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有幻人形奇譚  作者: 宮丹桂
子羊たちの行方(前)
8/27

燕居の宿にて

 深い藍色の店だった。藍に塗られた木枠の硝子戸から中を見やる。店内はまだ暗く、ひとがいるかは分からない。朝飯は済ませてきたとはいえ、この店にとっては早すぎる来訪だった。店主はまだ二階のベッドの中だろう。


 硝子戸から張り出し窓の方へとずれる。

 窓の中では、ひとりの子どもが眠っている。ヘッドドレスはたっぷりのレースで飾り付けられており、その顔はレースで縁取られているようだった。頬はバラ色で愛らしく、伏せられた長い睫毛はいまにもパチリと起き上がりそうだ。

 それほどまでに、そこには生があるようだった。だがそんな日はいつまでも来ないことを知っていた。

 その人形はずいぶん前に背中のゼンマイが切れて、もう動かなくなったオートマトンだった。ゼンマイで動くそれらは、ゼンマイが切れるとその命を失うのだ。たとえゼンマイを取り替えたところで、その人形には新しい意識が宿るだけだった。店主はこの子どもの姿をした人形に関しては、ゼンマイを取り替えることをしなかった。

 窓の中には腐ることのない死体が眠っている。オートマトンと人間の区別はつかないが、死んだあとは分かりやすいものだ。


 ちゃんとあたしの名前覚えてる?


 鈴を転がしたような愛くるしい声が聞こえてくる。まん丸とした大きな瞳が硝子越しに己を見ていた。


「鈴鹿」


 と名を呼べば、それは満足げににっこりと笑う。よろしい、と鈴鹿は立ち上がって、フリルのあしらわれたスカートを見せつけるように、その場でくるりと回った。埃を落とすようにスカートを払い、また張り出し窓の椅子に腰を下ろし足を組む。上に乗せられた方の足先が、規則正しいリズムを取って揺れている。


 あたしとおしゃべりしちゃうなんて相当参ってるわね、ベルベルは。


 肘掛けに肘をつき、紅色に色づいた頬を手のひらで覆ってその人形は言った。もう片方では指先でブロンドの髪をくるくると巻いている。ゼンマイの切れた人形は、その動力がなくなってしまったのだからもはや動かない。鈴鹿のゼンマイはとうの昔に切れていた。己はなにを見ているのだろう。


 あんまり驚いてなさそうね、つまんない。

「今日はよく眠れなかったからな」

 夢だと思ってるの? 

「そんなもんだろう」

 動かなくなった人形も動き出す? 

「あるいは。あるいはそういうこともあるだろう。ここは〈東京〉だから」

 そうやってなんでもかんでも〈東京〉のせいにするのはよくないと思うの。

「俺もそう思うが、いちいち考えていたら切りがない。ここは不思議なことが多すぎる」

 めんどくさがりなのねえ。

「こればかりは治らないものだ」

 ふふ、あのねえ、ベルベルにだけ特別に教えてあげるけど、オートマトンは死ぬと夢の世界に行くのよ。

「そうなのか。ここは夢の中か」

 信じちゃった? ベルベルも死んでみたら分かるかも。

「いまのところその予定はないな。もうすこし待ってくれないか」

 あら、もうすこしなの? 

「さあなあ。俺はいつ死ぬんだろうな」

 いつだって死ねるわ。死ぬなんていつでもできる。いますぐにでも。

「そのつもりはないぞ」

 ならもうすこしじゃないんじゃない? 

「絶対とは言い切れないだろう。いきなり事故で死ぬかも」

 そうなったら悲しいわね。

「死んだやつに悼まれるとはおもしろい話だ」

 夢の世界に行っただけよ、死んでないわ。

「そんなことを言ったらいつまでも経っても死ねないだろう」

 死にたいひとなんていないでしょう? いいじゃない、あたしはこっち側に来ただけ。

「死にたいやつはいるとは思うがな。まあお前が死んでないって言うならお前はそうなんだろう、そっちは楽しいか」

 なかなか快適。行きたいところにも行けるし。

「こんなふうに?」

 そう。知りたいことはなんだって知れる。

「またその話か。ずいぶん長く寝ぼけてるな」

 しっかり起きてるって、自分でも分かってるでしょう? 

