一部 小田原 参
そして、志保は小田原へは戻らず、箱根権現へ馬を走らせたのである。
「八重」
石段を登った先に友の姿を認め、声を震えさせながら、
「市右は…」
「聞いております」
言いかけると、市右衛門の許婚は固く強張った顔のまま顎を引いた。
「…大殿様の小田原へのお戻りは、まだまだ無いようでござりまするなあ」
「…ウム」
「私も、市右…そのほかの方々の武運をお祈りしまいて、このお社へ写経しに参っておりました」
「八重」
「志保様」
言いかける志保を遮って、友は具足姿のままの彼女の前へ膝をつく。
「無事の御帰還、まことにうれしゅう存じます。お味方の勝利も間近とか。市右もきっと、己の役目を果たし終えて満足したに違いありませぬ。左衛門のじいが手蹟にて我らに戦況を報せてくれておりましたゆえ…覚悟は出来ておりまいたゆえ」
小田原城へ届く松田左衛門からの手蹟のうち、その一番新しいものを常に肌身離さず持ち歩いていたのだと、八重は言った。そのまま毎日のように箱根権現社を訪れ、社の別当を担っている『菊寿様』を相手に、墨をすりながら許婚を思いため息をついたという。
「ここはまこと、静かなものでありました。ほんの山一つ、海一つ隔てたところで戦が起きているのだとは信じられぬほど」
「…」
話し声を聞きつけて、志保の若い叔父が方丈より出てきた。その腕に赤子であった志保の弟、お千代殿を抱き上げて、後ろへ乳母を従えている。姉の姿を見てたちまち騒ぎ、もがく彼を乳母が抱き取って土の上へそっと下ろした。
お千代殿も、今はようよう立って歩くか歩かぬか、というほどに成長している。彼は今日も姉と同じ年恰好の八重の後を慕い、ともに権現社へ詣でているのである。
そして今では、社の境内を我が物顔に歩き回り、乳母をきりきりまいさせているらしい。歓声をあげている弟の声をぼんやりと聞きながら、
「すまなんだ」
やがてぽつりと志保は呟いた。
暦の上でははや、七月。かしましい蝉の声を聞く季節に差し掛かり始めている。
「いいえ」
志保が震える声で告げた『謝罪』を、八重は首を振って受けた。
「市右はしょう様をお守りするのが役目…敵の槍にかかりまいたお味方の武将方、ことごとく首や手足をもがれ、酸鼻を極めた有様でありましたとか…じゃが、あの日、市右や他の者ども…しょう様に従いまいた兵どもら、三浦方によって清められて昨晩小田原へ海路、丁寧に送られて参りまして…船を使えば、戦場より一日もかからぬとはお味方の船団のお言葉で。ゆえにしょう様より先に、市右は帰ってまいったのでござりまする。白い押し花を挟んだ白い紙を胸に携えて、長綱様御自ら読経を上げていただきながら、市右は笑っておりました」
「白い、花?」
「はい…失礼ながら検めさせていただきまいたが」
志保の問いに頷いて、懐から八重は折りたたんだ小さな紙を差し出した。
「北条の勇敢なる姫君へ、と、言葉が添えられておりまいた。皆皆、市右が私あてに残したものだと思っておわしまいたようで…それゆえ、手もつけられずにそのまま。墓へ持たせて参るよりは、貴女様がお持ちになるのが相応しいかと」
受け取ろうとした志保の右手が震えた。泣くまいと堪えていた熱い雫でたちまち視界がぼやける。
「私も、市右も、しょう様を恨んでなどおりませぬ」
それをなんと受け取ったのか、八重は囁くように言葉を続けた。焼けるように熱い喉へ唾を送り込むように飲み下し、志保は受け取った紙切れを開く。
強い夏の日差しに照り映えて、白い紙が眩しく彼女の瞳を射抜く。中にあったのは、確かに、かつて義意とともに根付きを確かめた名も知らぬ花と同じものだった。
