病室にて
母の病室は、清潔さを感じさせるやわらかな白い部屋だった。階も高く、窓も広かったから、日中に電灯はいらない。ああ、だが、どうだっただろう。母が住みだしたから、病室の無機質な白さが薄らいだのかもしれなかった。どうだったろう。
「前の部屋はもう引き払ったから、私に会うときはこっちに来るんだな」
初めて病室に足を踏み入れたとき、母はそう言った。投げかけられたその言葉に驚いて、それ以外の記憶は酷くぼやけて曖昧だった。目の前が白くなったことは覚えている。
「部屋にあったお前の私物はそこの箱にまとめてあるから、そのうちに持って帰るといい。捨ててもいいならそうしておくが」
ひとの気も知らず、母は病室の隅を指さして言った。いきなり色を失って白くなった世界にくらくらした。「なにも今日明日死ぬわけじゃないんだから。おい、聞いているのか、ベル、深瀬ベルトラン!」
病室の扉はスライド式で開けるのに力はいらなかった。だがその先に、もうすぐ棺桶に入る母が待っていると思うと気が重くて仕方がなかった。だが自室はなにも考えずに入ることができる。寝るためだけに借りているような部屋のドアノブはいまにも壊れそうだ。鍵を閉めたところでなんにもならない。まじないでもしているようだった。どうせ入ったところで盗るものもない。かといって鍵を掛けてしまうくらいには、そこは己の空間だった。
着慣らして薄くなったコートのポケットに、鍵を押し込んで仕事に向かう。階段を上ったすぐ脇が己の借りている部屋だった。他の住民のことはよく知らない。足音や話し声はぼんやりと聞くが、その姿を見たことはなかった。幽霊アパートのようで気に入っていた。ここで生きているのは己だけ。
一段一段踏む度に軋む階段を下りて、外への扉を開ける。やはりこのドアノブもゆるい。いつか外れてしまうだろう。風が入り込んできてひゅるりと音がした。まだ息は白くならないが、手を出しておくには寒かった。蚊帳を質屋に入れたと思ったら、もうすっかり冬が近づいてきている。まだ先ではあるだろうが、その気配は感じることができる。
己の部屋はがらんとしているけれども、同じところに長くいれば、ひとの住む部屋になるものだろう。母もものを持たないひとだったが、それでも時間が経てば生活感は拭えなくなっていた。病室は母ひとりで、個室だとしてもあまりに広く、病室にしてはあまりに生活できる部屋だった。小さくはあったがキッチンもある。シャワーのついたバスタブもある。大きなベッドが部屋を占めていたが、それを除けば己の部屋よりもずいぶんと広く、清潔で、快適だった。
病院生活も慣れたものだ、と母は己の膝をたたいていた手を引っ込めて言った。寝間着姿の母は病室にすっかり馴染んでいて、もうずっと前からここにいたように映る。入院が決まってから、母は持ち物をほとんど処分したらしかった。見覚えがあるのは何着かの着替えと、細々とした生活用品ばかりで、目新しいものはスケッチブックくらいだ。
母はよくそれを手元に置いてなにか描いていた。ちらと見る限り幾何学模様のような、なにかの設計図のような印象はあったが、白い紙が黒鉛で真っ黒にされていること以外は分からない。視線に気づくと母はそのスケッチブックを閉じて枕元に押しやった。見られたくないのだろうと思って、それ以来それについて聞いたことはなかった。
黒くなった手を眺め、「これで万が一出てこられたらどこかにでも旅行に行きたいものだ。お前も来るか? 行くとしたらどこがいい」と、心底つまらなそうに聞いた。
万が一、万が一? それはただ死にゆく者の戯れだった。
分かっていた。
分かってはいたが、その万が一という言葉に囚われて、言葉に詰まる。ぎくりとした己を母が見過ごすはずがなかった。
「いやよそう、すまないな、そういうつもりで言ったわけではなかったのだが、すまなかった。悪かったな」
母はあわれを浮かべた瞳で己を見た。あれは確かにあわれだった。己は死にゆく者にあわれをかけられたのだ。