二部 古河 肆
「なんと、それはまことにござりまするかっ?」
安定していたかに見えた関東平野が、再び怪しく蠢動し始めたのはそれからたったの四年後のことである。
「…やむを得ぬ。こちらは知らなんだではすまぬゆえ」
志保の悲鳴のような詰問に、苦虫を噛み潰した蒼白な顔で晴氏は答えた。
天文十四(一五四五)年九月のことである。志保の弟、氏康が北条を継ぐや否や、かつて北条に奪われた河東郡を取り戻そうと画策し始めた西の今川義元が、これも北条に恨みを抱く扇谷、山内両上杉と連合して、北条を挟み撃ちにするという盟約を結んだ上で挙兵した。
こうなると、氏康としても捨てては置けない。
「まず今川に当たる」
といって、河東郡へ出陣したのはいいが、その間に古河晴氏の嫡子、藤氏が勝手に連合軍側へ「お味方する」と、申し送ってしまったのである。藤氏も、もはや二十代半ば。
「時折、氏康の態度が気に食わぬ、とは申しておったが…」
「いえ、これは私の責任にございます」
もう、何度も会議を重ねたのに違いない。志保の寝所へ引き上げてきて、この上なく疲れたため息を漏らした晴氏を労わるようにその背を撫でながら、志保もまた、頬から血の気を引かせている。
(新九郎殿が訪ねてきたあの晩、あの折にもう少し突き詰めて話し合っておれば…)
志保の胸に、彼女らしからぬ帰らぬ愚痴が繰り返し沸き起こる。
青年に成長した藤氏は、同年代の氏康の公方家への態度を常々、臣下らしからぬと憤っていたし、何より氏康が着々と公方家の基盤である関東平野へ侵入してきているのが気にくわぬのだ。
「北条に公方の土地をじわじわと蚕食されるままでよいのか」
「先代(氏綱)とはわれらに対する接し方がまるきり違う。冷たいというか、慇懃無礼と申すか…いかに外戚とはいえ、臣下としての分はわきまえてもらわぬと」
などと、志保の前ではあからさまに罵らぬが、それに近い事を父母の前で漏らすようになっていた彼のこと、同じように北条へ恨みを抱いている両上杉の当主からの誘いに、うまうまと乗ってしまったのも、
「若いゆえ、全貌が見えぬ。簗田晴助(高助嫡男)も、何度も諫めてくれたのじゃが」
晴氏が吐息とともに漏らすように、若さのせいとはあながち言えぬものがある。氏康も氏康で、
「姉に辛い思いをさせておきながら、片腹痛い。目の前の一人を幸せに出来ぬ者が…」
あの晩に激しく姉へぶつけた言葉そのままの感情を、晴氏とその血を引く者へ持ち続けているのであろう。それが、藤氏の言う慇懃無礼、ということに繋がるのに違いない。
「ともあれ、情けないがまた、こなたの力を借りねばならぬ」
「はい、私で出来ることならいかようにも」
こうして、志保が夫の要請で、弟である氏康へとりなしの手紙を書いたのだが、果たしてそれを氏康が読んでどう感じたか…。
「藤氏殿は、公方家のご嫡子。嫡子がそう申されたということは、公方そのものが管領家へ味方すると申されたということ。ならば後からどれほど口に糊しようとも、公方家として連合軍側へ組するということには変わりござらぬ」
その意味の返書が、駿河河東郡から古河へ届けられてきたのが、同年九月半ば。それからは、さすがの氏康も背後が気にかかって義元をあしらいかねたらしく、十月に入ると徐々に押されてついに三島の長久保城まで落とされてしまっている。
これは、氏康が家督を継ぐと同時期に、父を追放して家を継いだ甲斐の武田信玄の仲立ちにより、ほどなく和睦が成立しているのだが、関東方面でも九月末頃には、川越城が、里見氏と両上杉の軍に城を囲まれてしまっていた。さらには「公方家」として藤氏が加わっている。これを見て日和っていた関東の豪族のほとんどが、数の多さで圧倒的に勝る連合軍側に周り、北条にとってはまさに四面楚歌の状況に陥ってしまったのだ。
とはいえ、北条軍の強さを良く知る管領家のこと、戦力を小出しにしては様子を見、そのたびに北条綱成が良く奮闘して追い返すという、いわゆる膠着状態に陥り始めたのがその数ヵ月後である。
氏康も、川越付近へ八千の兵を率いて到着したのはいいが、あまりにも敵の数が多すぎたため、川越を遠巻きにして攻め倦んでいる、決め手になる戦機が敵味方ともに欠けていたため、その膠着状態はさらに長引いて、年を越した上についに春がまた巡ってきたのだから、城を守る側も、攻める側も何とも根気強いものだ。