「それはそうだが。だが俺の知らんことは知らんだろう」

 そんなことないわよ、あなたのお母さんの名前だってちゃんと知ってるんだから。この界隈では有名なのよ、あのひと。

「俺はそんなに母の名前が気になるのか」

 母親だもの、気になるでしょう。

「知ったってなんにもならない。それにあのひとは教えたがっていないのだから、悪いだろう」

 それでも。なんにもならなくても、それでもそうしたいときはあるでしょう? 相手が傷つくと分かっていても、それでもそうしたいときもあるでしょう? 

「いまじゃない」

 頑固ねえ。

「よく分かったな、俺は頑固なんだ」

 ほんとにねえ。でもここには来たのよね。

「来ちまったな。だが来ただけだ。久々にお前たちの顔が見たくなっただけだよ」

 でもオートマトンを借りたいって思っちゃったのは変えられないでしょう。別にいけないことじゃないわ。

「俺が言わせているようだ」

 そんなことないのに。誰だってつらいのはなんとかしたいもの。あたしたちはただ寄り添うことしかできないけれど。

「それで救われることもある」

 でもどんなに人間に似ていたって所詮はただの人形だわ。

「ただの人形ならそばにいられない」

 ただの人形じゃないからずっとそばに置いてくれないのかも。

「まだ思い出すか」

 もちろん。最初で最後のご主人だもの。どうして首なんか吊って死んじゃったのかしら! 

「死人に口なしだな。それともそっち側にいるのかな」

 人間はいないわ。あたしが見つけられていないだけなんだわ、きっとね。

「早く会えるといい」

 それでまた首でブランコされても困るもの。

「お前はこんなにかわいらしいのに」

 もっと言ってくれてもよくってよ。でも本当は分かってるんだわ。人形で安らぎを得るなんて、こんなむなしいことはない。

「人間と変わらんだろうに」

 だからでしょう。どこもかしもこ変わらないから、余計に人形であることが気になっちゃうんだわ! 小さいときは人形とお友だちにだってなれたのに、大きくなるって不便よねえ。人形に頼ってると死にたくなっちゃうんだから。

「俺も少し気恥ずかしいよ」

 いいじゃない、童心に返ることも大事だわ。

「この動機は童心にはむずかしいだろうが」

 あら、ちっちゃい子にはちっちゃい子の世界があるんだから、舐めちゃダメよ。

「それもそうだな。悪かった」

 分かればよろしい。……あ、誰か下りてくるみたいね。桃兄かしら。暁人じゃ早すぎるわね。

「兄貴になったのか、知らなかった」

 桃姉ったら最近はお兄さん呼びにはまってるみたいね。じゃああたしは寝たふりをするから、おやすみなさい。

「おやすみ鈴鹿」


 己のまばたきの合間に鈴鹿はもとの動かぬ人形に戻ったらしかった。ころころと変えていた表情も消え、ただ安らかな寝顔があるだけだ。夢にしてはよくできていた。起きながら見る夢もあるだろう。ここは〈東京〉だ。夢くらいなに食わぬ顔で歩いている。それにしても困った夢だった。だが鈴鹿の言うとおり店の奥から階段を下りてくる音がする。己でも気づかぬうちに聞こえていたのかもしれない。そうすると兄呼びというのはなんであろう。そんなことを己は知らないはずだ。


 店の暗がりから見知った顔が出てくる。窓を軽くノックすると目が合った。少し遅れて、それはギョッとしたような顔になる。慌てた様子で扉を開いてくれたので体を滑り込ませた。外よりはあたたかいが、コートを脱ぎたくなるほどではない。


「寒かったでしょう。いつから?」


 とそれは聞いた。襟付きの白いシャツに、チェックのズボンをサスペンダーで留めている。よく見れば緑がかっている黒髪を、低い位置でひとつの団子にまとめている。桃と呼ばれるオートマトンだった。


「ちょっと早く来すぎたとは思ったが、まあ鈴鹿と話をしていた」と返せば桃はやわらかく笑って、「あの子もよろこんだでしょう」と眠る鈴鹿を見る。店内からは、通りを向いている鈴鹿の顔は窺えない。もしかすると舌でも出しているかもしれなかった。同じ店の人形は兄弟のような感覚らしく、桃が一番上にあたるらしい。長女か長男かは気分次第のようだが。人形に性別などというものはない。


 暁人の営むオートマトンの店は「燕居の宿」といって、奥に長い作りになっている二階建ての建物だった。店に入ると両側の壁際に、硝子ケースがそれぞれ鎮座している。片方には、玩具に使うものよりは大きい、精巧な作りをしたゼンマイを巻く、巻き鍵の羽根が様々並んでいた。もう片方にはハドル式のゼンマイ巻き機がいくつか並んでいる。こちらは大型のオルゴールを巻くときなどに使われるらしかったが、いずれにせよこれでオートマトンのゼンマイを巻くのだ。