木陰に居ても、じっとりと汗は沸く。二人の会話を、その側でまるで眠っているかのように両目を閉じて聞いている長綱の袖を、一陣の風がはためかせた折、
「枯るる樹に また花の木を植え添えて もとの都に なしてこそみめ」
八重が祖父の歌を呟いた。
「市右も、私も、同じ夢を見続けておりまする」
思わず顔を上げた志保に、小さな弟が体当たりするように抱きついてくる。
「お聞きやったか」
二、三度目をしばたたいてから、彼女はその白い紙を折り目通り畳んで懐へ入れた。お千代殿の小さな体を抱き上げて、
「こなた様のなあ、おじじ様が詠じられた歌じゃ。…この夢、我が父上が成し遂げられるか、それともこなた様が継ぐかの?」
泣き笑いしながら、首をかしげて弟を見ると、彼もまた同じように首をかしげて姉を見つめ返す。そこへ、
「おひい様!」
「…じい」
「小田原のお城を探しまいてもお姿が見えぬもので、もしやと兵庫殿へお尋ねしましたならば…やはりこちらへおわしましたか」
孫を失った故だろうか。戦に出かける前よりもめっきり薄くなり、ところどころに地肌が見える白髪頭を振り立て振り立て、松田左衛門が鎧姿のまま、志保へ駆け寄って片膝をついた。
「戦はお味方が勝利にござりまする。伊勢入道におきまいては、十一日に見事、三崎のお城を落とさせまいて後々の始末など終え、こちらへゆるゆると向かってござる」
「しかと左様か」
「はい。このじいが、なんでおひい様へ嘘を申し上げましょう。こなたは先へ参って志保どのへ告げよと、はい、これは入道様直々にこの左衛門へ下されたお言葉にて」
言うと、温厚篤実な『小田原以来』の家臣は懐から汗みずくになった手紙を取り出した。
「仔細は、こちらへ」
おそらくこのたびも、長氏がたれよりも愛している孫娘のためにと、その一念で老骨に鞭打ち、昼夜馬を飛ばしてきたものであろう。
抱いていた弟の小さな体をそっと地面へ下ろしてその片手をつなぎ、志保はそれをもう片方の手で受け取って額に押し頂いた。
「感謝致しまする。じいも、まこと、ご苦労でした」
「はっ」
志保の言葉に、左衛門は恐縮しきって頭を下げた。その前でさらりと祖父から来た手紙を広げ、読み始めた志保の眉は、読み下していくうちに再び曇った。
「道寸、三崎城庭にて切腹致しまいて候。義意、奮戦の末討死。一兵として我らに降伏した者も無く…」
三浦一族と、道寸、義意親子に従っていた兵士たちが傷つき、倒れて流す血で、相模の海面は油のようになったそうな。そして、
(討つものも、討たるるものも 土器よ 砕けて後は もとの土くれ…)
手紙の最後にあった歌は、三浦道寸が自ら命を発つ前に詠んだ歌であると、祖父は書いていた。これから何を志保が感じ取るか…おそらくそう考え、敢えて長氏は記したものに違いない。
(なんと…)
歌としては限りなく拙い。だが、それから伝わる何ともいえぬ刹那く、激しい虚無感に襲われて、彼女は慌ててその歌から目を逸らした。
「他は…他には…義意様、いえ、義意はどのように…最期は」
「おお、我らを散々に苦しめまいた道寸の子めは」
志保が問うと、左衛門は心持ち胸を反らし、
「十一日の未明にござりまする。もはやこれまでと覚悟を決めまいたものか、我らが三崎城の閉じられた大手門へ引っ掛けまいた鍵手の縄を、こう、エイオウと引いております途中に、自らその門を開きまいて、わっと彼奴を取り巻いたお味方をば、これも散々に切りつけ死なせた挙句、やおら懐の短刀を抜き放ち、自らのそっ首をばかっ切りまいて落馬」
「…」
