病室にて
オカルトベルトランと同僚に呼ばれ出したのはいつだっただろう。雪に声をかけられるまで、そう時間はかからなかったはずだ。
「死んだ恋人が生きて戻ってきたとか、同じ顔をした兄がふたりに増えたとか、隣人が住んでいると思っていた部屋が空き家だったとか、エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ……お前はつくづく妙なものに縁があるな?」
母は己が関わってきた奇妙な事件を指折り数えて言った。誰も取り合わず埃の積もっていたものを掘り返して調べただけだ。だがひとが生きている限り、埃は積もるものだった。そして己と気まぐれな上司で片付けるには、〈東京〉には埃の被った謎が多すぎる。
「おかげで妙なところで妙な上司を持つことになりました」
「まあ早々ない経験だろう。せいぜい楽しむがいいさ」
「楽しくて仕方がないですよ。昨日なんか人魂探しだ。お雪さんは私が虫網を持っているのをおもしろがっていましたけど、結局見つからなかった。笑われ損です」
「しかしここは〈東京〉だろう息子よ、探し出せればあるだろう。まあ、網で捕まえられるとも思えんが」と母も口の端を軽く持ち上げた。こんなことなら用の済んだ虫網を持ってきてもよかった。「どうでしょう? 死人すら見つかりますか、ここは」
「人魂は死人とは違うだろう。魂だぞ魂」母はスケッチブックから鉛筆を離し、その先端を向けてくる。丸くなった黒鉛がつややかに光っていた。
「変わりありますか?」
「私たちもそれを持っているのではないか?」
「死んだら抜け出る?」
「あるいは」と母は目を細める。
「死んだ者の魂なのだから、死人と変わりはないのでは?」
「生きているやつのものかもしれないし、もしかすると生まれる前のものかもしれない。死んで魂が抜け出たとして、じゃあ何故死んだのにそんなものがある、死んでいるのに。心と体は別物か?」
「心は魂ですか?」
「どう思う」
「……あなたは?」と咄嗟に母に返すと、母は笑い出した。
「お前のよくないところはそこだな、お前の話が聞きたいものだ」
「すみません」
「もっとも、あとは死ぬばかりの人間がこんな言葉遊びをしたところでな。ただで死ぬ気はないが、死んだらどうなるのだろうなあ? ……ハハハ! ほら見ろ、すごい顔をしているぞ。ああもうこの話はやめだやめ。やめておこう」
苦虫を噛み潰したような己の顔に、母はだいぶ満足したらしかった。手元のスケッチブックを黒くすることに戻る。ちょうど見えない程度に傾いていたし、己としても覗き込みたくはなかった。だが自身の死を手慰みのようにするのはやめてほしいものだった。
「そうだ、お雪さんがあなたに会いたいと」それを聞いて母は片眉をあげる。
「お前の上司か。私に用はない。断っておけ」
「そう言うと思いました」案の定だった。雪の不服そうな顔が目に浮かぶ。
「そもそも面会はお前以外来られないしな。ここにいるのを知っているのは息子のお前だけだ」
「息子ですか」
「息子だろう、違うのか? 実は娘だったか? そういうこともあるか。どっちでも構わんが」
「息子ですよ。あなたがそう言うのなら息子なんでしょうね」
「それだそれ。私はお前の思うところが聞きたいものだがな?」
「私もそう思っていますよ、確かに」
「私はあなたの息子だ」と己に言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「それならそれで構わないだろう。お互いそれでいいならそれでいい。それだけだ。ほかにはなにもいらない。なにか必要か?」
「あなたの名前もいらない」
「それが気になるか。私はお前の母親で、お前は私の息子だというのでは不満か?」
「あなたに不満を持ったことはないですよ」そう言い切れるのかとも思うが、すぐに浮かんではこなかったからないのだろう。
「めずらしくおべっかを使うな。名前が欲しければ自分で付けろ、私はなんでもいいぞ。いっそ父親になったっていい。親をやめるのもありだろう。姉でもいいし兄でもいい。どうせ私は変わらないからな」
「母を父親にはしたくないですし、母親の名付け親にはなりたくないものです。まして母を親でなくすなど」
「そうか、残念だ。まあ上司には病院が厳しいとでも言っておけばいい。家族以外面会禁止だとかなんとか言えば角も立つまい。まさかとは思うがここの場所は言ってないだろうな?」
「ええ、まだなにも」
「来たところで入れはしないだろうが。忌ま忌ましいものだな」
「一体ここはなんなんですか? ひとはあなた以外いないし、地図にすらなにも書いていない。本当に病院なんですか?」
「別になんだっていいだろう? 私はここに入院していて、ここで死ぬ予定だ。それ以外になにがいる?」
「そう言われるとどうでもいい気がしてきます」
お前の話が聞きたいものだとは言うが、それはけして母の内側を見せてくれるわけではないのだ。いつもそうだった。だがそれが不満かと言われるとそうでもない。知られたくないのなら知りたくはない。それが知りたい気持ちを打ち消してくれたらよいのにと思う。
「どうせじきに死ぬんだ。お前は私が居なくなったあとのことだけを考えていればいい。さすがの〈東京〉でも死者は見つからないだろうからな」
「死者が含まれないのなら全てにはならないのでは?」
「さてな? あるいは。あるいは見つけた者もいるかもしれないが。私が死んだら探してみるか?」「どう探せばいいんでしょうね。どこにもいないひとを探すなど」
「それも含めて探さなくては。だがここは〈東京〉だ。必ずどこかにいる。きっとね。やりがいがありそうなものだな」
「……あなたは? どうしてここに? やっぱり探し物があるんですか? もう見つかった?」
パタン、と母はスケッチブックを閉じた。いつものように黒くなった手をタオルで拭い、鋭い眼光を向けてくる。「お前がそんなことに興味を持つとは驚きだよ」
ひやりとした。分かっていた。それは拒絶だった。
「お雪さんに聞かれたものですから」といいわけめいた言葉を並べても、言ってしまったことは変わらない。
「好奇心は移っていけないな。一度気になると止められない。お前は欲のすくない人間だと思っていたが」
「すみません」
「なにも謝ることはない」だがもうこの話はしないぞ、とでも来るかと身構えていたが、そうではなかった。母は気が抜けたようなため息を落とし、「そうだな、私もまだ見つかっていない。死ぬまで見つからないだろう」と漏らす。
「なにかできることがあれば」と思わず返していたが、母は首を振った。そういうひとだった。そういうひとなのだ。
「そう傷ついた顔をするな。これは私にしか見つけられない、そういうものだ。そういうこともある」
「一体なんですか、それは?」
「私のことはいい。それよりもお前だろう。お前はどうしてここにいる? たまたまここに生まれついたからか? たまたま拾われたか? ここにいてなにも思わないか? 己の望むものがなんなのか? 己が探し求めるものが? 喉から手が出るほど探し求めるものが? どうだ?」
「私は……そこまでして欲しいものなどないですよ」
「そのわりに浮かない顔だがな。ははは、そのでかい図体で宿題とはかわいいものだ。欲を持たねば掴み損ねるぞ」
なにをとは問えなかった。 それは母に尋ねるものではないことくらいは分かっていた。