鈴の音、子猫になった少女
短編小説です。
短編と言いながら2万文字超えてしまったのでごゆるりと見ていってくださいませ。
読んでくださる方の人生が少しだけいい景色に変わりますように。
私の人生は大ハズレだ。
おみくじで言えば大凶。色で言えば真っ黒。
たった十二年間しか生きてないのに何がわかると思われるかもしれないが、逆に言ってしまえば十二年間も同じ景色の人生なのだ。明るい色が入ってくる事は無いだろう。
きっと後七十年間 近くは同じような黒い景色の中生きていくだけなのだろう。
そんな人生、楽しみになんか思えるわけもなく、長く続いても誰も喜ばないのは分かっている。
だから。
今日此処で自分の人生を終わらせる事にした。
町外れにある山奥のお寺。
名前も知らないしどんなお寺かも全くわからないが神様がいる事には違いないだろう。
茜色が段々と黒に支配されて行き始めたころ、いつも行くコンビニでは無く、吸い寄せられるようにこのお寺に来て、ただ何と無く手を合わせただけだ。
するとやはり神様がいたのだろうか、何と無く思ったのだ。
私は此処で死のう、と。
それは弱虫と虐め続けられた私の、初めての勇気だったように思えた。
折角そんな勇気を振り絞ったのに空の神様は祝福してくれないのだろうか。今誕生した小さな勇者の身体を雨で汚していくのだから。
最後に母親に掛けられた言葉はなんだっただろうか。
そしてそれはいつのことだっただろうか。
長らく母親と呼ばれる存在とは肉声でのやり取りはしていない。
いつも小学校から帰ると迎えてくれるのは夜ご飯の食費だけ。
薄い紙切れ1枚。日々コンビニで晩御飯と引き換えられるあの紙切れが私の母親だったのかもしれない。
何年か前その紙切れで食材を買った私は、いつも帰りの遅い母親の為にと夜ご飯を作った事がある。メニューは何だっただろうか。
よく覚えていないけれど、三日経って腐った匂いを放ち始めたソレを捨てた事だけはよく覚えている。
なぜ三日も食べてくれなかったのだろう。正直、それもあまり覚えていなかった。
家にいながら時間が勿体無いと言われたのか、そもそも仕事場から家に帰って来なかったのか。
母とは一緒にいる時間の方が圧倒的に少ない為そんな事も記憶には残らないのだった。
雑誌の編集者として働く母との会話は月に一度あれば良い方。ひとりっ子の私は家で声を発する事は、だんだんと無くなっていった。
小学校でもそれは変わらない。元々活発で社交的でもない性格だったのだ。家で会話をしなければそれが上達することもない。
いつもいつもクラスのみんなにからかわれ、言い返す事の出来ないまま。日陰を歩くように6年生も終わりを迎えようとしていた。
そんな私も唯一少しだけだが笑顔になれ、会話をする相手がいた。
それはマンションの一階に住む我が家に遊びに来る真っ白な猫だ。
その白猫は、私の晩御飯を貰いに毎夜遊びに来てくれている。最近では自分のご飯と猫用のご飯を買って帰り、ベランダで白猫を待ちながら食事しているのが日課だった。
いくら美味しい缶詰を買ってあげても美味しそうに食べるだけ。頭を撫でようと手を伸ばしたらヒラリと身を翻して離れてしまう。
いつまでも懐いてくれる事はなかったが、食事をしながら話を聞いてくれるだけでも私にはかけがえのない時間だった。
唯一気を許してくれたのは、私の幼稚園からの宝物である鈴を尻尾に付けさせてくれた事くらいだろう。
その白猫には色々な話をした。誰にも言えなかった感情は全て零した。学校に行くのが辛い事、母親に邪険に扱われている悲しさ、家ですら話す事ができずにいる寂しさ。
そのどれを聞いてもじっと見上げるだけで何も伝えてくれないし反応も特にはなかったのだが。
正面から話を聞いてくれている白猫は、他の誰もしてくれないそんな些細なことをいとも簡単にしてくれ、唯一の私の居場所を作ってくれたのだった。
その白猫とご飯を一緒にできないのは心残りだが、元々は自由気ままな野良猫だ。
私の微々たる力なんて必要とせずとも強く気高く生きて行くのだろう。
そう自分に言い聞かせながら歩いていると、不思議なもので死ぬ事は決めていても脚は自然といつもの誰もいない家へと続く道を歩き始めていた。
雨に溺れたようにぐしょぐしょになった脚が気持ち悪いな、と立ち止まった時、不意に強い風が私の身体を吹き飛ばそうとしてきた。
それと同時に私の耳には、雨の中でもはっきりと聞こえる鈴の音が聞こえてきた。
その音は優しく私を包み込み、私から立ち上がる力も頑張る気力も奪い去るようで。
私は、そこで全身の力が抜けて意識を失ったのだった。
★金曜日★
私がゆっくりとまぶたを開いたとき、まず聞こえてきたのは激しい雨の音だった。
明日から小学校に着ていく服は、今日は洗濯出来なさそうだ。それだけで1日の予定が何もなくなってしまった私は何をしようか考えながらゆっくりと体を起こした。
目に入ってきたのは大きな石と背の高い草。石に跳ね返った雨粒が責め立てるように草を揺らし、溺れさせるように水で汚していっている。
「あれ……ここは…?」
見慣れた部屋の布団やカーテンが見当たらず、それどころか壁も屋根も見当たらない。
代わりにこの大雨から身を守ってくれているのはふやけたボロボロの巨大な段ボールだった。何故かふらつく身体を引きずるように動かしたとき、とても大きな地響きが私の身体を揺らした。
声も上げられず目を閉じて縮こまった私だったが、地響きは止む事はなく爆発音のような音を立てて延々と私の身体を揺らし続ける。
恐る恐る目を開けたとき、今までの常識では考えられない景色に頭が一気に真っ白になった。私が今まで寝転んでいた場所を覗き込むように髪の長い女の人が居たのだ。
より正確に言うと、女の「巨人」だ。
私の何倍もある身体を縮めながらこちらを真っ直ぐに見つめてくる女性。その手がゆっくりこちらに伸ばされた時、久し振りに私の喉が大きく震えた。
「きゃぁっ!!」
その大きな手を避けるように横に転がった私は、そのまま雨に濡れるのも気に止められず段ボールの屋根から飛び出した。
逃げなければ。そう思って脚を動かそうとした私だったが何故だかうまく走れず、雨に濡れた砂利道に倒れこんでしまう。
直ぐに立ち上がって逃げようとしたのだが、そう思った時には既に私の身体は高く浮かび上がってしまっていた。
さっきの巨人に持ち上げられている。
高すぎる景色は怖かったがそのまま食べられるよりはマシだ。
必死に抵抗しようと身体を暴れさせたが手はビクともせず真上から笑い声が聞こえるだけだった。
「ごめんね?怖くないよ、今連れていってあげるからね?」
優しい声が聞こえて見上げると、先ほどの巨人は笑顔のまま私を見下ろしていた。
連れていく?何処へ?巨人の家で料理されてしまうのだろうか。
目眩がするほどパニックになってしまった私は暴れることを諦め、大きく息を吸った。