弟の小さな手を握り締めた手に、思わず力が入った。弟が痛がってもがく。彼女の手から長綱がそっと弟の手を離すままに任せ、志保はただ左衛門の言葉へ耳を傾けていた。
「これにて、はい…わずかに残った三浦方の兵もさすがに戦意をくじかれたものと…市右もこれにて浮かばれようと、このじいは老年ながら胸のすくような思いで」
「市右の仇は、大殿が討って下されたのじゃ。そうですなあ、左衛門のじい」
「おお、そうとも」
八重もまた、左衛門が語る戦況の模様に少なからず興奮を掻き立てられたらしい。頷きあう二人を半ば呆然と見比べながら、
「じい、八重」
志保は跪いている二人へ、渇ききった唇を動かして言葉をかけた。
「お千代殿を連れてな、先にお城へ帰っていてくだされ。…後々で、また迎えを寄越してくださるよう、城のものへ」
「しょう様」
「…しばらく一人にしておいてくだされ。それゆえ、早う」
不審げに二人が彼女の顔を見上げる。瞳を閉じて志保が告げると、
「では…」
「祝賀の準備をば、先に致しておりまする」
口々に二人はいい、長綱と志保へ頭を下げた後、乳母を促して去っていく。
「菊兄さま」
やがて再び、境内は蝉の声に包まれた。去っていく一行の姿がようよう見えなくなった頃、志保はぽつりと若い叔父の名を呼んだ。
「仇を討つの討たれたのと…戦とは、まこと嫌なものでござりまするなあ」
「…ハイ」
彼女の述懐に、長綱はただそれだけを言って顎を引く。祖父と同じ香の匂いのする、若い叔父の墨染めの衣に爪を立ててしがみつき、志保は頑是無い童女のように声を上げて泣き始めた。
「…落ち着かれまいたら、ともにお城へ」
細い肩を、これも幼い子へするように軽く叩きながら、
「迎えを寄越されるまでもない。お城へはこの叔父が御挨拶がてら、しかとお届け致しましょう」
長綱は優しい声で言った。境内では、相変わらず蝉の声がかしましい。
かくて永正十三(一五一六)年七月、
「わしの目の黒いうちに」
の言葉通りに、最大の懸念であった三浦一族を、志保の祖父は、三年をかけてようやく、三崎城にて滅ぼした。彼の言う、伊勢一族の足場固めの一歩はここに成ったのである。
入道が戦場より凱旋したのは、後始末などをとりあえずその付近土着の豪族に任せたその後、汗みずくの左衛門が彼女へ勝利を告げに馳せたその一週間後のこと。相模、伊豆一帯を手中にし、
「これでようよう、わしも目を潰れるのう」
すっかり日に焼けて、法衣を着ていなければどこぞの農夫と変わらぬ皺の刻まれた顔を擦り擦り、彼の息子へ冗談めかして言いながら、小田原城の廊下を天守へ向かって歩いていた入道は、
「おじじ様」
「おお」
その途中で、床へ両手をつかえ、こちらを見上げている孫娘の姿を認めて顔をほころばせた。
「無事の御帰還、祝着至極にござりまする」
「ウン、ウン」
てっきり飛びついてくるものと思っていた孫娘が、わずかの間に大人びた仕草で彼を迎える。それを少しこそばゆく思いながら、
「志保どのもな。ご苦労でごさりました」
「はい」
彼が言うと、志保は羞んで微笑む。
「して、どうじゃな…やはりこなたの爺は、鬼であったろう」
「…いいえ」
「そうか、そうか」
静かに己を見上げて、しかしきっぱりと首を振る孫娘へ、長氏は再び年甲斐もなく照れて顔をつるりと撫でた。
「これからも、お千代殿とこのお家をなあ、頼みましたぞ」
志保の前に差し出された祖父の手は、日に焼けてはいるが一年前と変わらない。戦場における彼女の逸脱行為をなんら咎めず、静かに彼女を見つめる祖父のまなざしも変わらぬ慈愛に満ちていて、
「これから爺は、権現様へ読経しに参る。こなた様も来られるか」
