淡海にて
秋水が瞬間移動した先は上下逆となっていたが、琵琶湖の遙か上空だった。薄い雲を挟んで陽の光が、黒い湖面に細かく反射しているのが垣間見えた。
「うわあああ――――!!]
落下しながら先に瞬間移動してきた球状結界が、弾け飛ぶ瞬間も目撃してしまった。
湖面に爆風の衝撃波による同心円状の波紋が広がる。まだ残っていた爆裂魔法の熱エネルギーが水蒸気を上げて徐々に冷却されてゆく。風が収まった後は雲が発生し、ゲリラ豪雨を降らせるかもしれない。
「わあああ! ティケ――!」
空中で何とか体を捻りながらティケを探した。落下スピードは早く、風圧で目が開けていられない。平衡感覚も麻痺していたが、広大な水平線上のどこにも人影を見出す事はできなかった。
「――――――――――――!!」
もう湖面まで数百メートルもなかった。このまま激突すれば、間違いなくショックで死亡してしまうような速度だ。
……これが映画なら、ギリギリでヒロインが助けてくれるんだけどな…………。
時間の進み方が明らかに遅くなり、まるでスローモーションのようだ。命の危機に極限状態まで活性化した脳細胞が、処理速度をフルに発揮しているのだろう。
……あと水面まで数十メートルか――。
妙に冷静となって両目を閉じると、覚悟を決めた。
琵琶湖の水は冷たいだろうな。
……ティケ…………はどこだ?
✡ ✡ ✡
――急に耳障りな風切り音が感知できなくなり、やがて沈黙の世界が訪れた。そっと瞼を上げると、そこは湖面上だったのだ。
自分だけが動いており、一時停止ボタンを押したように水面が全く止まっている。
時間の流れが、停止してしまったかのようだ。
『僕はとうとう死んでしまったのか……』
立ったまま360°見回すと、どうも西田秋水は琵琶湖の中央にいるようだった。遠くの琵琶湖大橋の位置から考えて、やや湖北よりの静かで、水も綺麗なままの風光明媚な場所だろう。
彼は何かに導かれるように、湖岸に向けて水の上を歩き始めた。氷のようだが冷たくもなく、ほとんど滑らない。
暫く歩き続けると、真っ赤に輝く物体がユラユラしながら上空から降りてくるのが見えた。
陽光を眩しく反射させる目標に向け、別段急ぐ訳でもなく、そのまま歩を進める。
紅い光の正体が分かった。
握り拳大の心臓を思わせる不思議な宝石だったのだ。
秋水はまだ、ぼんやりとした記憶の糸を手繰りながら、浮かんだままの宝石を手に取る。
――これはワイバーンが現実世界に顕現するための依代に使っていた宝玉の類いに違いない。
――確かドラゴンドロップと呼ばれる、ディアブルーンにおいて誰も目にした事もないような伝説クラス・最高ランクの超レアアイテムだろう。
でも今の秋水にとっては、何の価値も見出せない無用の長物だ。
彼は無言で、まだ熱いドラゴンドロップを制服のポケットにしまい込むと、再び歩き始める。
……どのくらい歩みを進めたのだろうか。曇り空となった湖面を覆う、白い霞の向こうに人影を見付けた。
「――――ティケ!」
秋水はすぐに落胆する事となる。
近寄るにつれ人影は、はっきりと正体を現わし、明らかに背丈や姿形が別人だと分かったからだ。
思わず緊張し、余計な瞬きをした後、瞼を手の甲で拭う。
そこには白スーツ姿の見た事もない青年が、水上に独り佇んでいた。
後ろ姿ではあるが、14歳しかいなくなったはずの世界で、大人の姿を保っている……。
西田秋水は明らかに只者ではない人物を見据えると、平常心を保ったまま無言で近付いていった。