晴氏と志保も、何度手紙を出して諫めたところで一向に聞く耳を持たぬらしい藤氏を、ただはらはらしながら心配するしかなかった。
その頃、ウンカのように川越城の周りにひしめいていた軍勢の間をかいくぐって、古河城の志保へなんとか報告しに来たのが、川越城を守っていた北条綱成の弟、福島勝広である。
「どうか、我らの兄をお助けくださりませい」
彼自身は、結果的には川越の救援軍として到着した北条本隊、つまりは氏康につき従っていたものらしい。だからこそ、戦が起きている周辺を、ぐるりと迂回してやって来られたのだろう。
古河城内の北条館、詰めの間に集合した志保以下、北条の面々の前で、福島勝広は平伏しながら肩で息をつきつつ、
「連合軍の数は、およそ七万と聞き及んでおりまする。我が兄も奮戦してはおりますが、あまりにも包囲しておる連合軍の数が多すぎ…かくなる上は、やはり志保様…お方様のお力をお借りせねばと。否、これは手前の独断にござる」
「…綱成は、確か為昌の後見役に回ってくれておる方と聞いておりましたが」
「はい、春松院(氏綱の戒名)様も、その器量を愛でられて、志保様の妹御と北条の御名をお遣わし下されました。義弟を助けると思し召されて、どうか公方家だけでも兵をお引き下されば」
「それは、なあ…」
出来ない相談ではない。父である晴氏が廃嫡するとでも言って脅かせば、藤氏は慌てて陣を引き払うだろう。その案も何度となく、二人で話し合うたびに出ているのだ。だが、
「今となっては新九郎殿のほうが、そのように助けられることを承知いたしますまい」
二十年以上前、北条が三浦を包囲したときの事をありありと思い描いて、志保はため息を付いた。今は、あの時とは全く逆に、北条が包囲される側になってしまっている。
どこからも救援は来ない。いや、氏康が救援軍として到着してはいるが、七万と八千では話にならない。
「藤氏殿も、私どもの言葉をお聞き入れなく…他に手立ては思いつかぬのじゃ」
「お方様にも、打つ手なしと言わっしゃるか…我が兄を見殺しに」
福島勝広は、志保の言葉にがっくりと肩を落とした。志保もまた、北条館にいる全ての者とよくよく話し合ったに違いないと、それが分かるだけに、彼の双眸にはみるみるうちに熱い涙が溢れてきた。だが、
「落ち着かれよ、福島とやら」
襖が開いて、古河城の主が顔を出す。皆が一斉に平伏する中を悠然と晴氏は進んで、志保の隣に座を占めた。
「余が出る。出て、藤氏を丸め込む」
その言葉に、座が一斉にざわめいた。静まるようにと手の平で押さえるような仕草をして、
「共に川越を攻めると見せかけて、公方家だけは出兵を控えさせる。ご使者が城中と連絡と取る時には、公方の陣を通り抜ければよい。藤氏が率いている兵どもに問われても、公方家の使いじゃと申せ。この晴氏が倅と共にあれば、こなたにも北条にも手出しはさせぬ…これが、余の出来る精一杯のこと」
「はい、はい…それだけでも…感謝致しまする!」
晴氏の言葉を聞いて、福島勝広は涙ながらに再び平伏した。
こうして、北条館に詰めていた皆が、とりあえずそれぞれの部屋へ引き上げていったのが、もはや緑が鮮やかに光り始める五月十二日の夜。
「…晴氏様、よいのでござりまするか?」
白い夜着を夫の背に着せ掛けながら、志保は問うた。
「なんとか北条を助けようとして下さるお気持ちは、大変にうれしゅうございます。ですが、きっと私めの弟は、それだと余計に」
「誤解する、か」
「はい」
志保が頷くと、晴氏は苦笑して振り返り、志保の肩を軽く叩く。
「それでもよい」
「えっ? あの、でも、それでは」
「子の間違いは、親が正さねばならぬ。子の過ちは親の過ち…余は、北条の力があったゆえに小弓公方も滅ぼせた。武家はともかく、民は今でも北条を親のように慕っておろう。ならば、その北条が恐れ敬う公方は、もっとずんと偉いのだと民に思われるように…そうありたいとのう、思うておったが、我等の徳は北条のにくらべると羽毛のように軽い。初代成氏から余で四代、民のことを少しでも考えることのなかった報いが、今来たわ」
底で再び晴氏は苦笑したが、次の瞬間、真面目な顔に戻って、
「こなたの弟御は、この戦いにきっと勝つであろう」
「なんと仰せられました!?」
「よい。こなたももう休め。余も休む」
志保が驚いて叫ぶように尋ねた言葉を、晴氏は軽くいなして床に入った。やがて軽い鼾すら掻き始める夫の顔を、志保はまんじりともせずに見つめていたのである。