 ふたつの硝子ケースの間を通ると、よく足を滑らせる数段の段差がある。降りた脇に電話台があって、来客用のソファと低いテーブルが中央に置かれていた。そして一番奥の階段を使えば二階にあげることができる。店主の暁人は二階で生活をしていた。


「暁人はまだ寝ていますけれど、起こしましょうか?」


 と己にソファを勧めた桃は言った。やはり店主はまだ寝ているらしい。陽はまだ高くないが、起きるにしては遅い時間だった。


「いや、機嫌が悪くなったら桃も困るだろう」


 母と暁人の寝起きの悪さは競えるほどだった。どちらも目が覚めるまで放っておくに限る。自分から起こすなどもってのほかだ。


「いつものことです」

「それもそうか」と密やかに笑い合う。

「久々に来たな」

「驚きましたよ。お茶でも?」

「暁人が起きる前に帰ろうとは思っているが」

「それなら尚更。酷い日なら昼食もいけますね」


 と桃は二階に戻っていった。ズボンの裾が見えなくなると、鈴鹿は窓辺から己を振り返って、あたしもお茶飲んでみたい! と叫んだ。己も寝ぼけている。


「寝たんじゃなかったのか」


 鈴鹿は肘掛けに腰を下ろし、器用にバランスを取っている。お行儀が悪いな、と言えば死んでるんだから関係ないわ! と一蹴された。


 私もご飯を食べてみたい、いいなあ。


 鈴鹿は片頬をふくらませられたのならそうしていたにちがいない。オートマトンは肺など持っていないから息はできないし、頬をふくらませることもできないのだ。


「猫をも殺すんじゃないか」どこぞのことわざを引っ張ってくるが、残念なことに滅ぶ身はないわ、と殊勝な顔をして鈴鹿は言った。

「死んでしまえば便利なものだ」


 盆を持って下りてきた桃は「なにか仰いました?」と己にカップを渡して訊いた。透き通る若葉色の茶が浅いカップに注がれていて美しかった。香りもいい。桃の入れる茶は好きだった。「独り言だよ」と一口啜る。まちがってはいないだろう。寝言も独り言のようなものだ。


 桃は店主の座る席に腰を下ろした。代理のようですね、と急須をテーブルに載せ、盆を脇へ寄せる。


「なにかあったんですか?」


 と早速本題に入られる。なにもないからここに来たのだ、とも言えなかった。母がいつ死ぬとも分からないから人形に慰めてもらおうと思ったのだ、と言ってしまえればそれでいいだろうが、せめて違う言葉にしたかった。喉につかえたそれをどうするべきか悩み、そして桃は見過ごしてはくれない。


「やはり暁人を呼んできましょうか」


 腰を浮かす桃を手で制す。それだけは厭だった。桃はそれでも立ち上がって、暁人を呼ぶ代わりに己の隣に移ってくる。


「深瀬さんに相談事をされたら暁人もよろこぶと思いますけれど」


 オートマトンはそうやって相手にとって望ましいようなことを囁くのだ。そしてなにより、それは紛れもなく善意で、混じりのないやさしさだった。客は金を払ってそのやさしさを借りるのだ。首を吊りたくなる気持ちも分からなくはなかった。金を払ってやさしくされてもむなしくなるだけだろう。


「よろこぶようなものじゃない」と形ばかりに否定する。同情されたくて来たようだった。実際そうだろう。己はなにをしに来たのだ。

「それでも深瀬さんはここに来たのでしょう」

「どうかしていた」

「どうもしていません」と桃はきっぱりと否定した。動かなくなったオートマトンが動き出しているのに「どうして分かる」

「どうかしていたならここには来ない」ならなぜ鈴鹿は動いているんだなどとは訊けなかった。

 思い切って桃兄に相談してみれば? あたしのこと。


 鈴鹿は、桃の退いた店主のソファで膝を抱え、体を前後に揺すって言った。起き上がり小法師のように見えなくもなかった。窓の方を見れば鈴鹿はそこで寝ている。だが目の前には同じ人形がソファで遊んでいた。


