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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

美醜逆転クリスマス

作者: quiet

 ファンタジーじゃあるまいし、世界はある日突然変わったりしないさ。


 この言葉を聞いたのがいつのことで、誰から聞いたのか。そんなことも思い出せなくなってしまったけれど、きっと、俺の心に死ぬまで残り続けるのだと思う。

 何て言ったってそれは、まるでファンタジーみたいに世界が変わってしまったんだと絶望していた俺のことを正気に戻した、どこまでも正しい言葉だったのだから。

 小六の頃、頭を打った。別に、誰が悪かったわけでもないと思う。通学路の上り坂、冬の一等寒い日に、靴底を滑らせて転けただけ。

 たったそれだけのことで、一週間も目を覚まさなかったらしい。

 そして目を覚ましたら、まるっきり世界は変わってしまったように思えた。

 綺麗なものが、醜いと嘲笑されていた。

 醜いものが、綺麗と持て囃されていた。

 テレビでも、街の看板でも、映るのは醜い顔の人ばかり。恋愛対象に求める一番の要素は穢れの感。俺がかろうじてまともな容貌と思えたわずかな人たちは、皆恥じ入るように顔を隠して歩いていた。

 いつの間にか、違う世界に来てしまったんだと思った。人の美醜が逆転してしまった世界に、来てしまったんだと。

 パラレルワールドを扱ったSFを読み耽った。いつか自分で、自分の世界に帰る方法を見つけ出すんだと意気込んで。

 ひとつの冬が過ぎて、ふたつの冬が過ぎて、みっつめの冬の真ん中で、たぶんあの言葉を聞いた。

 そして俺はようやく、自分が本当にやるべきだったことを発見した。

 こう思うことだ――、おかしくなったのは世界じゃない、俺の頭なんだ。

 俺の頭がおかしくなったんだ。

 世界を変えることは簡単じゃない。だけど、俺がおかしいんだと気付けば、あとは単純な話になった。

 この世界で、どうにか生きていこう。

 今年で俺も、十七歳になった。




「おいロボフェチ。蕎麦食うか?」

「食う」

 ちっ、と舌打ちが聞こえてきて、こいつの性格はあんまりだ、と今更になって再確認した。しかし直後にふたつめのビニール袋を破る音が聞こえてきたので、なんだ長浜(ながはま)っていいやつだなとも再確認した。万事こんな感じで、高校の二年間はおおよそ過ぎ去ってしまった。

 クリスマスだった。

 部室にいた。校庭でキャンプファイヤーが焚かれ、同校生が青春を繰り広げている中、二人のロボオタク、俺と長浜はごくいつも通りに、部室にいた。

 外気の影響で暖房を意にも介さず冷たいままの窓越しに、見下ろした炎の光は煌々と明く、ああ、結局逃げっぱなしになっちまったな、とそんな実感が湧いてくる。

「行きたきゃ行けよ」

 長浜が言った。部室はまあまあ広く、今時一般家庭では珍しくなったガスコンロが備え付けてある。換気扇がどんどん暖気を外に逃がし続ける中、もうもうと鍋のゆで汁から上る蒸気に、長浜は短い前髪をくねらせていた。

「相手がいない」

 俺がそう言うと、彼女はへっ、と。人の無様が楽しくて堪らないという顔で笑った。

「長浜は?」

「お前と違って興味ないから」

 ああ、そう。とだけ返して、再び校庭に目をやった。三階のここまで届いてくるような楽しげな声。炎に近いところで、二人の男女が向かい合っていた。片方――制服から見てたぶん男――が片手を差し出し、お辞儀を九十度。差し伸べられた相手はしばらく迷って、そっと指先を合わせた。歓声。

 俺はその間、あの二人のぼさぼさの長髪に、たっぷりと蓄えた腹の脂に、今にも火の粉が飛んで燃え出しやしないかと心配したり、あとはやっぱり、羨ましいなとか考えたりしてた。