「はい」
祖父が言うのへ彼女は頷いた。猫が鼠にかける情け、などという程度の低い考えでは無論無いと、はっきりと自覚しながら。
「ウム…春になればのう、またこの爺とお拾いに参ろう、なあ」
「はい。それはもう、何におきまいても」
その手を取って立ち上がり、志保は祖父と共に歩き出す。
長氏が、やっと家督を嫡男である氏綱へ譲って隠居したのは、その翌年の永正十五年のことである。この年はまさに寅年にあたり、彼の「鼠が杉を食い倒して寅になった夢」は曲がりなりにも現実のものになったと言えるだろう。また、この年から伊勢氏は、寅の印判を文書に用いるようになっている。 しかし志保の祖父自身は、それから一年も生きなかったのだ・・・。
ようやく氏綱へ家督を譲り、楽隠居を決め込んでいた祖父が、いよいよいけないとの知らせが、一族を震撼させたのは、彼が楽隠居を決め込んでから一年経った永正十六(一五一九)年八月のこと。
「どうも古傷が痛みますでの…いやご案じめさるな」
つい先だっての春も、共に「お拾い…」をした時に折々見せた、苦しそうな祖父の笑顔を思い浮かべながら、志保は髪を高く結い上げた袴姿で小田原より韮山城へ馬を急がせた。慌てて付き従う若い者達は、もはや遠い後方に置き去りにされている。
祖父は、どうやら己の死期を悟ったらしい。最初に領主として縄張りをした、あの小さな城で最期を迎えたい。古い仲間達へ祖父は告げて、無理に輿を韮山へ向けさせたのである。(おじじ様)馬の足が一向に進まぬと、焦って馬を鞭打つ志保の前に、ようよう緑に囲まれた韮山の小さな天守が見えてくる。大手門の前で馬から転げ落ちるように降り、驚く門番をせかせて門を開けさせると、彼女は韮山城の急な坂を駆け上った。 たちまち、彼女の額や胸の谷間を、じっとりと汗の粒が流れ落ちていく。
駆けながら、大きな滴が志保の両の目から零れ落ちそうになっている。縁起でもないと己を叱咤しながら、彼女は城のとある一室のふすまを開けた。 途端に、病室にこもる病独特の臭いが志保の鼻をついて、
「おじじ様」
「志保…やはり来たのか。左衛門は何をしておったのだ」
…小田原で待つよう言い聞かせておいたのに、と、父が左衛門の名をいらいらと口にして軽く舌打ちをした。左衛門も場合が場合でもあり、というよりもいつもの志保の強情に押し切られたものに違いない。そもそも、小田原の家臣の中では、彼女を今まで一番、密かに甘やかしてきたのは当の左衛門なのだ。今では失った孫息子の代わりのように、志保を見ているらしい。
父の膝には、かむろ頭の小さな彼女の弟がすがりついていて、それが姉を認めてあどけない瞳を見張った。 これは、乳呑み子の頃より志保の後を常に慕っていたお千代殿、後の「北条」新九郎氏康である。「相模の虎」と謳われるほどの名将になるのだが、この時は成長したといってもまだ四つ五つの頑是無い幼子であり、少しの物音にさえ驚いてつぶらな瞳に涙をためるような軟弱ぶりで、父である氏綱の心配の種の一つだったのだ。
「どうぞ父上、左衛門をお叱りなさらぬようお願い致します。志保が無理を申したのですから」
彼女が言いながら、部屋の入り口の畳へ両手をつかえると、その声を聞きつけたらしい。
「志保どのか」
のべてある床から、かすれた小さな声が聞こえる。その枕元では葛山氏が蝙蝠を持って耐えず祖父の顔を仰いでおり、志保はそれを押しのけるようにしながら、慌てて祖父の側へ駆けよって座りこんだ。
(少し見ぬ間に、お小さくなられた)
「はい、志保は、ここにおりまする」