ついに晴氏が参陣すると聞いて、連合軍は沸きかえった。逆にそれを聞いて、この上なく憤ったのは北条側である。
天文十四年五月十八日早朝。晴氏が手勢を率いて公方家の陣に到着すると、あらかじめ彼の到着を聞き知って待ちわびていたらしい藤氏始め、関東管領両上杉家、その他関東の豪族がそこへ集っていて、馬から降りた晴氏に膝をつき、一斉に頭を下げた。
「…変わりは無いかの」
「はい、父上」
晴氏が藤氏へ尋ねると、若い彼は得意そうに胸を張って、
「さきほど、公方家の使いじゃと申すものが陣を通り抜けていきまいたが、それ以外は…父上から城の者と救援に参った北条の者、双方へ降伏をことづかっておると申しておりましたゆえ、深く調べるのも失礼かと…よって、そのまま通しました。よろしゅうござりまいたか」
「…うむ」
どうやら、北条のほうも彼の到着を知って密かに動き始めたらしい。しかしそれを表情に上せずに、晴氏は平然と頷き返した。
「これから、ひょっとするとその返事が参るかもしれぬ。その時は余を通せ」
「はい」
己は今、実の息子をたばかった。だが、これでいいのだと志保の顔を思い浮かべながら、晴氏は瞼を伏せた。
その使者とはまさに福島勝広のことであり、その時、氏康は彼を使って連合軍への真夜中の急襲を川越城内の綱成へ告げていたのである。
「父上! おっしゃったように、降伏の使者が参りました!」
弾むように言って、藤氏が北条からの使者を連れ、晴氏の前へ示したのが、その日の夕刻。
「ふむ…」
それが福島勝広だと知って、晴氏の目は細くなった。
「氏康殿からの返事か」
「…はい」
福島勝広もまた、恐れおののいている体で、畳んだ書状を懐から取り出し、藤氏へ恭しく捧げた。
それを藤氏が受け取り、父へ渡す。さらりと広げて目を通していた晴氏は、
(…偽りの降伏…)
そう思いながら、
「北条が、降服するそうな」
どやどやと集まってきた豪族諸氏へも読むようにとその書状を回させる。
「すると、晴氏様の降服勧告が効きましたわけで」
扇谷朝定が、どんぐり眼を見張って晴氏を仰げば、
「さすがは公方家」
山内憲政もまた、口ではそう言いながら、信じられぬもののように晴氏を見る。
無論、彼らですら公方家の威光など屁とも思ってはいない。ましてやあの氏康が、公方から勧められたからと言ってこうもやすやすと、
「兵たちの命を救ってくれるなら、川越城もそっくり明け渡し、小田原へ引っ込んで自分は頭を丸め…」
などと、気が狂ったのでもない限り言うわけがないと思っていたのだ。
「戦は終わりじゃ。明日には引き上げる。よって、その準備をしておくように」
ともかく晴氏がそう言うと、豪族達は一斉に歓呼の声を上げた。囲むほうも辛かったのだと改めて晴氏が思いながら川越城を見上げると、城はいかにも観念したもののようにひっそり閑としている。
(…今宵は眠れぬ夜となろう)
福島勝広も「公方の陣だけは襲わぬよう、氏康が兵へ徹底している」と言っていたが、万が一ということも有り得るし、何よりも、
(きっと、彼は仕掛けてくる)
寄せ手の連合軍が、すっかり油断して眠ってしまった後も、その予感が彼を眠らせなかったのである。
果たせるかな夜半、明かりもつけずに北条軍は連合軍へ奇襲をかけてきた。その結果、扇谷上杉家は壊滅、山内憲房は上野の平井城へ遁走する。それと見て、豪族達も次々に北条へ忠誠を誓って、日本三大奇襲合戦の一つに数えられる「川越の戦い」は終結したのである。この戦には八重の弟、多目元忠も加わっていて、深入りしようとする氏康を危険だと見てほら貝を吹かせ、退却させたそうな。
ともあれ、この戦いの勝者となった北条は事実上、関東の覇者となったのである。
それらを尻目にほぼ無傷で古河城へ引き上げた古河公方親子は、それを追いかけるようにやってきた北条の使いの口上を聞いて、床へがっくりと両手をついたのだ…。
「無礼であろう。今すぐに囲みを解かせなされ」
しかも、有無を言わせぬように、北条軍が古河城の周りを取り巻いているという。柳眉を逆立てて使者を怒鳴りつけたのは、むしろ志保の方で、
「公方様には、北条へ一切手出しをなさらなんだ。使者が通るのを黙って助けもなさった。氏康殿もようよう承知のはず」
「それゆえ、命だけは助けようと我が殿は申されておられるのです」