 気を取り直して、顔をノートPCの方に戻すと、作業途中のロボットモデルと視線が合う。悪くない。むしろいい。白をベースに流線型の人型モデル。クリスマス用の赤い追加パーツは大部分が完成している。俺の美的感覚的には100点中90点くらい。予算の関係上3Dプリンタ出力はできないだろうが、部屋の隅でシートを被っている組立済み機体にAR連携を施せば、それなりに見れるようにはなるだろう。

 ぴぴぴ、とタイマーが鳴った。

 がちゃ、と乱暴に鍋の取っ手をつかむ音がして、その後ざばり、と湯が流れる音。べこり、とシンクが凹む音もした。

「あ。やべ、湯全部流した」

 不穏な一言が聞こえてきた。

「まあいっか」

 さらに不穏な一言も聞こえてくる。長浜は手慣れた様子でざるから丼に蕎麦をあけていた。

「PCどけろー」

「ん」

 マウスをキーボードの上に乗せて、ノートPCを端に寄せる。自分の分だけでなく、長浜の分も。

「おら、感謝しろ」

 丼が机の上に置かれた。素茹でしただけの、何の味付けもなければ汁もついていない蕎麦が。

「……ありがとう」

「おう」

 長浜はそれから二度、自分の座る椅子とコンロ前を往復した。一度目は、箸を持ってくるため。二度目は、調味料を持ってくるため。

「お前使う?」

「いや、いい」

「だろうな」

 薄ら軽蔑の籠った口調で長浜は言い、それから蕎麦に凄まじい勢いで調味料をかけ始めた。蕎麦全体が、茶色くどろりと重い液体に埋まるまで。この調味料の名前を太脂油(たいしゅ)と言う。マヨネーズとラー油を脂で混ぜたようなもので、俺は小匙一杯口にするだけで腹を下す。ゆえにこれが世界中の人間に好まれる万能調味料であろうと、俺は利用しない。

 俺はもそもそと、長浜はずばずばと蕎麦を啜り始めた。

「あ、矢代(やしろ)お前、邪神消しとけよ。飯時は無理だわ」

 言われて、ノートPCの画面が見えるようになっていたことに気付く。

「悪い」

 蓋を閉じるか悩んで、どうせそう長いこと食べているわけではあるまい、と長浜の視線を遮るようにPCの向きを変えるに留めた。

 長浜はそれを横目に見て頷き、また蕎麦を啜った。白っぽい唇に、油がてらてらと光る。それを契機に、いつもの悪い癖が出てしまう。

 観察した。長浜の顔を。突き出た額。眉を剃り落とした跡の薄青。腫れぼったい一重瞼に、角ばった鼻筋と輪郭。吹き出物が群生した頬はぱんぱんに膨れ上がり、眉間には深い皺、開き気味の唇は今にも何かを話し始めそう。前髪は眉跡に届かないほど短いが、その他は黒く傷んで長く枝、目が合った。

「じろじろ見んな。気持ちわりい」

「ああ」

 視線を外す。今度はまっすぐ、どんぶり器の中にだけ向ける。

「すまん」

「ふん」

 そして思う――、やっぱり長浜のダサさは助かる、と。

 だって、こんなにオシャレをしていない人間なんて、高校生にもなってそういない。瞼をイソギンチャクみたいに細かく刻む美容整形に手を出してもいなければ、顔のどこにも穴を開けていない。人の風下に立っていれば脳味噌の香りが漂ってきても別段疑問には思わないだろう、というくらいに顔面に穴を開けるのが流行っているご時世でだ。目も鼻も無事なら、舌も裂いていないし、抜歯もしていない。膿も腐乱も垂れ流さずに、どころか肌に傷模様すらほとんど入っていない。

 もっとも長浜も、正視に耐えない容姿の俺からそんな評価されたら、どこから目線だと怒り狂うだろうが。さすがに毎日入浴するなんて常軌を逸して清潔な輩から、ダサい、なんて言われたくはないだろう。

