第四章 家畜の倫理と甘い蒸気
【第四章 あらすじ】
圧倒的な脅威によって、淡々と、そして狂いなく推し進められていく地上からの「収穫」。
逃げ惑う車列、地下へとなだれ込む群衆、祈りを捧げる人々——人類が積み上げてきた抗いのすべては、冷酷な法則の前で虚しく砕け散っていく。
絶望が街を埋め尽くす中、空から降り注ぐのは不気味なほど甘い香りをまとった「謎の蒸気」。
恐怖と狂乱に苛まれていた人々を包み込む、謎めいた静寂。
地上を埋め尽くしていた欲望や傲慢のノイズが消え去っていく中で、シノハラが見出す「世界の真理」とは何なのか。
残酷なまでの美しさとともに訪れる、運命の瞬間。
すべてが呑み込まれていく果てに、彼が最期に目にした光景とは——。
空からの「収穫」は、淡々と、そして狂いなく続けられた。
逃げ惑う車列、地下街へとなだれ込む群衆、防空壕の重い鉄扉を閉ざす人々。
しかし、それら人間のあらゆる抗いは、捕食者たちにとって何の意味もなさなかった。彼らの光幕は固体物質を透過し、ただ「生きている生体エネルギー(カロリー)」だけを正確に感知して吸い上げていく。
「助けてくれぇぇぇっ! 神様!! 救世主様!!」
隣で地を這っていた男が、空に向かって惨めに両手を突き出した。
血と小便に塗れ、顔をぐちゃぐちゃに歪ませながら、今まで信じてもいなかった神の名を叫んでいる。
シノハラは、冷えたアスファルトの上に転がりながら、ふっと小さく笑った。
「無駄だよ……」
「あぁん!? なんだと、お前……っ!」
「俺たちが……鶏や牛の悲鳴に耳を傾けたことがあったか?」
シノハラの声は静かだった。胸を押し潰す重力の中で、なぜか頭の中だけが氷のように冴え渡っていた。
「『命に感謝していただきます』なんて綺麗事を言って、狭いケージに押し込め、血を抜き、パックに詰めていた……。あれをされてる時に、牛や豚がどんなに神に祈っていたとして、俺たちはナイフを止めたか?」
「知るかそんなこと……! 俺は人間だぞ! 地球で一番偉い人間なんだぞ! 食われるわけがないだろ!!」
男は発狂し、自分の爪が剥がれるのも構わずアスファルトを引っ掻いた。
人間の傲慢。
自分たちこそが星の支配者であり、この大地すらも自分たちの「所有物」だと思い上がっていた錯覚。
だが、この捕食者の前では、人間が積み上げてきた哲学も、科学も、宗教も、ただの「肉の風味付け」にしかならなかった。
その時、上空から太さ数メートルに及ぶ透明な晶質でできた「針」が降りてきた。
針が地表を貫き、先端からうっすらと甘い、桃の葉を蒸したような芳香を持つ蒸気が噴射される。
「な……んだ、これ……」
シノハラはその空気を吸い込んだ。
瞬時に全身から力が抜け、脳を縛り付けていた激しい恐怖が、嘘のように薄れていく。
回収機関は、無駄な抵抗による肉質の硬化を嫌い、穏やかな状態で出荷するための高度な有機麻酔ガスを撒いたのだ。
「あ……あは……あはは……」
先ほどまで狂乱していた男も、甘い蒸気を吸い込むとうっとりとした顔で地面に倒れ込んだ。その瞳から恐怖が消え、呆けたような笑みが浮かんでいる。
静寂が、再び街を包み込む。
シノハラの視界の端で、淡い桃色の光が降りてきた。
身体が重力を失い、ゆっくりと浮かび上がっていく感覚の中で、彼は遠ざかる街を見下ろした。
ビルは崩れ、街は壊された。
だが、人間たちの欲望のノイズは完全に消えていた。
「綺麗じゃないか……」
シノハラは呟いた。
彼の身体は、雲の向こうに広がる巨大な食卓へと、静かに吸い込まれていった。