「どうかしてるよ」と呟いている。

「そんなことはありません。ここはどうにかなる前にどうにかするために来る場所ですから。うまくいかないひとも、それこそ多いですけどね」


 鈴鹿はソファの肘掛けを枕にして己をにこにこと眺めている。


 あたしが見えてるからってベルベルがうまくいってないわけじゃないわよ! そこは保証してあげるわ。


「うまくいかないものだ」と目を覆って俯いた。耳はむずかしいが目を塞ぐのは簡単だ。「何事もうまくいかないものですよ」と桃は背中をさすってくる。その気遣いが苦しかった。


 しかし両手でさすってくるのも妙だ。すこし考えて余計に落ち込む。気のせいだと思いたかった。


 よしよしベルベル、つらいわねえ。


 耳元で鈴鹿の声がして、思わず盛大に息を吐いている。悪夢だ。桃は笑っていた。「大事なことは言葉にしにくいものでしょう」


 桃兄はちょっとズレてるのよねー。


 ズレているのはお前だと言い返したい気を堪える。


「厭になる」

「そのためのわたしたちです」

 あたしはもうお役御免したから好きに生きるわ、と鈴鹿が言っている。

「お前たちにも心があるのに」


 店から借りるだけだ。買うわけではないが、それでも金を払って借りることに変わりはなかった。そしてまた払う先は人形ではなくその持ち主だ。オートマトンはただの人形だ。だがそれでも人間だった。


「そう見えますか」と問う姿が全てだ。人形がそんなことを問うだろうか。「俺たちと変わらない」

「わたしたちはゼンマイで動いているただの人形ですよ。あなたとお茶もできない」

「それでもひとの形をしている」

「人形ですからね。それに、誰かに巻いてもらわなければ動けない。自分でゼンマイを巻くことはできない。あなたは私の背中を見るべきです」


 桃は背中に腕を回し首筋のファスナーに指をかけた。ゆっくりとつっかえないように背中の中程まで下ろし、己に背を向ける。ファスナーが開かれると、背中の肌の中心に丸い鍵穴がぽっかりと空いているのが見える。人間のそれと似せた肌に、機械の穴が空いている様は奇妙だった。この下にゼンマイがあり、そしてこの穴に鍵を通してゼンマイを巻くのだ。


「自分だけで生きられないからといって尽くす必要があるか?」ファスナーをあげて桃と向き直る。店主に見つかりでもしたら大変だ。「わたしは望んで暁人といますよ」

「他のオートマトンは」

「望まれて目覚めたとき、すでにゼンマイは巻かれているんですよ。望まれなければ巻かれなかった。わたしたちは望まれなければ生きられない。人形なんですからね」とひとの形をしたそれは言った。


 桃兄はけっこう長生きだし頭が固いのよねえ。その辺はベルベルと一緒ね、だから仲がいいのかしら。


 今度は階段に腰掛けていた鈴鹿は呆れ顔だった。寝ているのだか起きているのだか分からない。


「暁人がお前を望んだのか」と思わず問うてから言っている意味に気がついて顔をしかめた。桃はその意を汲んで、「深瀬さんに妬かれるとは光栄です」と破顔した。「そういう意味ではなかったが」


 とは言っても口にしてしまえばもう遅い。脱力してソファにもたれこんだ。

 この店のオートマトンは何体か知っていたが、桃は唯一貸し出されることのない暁人自身のオートマトンだった。


「わたしは捨てられたんです。用済みになって、こわくなって逃げ出した先で暁人に出会いました。ゼンマイが伸びきる前にわたしの巻き鍵をあのひとに渡しましたが、まさか巻いてくれるとは思わなかった。目が覚めるとは思わなかった。だからわたしはあのひとのために生きたいと思うし、あのひとにゼンマイを巻いてほしい。他のオートマトンだってそうですよ。ゼンマイが伸びてくると、いつだって明日はちゃんとゼンマイを巻いてくれるんだろうかと思うんです。わたしたちはそれに感謝しているだけです」


 それはただ明日への恐れから来ているだけではないのかと言える者がいるだろうか。それを利用しているのは人間だった。階段の鈴鹿を見た。鈴鹿は頷いた。


 分かってるわよ、あたしのご主人だって結局お人形のご主人様だったんだもの。でもあたしたちは人形なのよ。いいじゃない、これでね。


 鈴鹿への視線に気づいて桃は続けた。二階の暁人を見ていると思ったに違いなかった。「だからあなたの力になることはあのひとのためでもあります。わたしの話をしてしまいました。やはり暁人を起こしましょう」

立ち上がった桃を引き留めて、己は別れの挨拶もそこそこに店を出た。鈴鹿はついてきているような気がした。


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