きつけ叫んでいた。鈴鹿の乗っていた書類の山がバサバサと崩れ落ちる。鈴鹿はふわりと床に着地すると雪の後ろに回った。
あーあもう、びっくりしてるわよこのひと、どうするのこれ、あたし知らないわよ、と首を振る。
「誰のせいだと思っているんだ!」
あたしのせいかしら? どうする? オートマトンの幽霊を見てるんですって言う?
「言うわけないだろう。死者は語らない」
あたしが生きていたとするならそうなんでしょうね。
「生きてたんじゃなかったのか」
だって死んだら喋らないんでしょう? あたしは一体なんなんでしょうね?
「ただの俺の夢だろう」
ふふふ、そうだといいわねえ、よくないかしら? まああたしにとっては関係ないけれど。
鈴鹿は手を振って、パッと雪の後ろに隠れるようにしゃがみ、そのまま消えたらしかった。己は眉を寄せてそれを見ている。ようやく雪に焦点を合わせると上司は固まっていた。鈴鹿を見ていたとはいえ、雪を睨んでいたことには変わりがない。弁明のしようがなかった。
「オカルトベルトラン」
と怯えきった雪はふるえる声で言った。