 食べ終えた蕎麦の器を手に、洗い場に向かった。300g近くあったんじゃないだろうか。胃がもたれる感覚がある。

 水道水で軽く器を流して、スポンジに洗剤をつけて洗う。

「出た潔癖。キモ」

 少し遅れて食べ終えた長浜が、「私のは洗うなよ」と器を置いていった。そのどんぶりはそのまま食器棚に伏せた。棚床はべとべとと茶色く厚みがあり、元が何色だったのかもよくわからない。俺は自分の食器だけを洗い終え、軽く水を切り、清潔なプラスチックボックスの中に押し込めた。

 席に戻って、PCを引き寄せて作業に復帰する。すでに長浜はそうしていた。短く切った睫毛を瞼に埋めて、じっと画面と睨み合っている。

 ロボ部。この部の名前だ。名前の通りにロボを作る部活。PC上でモデリングを行い、3Dプリンタで実際に出力して動かす。大体そんな感じの活動内容で、部員は俺と長浜の二人だけ。クリスマスの日に、学校パーティにも顔を出さずに部室に引きこもっている二人だから、つまりはそういうポジションの部活だということだ。

 長浜が邪神と呼んだのは、俺が今作っている――というか3Dプリンタの出力費用関係上3年間付きっ切りで相手をすることになる――ロボのことだった。白がベース、流麗を体現した自信作。ただしその美的基準は自分のものなので、当然凄まじく評判は悪い。以前文化祭で展示したところ、迷い込んだ子供があまりの視覚体験に火が付いたように泣き出した。慌てて俺が駆け寄ると、この世の終わりのように怯え出した。フォローに来た長浜は死ぬほど困憊し、俺の頭をひっぱたく力も弱々しかった。今年は前年の教訓を踏まえ、長浜の製作ロボットしか展示していない。

 そんな散々な評判の邪神ちゃんだが、俺はこの子を愛していた。世界で一番愛しているし、何なら世界で唯一愛していると言ってもいい。何せ俺のおかしな頭では、この世に美しいと思えるものはこの子の他にないからだ。俺にとっての醜さを志向するこの世では、すべての人間が醜い姿を目指し、すべての物品が醜くデザインされていく。人間と、人間の手から生み出されるもののうちで、俺が素直に美しいと思えるのは、今となってはこの子の他にはほとんどない。

 だから俺は今夜もせっせと追加パーツを作る。この気持ちはきっと、恋人に手編みのマフラーを作る純情によく似ているんじゃないかと思う。もっとも、俺の頭がおかしくなってからというもの、マフラーなんてものはファッション性に欠けた信じ難い布になってしまったが。何せ、せっかくズタボロにした咽喉の皮膚や、透明素材による肉体置換手術によって外部露出させた気道内部の赤肉のひだを覆い隠してしまう。ああでも、きっとこの子には本当にマフラーを付けても似合うだろう。どうしようか、追加パーツを増やしてしまおうか。それとも今現在のフォルムにそこまで乗せてしまったら、あざといにも程があるかな――

「おい矢代」

「ん?」

「お前そのにやけてんの、深刻にキモいぞ」

「…………」

「マジでヤバイ。すげえキモい」

「……気を付けるわ」

 長浜から言われるなら相当の深刻さだったのだろう。対応を取らざるを得ない。足元に置いたカバンの中からマスクを取り出して、それで顔を隠すことにした。特殊医療用の、清潔な使い捨てマスクだ。長浜はそれはそれで嫌な顔をした。清潔を好む人間なんてこの世にほとんどいないのだから、当然のことではある。しかしこれ以上俺から譲歩することはできない。どうやったって顔を隠すものには清潔さを求めてしまうのだ。頭がおかしいから。

