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有幻人形奇譚  作者: 宮丹桂
子羊たちの行方(前)
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病室/自室にて



 帰りがけ母に顔を見せて、もしくは母の顔を見にいくと母は寝ていた。いっとき、これで終わりかと安堵ともとれるものが胸をよぎった。それはあまりに不意だった。考えたこともなかった。戸を開けた手がふるえた。


 たしかめるべきだ。


 確かめるべきだと思いながら一度戸を閉める。終わってしまえば確かめるもなにもない。終わってしまったのだから。死んでいることを確かめたところで生き返るわけではない。だがたしかめるべきだ。


 廊下にはいつものように誰もいない。この病院と思しき建物はいつ来ても無人だった。エントランスは明かりもなく薄暗い。エレベーターは、母の病室のある階以外には止まらない。一度確かめたが、母の病室以外は鍵が閉められていて入れなかった。ひとの気配はした。物音もする。誰かはいるはずなのだ。ここは本当に病院なんだろうかと思う。だがいまはそれを確かめるときではない。確かめるべきものは母の病室の中だ。ほかにはない。


 たしかめるべきだ。

 死んでいたらおしまいだ、なにもかも、母に会うこの毎日も。

 どうする、どうするべきだ。

 死んでいたらどうするもなにもない。

 終わっている。


「どうしました?」


 息を忘れた。

 振り返ると自分よりも少し背の低い背広姿の男あるいは女が、夕日を浴びてにこやかに立っている。長くもなければ短くもない、中途半端に伸びた髪型をしていた。この病院で母以外の誰かと出くわすのは初めてだった。あまりに驚いて言葉が出ない。言葉も忘れてしまった。息をすることは思い出していた。


「息子さんですよね?」


 と問われたのでぎこちなく頷く。相手がまた口を開こうとしたときだった。


「なにをしている」


 と病室のドアが開いて、険相な母が出てくる。己と相手の間に割り込むようにして「こいつには構うなと言っただろう」と低い声ですごんだ。これほどまでに棘のある言い方は初めて聞いた。母はこいつを知っているし、こいつは母を知っているのだ。母の名も知っているだろうか? 


「いつまでも病室に入らないものですから、心配になって。失礼しました。では」と最後までその笑みを絶やさずに彼あるいは彼女は去って行った。あっという間だった。一言も話す暇もない。

「いまのは?」と乾いた口で問い掛けると「トリュフ」と母は言った。


「うまそうだ」

「名前だけはな」


 点滴の下がったスタンドを引いて、母はゆっくりとベッドに戻る。深いため息と共に横になった。寝起きということもあって機嫌が悪い。


「油断も隙もない。ベル、今日はもう帰れ。私は寝る」


 母は己を追い払うように、点滴の刺さった腕を振りさっさと目蓋を閉じた。もうなにを言われても返事をするつもりはないぞと言っていた。要するにトリュフについて話す気はないということだ。機嫌がいいときにでも聞けばすこしは教えてくれるだろうか。いつまでも寝たふりをさせるのは悪いから、追い払われるまま病室をあとにした。あとで、と先延ばしにできると思っている。


 エレベーターを降りてエントランスに出る。受付のようなデスクがあるところを見ると、確かに病院にいるような気もする。その脇にトリュフが立っていた。やはりひとのよさそうな顔をしている。


「追い出されてしまいましたか、すみません」

「寝起きの機嫌がさらに悪くなっただけですよ」とだけ返し通り過ぎる。

「私のことは聞かなくてもいいんですか?」


 と背中に餌を投げてきた。母の言葉を信じれば、食いついたところでうまくはないのだろう。それでも餌は餌だった。魚の前に餌を垂らせば食いつくものだ。


「聞いて教えてくれるとも思いませんが」

「そんなことはないですよ。あなたの知りたいことはなんでもお答えしますとも」


 なんでも? 


「母に口止めされているのでは?」

「ここにあの方はいないでしょう?」


 なんでもと言ったか? 


「俺は嘘がうまくない。すぐに知れる」

「それでも知りたくはないですか? たとえば、あの方の名前とか」とトリュフは首を傾げた。胸焼けのしそうな笑みだった。

「知っているのか」

「我々の呼び名ではありますが。名前なんてそんなものでしょう?」

「我々?」

「我々です」

「ただで教えてくれるとも」

「相互援助というものですね」

「金はないぞ。生きるので精一杯だ」

「存じ上げています。しかしお金ではどうにもならないものもある」

「なにが欲しい」

「やはり知りたい?」

「知ったところで」


 勢いに任せて吐き出しそうになるが堪えてしまった。しかし堪えたところでなんになろう。言っても言わなくても変わらない。首を振った。


「知ったところで母は死ぬ」


 自分に言い聞かせるように言った。母は死ぬのだ。これは変わらない。


 ご用のときはこちらに、と折られたメモ用紙を手の中に押しつけられた。その場で捨てることもできた。己にはできなかった。逃げるように病院を出る。

 母の名を知りたくはないか。後ろ髪を引かれた。知ってどうする。あなたの知りたいことはなんでも。トリュフの言葉を反芻して帰路につく。あなたの知りたいことはなんでも。なんでもか。


 そんなことがあるものか。


 部屋に帰ると、もうとっぷり日は暮れていた。ゆるくなった鍵穴に、入りにくい鍵を差し込んでドアを開ける。こじ開けているような気分になる。中にはなにもないのに。部屋は真っ暗で、かろうじて窓から外の明かりがぼんやりと室内を照らしていた。電気をつける気力もなく布団を敷き、よれたコートを脱ぎもせずそのまま寝転がった。毛布をかぶる気力もなく、木目の見える天井を眺めている。暗くてはっきりしない。


 そう遠くないうちに、己は眠ったまま起きはしない母を見ることになるのだ。今日ではなかった。明日でもないだろう。


 本当に?

 明日がそうなのではないだろうか?

 そうだろうか?

 いつだ、いつになる。

 いつまで続く。


 いつまで続くのだろうと思ってしまったのは否定しようがなかった。待つだけというのはつらいものだね、と部屋の隅から雪の声が聞こえる。母の名を知ろうと、行き着くところは母の死以外にはない。いつとも知れぬそれを己はここでひとりで待つのか。


 ひとりで。

 たったひとりで。

 ひとりはさみしいだろう。

 さみしいのか、己は。

 これはさみしさなのだろうか。

 なんなのだろう。

 あなたの知りたいことはなんでも。


「知りたいことなどなにもない」


 それは嘘だ。


 一番知りたいことはなんだ。母はいつ死ぬ。そんなことは誰にも分からない。たとえここが、全てがある〈東京〉だろうとも、母の死ぬ日を探すことなどできはしない。そんなことはない。母が死ねば、その日が母が死ぬ日だ。いまは分からないだけだ。そんなものはただの言葉遊びだ。できることはただここでひとりで待つだけだ。ひとりで。ひとりはさみしいだろう。


 さみしいのか。

 つらいのか。

 くるしいのか。

 永遠の喪失。だがここは〈東京〉だ。死者すら。死者すら見つけられるというのか、己に。

 探したいのか。

 死者を探してなんになろう。

 生き返るわけでもないだろう。

 母はまだ死んでいない。だがいつかは。いつかは。

 そこで思考は途切れた。


 明け方、寒さに目を覚ました。体は冷え切っていたが、日の出の薄明かりで多少は気が晴れた。会いに行くだけだと言い聞かせて立ち上がる。布団を畳む気も起こらない。黴が生えるなら生えるがいい。もうどうでもよかった。疲れている。


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