第3話:暗室の現像、午前八時十五分の決意
魔法、と言われても、すぐには頷けなかった。
いまだ不満げな僕の顔を見て、結衣先輩は柔らかく微笑む。
「颯太くん。カメラが発明された時のこと、知ってる?」
「カメラ、ですか? 十九世紀の……」
「そう。当時の画家たちは激怒したんだよ。『あんな機械は風景を切り取っただけのツギハギだ、芸術への冒涜だ、魂がこもっていない』ってね」
今の僕と、まったく同じセリフだ。
見事に図星を突かれ、ウッと息を呑む。
「でも、今の私たちは写真が『魂のないツギハギ』だとは思わないよね? シャッターを押すのは確かに機械だよ。でも、ファインダー越しに何を切り取るか、どんな光を当てるか、どの瞬間に指を落とすかを決めるのは、いつだって人間だ」
結衣先輩の澄んだ声が、静かな研究室に響く。
僕の中の凝り固まった論理が、ガラガラと音を立てて崩れていく感覚があった。
「このマニュアルも同じ。これは暗室なんだよ。颯太くんの魂に焼き付いている『最高の物語』を、この現像機にかけて、形にするためのね」
結衣先輩が、真っ直ぐに僕を見つめてきた。
いつもの、優秀でからかい上手の先輩の目じゃない。
もっと切実で、祈るような、微かな熱を帯びた瞳。
まるで、自分の愛する世界を誰よりも理解してくれる一人の共犯者に、どうかこちら側(創作者の側)に来てほしいと願うような――。
そんな錯覚すら覚えるほどの、強い視線だった。
「颯太くんにだって、本当は『自分が読みたい理想の物語』や『自分だけの設定』があるんじゃないかな?」
先輩の言葉が、僕の胸の奥の柔らかいところを突く。
「でも、それを一から文章にするのは途方もない時間がかかるし、素人にはハードルが高すぎる。……このマニュアルはね、その不安を飛び越えて、颯太くんの想像を形にする手伝いをしてくれる魔法なんだよ」
……図星だった。
僕の頭の中には、いつだって「こうなったら最高なのに」という理想の展開が渦巻いている。でも、それを形にする技術がないから、ただ指をくわえて更新を待つだけの屍でいるしかなかったのだ。
傷つきたくなくて「魂のツギハギだ」なんて批判に逃げ込んでいた僕の小さなプライドを、先輩は優しく溶かそうとしてくれる。
ドクン、と心臓が一つ大きく跳ねた。
トントン、と廊下の奥から微かに学生の足音が聞こえ始める。
壁の時計の針は、午前八時十五分を指していた。
一限が始まる。僕たちだけの静寂な魔法の時間が、もうすぐ終わってしまう。
僕の右手は自然とマウスに伸びていた。
手汗でプラスチックの表面が少し滑る。でも、もう迷いはなかった。
結衣先輩の熱を帯びた瞳と、共有ディスプレイに映るマニュアルを交互に見る。
マウスを握り直し、僕は小さく、けれどはっきりと宣言した。
「……わかりました。フェーズ1、やってみます」