 空調から流れ込む劣悪な暖気の中、キーボードとタッチパッドの音が静かに響き続けた。

 外から聞こえてくる賑やかな声は、いつまで経っても止むことはない。けれどそれは窓ガラスを突き破って、この部室を満たすほど近くにあるものじゃない。五分も歩けば――、今すぐこの部室を出て、階段を下り、昇降口から出ていけば、その輪に加わることのできる距離。けれどこの歓声は、心と同じくらいに遠くに聞こえていた。

 手を止めた。

 一応の完成が見えた。ところどころに妥協を感じないでもないが、これ以上弄るととても閉校時間までに間に合わせられそうにもない。クリスマススペシャルパーツだ。当然クリスマスにこの子にプレゼントすることにこそ意味がある。どうするか。しかしここで俺が妥協しては、俺の思う美しさ自体がこの世界で妥協してしまうこともまた事実。なぜならこの世で俺の思う本当の美しさを知るのは、ただ俺一人のみ――

「矢代」

「ん?」

 顔を上げた。しかし長浜はPCに目を落としたままだった。だから、大したことじゃないんだろうと俺もまたPCに視線を戻す。

「お前マジで工学部行かないの」

「行かない」

「なんで」

「センスがないから」

 前にもこの話をしたな、と思った。そのとき長浜は工学部に行くと言って、一方俺は医学部に進むと言った。

「なことないだろ」

「お前だって邪神とか散々言ってるじゃん」

「それはお前の趣味がグロいだけだろ。モデリングの腕は悪くない、っつか」

 俺が医学部に行く理由は簡単である。一部特殊医療には清潔さを要求するものがあるからだ。交通事故が多発しても自動車が普及していたように、依存症を生み出しながらもアルコールとニコチンが許容されていたように、汚濁はリスクを呑み込みつつ人々から愛されてはいるが、それが立ち入ることのできない領域もある。

「趣味じゃないもん作っても仕方ないだろ」

 特殊医療において、清潔であることは許容される。高尚な信念からではなく、個人的嗜好の結果として進路が選択されることについてはやや不誠実を覚えなくもないが、自分が楽になれる未来があるなら、つかみたくなるのは仕方がないことだと俺は思う。

「お前さ」

 一瞬、長浜が手を止めて言う。

「頭おかしいわ」

「知ってる」




 宴もたけなわ、という頃合いになって、長浜の調整が終わった。俺の方はというと、ブラッシュアップまで済ませてしまった。今日の閉校時間が二時間伸びているこということを失念していたから、予定よりも大幅に精度は上がり、俺は自分が天才であるということを確信するに至った。たぶん次の日にはなくなっている儚い自信ではあるが、ないよりは随分マシである。

 さてそれじゃあ早速起動してブンドドしようではないか。そう思ったところで長浜が珍しい提案をした。そのために、俺と長浜はこの死ぬほど寒い夜の中、ロボットと共に外まで出てきたわけだ。

「うわさっぶ」

 昇降口の戸を開けると、細氷を纏ったような冬の風が頬を切った。俺は思わず首を竦めて身体を震わせたけれど、長浜はそれを気にした様子もなく、隣に自分のロボットを堂々と従えて進む。左右非対称の七足、男性型モデルらしいが俺にはどのあたりで性別を判断したらいいのか理解できない。多種多様に伸びる棘や鉄腫に何の機能があるのかもわからない。トライポフォビアに一体何の恨みがあればそんなデザインになるんだという表面デザインに至っては、もはや直視にも耐えない。

 が、客観的に見てどちらが直視に耐えないかと言えば俺の邪神ちゃんの方であり、それは今もこうして布を被って移動している姿からも明らかである。なぜ布を被っているか。日が沈んだ状態で邪神ちゃんと誰か人が遭遇した場合、絶叫が響き渡るからである。

 外で動かそう、と長浜は言った。俺にはいまいち理由がわからなかったが、基本的に主導権は長浜にある。大人しく従い、こうして歩いている。

 外に出ると、さらに校庭から響く音は激しく聞こえるようになった。ギターの音、不協和音、拗音を多用した意味のない歌詞。ステージにバンドが立っているのだろう。下手な楽器はうっかりテンポを合わせてしまったりしていて、ときに俺の好みに合ってしまっていた。

