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有幻人形奇譚  作者: 宮丹桂
子羊たちの行方(前)
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自室にて

「死ぬなら楽に死にたいものだ」黴の生えたカーテンを開くと、朝のまぶしい日差しが差し込んできた。まぶしさに目を細め、光の中に母の言葉を思い出している。


 四畳半の狭い部屋は一瞬で光に満たされる。じめじめとした畳も、このときばかりは清潔そうに見えた。この部屋に陽が入るのは朝のこの時間帯だけだ。晴れた日の朝は好きだった。この小さな空間が光でいっぱいに満たされるのが好きだ。冬の訪れを予感させる光は、それだけであたたかくなることはなかったが、眠気を覚ますには充分だった。なにより心が弾んだ。二度寝を決め込むことにはならなそうだ。


 生ぬるい煎餅布団を畳んで押し入れに投げ込む。押し入れの奥、光の届かぬ場所、布団によって巻き上がる埃のにおい。ふわりと浮き上がった心が、すとんと落ちていく。たとえ羽があろうとも、いつまでも宙にとどまることはできない。


「自分の体すらままならない人生だった」自嘲気味に漏らす母になんと返せばよいのか分からなかった。ままならぬものだ。結局なにひとつ成し得なかった。なにひとつ。ああ、いや、お前と出会えたことについては、幸運で幸福だったな、ベルトラン。


 と、母は膝に置いていた己の手のひらを、からかうようにたたいた。青い血管の浮き出た、骨と皮ばかりの黄色い腕からは、液体の入った透明な管が伸びている。まだ血は通っているはずだ。まだ、もうすこし、もうすこしくらいは。どれくらいかは分からないけれど。あとどれくらいなのだろう。長くはない、かといって明日死ぬわけではない、それでも長くはないのだ。それなら明後日だろうか? あるいはもっと先か? 一体いつなのだろう。


 なにひとつとして分かりはしない。ままならぬものだ。なにひとつ。明日死ぬわけではないとは言うが、いつかの明日に母は死んでしまうのだ。それだけだ。それだけだった。それしか分からない。疲れていた。己は疲れているのだ。死に追われる生活に疲れていた。遠いのか近いのか分からぬその足音に怯えている。


 立て付けの悪い押し入れを無理やりに閉める。開けるのはするりといくが、閉めるのはつっかえて骨だった。だが開け放しておくには気が滅入る。敷いたままの布団には黴が生える。暗がりを覗き込むのはほんのいっときでも、覗き込んでしまえばあとはそのことばかりが頭を占めるものだ。いつかは来る明日が黴のように頭にこびりついている。押し入れの襖には、部屋を借り始めたときから古い染みがあった。布団の黴のように、あるいはこの襖の染みのように、寝ても覚めてもそのことばかりを考えている。生まれ出でた以上、誰しも死ぬものだ。分かっている。分かっているはずだ。


 本当に?


 額を襖に押しつけて目を閉じる。死ぬなら楽に死にたいものだ。目蓋を閉じても朝の明るさはにじんでくる。まぶしい。長い一日が始まる。


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