青ざめた公方の奥方の顔を冷然と見返して使者が述べた、氏康が公方家へ突きつけた「降服条件」は、藤氏の廃嫡、すでに元服して義氏と名乗っていた梅千代王の公方就任、晴氏の隠居…の、三つである。
「我が殿は、二番目の条件への付け足しを、口上で言い添えよと申されたゆえ、お伝え申し上げる」
そして言い終えたかと思った使者は、さらにぐっと胸を反り返らせて、
「これを呑んで頂くことは、殿の御姉君、志保様が侍女であった八重に報いるためでもある、との仰せ。そして、一度は良いが、二度目は許さぬと…我等には分からぬながら、確かに伝え申した」
…尊大な使者が帰って、ようよう北条軍の囲みは解けた。
「…覚悟はしておったが」
近侍の者を全て遠ざけて義氏を代わりに呼び寄せ、城の広間で家族だけになった時、晴氏は、
「もっと近う。父へそれぞれの顔をよう見せてくれ」
志保と藤氏、義氏兄弟に己の周りへ集まるように言って、
「寂しいものよのう…こうなってみると、やり残したことばかりが思い浮かぶ」
再び苦笑した。すると、
「父上は、氏康叔父のあのような条件に従って隠居なさるおつもりか」
藤氏が、志保の手前もあらばこそ、噛み付くように言って膝を乗り出す。
「そうじゃ。あのような戦が起きたのは、元はと申せばこの公方家の統治がなっておらなんだがゆえ。こなたも、本来ならば公方の威信にかけて止めねばならぬところを、逆に煽った…それなりの責は取らねばのう。あの簗田高助も、氏康殿の怒りを買って頭を丸めた。嫡男の晴助に後目を譲るよう強要されて、こなたの廃嫡も認めよと責められたそうな」
「…相すみませぬ…継母上がいつものご教示、うかと忘れまいてござる」
それらの会話を黙って聞いていた志保は、ついに両手で顔を覆った。
(新九郎殿は、公方家がこたびの参戦ばかりでなく、私を公方家の室へ無理に入れるようにした簗田殿と、簗田殿が八重のことでがなさった処置のことにも怒っていやる。私が公方家へ無理に嫁いだと未だに思うていやる)
だが、それをまさかに藤氏や、当の義氏の前で告げるわけにもいかぬ。
「継母上」
その顔を覗きこむようにしながら、藤氏が何か言いかけようとすると、
「…失礼いたしまする」
すらりと襖が開いて、一人の僧が顔を出す…と見れば、それはほかならぬ簗田高助で、
「永らくのお暇乞いに参りまいた」
思わず言葉を失った体の主の一家をずいっと見回して、静かに微笑ったのである。
変わることが出来たかもしれない公方家を、これからも見守ることが出来ずに残念である、と、そういった意味の事を述べ、
「…藤氏様、関宿へ参られませぬか。この祖父の相手をしてくだされ」
彼にとっては外孫にも当たる藤氏を、関宿城へ引き取りたいと申し出たのである。
(家族が、ばらばらに…)
藤氏が高助に促されて出て行くと、広間は急に寒々とした。
(私は、間違っていたのだろうか)
志保は、これも頭痛がすると言って広間から引き上げながら、血の気の引いた頬を俯かせた。
弟の北条氏康も継子の古河藤氏も、目指すところは同じ、関東の民を安んじることだったのだと信じたい。だが、全てがどこかで少しずつ掛け違った。結果、晴氏は隠居、藤氏は幽閉同然の扱いを受け、後には血統上は志保の実子である義氏が立てられようとしている。これは北条の傀儡だとたれもが見るだろう。
(新九郎殿は、一体何を考えておいやる…)
関東公方を頂いて、その威光の元に北条が号令をかける、氏綱の方針ではそうであったはずなのだ。戦がなくなるものならそれでよいと思っていた志保だが、その夫と共にいつ殺されるか分からない状況に陥ってしまった。
氏康は、しかしやはり「名君」であったらしい。民に対する姿勢には、祖父早雲入道から受け継がれる「成り上がり精神」を崩さず、旧領と同じ施政を新しく得た関東の領土にも敷いたので、いやがうえにも北条人気は高まった。
(いつ、その時が来るか…)
しかし、古河城では、そうした思いを内に秘めつつ、皆が薄氷を踏む思いで日々を過ごしていたのだ。
そうこうするうち、簗田高助が天文十九年十一月八日に亡くなり、藤氏はしかし高助の後を継いだ晴助が申すまま、関宿に留まっている。
高助の弔問へおざなりに使者が立ったきり、北条側からの無体な要求が来ることもなく、表面上は穏やかに過ごしていると思われた古河城に、再び波が立ったのはそれから四年後の、天文二十三(一五五四)年のことである。