どうせ死のうと考えていたのだ、怖い思いはするかもしれないが、あの人生を何年も続けるよりは一瞬の筈だ。何も怖くない。
私を持ち上げたまま何かを取り出そうと動き始めた女の人にしがみつきながらじっとしていたら、目の前に見覚えのある大きな板が差し出された。大きな丸いボタンと見慣れた文字。そして映し出される女性と白い子猫。自分で使ったことはないが、スマートフォンのカメラの画面だった。
「今病院に連れていってあげるからね?」
そう真上から聞こえる声と、画面に映る女性の口は全く同じ動きを見せていた。
「病院…?」
そして、そう呟いた私と、画面に映る小さな白猫の口は同じタイミングで動かされていた。シャッターが切れる音がした後歩き出した女性を見上げ私は再び喉を震わせた。
「病院ってなんですかっ?私、なんで……っ!」
「可愛い声だね、キミ。雨寒くて辛かったんだよね?」
「っ、そうじゃなくて…!私なんで…」
いくら私が必死になって見上げても帰ってくるのは優しそうな笑顔だけだった。
「なんで……なんで猫になってるんですかっ!?」
その質問には返答はなく、ただひたすらに頭を撫で回されるだけだった。
どうしようもなく怖くなった私は、撫で回される指を思い切り振り払い捕まえている手から抜け出して飛び降りた。
「いたっ…待って…!」
かなりの高さで怖かったが、すんなりと着地出来た私は引き止める声を無視しながら、なりふり構わず手足を必死に動かして雨の中を走っていったのだった。
★土曜日★
私がゆっくりとまぶたを開いたとき、目に入ってきたのは大量のゴミと汚れた水たまり、街を走る車の騒音だった。
何気なく自分の掌を見つめると、そこに見えるのはいつもの小さな手ではなく、真っ白な毛に覆われた肉球と爪。私の手を右に動かすと猫の手も右に。左に動かすと猫の手も左に。どうやら夢ではなかったらしい。
一度寝て起きて見ればいつもの部屋で目覚めると思っていた私だったが、そうではなかったようだ。
「私…本当に猫になったんだ…!」
まだ不慣れな手足を動かして歩いてみると、どうやら路地裏で眠ってしまっていたらしい。目に入ってきたのはいつもより大きく広い街並みと人々。小さな子どもたち(とは言っても今の私からすれば充分に巨人だがーー)が勢いよく走り去って行き、恐怖すら覚えるほどの大きさとスピードを持って車が通り過ぎていく。
見慣れた街並みと風景だったが、慣れない感情に怖くなった私はゆっくりと路地裏を戻っていった。
先程まで自分が寝ていたであろう場所に戻ってみると、食べかけの美味しそうな缶詰が置いてあることに気がついた。
そういえば昨日から何も食べてない。
空腹のせいか自分のお腹が鳴ったことに気がついたが、どうしても目の前にある缶詰は食べる気にはなれなかった。
物陰にはなっているが昨日の雨に濡れたのだろう水浸しの缶詰。覗き込んでくると美味しそうな魚の匂いはするがどうしても手は出なかった。そんな時だった。
「食べないなら、あたしが貰うわよ?」
「…えっ?」
ゆっくりと振り返った私の前に居たのは今の私自身よりも少し大きい体の白猫。昨夜の雨に濡れたのだろう、ところどころ黒く汚れたその猫はゆったりとした優雅な足取りで私に近づいてきた。
「あ、あの。今…白猫さんが喋ったんですか?」
その言葉に小さく鼻を鳴らした目の前の白猫はゆっくりと口を開いた。
「変なこと言うのね?貴女も白猫じゃない」
それだけ言うと、目の前の彼女?は、高くしっかりとした声を出す口を先ほどの缶詰に突っ込んで水浸しになった中身を食べ始めた。
「あ、あの……お腹壊しちゃいますよ…っ?」
「そんなヤワじゃないわよ。欲しいならそう言いなさい」
汚れた手で口元を拭った白猫はそのまま缶詰を私の方へと差し出してきた。
「いら、いらないですっ…!」
「……そうなの?本当変な子ね」
また美味しそうに食べ始めた白猫を見ていると小さくお腹が鳴ってしまったが、今度は一瞥をしただけで食べるのを止めることはしなかった。
数分して、手も使わず綺麗に缶詰を空にした白猫は用は済んだとばかりに身体を起こして歩き始めた。
「ま、待ってください!」
そう声をかけても白猫はこちらを軽く見ただけで足を止めることはしなかった。私は慌ててその後ろを追いかけながら言葉をかけ続けた。
「あの、お願いします。お話だけでも聞いてください!…私、何が何だか分からなくて…!」
行き止まりまで付いてきて、ようやく話が出来ると思ったのだが、白猫は軽く身を屈ませるとその反動で一気に目の前の室外機と塀を飛び上がり、建物の屋根まで上ってしまった。そのまま顔だけを出し私を見下ろしてくる白猫は大きな瞳をまっすぐに私に向けてきた。
「どうしたの、付いてこないの?」
「え、だって……こんな高いところ上れませんよ…っ!」
「……そんな高くないでしょ。アソコと、アソコ通ってくればすぐよ」
汚れた肉球で指された場所は、今白猫が上っていくときに通った場所だった。今までならともかく、この身体では自身の何倍もの高さなのだ。どうやっても飛び乗れる気がしなかった。
「あの!お願いです!……私そっちには行けないんです!…降りてきて、話を聞いてくれませんか…?」
久し振りに大声をあげながら見上げたのだが、帰ってきたのは白猫の冷たく聞こえる静かな声だった。
「嫌よ。上に来ないと話をする気は無いわ。いいから、早く来なさい」
「だから!……私は行けないんです!」
にべもなく断られた事に少なからず苛立ちを覚えながら私は喉を震わせ、大きく声を張り上げた。
「………どうして?貴女は猫でしょう?飛び上がれば届くはずよ。それとも、一度挑戦してダメだったの?」
「………そういうわけじゃ…ないです。…でも、私は猫だけど猫じゃなくて…!」
「要領を得ないわね……一度も試してないで泣き言言わないで頂戴。……いいから早く来なさい」
それだけを最後に残すと白猫は顔を引っ込め、私のいる場所からは姿が見えなくなってしまった。
猫と会話ができている事なんか、もうどうでもよくなっていた。
自分の状況すらわからない私と。
人と話すことが得意じゃない私と。
ちゃんと正面から会話をしてくれる存在が離れてしまう。涙が溢れそうに目の奥が熱くなって鼻がツンとしてくるのを感じながら、私は無我夢中で手足を曲げて先ほどの白猫のように大きく上に飛び上がった。
風を切るような音が聞こえ、私の景色は一気にめまぐるしく変わっていく。
先程までいたゴミの溢れた路地裏と、雨に汚れた室外機は遥か下に見え、太陽が直接私を照らし出している。
視界の端には塀の向こうで遊ぶ子どもたち。先程まで巨人に見えた人間も、今は下に見えている。自分でも予想していなかった景色に呆気に取られていた私は、程なくしてまた太陽の届かない路地裏へとその身体を着地させた。
あんなに飛び上がったのに私の手足についている肉球は衝撃を吸収してくれたみたいだ。少しも痛みを覚えずに元に戻った私は思わずまた白猫のいるであろう屋根を勢いよく見上げた。
