特別調査室にて
雪はデスクに置いたふたつのマグを開くように左右に押しのけ、五本の指先と指先をぴたりと合わせて己に訊いた。左の薬指にはいつも銀の指輪がはまっていて、鈍く光っていた。
「体調は?」
「悪くはないです」
「よくはない」
間髪を入れずに言い換えられて厭になる。なによりそれは正しかった。規則的に落ちる点滴のしずくが脳裏をよぎる。
「よく知りませんが、そういうことになります」
「おや知らない」
厭な声音だ。ゆっくりと丁寧に心を逆撫でされているような気分だった。厭になる。ただでさえ疲れているのに。慣れたとは思っても、疲れていることに変わりはない。
「聞いてもはぐらかすんですよ」
「看護師はなんて?」
人差し指だけが開いた。そして閉じる。そしてまた開いて、閉じた。視線に気づいたのか、雪の動きが止まった。促すような瞳に気づく。諦めて口を開く。
「実は医者にも看護師にも会ったことがないんです。病院はいつもひとがいなくて、母の病室に母がひとりいるだけで」
「そんなおかしな病院があってたまるか」
その通りだ。しかし実際そうなのだから仕方がない。あの母がそれを選んだのだ、おそらくは。
「ちゃんと点滴だって打ってるんですよ。医者は見ませんが。母自身は長くはないとだけ。あの母が言うんだからそうなんでしょう」
「あの母ね」
言い終わらないうちに言葉を重ねられると厭でも続けざるを得ない。厭なやり方だった。眉をひそめぬよう気をつける。雪は楽しそうだった。部下の母親が奇妙な病院に入っているのだ、楽しいにちがいない。
「嘘は言わないですよ」
「あるいは気づかせないとか。話を聞く限り聡明なようだから」
己はきっとこのひとが好きではないのだ。好きではないからといって、嫌いではないということにはならないだろう。厭なひとだ。厭だ厭だと思いながら頷いた。
「そうですね。たぶん、嘘を本当にさせたら、あのひとの右に出るものはいないでしょう」
あのひとにかかったら嘘も本当になるだろう。そう思うことは間々ある。そしてここは〈東京〉だ。嘘だって本当になるだろう。
「ますます会ってみたいものだね」あるいは狐のように雪は笑った。
「興味本位ですか?」
もしかすると化かされているのかもしれない。気がつくと廃墟の中にでもいるのかもしれない。この埃のにおいも偽物だろうか? 分からなかった。
「部下のことは知っておきたいだろ?」
知ってどうするのだろう。それがなにになるというのだろう。
「なにもかも?」
「そうとも、なんでも。全て。EVERYTHINGというやつだね」
と雪は目を細めた。やはり化かされている心地になる。胸の奥がざわりとする。
調査室には天井近くにひとつだけ窓があった。ちょうどそこから下は土の下だ。この部屋は土の下に埋まっているのだ。明かりはその天窓と、ぶら下がった古い裸電球だけだった。陽が出ているうちでも、天窓からの採光だけではすこし心許ない。かといって黄ばんだ裸電球が頼りになるわけでもない。背中に陽の光を感じ、電球の明かりを脳天に受ける己は、取り調べでも受けているようだ。雪は掴み所のない笑みを浮かべ、右のマグを己に差し出してくる。狐ではないのなら、やはり魔法使いの取り調べだった。
「なにも入っていないよ」と雪はその差し出したマグを一度引っ込めて口を付ける。「ほらね」
一口分減ったマグを受け取って覗き込むと、湯気の立つ黒い液体が揺れていた。
「ただ苦いだけだ。砂糖もミルクもない」
「それはそうでしょう、そう淹れたのだから」と一口飲んだ。
「なら入れればいいじゃないか」
「ここにそんなものありませんよ」と言った。ここにあるのは紙と埃ばかりだ。ほかにはなにもない。
「でもここは〈東京〉だよ、深瀬くん」雪は身を乗り出して囁いた。コーヒーのにおいがする。「探せばなんだって手に入る」
「見つけ出すことさえできれば」
「そう」雪は頷いた。ここは〈東京〉だ。「きっと魔法だって見つけられる」と杖を振るように指を軽く振った。
「そう簡単に見つかりますか」
「簡単とはいかないだろうが、見つからないから魔法なんだろう。なんたってここは〈東京〉なのだからね」