「晴氏様には、波多野にて我等北条が建てまいた館へ、おいで遊ばされるがよいかと存じまする」
天文二十一年に、ついに北条軍が再び古河城を囲んだ。その上で、暗に「幽閉」を言い出したのである。
「なに、三年ばかり、そちらでゆるりと過ごされれば我が主の怒りも解けましょうて」
そのたびの使者に立ったのは、寄せ手の大将である多目元忠だった。この八重の弟は、観念したように目を閉じている晴氏と、蒼白になって唇を震わせている志保の前で、しれっとそう言ってのけたのである。
さらには、
「古河四代晴氏は、これより義氏へ公方の地位を譲るものとする…と、布令ていただきたい」
とまで言い、
「こなた、それでもあの八重の弟かっ!」
「よい。それでよい。公方家がそれで続くのであればなあ」
ついに感情を爆発させた志保を、反って晴氏のほうが抑えた。
「参ろう。下河辺の民をあまり不安にさせてはならぬ。だが、その前に、しばらく遠慮せい」
「は」
「案ずるな。奥と二人、しばし語らいたいだけじゃ」
「…かしこまりまいた。北条もそこまで情薄きものにあらず」
多目元忠は恩に着せるように言い、人払いを命じて己もその場を去っていく。
「…顔を、見せてくれぬか」
夫婦二人になった古河城の広間で、晴氏は志保の頬を両手で捉え、そちらを向かせた。
「最初にこなたを見たときはな、なるほど美人には違いないが、なんと賢しらぶった、鼻持ちならぬおなごかと思うた」
「…まあ…」
「北条が、手元不如意の我等につけ込んで、大枚とともに送り込んだ間諜じゃとものう」
「ふふふ。そう申せば、そのようなことを仰せでござりましたなあ」
笑いながら、志保の頬に涙が零れた。それを指先で拭いながら、晴氏もまたかすかに笑う。
「こなたが嫁して、少しずつ…目には見えぬが、何かが変わった。それに気づくまで十年近く。改めて言葉も交わさずまた十年…夫婦として共にあった三十年余りのうち三分の二近くを、余はこうしてこなたと向き合うこともなく、過ごしてきた…もったいない事をしたものよと、この期に及んで悔やんでおる」
「…いえ、いいえ」
「八重がことも…簗田の配慮で取替え子をした折も、こなたは余を咎めるどころか己の子として梅千代王を育てると言い放った。偽善に過ぎぬ、どうせ鍍金はすぐに剥がれると、その時も余は鼻で笑った…じゃが、それは間違いだったとすぐに気づいた。余はずるい者ゆえ、最後の最後でこなたに言いたいだけを言うて、己だけ逃げようとしておる」
溢れる涙をそのままに嗚咽を堪えている妻の瞳を見つめたまま、
「…仏の教えによると、あの世には極楽浄土というものがあるそうな」
ふと、晴氏は話を変えた。
「はい」
「自害をしたものは、そこへはゆけぬという。こなたがもし死ねば、行く先は間違いなく極楽であろう。ゆえに、余も恥を忍んで生きる。自害はせぬ…でなければ、こなたにあの世で会えぬであろうからの。もしも極楽というものへ余が行けたなら、そしてこなたに会えたなら、その時は余もこなたのお拾いに誘うてくれ。もっとも、その前に閻魔の罰を食ろうて、地獄とやらに落ちているやもしれぬが」
「…」
言葉にならず、志保は、悟りきったように柔らかく笑っている夫の顔を必死に見つめ返す。そこへ、咳払いの声が襖の外から聞こえて、
「せかさずとも参る」
晴氏はそれへ苦笑しながら言葉をかけた。
「疾う、どこへなりとわが身を連れてゆけい」
思わずすがろうとした志保の手を軽く取って叩いてから、
「こなたに頼むはまこと筋違いながら、義氏を、のう。これからも見てやってくれ」
そっと離して晴氏は立ち上がったのである。同時に襖が開いて、志保は慌てて袖で涙を拭った。晴氏が連れ出されて行くのを確かめてから、入れ違いに入ってきた元忠は志保へ平伏しながら、
「お方様には義氏様を伴われまいて、小田原へお帰りあるよう、これも殿からのご伝言にござる」
「…なんと、のう…」
あまりのことに絶句した志保へ、多目元忠は掌を上へ向けて、開け放しになっている襖を指した。
「これも、公方家に巣食う悪しきものを祓うため。公方家にたかって甘い汁を吸おうとするものを掃除するためにござる。いざ、我等と共に」
「…よろしい。参りましょう」
(北条早雲の孫娘よ。家臣に見苦しい姿をさらすでない)