そこに白猫は見えなかったが、代わりに雪のようにフワフワで、白い綺麗な尻尾が左右に揺れており、そこに付いた鈴がチリンチリンと音を鳴らしていた。
それが何故だか嬉しくなった私はまた手足に力を入れて思い切り地面を蹴り上げた。
程なくしてまた身体が空に浮かび上がる。
この軽い小さな身体ではどこまでも飛んでいけそうだった。
今度は覚悟していた分余裕を持って塀に着地すると、間髪入れずに真上に飛び上がる。難なく屋根に着地出来た私を待っていたのは、キラキラと輝く太陽と、不機嫌そうに尻尾を揺らしてこちらを見つめている白猫だった。
「あ、あの………っ!」
「ほら、簡単に来れるじゃない」
何処か満足そうに笑った目の前の白猫は、私の頭を軽く舐めてからゆっくりとその身体を丸めさせた。
「私…こんな事出来ると思わなくて…!でも、とても身体が軽くて…!」
興奮したように言葉が出てこない私に、我ながら嫌気がさしてしまうが、目の前の白猫は片目だけを瞑って私をじっと見ていた。
それは、私の拙い言葉を待ってくれているような気がして、私は思わず涙を流しながら微笑んだ。
「待っていてくれて、ありがとうございます!」
「…別に。ココはあったかいからお気に入りの場所なの。待っていたわけじゃないわ」
「……あの、それでも、です!」
言葉も行動も待っていてくれて。言葉が得意じゃない私はそんな言葉しか返せなかったが、少しだけ心が軽くなった私はいつまでもニコニコと微笑んでいた。
★日曜日★
ゆっくりとまぶたを開いた私に聞こえてきたのは、寄り添うように眠っている白猫の静かな寝息と、僅かに動くと聞こえる鈴の音色だった。
昨日は結局屋根に登った後、白猫は静かに眠り始めてしまった。色々話したいこともあったのだが、気がつけば私も眠りに落ちてしまっていた。
何度か目を覚ましたのだが、すぐそばで眠る彼女はピクリとも動かずいつまでも気持ちよさそうに眠り続けていたのだ。そんな彼女につられるように、私もぐっすりと睡眠をとってしまったという訳である。
彼女がようやく目を覚ましたのは私が何度目に目を覚ました時だろうか。
日はとっくに落ち、月すらも沈もうとしている時間帯になってようやく目の前の白猫は目を開き、鈴の音を立てながら優雅に身体を伸ばしていた。
「あ、おはよう、ございます…」
「あら、おはよう。まだ居たのね」
「はい…あの。お話、したくて」
勇気を出してそう告げた私だったが、白猫は何を返すわけでもなくのんびりとした足取りで屋根を移動し始めた。
屋根から屋根へ。2件ほど家を渡ってからちらりと確かめるようにこちらを振り向く。
「あ、私も行きます!」
思わずそう叫んだ私は、もう怖さなど忘れて手足にしっかりと力を込めて飛び跳ねた。
家から家へ跳んで渡るなんて簡単だ。
むしろ身体が軽くなって気持ちいいくらいだった。
すぐに白猫の隣に移動した私は、優雅に歩く彼女の横を付いて歩き始めた。
「何しに行くんですか…?」
とりあえず付いてきたは良いものの白猫自身の事も知らない私は恐る恐る尋ねてみた。
「ユキよ。…みんなそう呼ぶわ」
「ユキ…?あ、お名前っ!……はい!ユキさん!」
名前を呼ぶだけでも嬉しくなった私を訝しげに見つめた彼女は家を渡るのをやめ屋根を降りて行ってしまった。いつのまにか上っていた朝日に眩しく目を細めた私はすぐに追いかけ、ユキさんを見つめて話し続けた。
「私…急に今みたいになってて…でも猫じゃないんです!」
「………そう。名前は?」
「元は人間で!……って、名前?」
昨日目を覚ましたようなゴミの置いてある路地裏に着くと、ユキさんはこっちをじっと見ていた。
「…あ、私の、ですよね……あの」
私は、自分の名前があまり好きではない。
学校で虐められる原因の一つでもあるし、誰も呼ぶ事はないその名前が自分の事だとはなかなか思えなかった。
それでも、ユキさんには呼んでもらえるかも。と勇気を出した私は小さく名前を告げた。
「音に子どもで…オトネっていいます…」
女の子なんですけどね、と自嘲気味に笑った私に返っててきたのはユキさんの尻尾だった。
「いたっ…!……え?」
突然尻尾で叩かれた意味も分からず戸惑った私だったが、ユキさんは気にも留めないようにどこかのお店の裏口を爪でカリカリと引っ掻き始めた。
「それで、オトネは名前が嫌いなの?」
「えっ、だって……周りからはオトコだって…女の子なのに可愛くもないし名前までオトコだと読めるって言われるから…」
「あら、そう」
思わず暗くなってしまった私だったが、ユキさんはどこ吹く風でドアをカリカリと引っ掻き続けた。
少ししてからそのドアが開けられ、中から優しそうなおばあちゃんが姿を現した。
手には小さな銀の皿。目の前に置かれてから中身を覗き込むと美味しそうなご飯とその上に鰹節が乗っかっていた。
皿を置くためにしゃがんだおばあちゃんは、私を見ながら困ったように頬に手を当てた。
「まぁまぁ。今日はお友達が一緒なのね?ごめんなさい、一人分しか用意してなくて…。仲良く分けられるかしら…」
ユキさんはちら、と私を見ると少しだけスペースを空けてご飯を食べ始めた。二口ほど食べてからまたこちらを確認するように顔を向けてくる。
「あ、私も食べます…!」
くぅ、と小さく音を立てたお腹を隠すように静かに近づき、恐る恐る口をつけてみる。程よく冷えたご飯と鰹節はとても質素だったが久しぶりの食事だったせいだろうか、とても美味しく感じられた。
勢いよく顔をさらに突っ込んで食べ始めた私を見ながらため息をついたユキさんは反対側から顔を皿につけ、ゆっくりと食べていく。
「よかった、仲良く食べていきなさいね?」
おばあちゃんがそう言葉を残し家の中に戻っても、私は夢中でご飯に口をつけ続けた。
結局ほとんど私が食べ切ったようなものだったが、綺麗に皿が空になるとユキさんは陽のあたる塀へと身を翻らせ、静かに丸まった。
私もご飯で少し重くなった身体を跳ねさせるとユキさんのそばで真似をするように身体を丸めてみた。
陽の光がぽかぽかと身体を温め、自身の毛で柔らかくとても心地が良さそうだ。
これならばいつでも眠りに落ちてしまいそうだ、とあくびをするために口を開いたとき、ユキさんがこちらも見ずに言葉を発した。
「オトネ、貴女名前が嫌いなら変えちゃえば?」
「……えっ?」
名前を変えるなんて唐突な意見に、私は目を見開いてユキさんのいる方を向いた。
ユキさんはどこ吹く風で大きくあくびをしながら寝心地のいい場所を探すように自身の前足の中でもぞもぞと顔を動かしている。
「アタシ達はノラ猫よ?…名前が気に入らないなら変えちゃいなさいな」
「ノラ猫……そっか……!」
どういうわけだか猫になったらしい私は、今はノラ猫。
ユキさんの言うように気に入らない名前なんて変えてしまえばいいんだ!