「全てが集まる場所」と迷信のようでいて、あるいは真実として語られている言葉を口にした。迷信でも信じてしまえば真実だ。そしてここにやってくる者たちは、すくなからずそれを信じていた。ここは見つけることさえできれば、探しものが見つかる地だった。探しものは絶対にここにあるのだ。見つけて、それを手の内に捕まえさえすればいい。どこかに必ずあるのだから、あとは見つけてその手に掴むだけなのだ。それを信じて求めるものを探しに来る地だった。みななにかを求めている、なにかを。
雪はポケットからスティックシュガーを二本取り出してデスクの上に置いた。これもきっと〈東京〉だからだ。「いらないですよ」と言えば、雪は「助かるね」と二本まとめて袋を破る。
「よくこんなものを飲もうと思ったものだ」
「あなたが淹れたのに」
「君は好きだろ?」と問われる。コーヒーの苦みは嫌いではなかった。これは好きではないということではない。「部下思いだ」
いまさら気づいたのかい、と軽口を叩いて雪はさらさらと白い粉をマグに注いでゆく。二本のスティックの先端を指でたたきながら「〈東京〉には治療で?」と聞いた。母の話に戻ってきてしまった。首を振る。それだけではそっけない。
「違うと思いますよ。もうずいぶん前から住んでるようですし。何度か場所は転々としてましたけど。引っ越し好きのようですね」と続けた。
「一緒には住んでいないのだったか」
「ある程度までは。でもあのひとはあまり家に帰らないひとでしたし、私はここに近いところがよかったので」
何日か部屋を空けることもあった。母と出会ったのはそう幼いときでもなかったから、そのことであまり苦労はしなかったし、母のもとを去るときもたいして代わり映えしなかった。あのひとは部屋を変えると、住所だけが書かれた手紙と合い鍵を寄越してくる。それだけは欠かさなかった。それしかなかったとも言える。
「独り立ちしてからはあまり会わなかった?」
本当に取り調べですね、と読んでもいない新聞を畳んで言った。「厭ならよすよ」と雪は言った。よく言うよ、とは思う。「そう見えますか?」これで厭だとも言えまい。しかしただ聞かれるだけならなにも感じなかった。別に知られたところでなになるわけでもない。隠しているわけでもない。
「深瀬くんは顔に出ないからね」
「お雪さんもそうだと思いますが」どの口が言うのだろうと思う。「そうかな? いずれにせよ言葉にしないと分からないからね」
「言葉にしたところで、」
言い切る前に口を閉じた。それはこの会話に対する不義理だろう。いくらこの上司が気に食わないからといって、不義理は厭だった。雪は肘をついて「続けて?」と先を促した。その姿は楽しげだったが、実際のところは分からない。
このひととは長くはないが短くもない時間を過ごしたが、よく分からないひとだというのが正直なところだった。よく分からないひとだ。なにを考えているのだろうと思いながら続ける。だがどうせひとの心などというものは分からないものだ。それなのにあれこれ考えてしまう。
「言葉にしたところで、それが本心と同じになるとは限らないでしょう。そしてそれが相手に伝わるとも」
「それでも。それでも言葉にしなくては。我々にはそれしかないのだから」
「そうでしょうか?」
おやおや! と雪はひっくり返らないところまで椅子を傾けて、ぱっと花を咲かせたような顔をする。あふれ出る好奇心に厭な予感はした。疲れてきた。疲れるのは母のことだけで充分だ。がたん、と椅子の脚が音を立てて床に戻る。ぐいっとこちらに身を乗り出して雪は問いかけてきた。「目で語るお相手が? キスで全てが? それともセックス? 君も隅に置けない!」輝きを増す瞳から目をそらしたくて手を目蓋の代わりにする。ため息交じりに「ここは地下の隅ですが」と返事をする。
「茶化すなよ」
「食いつきますね」
「嫌いな者がいるかい? いや違うな、私が好きなんだ。ああ、大好きだとも」
「そうですか」たっぷりと抑揚を付けて詮索好きを宣言されても困るだけだ。「どんなやつだい? 会ってみたいな」
「母で我慢してくださいよ」会ってくれるかは母次第ですが、などと口が滑っても言えない。だったら尚更そいつと会わせろ! と言われるのがオチだ。