布団の中を探り、げっそりと痩せてしまった祖父の手を志保はつかむ。聞いていたところでは、もはや祖父は茶や湯しか受け付けぬらしい。
痩せた手をしっかりと握り絞めてくる孫娘の手の力の確かさに安心したかのように、「実はのう。先ほどこの爺は、こなた様のおばばに夢で会っておりまいた」
「…おばば様に」
「おお」
そこで笑おうとして、痰を喉へ絡ませたらしい。慌てた氏綱へ助け起こされて、しばらく苦しげな咳をした後、
「こなたのおばば様はな」
再び床へ痩せた体を横たえられながら、ぽつりぽつりと語りだした。
ここでいう「おばば様」とは無論、小笠原氏のことである。
「…そのような年まで永らえながら、まだ若い女子をこさえて、情の薄さを嘆かせるような罪作りをなさるのかと爺を叱ってのう。それへ爺はの、『いやはや、男とはのう、かほどにしようがない生き物じゃて。己の年や姿などとんとわきまえず、佳いおなごと見ればすぐに我が物にしたがるものなのじゃ』と…そちらへ参っても、こなたのものが一番じゃと言い返しはしたがのう」
そこで氏綱が、「志保の前でそのようなことを」と、言いたげに顔をしかめているのに気づいて、
「幸いなあ、こなたの父御はこの爺に似ず、今の嫁御前も、やっとこなた様の母の喪が明けてから迎えたほどの『堅物』であるによって、その心配はござるまいよ…おばば様はな」
祖父は口元をゆがめてにやりと笑った。
「年寄りは年寄りらしく、きっぱりさっぱりと身の回りを掃除致しまいて、早うこちらへ来てござれとつけつけ申しての。さもなくんば、氏綱どのやこなた様の邪魔になるばかりじゃ、八十八まで生きられたならもう十分であろ、いつまでそちらへおわしますおつもりじゃと…いやはや、散々にこの爺を叱りまいてなあ」
「…あの、おばば様が」
「おお。…叱る叱る」
そこでほろ苦く唇を歪め、長氏はふと遠い目をした。
「しばらく辛抱して頂ければなあ…先に逝ったものどもとも会えように、まっこと、こなた様のおばば様はせっかちなお方じゃて」
「おじじ様」
そこで志保は咳き込んで彼の手を握り直し、
「おじじ様。まだ『宿題』の答えを聞いて頂いておりませぬ。それゆえ、志保は参りました」
笑おうと努力し、彼女は震える声を励ました。
「聞かせなされ」
わずかにその口元に微笑を浮かべ、祖父は目だけを動かして彼女を見る。その声は、いつも真摯に彼女の訴えを聞いてくれていたそれと変わらず、反って彼女の哀しみを増した。そして改めて気づく…祖父は彼女を決して子供扱いしたことがなく、子供だからと邪魔にしたりしたこともなかったのだ、と。
「蒼い空の頂は…」
志保の目から、ほろりと涙がこぼれ落ちる。
「遠くて近く、近くて遠い…これ、ここに、ござりまするなあ」
「…良うお分かりじゃ。お千代殿にも、こなた様からそれをよう言い聞かせてのう…菊寿がこなた様をよう見てくれたように、お千代殿はこなた様が」
「はい、それはもう…おじじ様」
お家を継ぐべき弟は、あまりに幼く、頼りない。己にこのような偉大な祖父があったことは後に聞き知っても、その手が己の頭を撫でたこともあったということを、きっと覚えてはいない。
片方の手で、己の胸を抑えた孫娘へ満足の微笑で答える祖父へ、志保はさらに告げる。
「志保は…おじじ様が申されるまま、どこのどなた様のもとであろうが参りまする。それが民草を『幸せ』に導くための道の一つでありますならばとなあ、思い定めました…流される血を、できる限り少なく、それが女のする戦でござりましょう」
「…うむ」
「それゆえ、どうかのう、最後の志保のわがままにござりまする。まだまだ永らえて志保のお側にいて下さりませ」