静かに寝息を立て始めたユキさんの横で、私はいつまでも自分の名前を考えていたのだった。
★月曜日★
ゆっくりとまぶたを開いたとき、私が聞いたのはどこかの女性の怒る声だった。
「早く起きなさい!遅刻しても知らないわよ!」
子どもを叱る声だろう。外まで聞こえるその大声にぼんやりとした頭を振りながら私はのそのそと身体を起こした。
「はぁ、もう月曜日か…。……学校、行かなきゃ」
昨日はユキさんに付いていき、朝ごはんをくれたおばあちゃんの家と、余り物をくれた魚屋さんに寄った。
後はずっと陽のあたるところで眠っているユキさんの横で新しい私の名前を考えていただけだったが、それでも今までで1番楽しかった。
だからこそ、今日という日が憂鬱で仕方がない。
どうせ行っても話す人もいないし、周りの人にはからかわれ、弱虫だと虐められるだけだ。いつも平日、とりわけ月曜日の朝は私が1番苦手な時間だった。そんな私の横から、ユキさんが顔を覗かせてきた。
「何言ってるの、アンタは猫なのよ?……学校なんてあるわけないじゃない」
「……えっ……あ、そっか…!」
私、ノラ猫なんだった!
いつもなら憂鬱なこの月曜の朝も、ユキさんの一言で一気にご機嫌な朝へと早変わりした。
もう学校に行かなくてもいい!
虐められることももうない…!
家に帰ってから一人コンビニに向かうこともない!
嬉しくなった私は思わず起き上がって寝ていた屋根を飛び降りた。
そんな私を見ながら、ユキさんは呆れたように耳を畳んでまた丸まってしまったのだった。
町に降り立った私は、いきなり蹴飛ばされてしまう。
痛みはなかったが驚いて壁に飛びつくと、私を蹴飛ばしたサラリーマンは腕時計を見ながら駅へと走っていくだけで私の方を見ることもなかった。
危なくないように塀に避難した私はそのままぼんやりと道を見ていたが、何処見ても人だらけで休日よりも人通りが多くさえ感じる。
眠たそうに携帯をいじりながら歩く学生服の人達。
大声で騒ぐ子どもの手を引いているお母さん。
そんな人達を置き去りにするように早足で先を急ぐスーツ姿の大人達。
この景色の中に、今まで私もいたんだなぁ、とぼんやり考えながら丸まると大きくあくびを一つした。
生き急ぐような、忙しそうにする人達に向けて見せつけるように、大きく長いあくびを。
★火曜日★
ゆっくりまぶたを開いたとき、私を覗き込んでいるユキさんが目に入った。
「あ、おはようございます」
おはよう、と軽く返してくれたユキさんはいつから私を捉えていたのかわからない瞳を瞼に隠し、自身の腕の中へと顔を埋めた。大きな欠伸を残して。
「ユキさん、あの…少しお話ししたいんですけど…」
以前の私では考えられない途轍もなく勇気のいる発言だったが、ユキさんの返してきた反応はチラリとこちらを一瞥するだけだった。
「あの、お話…」
昼まで寝ていたとはいえ寝起きに煩かっただろうか、とユキさんの真似をして顔を前足に埋めようとしたとき、こちらを見ることもなくユキさんは言葉を投げかけてきた。
「話すんじゃないの?」
その言葉に慌てて顔を上げた私は見ていないのを分かっていながらも何度も頷いた。
「はいっ、お話、したいです!」
明らかに大きすぎる声で返事をすると、ユキさんはうっとおしそうに尻尾をパタパタと動かし、鈴の音で私を急かした。
猫がよくやる動きだったのかもしれないが、その動きに引っかかる事があった私はたっぷり何分もかけて言葉を考えて、ゆっくりと口を開いた。
「私、人間なんです…。でも、気がついたら猫になってて」
荒唐無稽な話かもしれないが、そもそも私からしてみたら猫になって猫と話しているのだ、そんな事で笑われたところで構いはしなかった。
「お母さんもみんなも私のことが嫌いだから…私もそんな私が嫌いで…。死んじゃえば楽になるのかなって思ったら…気がついたらこうだったんです」
「………………」
必死になって言葉を紡いだ私を、ユキさんは肯定も否定もせずに一瞥をした。
そんな当たり前の事。向かい合ってくれた事だけが嬉しくて緩む頬を前足で隠しながら私は、この1週間で二度目の大きな勇気を振り絞った。
「……ユキさん、ユキさんは………白猫さんじゃないですか………っ?」
「………………だから、貴女も白猫なのよ?」
「そうじゃなくて…っ!!」
もどかしい。
うまく話ができない私が。
あと一歩の勇気を振り絞れない私が。
癖のように俯いた私だったが、目に入ってきたのはいつもの非力な小さな手のひらではなく、真っ白な毛に覆われた肉球で。
元の姿よりはるかに小さいであろう自分の手は、大きな大きな勇気をもたらしてくれた。
乾いた喉を震わせながら、私は再び大きな声を張り上げた。
「ユキさんは……私の唯一の話し相手だった…あの白猫じゃないですかっ!?」
頷くわけでもなくただひたすらにじっとこちらを見てきたユキさんの表情は、猫のせいだろうか、全く何の感情も伝わってこなかった。
「私、私…オトネです…!いっつもベランダで…コンビニのお弁当と、猫用の缶詰を置いて待ってたじゃないですか…っ!その尻尾の鈴も、私が無理矢理つけて…!わかりませんかっ?」
「…………さぁ、貴女は今猫だし。野良猫はいちいちそんな相手のことまで覚えてる余裕はないのよ」
ぴしゃりと言い切ったユキさんはおもむろに立ち上がるとゆっくり体をほぐすように伸びをして、またその尻尾に付いた鈴をチリンと鳴らした。
そして周りをゆっくりと見渡してから最後に私をまっすぐに見つめ、小さく口を開いた。
「それで。貴女はオトネって名前なのね?」
自己紹介は既にしたはず。その言葉の意味は、その場ではすぐには分からなかった。
★水曜日★
ゆっくりまぶたを開いた時、私の耳に聞こえてきたのは、聞き覚えのある、それでいて聞き覚えのない女性の声だった。
微睡みから抜け切らずにいた頭を振ってそっと屋根の下を覗くと、高いであろうスーツをヨレさせ、警察官らしき服の人と何やら口論している女性が目に入った。