「我慢ほど耐え難いことはない。うんざりだ!」
「そんなことを言われましても」
立ち上がって天に声を張り上げる雪はずいぶんな役者だった。地下室を舞台上に変えて、上司は己の周りをゆっくりと歩き始める。芝居がかっていた。
「男か? 女か? それともそれ以外?」
「いちおう男ですよ」
「そうか! ああどうしてこんなくだらないことを聞いてしまうのだろうね? そんなことはどうでもいい話だというのに。つまらないことを聞いた。おもしろいことを言ってくれ!」
「そんなものありませんよ」
「私にとっては楽しい。なにが楽しいかは私が決める」
滅茶苦茶だ。雪は己の後ろに立って、両肩に手を載せてくる。青白く細い手が目の端に写った。
「お雪さんが楽しめるようなものは本当になにもありませんよ。ただときどき会って、言葉の無力さを嘆くだけです」
正面の誰もいない席に向かって言った。雪のマグだけがそこに取り残されている。後ろの雪は黙っていた。ライターの点る音と、雪が吸っている煙草の銘柄のにおいがする。名前はなんだっただろう。一口吸って長い煙を吐き「ものは言い様だね」と哀愁漂う調子で漏らし、また正面に戻った。たとえスポットライトが黄ばんだ電球だろうが、役者は役者だ。観客は己か。拍手の代わりにあいつの話をする。
「だからあれとはあまり会ってないんです。電話も嫌がりますし」
深瀬さんですか、と眉をひそめる顔が目に浮かぶ声で電話に出られたことを思い出し笑った。「さみしいものだね?」と雪から煙草を一本差し出されたので「どうでしょうね」とありがたく受け取る。部下思いであることだ。
「ひとりはさみしいだろう。誰しも」
「本当にそう思いますか? こんなところにいて」
魔法使いに孤独は付き物だろう。己の咥えた煙草の先に、前屈みになった雪は自身のそれを押しつけてくる。息を吸って火をもらった。同じにおいの紫煙に包まれる。
「わたしには君がいる。君にはわたしが」
「私たちはただ同じ部屋にいるだけですよ」
「つれないなあ」上司は立ったまま己を見下ろして言った。
「私はあなたが上司だということと、あなたが雪という名を使っていることしか知らないのに」
「それがなんだというのだろう? 一体ひとがひとのなにを知れるというのだろうね? この言葉すら伝わっているのか分からないのに」母のようなことを言うひとだ。
「しかしあなたは部下のことはなんでも知っておきたいのですよね」
「そうとも。なんでもだ。なんでもだよ」
「言葉しかないのに」
「そうだ。すくなくとも君と私との間には言葉しかない。その彼とは、違うのだろうけれど」
「暁人」と投げやりに言った。きっとあれは怒るだろう。自分の知らぬところで己が晒されることを極端に厭がるやつだった。好きな者もいないだろうが。
「あきひとね」
「暁に人です」
「なるほど。よい名前だ」
「私もそう思います」
指先を焦がす前に灰皿へ煙草を押しつける。あいつの話を続けられてはかなわないので雪に話を振った。
「お雪さんの話を聞いても? どうして〈東京〉に?」
「私? 私か」と上司は前を隠すように黒いケープを掛け直す。
「それこそつまらないものだ。私はひとを探してここにいる。手がかりこそ掴んだがそれから先に進めない。それだけだよ。なんとしても会いたいのだけれどね。なんとしても。なんとしてもだ」
「お雪さんならすぐに見つかりそうなものですが」
「事は慎重を期すんだ。あるいは良心が邪魔をする。嘆かわしい限りだ」
そこには多少の苛立ちが混じっているようでもあった。会うことを良心が咎めるようなひととは誰であろう。雪はケープにすっぽりと隠れるように身を包んでいて、あからさまにそれ以上尋ねることを拒んでいた。拒まれることはしたくないし、されたくない。
「ここは〈東京〉ですよ」とそれだけを言った。雪は深く頷く。
「そうとも。ここは〈東京〉だ、全てがある。全てがね。私はそれを疑うことはできない。だから私は魔法を信じているというわけだ。お分かりかな?」
「ええ、とても」
「じゃあぼちぼち仕事でもするか。今日はどれにする? なあ、オカルトベルトラン」と雪は前髪を掻き上げて言った。