「どこでやんの」

「校舎裏」

 どこだよ。漠然とした指定に疑問が湧くが、実際に場所が近づくにつれて理解が及んだ。校舎裏、倉庫前の資材置き場だ。コンクリート打ちっぱなしの吹きっさらし。文化祭の度に次々奇怪なオブジェクトが生み出される魔の工房である。

 しかし長浜の目論見は崩れた。

 先客がいたのだ。クリスマスである。パーティである。そして祭りは最高潮。ちょっとやそっとでは誰がいなくなったかもわからない。脱け出す足音も誰の耳にも届かない。人気のないところに行きたくなる。そういうことである。

 あらら、と呟き踵を返そうと思ったが、長浜の様子がおかしい。憤懣やるかたなし、と言った雰囲気で、今にも俺の邪神ちゃんからベールを剥がし、アベックの目の前に彼女を投げ出さん勢いだった。どうどうどうどう、まあ待てよ。何とか宥めすかして別の場所を探す。しかしめぼしい場所はすでに先客が埋めに埋めていた。結局十五分近く蒼い幽霊船のように彷徨って、辿り着いたのは屋上だった。

 特別棟四階階段から上がれる屋上は、実は内鍵も外鍵もサムターン錠なので、簡単に立ち入ることができる。この絶景ポイントに先客がいなかったのは、一重にこの事実がそれほど知られていなかったからに他なるまい。しかし問題は屋上というポイントが長浜の言う「外」に該当するか否かであり、俺は反応を恐々として窺った。

「…………」

 長浜はしばらく無言で校庭を見下ろしていた。

 赤く輝くキャンプファイヤーは、冬曇りの夜天を奇妙な黄色に照らす。月の気配も、星の鼓動も届かないから、もうずっと、夜明け前みたいに炎は空の下に潜んでいた。

「……まあ、いいか」

 許しが出た。ほっと一息。ようやく邪神ちゃんがベールを脱ぐ。

 屋上の縁に腰かけて、携帯端末を手にする。邪神ちゃんとの接続は繋がっている。アクションコマンドを入力。

 ゆっくりと邪神ちゃんが薄汚れた白布を取り去った。露わになった機械の身体は、月下に照らされずとも白く輝く。滑らかに、しかしピンと伸びた指先の動きは息を呑むほど静謐に。すべての動作が美しい――コンセプトはただそれだけ。機能はただそれだけ。存在して、動く。ある種生物的であるとも言える。

 携帯端末には追加パーツのデータがすでに入っている。ARシステムを起動すると、邪神ちゃんの身体の各部をカメラで捕捉。補正を加えつつ、端末画面上には赤いパーツを着けた彼女の姿が映し出される。

 何でもかんでもを現実世界に出力するのは、もちろん浪漫はある行為だと思うが、コスト的に厳しいところがある。だからこういう季節限定の追加パーツやコスチュームは、AR上の装着で済ませるのが常だ。せっかく3Dプリンタがあるのに……、という思いもあるけれど、手で触れられないもどかしさが良い、というのもある。

 彼女が動く。ポワント。計算しつくしたバランス。ステップ、ステップ、ピルエット。最近はフェッテだってできるようになった。地に足さえついていれば、もう彼女にできない動きはほとんどない。ジャンプ動作は……衝撃吸収パーツの予算都合上実装できていないが。

 それでも。

 冬の夜を照らす灯は、校舎の下に潜むそれしかない。彼女の白い肌はぼんやりと闇の中に浮かび上がり、静かに、内側から電気を迸らせるように光る。機体動作は残光のように宙を描き、何百光年も先を駆ける流星の軌跡を思わせる。