「お願いしますっ!私一人じゃ無理なんです!」
必死に警官の腕を掴んで大声を上げる女性は、長い髪も綺麗な肌もボロボロになっており、遠目でもわかるほどに目にクマを作って疲れ切った様子だった。
それは声と同じように見覚えがあったが見覚えは無かった。いや、声とはまた別の理由で、だが。
「おかあ、さん…?」
接点がまともに無かったとはいえ、母の姿を見間違える訳がない。
ただ、あんなに疲れた様子で必死な姿は見覚えが無かった。
警察の人が軽く頷いて離れていくと力なく道端に座りんでしまう。
そんな弱々しい姿を見せるなんて仕事で何かあったのだろうか。などと何処か現実味のない感覚でぼんやりと考えていると、さめざめと泣きながら母は涙に濡れた声で唇を震わせていた。
「オトネ…ごめんね…!無事でいて…っ」
「…っ!!!」
間違いなく母が呼んだのは私だった。
化粧もすっかり落ちてクマがくっきりと見える、お世辞にも綺麗とは言えない母は力なく立ち上がるとフラフラと頼りない足取りで歩き始めた。
「オトネ…!」
そんなにボロボロなのに目の奥から何か温かみのようなものが見えた気がした。
それでも力無い身体で、簡単に猫の私でも追いつけるような速度でしか進めていない姿に少しだけ鼻がツンとするのを感じる。
自分でも感情がわからず整理できていないままだったが、この身体は勝手に屋根から飛び降り、母の目の高さにある塀へと着地した。
母は私に気がつく事もなく小さな黒い手帳を取り出すとそこにペンを走らせる。
そこには学校やお店、私の学校の先生の名前なども細かい字で大量に書かれており、そのどれもに斜線が引かれていた。
「ダメね…誰も知らない」
薄く自嘲したように笑う母は首を横に振りながら力無く私の立つ塀へと身体を預けた。
「オトネの行きそうな場所や人を全く知らない私が、1番何も知らない、か」
そう力無く呟いた母のポケットから電話の音が響くと一転して素早い速度でスマートフォンを取り出し、焦った様子で耳に当てた。
「オトネっ!?…………あ、いえ…失礼しました。……いえ、なんでもない、です」
すでにボロボロな髪の毛をぐしゃぐしゃと力任せに掻きむしりながら大きく息を吐くと、手帳をゆっくりと片手でめくっていく。
先ほどのページとは全く違う、綺麗で細かく書かれたそのページを眺めながら母は何やら仕事の話をしている様子だった。
「申し訳ありません、はい。私はどうしても外せない用事で…他の人間を向かわせますので。はい、失礼します」
半ば強引に電話を終えた母はしばらくそのままで息を整えていたが、やがてまた塀から体を離してふらふらと歩き始めた。
記憶にある背中よりも小さく頼りない背中をぼんやりと見ていると何と無く寂しくなってしまった。
少しずつ離れる背中を見送ってしまうと、このまま二度と会えないような。
そう思った時には塀の上を全力で走り母の隣へと一瞬で追いついた。
「お、お母さん…っ!」
「オト…っ!」
夢中になって無意識で久しぶりの言葉をかけると、母は勢いよく顔をこちらに向けてきた。
そして私と目を合わせると、疲れた顔を歪ませながらまた大きくため息を一つ吐いた。
「ノラ猫の声と聞き間違えるなんて…ホント母親失格ね…」
自分を責めるように唇をひき結んで涙を浮かべた母に何も言えなくなってしまい、私にも自然と涙が浮かんできた。
「キミも、ごめんね?…悪いけれど大切なひとり娘を探してるの。構ってあげられないわ」
一瞬触れられそうになった手のひらを見ると思わず私は身体を引いてその手を避けた。
避けられ止まった大きな手のひらを見ていると、また私の目には大きな涙が溢れてくる。
「お母さん…っ、私だよ…ここにいるよ!」
「…ごめんなさい、ノラ猫だもの警戒するわよね。じゃあ」
大切なひとり娘。初めてそう呼ばれた事が嬉しくて大きい声で呼びかけるが今の私では猫の鳴き声にしかならなかった。
「お母さんっ!」
追いかけていくうち、最初はこちらを見て微笑んでくれていた母も自然と猫の私を気に留める事もなくなっていく。
「お母さんっ!」
それはまるで人間の姿の時に戻ってしまったようで。
「…おかあさんっ!!」
撫でられるのが嫌だったわけじゃない。
でも、悲しくなってしまったのだ。
どうして猫が撫でられて、娘の私が撫でられてないのだ、と。
「おかあさんっ、ごめんなさい…心配かけてごめんなさい!!」
必死に泣きじゃくりながら追いかけて話しかけ続けていたが、気にも止めないまま母はタクシーへとそのまま乗り込んでしまった。
「おかあさん………っ、気がついてよ……っ!」
しかし、帰ってきたのは無機質な車のエンジンの音だった。力無く道端にうずくまった私は、未だにどんな感情かもわからない涙が溢れ、顔の毛も地面すらも涙で濡らしてしまっていた。
そんな時、小さな優しい鈴の音と共に軽く頭の上に柔らかい感触があった。
「そういえば。私は嫌われてるって言うだけで…貴女が母親を嫌ってるとは言ってなかったわね」
顔を上げるとそこには私の耳を折るように頭に手を乗せているユキさんがいた。
「ユキ、さん…っ…うっ。うわぁぁぁん!」
その後のことは、ユキさんに飛びついた衝撃で顔が痛かったことしか覚えていない。
「戻りたい…!人間に!お母さんのところに帰りたいよぉっ!!」
★木曜日★
ゆっくりまぶたを開いた時、私の目に入ってきたのはうずくまって震えているユキさんの姿だった。
慌てて身体を起こすとユキさんの体をゆっくり手で触ってみる。
するとその体は昨日抱きしめてくれてた時とは打って変わって冷たくなってしまっていた。
「ユキ、さんっ?…ユキさん…大丈夫ですかっ!?」
きっと体には良く無いのだろうが思わず心配でその身体を揺すってしまうと、ユキさんはゆっくりとまぶたを開いた。
「あら、おはよう。オトネ。……大丈夫だからそんな揺らさないで頂戴」