しかし祖父は、かすかに笑みを浮かべたまま、その目を閉じた。 緑が生い茂る庭先で、今を盛りと蝉が鳴き狂っている。二年ほど前の箱根権現社にいたのと同じ種類の蝉だろうかと、心の片隅でぼんやり思いながら、志保は祖父の手を握り返す…。
足利将軍家縁故である今川義忠の正室の兄として、伊豆の片隅の小さな城から身を起こした伊勢新九郎長氏は、かくて永正十六年八月十五日の暮れ、八十八年の長い人生を終えたのである。その遺言通り、彼は死後、荼毘に付されて箱根の湯元に立てられた寺へと埋められた。その寺は名を早雲寺といい、「北条氏」代々の菩提寺となった。 古河公方足利晴氏の元へ、新九郎長氏…「北条」早雲の孫娘が嫁したのは、それからさらに二年の後のこと…。
「ほれ、思い切って懐に飛び込みなされ。すぐに怖気づくようでは、おじじ様のような武将にはなれませぬぞ!」
桜がその花弁をはらはらと散らせ続ける、完成したばかりの早雲寺の境内で、鋭い声が飛ぶ。打ち据えられて、悔しげに木刀を握りなおした少年が、彼の姉へ上段にそれを振りかぶりながら襲い掛かるのを、同じように握った木刀で軽く払うと、幼い体は再び境内の地面の土埃にまみれた。半身を辛うじて起こして姉を見つめるつぶらな瞳に、みるみる涙が湧き上がる。
その様子を、許婚が死んでからどこにも嫁さなかった八重がまた、寺の縁に腰掛けつつ、微笑を含んで見守っている。
「…悔しいのはなあ、己が未熟なせいじゃ」
志保の手が、七つばかりの幼い弟をそっと抱き起こす。
「決して、己を打ち負かした相手のせいではない。こなた様は北条の跡継ぎ。覚えてはおられぬであろうが、偉大なる早雲入道の血をひいておわす。…励みなされ。たれにも戦などおいそれとは仕掛けられぬような、強い武将になりなされ」
素直にこくりと頷く土に汚れた丸い頬を、懐から出した布でそっと拭ってやっていると、
「おひい様」
もはや、ほんの申し訳程度にしか結い上げていない髷がちんまりとついた頭を、相変わらずの調子で振り立てながら、左衛門が汗を拭き拭き近づいてくる。
「お父上おん自ら、お出ましにござりまして」
「アア」
しきりに布で、てらてらと輝く額を拭う「じい」の様子に、あのことかとすぐに思い当たって志保は苦笑した。案の定、そのすぐ後に物々しく家臣の一団を従えて現れた父は、
「…志保」
ためらいがちに彼女の名を呼ぶ。
「古河殿から、再びはなしが来てのう」
この頃には、嫡子を一人あげたのみで、亀若長じて晴氏の正室は亡くなっていた。正室の父は先述の簗田高助である。
彼は実の娘を亡くして持ち駒を失った。「互いの忙しさ」ゆえになんとなく立ち消えた形になっていた縁談を、氏綱が家督を継いだ祝いに事寄せてほのめかし、氏綱がさほど気を悪くしていないと分かるとその後は半ば開き直って、
「ご息女、志保どのを己の娘分とし、我が主晴氏様の継室にぜひ頂戴いたしたく…」
と、この二年間、矢のように催促してきていたのだ。
それも、表向きは北条の方から懇願した、という形にして欲しいと…。
「父上らしゅうもない。なぜためらわれまする」
苦虫を噛み潰したような顔を父がしているのは七年ほど前と同じだが、違うのは父の気持ちである。それが可笑しくて、志保はつい、くすりと笑みを漏らした。
早雲入道が亡くなっても「案に相違して」、着々と力を伸ばす北条の力が、高助はどうしても欲しいらしい。一族は伊勢早雲入道の存命中には名乗らなかった、同じ土地を拠点とした古い時代の支配者の名を、氏綱の代になって名乗った。入道の生前から彼らを慕っていた国人や土着の農民、あるいは他の地から逃れてきた逃散民らによって、伊勢氏を主と仰いでいくようになる過程で自然に一族へ冠した「北条殿―」をである。