泣き崩れそうになる己を叱咤しつつ、志保もまた立ち上がったのである。
こうして、古河義氏は第五代古河公方として擁立された。だが、こちらはやはり、北条の操り人形であるとたれもが思った。そしてこれがそのまま、晴氏と志保の永遠の別れになったのである
実際、晴氏の事実上の幽閉は三年続いた。この間に、またしても関東の情勢はめまぐるしく変化し続けている。
川越の戦いの後、平井城に逃れた山内憲政は、その後も氏康に居城を攻め立てられて、天文二十一(一五五二)年、一子龍若丸を質へ差し出して降服したのだが、
「申したであろう。二度目は無いっ!」
かつて、しぶとく抵抗した城の者どもを全て首切ったという、祖父入道の苛烈さをそのまま映した様に、氏康は幼い龍若丸の首を跳ねるように命じたのである。
山内憲政は震え上がって、家老筋であった越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼り、落ちのびていったそうな。
その一方で、氏康は長い間争っていた今川、武田との三国同盟(甲相駿三国同盟)を、晴氏を幽閉した同じ年に成立させている。しかも、「北条の領土内」には極力戦が起きぬように配慮しているのだから、まさに「相模の虎」と呼ばれるに相応しい活躍ぶりである。
さて、志保と義氏が一旦、腰を落ち着けたのはやはり小田原城の一室である。だが、義氏はほどなく小田原から北条の持ち城の一つであった葛西城に移されたおり、そこで古河公方就任の儀を済ませると同時に、氏康の娘を室に入れた。
義氏も青年らしく、手をつけたおなごの一人や二人はいたであろうが、
「兄上(藤氏)が公方のお家を継ぐゆえ、我等はいかなおなごも己の室には入れませぬ」
と、笑って告げていた。だが、叔父の強引さに押し切られてしまったのだろう。
その異母兄、藤氏にも、正式な子が出来たという噂はとんと聞かぬ。関東が戦乱続きであったのと北条の力を恐れて、嫁を勧める余裕のある者はたれもいなかったのだ。
「やはり落ち着きませぬか」
あれから早、三年が経ち、いつしかまた桜の散る季節になった。懐かしい早雲寺の境内を今日も訪れた志保へ、まだ存命であった叔父が声をかけてくる。
「菊兄様」
北条幻庵長綱、当年とって六十四歳。この叔父には相変わらずお見通しらしいと、それへ頷きながら、
(年を取られて、おじじ様にますますよう似て来られた)
「いや、お年を召されて、女ぶりもますます良うなっておられまする」
考えていたのと似たようなことを先に言われ、志保は苦笑した。
せっかくだからと、嫁入り前に志保が使っていた部屋を氏康はそのまま提供してくれた。しかしそれが反って気詰まりで、志保は娘時代のように、再び毎日のように早雲寺へ詣でるようになっている。やはり、弟が一家を成しているところへ「出戻り」である己が邪魔をするのは、
(息が出来ぬわ…)
祖父が眠っているこの早雲寺へ詣でると、初めて楽に呼吸が出来るような気がするのだ。
「やはり、お気がかりは古河の御方のことで。ああ、言わずもがなでございました」
「いえ」
「氏康殿は、北条の者にとってはまこと、得難き将にござるが」
「…はい」
(口数の少なくなられたことよ。しかし無理もない)
故早雲入道の墓前で佇んで手を合わせる志保に話しかけながら、菊寿丸の幻庵長綱は軽く苦笑する。
晴氏の幽閉は、多目元忠が告げたように弘治三(一五五七)年七月には終わっていた。よって晴氏は古河に復帰し、これで志保も古河に戻れるかと思ったのもつかの間、その二ヵ月後の九月には、関宿にいた藤氏が簗田晴助と語らって、古河城奪還をもくろんだ…と、志保には知らされている。
だが、古河城でも志保に仕えていた北条の小者が、こっそりと彼女へ託した手紙には、
「公方の家に生まれながら、義氏があまりにも不憫。北条の血を引く弟ゆえ、この兄よりは幾分かましな政が出来ると思い身を引きましたが、氏康叔父の傀儡がごとき義氏を思うにつけ、胸が痛みます。せめて、ここに武家の棟梁連枝、古河足利公方ありと世の者の瞼に刻み付けたく、継母上だけには藤氏が思うところを告げておきたく…」
と、挙兵の「真意」が志保へ述べられているのだ。
(意地よ、おなごには分からぬ意地じゃ)
読み終えて、かつて三浦義意が苦しげに漏らした言葉が、ふと彼女の胸によみがえった。