不機嫌そうにそう呟いたユキさんは、静かに身体を起こして、いつかのようにその背中を綺麗に伸ばした。
「オトネこそ、もっとべそべそしてると思ったけれど?」
「…昨日は、すみませんでした」
ずっと疲れて寝るまでユキさんに飛びついて泣いていたのだ。流石に迷惑だっただろうし、恥ずかしさもある。
「もしかして…私のせいで体調良く無いんですか?」
「………別に。体調が悪いわけじゃ無いわよ」
いつもより明らかに覇気のない声でそう返したユキさんは、ちらっと太陽を見てから私へと視線を動かした。
「行くわよ」
「………えっ?………あ、はいっ!ご飯ですね!」
一週間近くが経ち、少しずつ慣れてきた私は理解して大きく返事を返した。
ユキさんについて行こうと真似して身体をストレッチしてみたが、ユキさんは綺麗な鈴の音を鳴らしながらいつもと違う散歩をするかのようなゆったりとした速度で歩き始めた。
「オトネ。オトネのお母さんはどんな人なの?」
それはいわゆる当たり前、普通の質問だったのかもしれない。
けれど、その質問ほど難しい事はなかった。言葉を探して言いあぐねていると、ユキさんは軽く振り返って私の瞳の奥を見つめるように真っ直ぐに視線を刺してきた。
「ちゃんと、考えて貴女の言葉で教えて頂戴」
「………………はい」
考えながら歩く為遅くなってしまう私に合わせてくれるように、ユキさんはさらに脚の速度を落として横に付いていてくれた。
「……そう、ですね…。仕事は忙しくて毎日家に帰ってきてるわけじゃない、ので…知らないこともたくさんあります」
「………そう」
「あまり私の事を可愛がるような性格でもないんだと思います。お父さんが死んじゃってからは、特に会話もそこまでしてないです」
主観が入ってしまわないように気をつけてだったが、もしかしたらどこか恨み節も入ってしまっているのかもしれなかった。
「ご飯もいっつもお金が置いてあるだけなんで作ってくれた事はないし…。昔作った時は、食べてもくれませんでした」
そうだ。あの時作ったのは、スクランブルエッグを乗せてチーズをかけたトーストだ。
捨てた時卵が腐ってパンがカビだらけになったのを今思い出した。
「…だから、きっと私が邪魔なんだと思ってたんですけど…」
「けど?」
「……昨日見たお母さんの姿が、そんな事ないって教えてくれているようで…!」
話しながら始めて見た母親の姿を思い出し、また鼻の先と目の奥がじんわりと熱くなってきたのを感じる。
「あんなにボロボロになってまで必死に探してくれている姿を見ると…なんだか…」
愛を感じる、と呟いてから私は何となくだけどわかってしまった。
私はきっと、甘え過ぎてたのかもしれない。
構ってくれないから、友達がからかってくるから。それだけで拗ねて、逃げてきたのだ。
ノラ猫は自由な訳ではない。ただひたすらに生きるために動いているのだ。
生きるために必要な食事だけを手に入れられれば後は昼寝をしたり散歩をしたり。
人間は心地よく生きるためにコミュニケーションを取ったりするのかもしれない。
ユキさんと出会った時。
毎日家に来てくれていた白猫と出会い、会話が出来ると理解した時。
私は仲良くなりたいと思った。
撫でさせてくれたりはしない気高さを持ち、綺麗なその姿に何処か憧れを持っていた私は、近付きたいと、そう思ったのだ。
今まで母親やクラスメイトにそう思った事はあっただろうか。
冷たくされている、からかわれている、いじめられている。そう思って心を閉ざし、自分から仲良くなろうとは行動してこなかった。
母にトーストを作った時も勇気が出ずにただテーブルに置いておいただけだったし、クラスメイトにからかわれている時に、やめてほしいと、一言でも主張した事はなかった。
自分から何かを主張したのは、ユキさんと話したかった時が初めてだった。
「後は、すみません。よくわからないです…。でも」
足を止めるとしっかりとユキさんを見つめながら、動かし慣れていない笑顔を見せるように顔に力を込めた。
「私の唯一のお母さんなので…これからたくさん仲良くなって…それからユキさんにお伝えしますね!こんなところが素敵だって自慢します!」
そう告げた時、ユキさんは軽く鼻を鳴らしたかと思うと、鈴を激しく鳴らしながら急に走り出した。
慌ててついて行こうと手足を前に前に動かして初めて、いつもと違う景色であることに気がついた。
長い長い階段が目の前にあり、さっきまでの様子はどこへやら、ユキさんは軽やかに飛ぶようにその階段を上っていく。
「ちょ、ちょっと早いです!ユキさんっ!」
息を切らしながらそう叫んでも、ユキさんは止まる事はなく、さらに私を引き離すように素早く階段を駆け上っていく。
小さな毛皮の中の心臓が素早く鼓動を繰り返し、ようやく頂上に差し掛かった時、ユキさんはそこに綺麗に気高く佇み、私を見下ろしていた。
「オトネ。貴女は笑っていなさい。ベランダで寂しそうに話している姿より、屋根を嬉しそうに飛び回ってる貴女の方が何倍も何倍も素敵だわ」
「…ユキさん?」
嬉しい。とても嬉しい言葉だったが、それを言ってくれているユキさんの姿がとても儚げで。
太陽で反射してはっきりと顔が見えないこともあってか今にでも消えてしまいそうだった。
無性に触れたくなった私が右の前足を動かした時、初めて聞くくらいの厳しい声でユキさんが怒鳴った。
「動かないで!!…そのままでいなさい」
ビクッと前足を止めて見上げると、相変わらずその顔は見えなかったが、わずかに震えているのはしっかりと見えていた。
「いい?オトネ。この間言ったことだけれど撤回させてもらうわ。貴女はオトネよ。その名前を捨てるなんて決してしないで頂戴」
「え…っ?……あぁ、名前…」
ノラ猫なんだから嫌な名前を捨てて好きに名乗ればいい、と言ってくれたのはユキさんだった。
お母さんのこともあって自分の名前を考えるのは忘れていたが、そんな話をしてくれていた事をぼんやりと思い出した。