 たとえ跳べなかったとしても、彼女は今、世界で一番綺麗だった。

「ああ、いいなぁ……」

 言ってから、しまった、と思う。うっかり陶酔してしまっていた。長浜の前では――というより人前では――こういうことは言わないようにしているのだ。なぜって、著しく人の正気を削ぐような彼女の動作を大っぴらに褒めたりしたら、あからさまに気まずい空気が生まれるからだ。それはもちろん、二年間を共にした心の広いロボオタクが相手であっても。

 あちゃあ、と。何かフォローを入れようと、まずは長浜の表情を窺う。

 しかし彼女は、じっと校舎の下、キャンプファイヤーの周りに盛り上がるバンドのステージを見つめるだけで、何の反応も返さなかった。

 聞かれなかったんだろうか、それならラッキーだ。思うのも束の間。次には長浜のロボットがぴくりとも動いていないことに気付く。屋上で、今も元気に動いているのは邪神ちゃんだけだった。

 外で動かそうと指定してきたのは長浜だ。だから俺はてっきり、何か目的があるのだと思っていたけれど……。

 ああ、と思いつく。

 なんだ、ロボットは口実だったんだ。

 長浜の目は鋭く、厳つく細められて、ステージに立つ誰かの下に注がれている。それはたぶん、恋する乙女の瞳だった。

 奥ゆかしいことで。そう思う。少しでもあのステージに立つ、彼か、それとも彼女か、その相手に近付きたい一心で、ロボの観賞現場に外を選んだのだろう。輪の中に入れなくてもいい、ただその音だけでも聞こえれば――、それが盛り上がったアベックたちに追いやられ、こうしてその姿をはっきりと見られる位置取りに辿り着いたのだから、なるほど頭のおかしくなった俺の目から見ても、恋愛の神様というやつはそこそこに優しく――、

「ちくしょう、なんでだよ……」

 そこそこに、厳しい。

 長浜の肉に埋まる小さな目から、涙がでろりと流れ出した。頬の汚れを黒く削いで、そのまま首元へと沈んでいく。

 どうやら失恋したらしいぞ。それか失恋しつつあるらしいぞ。そのくらいのことはわかった。が、それ以上のことはわからない。俺は長浜に何を言ったらいい? それとも何も言わない方がいい? そもそもこれまでずっと俺は、長浜の「恋愛とか結婚とかアホらしい、興味ない」という主張を真に受けて、それが長浜という人間だと勘違いしていたのだ。それが急にここに来てそうではありません、とクライマックスに至られても、こっちはついていけない。

 いつもいつだって俺を癒してくれるのはロボットだけだった。邪神ちゃんにコマンド入力。<事態が意味不明なときについつい出てしまう可愛らしい動作> 彼女は指先を口元に当てて、小首を傾げた。可愛い。癒される。

 拡張現実を使って現実逃避していると、現実が襲い掛かってきた。隣の長浜の口から。

「なあ、矢代。ブスってそんなに悪いことかな」

 それを俺に聞くのか。

 知らん、と返してやろうかと思った。実際、知らん、としか言いようのないことである。

 醜さについて、当然俺は考えに考えた。大抵の同年代よりは考えているに違いない。なぜって、それはもちろん俺はずっと、美と醜のあわいに立たされ、翻弄され続けているからだ。

 しかし考えに考えたからこそ言える。あるいは言うしかない。知らん、と。

 美の基準は時代や文化によってそれぞれに移り変わる。ありきたりな言葉だが、美とは相対的なものだからだ。人によって、環境によって、好まれるものは変わる。だから醜いというのは単に、自身を取り巻く環境において好まれない状態、ただそれだけの形容に過ぎない。

 醜いことは悪いことか――、つまりは人から受け入れられないその状態を、悪と断じることができるか。大抵の人間はできるだろうが、俺はできない。頭がおかしいから。しかし悪くない、と断じることもできない。結局今ここにこうして、人の輪から外れて俺が長浜とロボとあるのは、自分にとっての醜さを受け入れることができなかったからだ。