その意地ゆえに、ついに氏康と藤氏は手を取り合え無かった。簗田晴助はついに関宿城から追放、藤氏も唯一北条側と互角に戦っていた安房の里見義尭を頼ってそちらへ逃げたのである。
(なんと申しても、正統な古河公方後継は、藤氏様であるものを…)
氏康の若さは、多くの敵を作った。だが、これもあるいは時代というものであったかもしれぬ。
倒される前に倒す、食いつかれるまえに食う…でなければ、
「周囲はこれ、敵ばかり。己の領地は守れませぬし、おじじ様の理想は果たせぬ」
これも確固たる信念を持った目で、まっすぐに姉を見て氏康は言ったものだ。
氏康の代には、もはや時代は大きく変わっていた。いわゆる戦国たけなわの世になっていて、「仕える人間にその価値がなければ、こちらから見限ってもよい…」といったように、人々の価値観も大きく変わっていったのである。
古河へ戻っていた晴氏は、今度は北条側の豪族、野田氏によって下総猿島の栗橋城へと再び幽閉されてしまった。これで、二人が生きている間に再び会えるかもしれぬという望みは、永久に無くなったのである。
「二度目は無い…」
が口癖の氏康も、さすがに姉のことを思い、かつ晴氏が尊貴の身分であることを思うと、それ以上非情にはなれなかったらしい。
「…あの折は、氏康殿をずいぶんと恨みました」
「はい」
寺の一室へ通されて長綱と向かい合い、勧められた茶を手にして、ようやく志保は口を開いた。
「山内上杉殿が逃れられて、そのご養子となさった長尾殿とやらも、義氏殿が公方であるとは絶対に認められぬとの仰せ…これも当然のことながら、またそのことで苦しむ民が出るのかと思いまするとなあ」
「そのことですが、志保殿。氏康殿は近く、義氏殿をご息女ともども、関宿へお移しあるとのこと。それが終われば引退すると漏らしておられるそうな」
「…はい」
この叔父は、どうやら三十年近く経っても志保の好みを忘れてはいないらしい。彼女好みの少しぬるい目の茶が入った椀をそっと両手で包みながら、
「ですが、私はもうどこへも参りませぬ」
彼女はそっと首を振った。
「おじじ様との約束を、ついに果たせなんだ身、どこへも参れませぬ。おじじ様のお側で、おじじ様へ詫びつつ、ここに留まるつもりでござりまする」
「…はい」
しかしそれは貴女のせいではない、と、言いかけて、長綱は言葉を飲み込み、ただ頷いた。
関宿から追放された古河藤氏、簗田晴助は、頼っていった先の里見氏のもとで余生を過ごそうと考えていたらしいが、その里見氏が公方の正統な跡継ぎを抱え込んだことで、逆に野心をたぎらせて、越後の長尾景虎へ救援を要請していたし、それに呼応するかのように関東平野でも、北条に抵抗する豪族が現れて消え、現れては消えしている。なので、義氏は公方として古河に戻るに戻れず、氏康によってその周囲を点々とさせられることになるのだ。しかし志保は、それを見越して「どこへも行かぬ」と言ったわけではない。
そして、三年というまことに短い弘治年間は終わって、永禄二(一五五九)年春。
「姉上、我等ももう、氏政へ家督を譲って引退の身でござる」
「…左様にござりまするか。それは重畳。今までお疲れ様でござりました」
「いや、まだまだ『御本城様』と呼ばれまいて、楽隠居の身にはなれぬが」
「…それは気苦労の多いこと」
小田原城の彼女の部屋を訪ねてきて氏康が話しかけても、志保は通り一遍の返事しかしない。氏康は苦笑を漏らして、
「久しぶりに、この弟と共にお拾いに参りませぬか」
「…そうじゃなア」
「参りましょう、さあ、さあ」
強引に、姉の年老いた手を取って立ち上がらせる。
「本日は、姉上のお誕生なされた日にござる」
「…そうでござりましたか」
四十年前と同じように早雲寺へ向かいながら、今は弟が姉の手を引く。素直に手を引かれながら、志保はただ頷くのみである。やがて桜が咲き初めている境内が見えてくると、
「枯るる樹に また花の木を植え添えて もとの都に なしてこそみめ」
氏康はその歌を口にした。
「おじじ様の理想…いま少しで、この氏康が果たしまする。それまで姉上には生きて、見守っていて欲しい。長生きするとお約束あれ」
「…いや、もう指切りは出来かねまする」
「姉上?」
漆を塗った草履が、境内の石を踏む。立ち止まって顔を覗きこむ弟へ、姉は静かに笑って首を振る。
「私も聞きました。晴氏様がなあ、倒れられたそうな」
「ああ…はい」