「私ね、実はユキなんかじゃないの。…というより、名前なんて無いのよ。生まれた時からノラだからね」
「………そうだったんですか?」
真剣に聞いてはいるがどうしてそんな事を話し始めたのか分からず見上げていると、ユキさんの後ろに大きな鳥居が見えた。
「むしろ名前なんて必要ないから要らなかったの。でも、貴女は私に言ったのよ?」
私がユキさんに?何のことだろう、と階段に座りながら考えているとクスクスと可笑しそうに笑う声が私に降ってきた。
「覚えてないでしょうね。大したことでも無いし」
ユキさんは自身の前足でゆっくりと顔を洗いながらその笑顔を隠していた。
「白猫さんは、雪みたいで綺麗だねって。貴女は美味しくなさそうにおにぎりを食べながら、あのベランダでそう言ったわ。だから、私はユキって名乗ったの」
「…!……そう、だったんですか…」
「みんながそう呼ぶなんて嘘よ。私の事をユキだって思ってるのは、世界でオトネだけなのよ」
近づきたくて、怒鳴られないようにそーっと前足を動かしてみると、ユキさんは何も言わなかった。
「それだけじゃないわ。貴女は私の宝物って言いながら、汚い尻尾にこの綺麗な鈴をつけてくれたわ」
尻尾を自身の手元に寄せると、ユキさんはどこか幸せそうにその鈴を手のひらで転がして音を立てた。
「ノラ猫なんてね、素敵なものじゃ無いの。一人で生きて勝手に死んでいく。誰にも気にされずにね。雨や土に汚れて生きているのに、貴女は綺麗だって言って…宝物までくれたのよ?」
ゆっくりゆっくり近づいていくと、ユキさんはとても幸せそうに笑いながら、何故か怯えるように震えていた。
「そんなの、好きになっちゃうでしょ」
近づいた私の顔に急に前足を乗せたユキさんは、それ以上近づけさせないように力を込めて私を抑えていた。
「でもね、貴女はやっぱり猫じゃないの。このまま生きていてはダメ。……戻るのよ、貴女を待っている家族もいるんだから」
「……で、も…っ!……ユキさんも一緒がいいです!」
母親の元へ帰りたいというのは今や確固たる思いだ。でも、ユキさんを置いていく事はどうしてもできなかった。
「ユキさんが居なかったら、私……笑ってなんかいられません!ユキさんが全部教えてくれたんです!…お母さんへの思いも、自分自身の事も…!」
顔に乗せられた前足を振り払うと、地面をぎゅっと握りしめながら私は大声を張り上げた。
「最初に猫になってから出会った時…とても心細くて。私に構ってくれる人なんていませんでした…それは、人の時からもずっと。…でも、ユキさんはずっと待っててくれたじゃないですか!私が屋根に登るのにモタモタしてる時も、毎日辛くてベランダで一人でご飯を食べている時も、ずっとユキさんが居てくれたから…っ!」
毎日辛くて真っ黒な日々に、唯一綺麗な白色が飛び込んでくれる事がどれだけ幸せだったことか。叫び続ける私の声が涙に濡れ始めても、ユキさんはじっと私を見下ろしているだけだった。
「ユキさんに言われて初めて飛び上がってみたら、とてもとても高く飛べて…その景色はとても綺麗でした。…私が見ていたちっぽけで真っ黒な世界を見下ろせるくらいに。ユキさんが居なかったら、知れなかったことです!」
だから。
「だから…一緒に居て下さい!」
初めて必死になって願った。
母親に話を聞いて欲しいとも、クラスメイトにからかうのをやめて欲しいとも言わなかったが、ユキさんが離れてしまう事がどうしても耐えられなくてそう叫んだ。
「言ったでしょ。私がユキなのは貴女が居たから。私は、貴女のために存在するの。……でもね、貴女はもう白猫なんて逃げ場、いらないでしょう?」
ユキさんの雪のように冷たい言葉が、私を貫いていく。ほんの一段の階段の差がとてつもなく大きく感じられ、私は動く事ができなかった。
「簡単よ、屋根に登るくらいにはね。…ほんの少し勇気を出して。ほんの少しだけ行動してみたら、貴女を包む世界は全て変わったんでしょう?」
「………はい…」
「真っ黒っていうけれど…あの時太陽に反射して煌めいていた貴女は真っ白だったわ」
「…は、い………っ」
「貴女がそんなに白くて綺麗だから、周りは少し黒く見えちゃうわよね。…だから、お願い。貴女の白さを周りに分けてあげて?」
「…………はいっ…!!」
何故だか本能で理解してしまったのかも知れない。私はいつのまにかまた昨日のように大粒の涙を流して泣きじゃくっていた。
「貴女と出会えてよかったわ。…次また会えるなら、また笑ってちょうだいね」
「………ユキさんっ…!」
泣きながら走って飛び付くと、ユキさんはヒラリと身をかわして階段を登りきり、その姿が見えなくなってしまい、鈴の音だけが遠くに響いていった。
慌てて私も階段を登りきり走り出そうとするが、足がもつれて思い切り転んでしまう。
「いたっ…!」
石造りの床に脚をぶつけ、痛みが走る。
ジンジンと痺れる脚を見てみると、そこには擦り剥けて血が流れる膝が目に入った。
土に汚れたスカートの下に。
「オトネ………?」
その声に顔をあげると、そこには昨日見た格好のままで神社の方から歩いてくるスーツ姿の母が立っていた。
その瞳はしっかり私を捉えており、私が目を合わせた時には潤いがたまり、ゆっくりと涙が一筋頬を伝い落ちた。
「オトネ…っ!!」
「おかあっ…!」
全て言い終わる前に私は、母の腕にキツく閉じ込められていた。ぎゅっと私の服を握りしめる母の手は震え、耳元には涙を流している母の嗚咽がとても大きく響いている。
「お母さん…ごめんなさい、心配かけて」
母の温もりは、擦りむいた膝なんて忘れてしまうほどに温かく、そして幸せという気持ちを湧き上がらせてくれた。
「…オトネ…っ…!無事で良かった…っ!!」
「お母さんの方が、無事じゃないよ…」
この二日で枯れるほどに泣いたはずだったが、私の目の奥から、まだまだ熱い涙が零れ落ちてくる。