「あー……、それは、なあ。なんつーか……」

 しかし知らん、と返すのはあまりにもひどい。学生生活、多くの場面で長浜には助けられた。できるだけの親切をしてやりたい、というのが素直な感情である。

 別に長浜はこんな抽象的な話を求めているわけでもないと思う。単に、好きな相手の好みに合わない顔をしている自分は悪いのかどうか――そりゃ好かれることが目的なら悪いだろ。いや待て待て待て、こんな言い草があるか。もっと気の利いた言葉を考えろ。人間容姿だけじゃなくてやっぱり性格とか~、俺にこれ言われたら最悪の気分にならないか? 果てしなく容姿に劣る人間から、やんわり容姿の話を逸らされつつ慰められることになるんだぞ? 助けてくれ邪神ちゃん。<事態が収拾不能なときについつい出てしまう可愛らしい動作> 万事休す。

「それ……、俺に聞くのか……?」

 かろうじて絞りだしたのが、絞りだされてしまったのが、その言葉だった。

 数秒、沈黙が降りる。ステージから響くラストフレーズが、その隙間を埋めた。

 長浜は涙を拭わずに、口を開いた。

「お前に聞いた私が馬鹿だった」

 俺もそう思う。

 が、心底アホらしそうにそう言った長浜は、もう薄ら笑えていたので、馬鹿も捨てたもんじゃないと思う。俺も含めて。

「恋とか愛とかさ、そんなくっだらねえもんに興味持ったのが間違いだったわ。気の迷いだ気の迷い。あー、くそ、時間損した。あんな無駄なことするくらいだったらモデル弄ってた方が絶対よかったわ」

 俺に訊かれるでもなく、長浜はそんな言い訳をひとりべらべらと語り出す。照れ隠しであることと、負け惜しみであることは傍から見て明らかだった。しかし知らんふりをしてやるのも友人の甲斐性である。今までも無意識に甲斐性を見せていたらしいが、今度ばかりは意識的に。

「そうそう。人間なんかに構ってる暇があったらモデリングしてる方がよっぽど有意義ってもんだ」

 コマンド入力。<そうそう、と腕を組んで頷く><可憐にくるっと回って投げキッス>

「うえ、キモ」

 おいコラ。

 批難の目つきでにらんでやろうと思ったが、それはかなわなかった。長浜のロボが動き始めたからだ。

 七本の足がびちびちと蠢動する。体表に開いた無数の穴から点滅する光が漏れ出し、棘や鉄腫は熱を持ち始め、冬の冷気に蒸気を揺らし始める。口らしき部分からは汚水がさらりと流れ出した。内部の掃除を全くしないためである。

 邪神降臨、という言葉が頭に浮かぶ。長浜から見た俺のロボもこんな感じなんだろうな、と思うと日々頭の下がる思いがする。

「よし、踊っか」

「は?」

「ちげーよ。私とお前じゃねえっつの。私のズィギハドとお前の……なんだっけ、名前」

 覚えておけよ、と思ったが俺も何度聞いてもズィギハドくんの名前を忘れてしまうので、お相子だった。

「オデット」

「あー、そうそうそんな名前。どうでもいいや」

 おい。

「踊らせるぞ。下で馬鹿どもが自分らだけでへらへら踊りくさりやがって。気に入らねえんじゃ」

 きっぱりした口調で長浜は言った。潔い嫉妬である。俺はオデットを自分以外と踊らせることに関してものすごい独占欲を漲らせることもできたが、長浜の言葉には一種清々しさすら感じ、結局いつの間にやら言われたとおりに踊らせていた。

 だばだばと触手のように七本足をぐねらせるズィギハド。オデットのステップは対人を想定したものだから、どんなに華麗なモーションパターンでもうっかり躓きそうになる。こんなに無様な動きをさせるのは、もう一年以上もなかったことだ。