「医師の見立てでは、あと一年、保てばよいほうじゃと。晴氏様は、姉のただ一人の夫…それが帰らぬ人となられては、姉も長生きも出来ますまい」
氏康は、返す言葉も見つからず、ただ黙って桜を仰ぐ姉の横顔を眺めていた。氏康にしてみれば、彼女の継子である藤氏は、今この時も里見義尭や長尾景虎に担がれて関東を乱している、いわば憎むべき敵なのである。
(…姉は、我等が間違っていたと言いたいのであろうか)
そう思うとたまらず、氏康は多弁になっていた。
「姉上。この氏康は、民のために良かれと思うて、出来る限りのことをしてきたつもりにござる。古河公方を義氏様に継いで頂いたのも、義氏様なら我等が『成り上がり精神』を多分に理解してくださると思うたゆえのこと、それゆえ」
「…お千代殿」
「はい」
その雄弁を途中で遮り、姉が弟の幼名を呼ぶ。彼を見る顔は老いたが、瞳の光は幼少の頃の彼をわざと厳しく打ち据えたあの時のままで、
「氏政殿にもなあ、困った折は、こなたのひいおじい(早雲)に手を合わせるように、ようよう申しやれ」
それだけ言ったかと思うと、目を弟から蒼く澄んだ空へ移した。
その空には、白い雲が小さく一つ、ぽつんと浮かんでいる。
終
志保の夫であった古河四代公方、晴氏が、栗橋城にてついに帰らぬ人となったのは、それから一年後、永禄三(一五六〇)年五月二十七日のことである。
それを聞いた志保は、叔父である幻庵長綱へ願い出て髪を下ろし、僧号を芳春院として早雲寺の側に同年の秋から小さな庵を結んだ。それから一年後の五月末、
「具合は如何にござりまする」
「菊兄様」
志保もまた、病に倒れた。食物を一切受け付けなくなったと言うから、これも精神的なものが作用していたのかもしれない。
「あまり…よくはありませぬなア。それよりも」
心配した氏康がつけた医師の回診が終わったばかりらしい。彼女へ処方した薬を飲むように、くれぐれも言い置いて長綱へ頭を下げてから、その医師は去っていく。代わりに枕元に座った長綱へ、半ば諦めきったような、悟りきったような様子で志保は呟く。
「いつになれば、関東の民は安んじて暮らせるようになりますのでしょう。やはり、おなごの力では成し遂げられなんだかと、後悔しきりにござりまする」
「フム」
彼からの返事を期待しているのではないし、このような動乱が関東だけのものではないことを志保が認識しているということも良く知っている長綱は、ただ頷いて、氏康が強引に姉へつけた侍女が勧める茶をすすった。
時折、そこへは氏康も訪れて、彼女の無聊を慰めている。晴氏が亡くなって一年余りが経ったが、未だに古河公方の座は安定せず、越後の長尾に擁立されて藤氏が古河へ入ったり、北条によって追い出されたりといった戦いが続いていたのだ。
「せっかくに落ち着いていた下河辺荘の民も、戦続きで難儀しておりましょうな。今年は伊豆も含め、関東は飢饉に見舞われたそうにございまするから」
そこで彼女は遠い目をする。遠い昔、そこを藤氏や義氏と何度となく散歩したことを思い出しているのだろうか。
長綱が口を開きかけると、
「菊兄様。後のこと、よろしゅうお願い申し上げまする」
突如、志保は長綱を見つめてそう言った。
「志保殿、一体何を」
驚いて長綱が問い返すと、志保はその瞬間、瞳へ昔の生き生きとした光を取り戻し、
「志保は、もはやこれまで。自分の体は自分が一番よう知っておる。それゆえ、北条のこと、古河殿のこと、見守うて下され」
「志保殿っ!」
「…襖を、開けてくださりませぬか」
長綱が言われたとおりにすると、そこから志保は蒼い空をしばらく眺めた。
「菊兄様」
「はい」
「雲が、なあ…お天道様の中に、あれ、あのように白い雲が、のんきそうに浮かんでおりまする。どこへお行きやるのでしょうなあ」
言って、志保は目を閉じたのである。
それからというもの、志保は一日のほとんどを昏睡に近い状態で過ごした。幻庵長綱に見守られながら彼女が亡くなったのは、晴氏の死に遅れること一年と二ヶ月余り、梅雨が明けた永禄四年七月九日である。
墓所は彼女が誰よりも敬愛した祖父の寺、早雲寺だったかもしれぬ。しかし、それより四十年あまり後の豊臣秀吉による小田原攻めの際、早雲寺の全伽藍が焼け落ちたため、北条直系の墓所さえ定かではない。
今では、古河城跡に残る義氏とその娘氏姫の墓標が、志保の生きていた証をわずかに物語るのみである。
―了