抱きしめてくれている母親の髪の毛をそっと肉球の無い手で触れてみると、ゴワゴワとしており、お風呂に入れなかった私の猫毛よりも汚れていた。
それでも母親の匂いはとても心地よくて、その髪の毛をきゅっと握りしめながらその身体へと顔を押し付けた。
★金曜日★
ゆっくりとまぶたを開いた時、私の目に入ってきたのは私を抱きしめる母のパジャマだった。
のそのそと猫の身体になった時に覚えた動きで身体を柔らかくして腕から逃げたのだが、眠っている母は無意識にまた私をその腕の中へと閉じ込めてきた。
「ぅー…もう…」
御手洗いへと行きたかったのが、この様子ではまた抜け出しても捕まえられてしまうだろう。
困った声を上げた私の頬はきっと緩んでしまっているのかもしれない。はじめての幸福感に身を委ねて母の身体を抱きしめて考えるのは、昨日の夜のことだった。
家に帰ってきてから今までの時間を取り返すように母親とは沢山沢山お話をした。
仕事を休み、毎日私を探し回ってくれたせいで汚れてしまったのを綺麗にするように一緒にお風呂にも入った。
一週間もどこに行っていたのか、と当然の質問もされたが、それは「覚えていない」とだけ返しておいた。
夢か現実か今でもよくわかっていないのだ。母に話すには自分でも整理がついていない。
お風呂から上がり、申し訳なさそうにインスタントのご飯を出してくれた母親と並んで食べた晩御飯は、食べ慣れた味だったが、その中には確かに幸せの味が入っていたように思える。
それから布団の中でも沢山お話をして、眠気に負けてしまうまでずっとずっと母は私を抱きしめながら会話をしてくれた。
ユキさんが言ってくれたように、世界はほんのちょっとした事で景色が変わり、一瞬で世界が幸せの色に染まっていたのがよくわかった。
ただ一つ。
ベランダに白猫が現れなかったことを除いて。
★ある晴れの日★
私がゆっくりとまぶたを開いた時、目に入ってきたのは八時十五分を指す目覚まし時計だった。
この間買ってもらったばかりのピンクの可愛らしい小さな時計は、無慈悲に時間を私に教えてくれていた。
「えぇっ!?…遅刻!!」
勢いよく布団を蹴り上げて起き上がった私は、そのまま階段を一段飛ばしで勢いよく駆け下りてリビングのドアを開け放った。
「お母さん!!起こしてよっ!!」
「おはよう。オトネ。お母さんはちゃんと起こしたわよー?」
リビングにはいい匂いのするスクランブルエッグとチーズの乗ったトースト、温かい牛乳が並べられていた。
「もう、初日から遅刻とか目立ちすぎるー!」
ばたばたと音を立てながら着慣れていない制服に手を伸ばし、猫っ毛の髪をブラシで整えながら座る。
「って、またコレ?…もー、飽きちゃったよー」
「いいじゃない。お母さんの好物なんだもの」
優雅にコーヒーを傾けながらトーストとスクランブルエッグを食べている母親と向かい合って座るのは昔では考えられなかっただろう。
最早、今ではそれも日常になってしまっているのだが。
「文句言ってる暇あるなら早く食べなさい。…リビングの時計遅れてるのよ」
「…っ、もう!」
早く言って!とまた大声で叫ぶと、携帯を取り出して時計を確認する。
遅刻はほぼ免れない事を確認した私は、急いでトーストを持ちながら今までとは違う形のカバンを肩に担いだ。
母親の可笑しそうな笑い声と「いってらっしゃい」の言葉を玄関の扉で蓋すると、履き慣れない靴を慣らす暇もなく動かしていく。
事前に下見を済ませていたおかげで道に迷う事もなく、ひたすらに走っていく。
ショートカットのために公園に入ると、そこには小さなアイスクリームワゴンとその横のベンチに座るひとりの女の子がいた。
カバンを地面に置き、両手でアイスクリームを食べているその子は、私と全く同じ格好をしていた。真っ黒のセーラーに赤いリボン。
間違いなく同じ学校。しかも同じ一年生のリボンの色だった。
もっと言うのなら、今日から一年生になるリボンの色、だ。
「これがアイスクリーム…美味しすぎる…!」
キラキラとした瞳でひとり呟く彼女は必死にアイスクリームを舌で舐め溶かしていた。
「あ、あのっ…遅刻しちゃいますよっ!…入学式、ですよねっ?」
「……あら?……もうそんな時間?」
マイペースそうにのんびりとした口調の女の子はカバンをめんどくさそうに持ち上げ、大切そうにアイスを抱えながら立ち上がった。
「遅刻しても死ぬわけじゃないから大丈夫だよー。のんびり行こう?」
へにゃ、と力の抜けた笑顔を見せた可愛らしいその子はゆっくり私と並びながら歩き始めた。
「アイスクリーム食べる?」
「いや、いらない…!遅刻しちゃうよーっ!」
大丈夫大丈夫、と繰り返しのんびり告げた彼女は、いらないと言っているのに手に持ったアイスを私に押し付けてきた。
「美味しいよー?幸せは分け与えないとねー」
朝日を気持ちよさそうに全身で浴びながら女の子は私の顔をニコニコと見つめていた。
「溶けちゃうよー?」
「っ…もう…っ!」
そう言われると慌てて口をアイスクリームに付ける。
それはキン、と冷たくて。
四月にしては暑い今日にはぴったりな涼しさを伝えてくれた。
「冷たくて美味しい…!」
遅刻の不安もアイスと同じように溶けてしまったのだろうか。
それとも目の前の女の子に感化されてしまっているのだろうか。
アイスを楽しむ余裕が出てきた私は、アイスを分けてくれた女の子に笑顔を向けた。
「あの、アイスありがとう。…私はオトネ…音に子供の子でオトネ!…貴女は?」
そう聴くと、マイペースなゆったりとした歩きをしていた女の子は、満面の笑顔で立ち止まった。
「オトネ。…ありがとうね?……また、笑いかけてくれて」
立ち止まった彼女が春の風に吹かれ
どこからともなく綺麗な鈴の音が、どこまでも響き渡っていった。
以上です。
よろしければ連載もしておりますのでそちらもお時間あるときに見てくださると幸いです。
ありがとうございました。