伊勢氏一族のほうもまた、通り名として呼ばれていた北条という「苗字」を憎からず思っていたに違いない。伊勢と呼ばれるよりも北条、北条と皆が言うので、多少の面映さもあっただろうが…。
(複雑なお気持ちでいられるのではなかろうか)
と、今年数え年十九の娘盛りに成長した志保は、むっつりと腕組みをした父を微笑で持って見上げながら、その心中をこっそり忖度などしてみる。
祖父が築き上げた「北条」を、領土拡大に努めずにまずは安定させようと、内政に力を注いでいる父の姿は、確かに祖父に比べると地味ではある。だが民の生活を第一に考えて、法を整え貨幣を統一し、さらに京大阪の商人を積極的に小田原の城下へ招いて町の発展を図るなど、民政に関してはきっと祖父以上で、そちらのほうがむしろ高く賞賛されてしかるべきではないか…。
それを、長氏は大きく、氏綱は小さいなどと、高助は一からげに捕らえている。もっともだと特有の律儀さで慎ましく自覚しつつ、やはりどこかすっきりしないものを父は抱いているかもしれぬ。
「あの頃とは事情は変わった。我らも、もはや他の家から馬鹿にされる程に弱くはない」
伊勢は、「北条」を名乗るにふさわしい力をつけたと父は言うのである。
「こなたをなあ…やるにはまだまだ、あちらのお家が落ち着いていないのではないかと父は思うのだ」
そして氏綱はやはりためらいがちに、彼女が思っていたのとは別のことを理由に持ち出した。
「ああ、はい。ですが、あちらのお子のことであれば、私は構わぬのでございます」
父が言うのは、先だって亡くなった簗田高助の娘と、晴氏との間にある遺児のことであろう。志保がもしも嫁げば、彼女はいきなり一児の母となるのだ。
「こなた、もともとこのはなしには気が進まぬようであったから、なんならお断りしてもよい。故殿(早雲)が仰せられたように、こなたの好きな者のもとへ」
「何を仰せられますやら。あれはもうずいぶんと昔のことではござりませぬか」
そして生真面目な氏綱のことゆえ、一応は志保の耳に入れた上でと思いながら、断る口実を道々考えていたに違いない。それがなんとも好もしく、
(親とはまこと、うるさくありがたいものであった…)
そう思いながら、志保は忍び笑いを漏らした。
「志保は晴氏様の元へ参りまする」
「それはまことか」
「はい」
父だけではない。従ってきていた家臣どもも、きっと彼女が拒否すると思っていたらしい。互いに戸惑ったように顔を見合わせる彼らへ苦笑しながら、
「私が参らねば、またどこぞで戦が起きましょう。もっとも、戦は無くならぬものらしいとは思いまするが、やはり無いに越したことはない…なによりも、志保はおじじ様と約束致しまいたゆえ」
志保が言うと、一同は一様に下唇を突き出して口を結び、鼻の穴から息を吐き出した。
「流される血を出来る限り少なく…なあ。これが我ら、おなごのする戦。公方様が後ろについておわせば、力で無理に捩じ伏せずとも、我らに従う豪族どもはおのずと多くなりましょう。大丈夫」
着物の裾へそっと体を摺り寄せ、顔を見上げる弟の手を志保の白い手が強く握り締める。
「私は、北条早雲の孫娘じゃ。そう思えばなあ、どこででも生きてゆけるものゆえ」
「八重も、古河へお供致しまする。どこまでもしょう様とともに」
背後からかかった友の声に振り返って、志保は明るく微笑った。振り仰いだ蒼い空には、かつて祖父と共に眺めたようなのと同じ小さな白い雲がひとつ、のんきに浮かんでいる…。