「いやー、やっぱズィギハドかっけーわ。生身の人間とか要らんすぎ」

「そうだな」

 実際問題、俺の腕に鳥肌の広がる感覚からすれば、ズィギハドがこの世界においてかなりの美的評価を得ることは間違いない。

「これからの時代はな……、かっけーロボット作れるやつがモテる! そういう時代が来る!」

「未練たらったらじゃねえか」

「はー? 未練とか全っ然ないから。超モテて超イケメンと結婚して、何なら美人の基準すら塗り替えて大成功した頃に、あいつはその私をてめえのPC越しに見る羽目になるんだよ。ざまあみさらせ」

 想像の中で復讐が終わってしまった。しかし確かに未練かと言えば、それとは別種の感情な気はする。どんなやり取りがあったか知らないから断定はできないが、傍から見ると謎の逆恨みに見えないでもない。

 そんな調子で長浜の人生をその身に背負うことになったズィギハドだが、荒ぶっている。幾本かの足が尾のように屋上のコンクリートに叩きつけられている。石片が飛ぶ。やめてくれ。

 修復パーツを用意する予算はもう今年は用意されていない。オデットに傷ひとつ負わせてなるものか。危機回避プログラムの優先順位を組み替えつつ、彼女にモーションを入力し続ける。

「お前のロボット、相っ変わらず気持ちわりい動きすんなあ。何参考にしたらそんなことになるわけ?」

 長浜が訊いた。俺が答える。

「白鳥」

「ハクチョウ? なんそれ」

「魔法をかけられたオデット。もしくは醜いアヒルの子」

 醜い、という言葉に一瞬長浜は興味を惹かれた様子だったが、結局、

「わかんね」

 とだけ言って、ズィギハドの操作に戻った。

 俺も、わかってもらおうとは思っていなかった。

「そのうちわかるよ。この世界の美の基準がオデットになったころに」

「永遠にわかんねーじゃねえか」

「あんだと」

「別に興味ねえからいーけどさ」

 オデットとズィギハドが踊る。校庭からは静かで奇妙な音楽が聞こえてくる。きっと炎を囲って、それぞれが相手を見定めて踊っている。

 屋上で踊る二機は、いつまで経っても噛み合わないままで、ちぐはぐなダンスを続けている。それは俺の美的センスには合わず、心の中でオデットに謝罪を述べたりしたが、一方で長浜はいたく気に入ったらしく、そのうちに声を上げて笑い出した。俺も釣られて笑う。<上品に笑う> オデットも笑う。ズィギハドは笑わない。そのモーションを長浜が作っていない。「それがお前の限界だよ」と適当に喧嘩を売ってやると、長浜は今度は怒りだす。俺はさらに笑う。

 笑ったまま、天を仰いだ。

 月もない。星もない。宇宙もない。あるのはただ一つ。キャンプファイヤーからぶすぶすと立ち上る黒煙を纏う、冬の雲。

 気を利かせて、雪でも降ってくれればいいのに、と思う。

 祝福されてるって、思えるように。

「……そんなに都合よく、いくわけないか」

「あ?」

「何でもねえよ」

 奇跡はそんなに起こらない。

 別にそれは不思議なことでもなんでもなくて。

 結局俺たちは、生きていくしかないのだ。自分が醜いアヒルの子だと期待しながら。いつか白鳥になって飛び立てるはずだと信じながら。

「……お前、やっぱ変なやつだわ」

「お前もな」

 俺が笑い、長浜が笑う。

 オデットと、ズィギハドが踊る。

 また奇跡を祈る。どうかどうか、あわよくば、どちらも白鳥の子でありますようにと。誰も彼もがそうでありますようにと。幸せになりますようにと。

 だけどもし、どちらか片方しか幸せになれないとするのなら。

 たとえ一年のうち、364日は違ったとしても、今日くらいは。

 今日くらいは、他人のために、祈ってみても。

「……ごめんな」




 薄闇の中、気にするなと言って、オデットが微笑んだ。

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