特別調査室にて
誰しも死ぬものと分かっていながら、病室の戸を開き、己よりも死に近い者の目に射すくめられるのはやはり気が重かった。そう遠くないうちに、あの戸を開ける日が終わることは分かってはいた。
分かっている? 本当に?
一体己がなにを分かっているというのだろう。分かっているなら苦しまない、きっと母の死すら。
そうだろうか? そんなことがあるだろうか? それは生きているうちに分かるものだろうか?
そう思いながら病室を訪れる日々は、いつのまにかただの怠惰な日常だった。慣れてしまえば答えがあろうがなかろうが関係ない。繰り返される日々は永遠さえそこに見出すことができる。
己は明日も明後日も、その次の日も、そしてその次も、いつまでも母の顔を見に行くだけだ。きっといつまでも続くだろう。そんなことはないと母の瞳が、己を強く捉えていることを考えたくはなかった。疲れていた。ああ疲れた。逃れたい。どこかへ。どこへも行けはしない。死から逃れることはできない。
しかしこのときばかりは解放されるのだ。己は母の病室ではなく、己の勤めている特別調査室の扉を開ける。そこは今日もおだやかで、時間が止まっているようだった。昨日となにひとつ変わりがなく、そして明日も今日と同じだろう。次はいつ読まれるとも知れない資料の山に囲まれ、途中買ってきた新聞を広げる。
丸ノ内署の三つ目の調査室は地下の奥にあって、もとは小さな資料室だったらしい部屋を割り当てられていた。
〈東京〉には不思議が多い。なんでも起こるとまではいかないが、起こりかねない場所ではあった。例えば等身大の人形が人間のように動いていたりだとか(それはオートマトンと呼ばれていた。ゼンマイで動いているらしい)、雨になると紙から文字が逃げ出したりだとか(雨でズボンの裾が黒くなったのなら、それは逃げ出した文字を踏んでしまったのだろう)。
例えば隣の空き地で猫が喋っていたとか(これは実際に喋っていた。そのくらいのことは起こる。猫が喋ることもあるだろう)、もう何日も同じ一日を過ごしているだとか(これは調査室と同じでただ同じような日々を繰り返しているだけだった。この手の事件は起こりそうで起こってはいないようだ)、そういった、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に捨ててしまえるようなものが、最後にやってくる場所がこの調査室だった。
特別調査室へやってきた奇っ怪な事件を掃除するのは、己と、上司の雪のふたりだけだ。新聞をなんとはなしに眺めていると「一度くらいは見舞いに行きたいのだけれどね」と、よく通る上司の声が響いた。始業の鐘はもうずいぶん前だった気がする。己は非難めいた顔をしていたようで「鐘の音はここには届かないだろ?」と悪戯好きの子どものように雪は言った。だがこのひとは紛うことなくこの部屋の主だ。
上司の両手には湯気の立つマグがそれぞれあった。当分は誰の机にもならないだろう、己の向かいのデスクに座る。調査室の四方の壁は、埃の積もった本棚で隠れていて、天井中央からぶら下がる裸電球の下に、三人分のデスクが額を合わせていた。このひとは空いたデスクと併せて、ふたり分のデスクを交互に使っていた。
癖毛が酷くてね、と普段雪がよく口にしているやわらかな短い黒髪がふわりと揺れた。たんぽぽの綿毛を髪にしたらこんな感じだろうと思っているが口にしたことはない。「君は存外夢見勝ちだねえ」とでも言われそうだったし、実際折にふれて言われていた。
毎日のように羽織っている真っ黒なケープも、雪が座ると空気を含み大きくふくらんで、そしてすぐにしぼんだ。影にでも溶けていきそうなほど上から下まで黒く、年中喪に服しているようなひとだった。これで地下室の主人なのだから魔法でも使えそうだ。杖を持たせたらさぞ映えるだろう。
「上司に言われたら断れませんね」と、すこし考えてから言った。どうせ決めるのは母だった。そういえば母の見舞いに来た客には会った覚えがない。あの母にそういった友人がいるとも思えなかったが、どうなのだろう。
己は母の名前すら知らないのだ。母の名すら知らぬ者が息子と言えるのだろうか。どうなのだろう。友人は母をなんと呼ぶのだろう。あのひとの名を知っている者もいるのだろうか。息子の己が知らないのだから、誰も知らないでいてほしいような気持ちはたしかにある。誰にも知らないでいてほしい、とはなんとも子ども染みていて愚かだった。